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 カリキュラム・シラバス改革の幻想と授業評価 2004年06月17日

今回、ひょんなことから関西にある『私学経営研究会』(http://www.sikeiken.jp/)の的場さんという事務局の方から突然原稿依頼があり、同研究会の『私学経営』という雑誌の原稿を書くことになりました(タイトルは「カリキュラム・シラバス改革の幻想と授業評価」)。

初めてのつきあいですが、①コマシラバス→ ②授業シート→ ③AG評価→ ④フォロー評価と“進展”してきた我が学園の教育改革(=履修評価システムの改革)を(特に?以降の“進展”を含めて)トータルに記述したレポートはまだ書いていなかったので、この機会にまとめてみました。特に的場さんの「文字数は特に気にしていただかなくても」という言葉を聞いて、これは書くしかないと思って19000文字書いてしまいました(一部はこれまでのレポートをまとめた部分もありますが)。その的場さんの最初の感想は以下のものでした。

「早速ですが、原稿をいただきました。ありがとうございました。これほどの文章をさらさらと短期間で、しかも締切りをきちんと守って仕上げてくださるとは、正直、とても感激いたしました。そして、中身を読ませていただいて、再度感激いたしました。東京工科専門学校でやられているような綿密なシラバスと授業計画、そして厳密な授業評価を、全国の学校が実施すれば、学校教育の在り方そのものが変わるのではないかと思いました。

まず、学校自身が変わらなければならないという先生の結びの言葉は、それを現場で実践されている芦田先生だからこそ、とても説得力のあるものでした。全国の会員の読者にも、とても参考になることは間違いありません。今回、先生にご執筆いただき、本当によかったです。会員には、高校法人と専門学校法人も多いのですが、どうしても論文は大学中心の話題になってしまうのと、なかなか書き手が見つからず、結局は学校紹介のような文になってしまうのがほとんどなのです。今後も、「経営」にからませて、何かテーマをご提案いただいて、ご執筆いただければと願っております」。

最初のつきあいの原稿なので、不安でしたが、とりあえず、及第点を頂いたみたいです。以下、その的場さんに承諾を得て、全文を掲載します。なお、雑誌自身は7月25日『私学経営』8月号として発行されます(雑誌そのものを欲しい方は、的場さんに申し出てください)。

(社)私学経営研究会

〒533-0033

大阪市東淀川区東中島1丁目21番33号 俵ビル3階 的場さん

TEL:06-6321-2666

FAX:06-6321-3207

E-mail sikeiken@mb.infoweb.ne.jp

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カリキュラム・シラバス改革の幻想と授業評価 ―  東京工科専門学校の教育改革


●カリキュラム・シラバス改革の幻想

 20世紀から21世紀の変わり目の中で、教育組織の最大の問題は、少子化問題だった。「教育の危機」「教育改革」自体は年中行事のように叫ばれていたが、少子化問題は教育内容以前に学校の存在意義そのものが問われるという意味で、それらの問題意識をさらに(現実的に)先鋭化させる契機だった。

 私の勤務する東京工科専門学校でも事情に変わりはなかった。遅きにすぎたとは言え、98年末にAプロジェクト(学園の中期戦略ためのAdvanced Project の略称)を、東京工科グループ4校の若い世代の諸科長を中心メンバーにすえ、発足させたが、そこで最初に問題になったのが、いったい何から手をつけるべきか(何を改革するのか)であった。

 「教育改革」といえば、「カリキュラム改革」ばかりが従来から(学内外で)目立っていた。生き残りをかけたマーケティング戦略という意味では、わかりやすい“差別化”や“変化”がどうしても前面化する。そうなるとほとんどの学校のリーダーたちが意識しがちになるのは、カリキュラム改革(あるいはそれに基づく「新科」の設立)という局面なのである。そうやって、専門学校をはじめ多くの大学、短大は中身のない新科、新学部を設立し続けてきた。

 しかしその結果が、経済学部を出ても経済のことがわからない、建築科を出ても2級建築士さえ受からないという“高等教育”だったのである。

 いったい何が欠けていたのか。

 カリキュラム改革や新科プログラムは、実は単なる“脚本”にすぎない。脚本がよくてもそれを演じる俳優や舞台の検証がなくては、単なる絵に描いた餅に終わる、というのが私たちの予感だった。俳優や舞台の検証とは、一言で言えば、授業評価のことだ。どんなに優れたカリキュラムや新科構想も、それが実行される場所としての授業評価の体制が整うことなしには、ほとんど意味をなさない。それは、ちょうど「シラバス」(「講義概要」)が存在すれば、その通りの教育がなされていると思い見なす錯誤に似ている。

 90年前後からアメリカの大学の影響を受けて、日本の大学でも「シラバス」という言葉が広がりはじめ、ここ10年、各大学のシラバス(あるいは「講義概要」)は、どんどん分厚くなってきた。それは試験で学生を「選ぶ」大学から、少子化によって「選ばれる」大学の“情報公開”運動の一環でもあった。

 このシラバス主義が一番見落としているものは、そのシラバスが実際に展開される〈授業〉というものだ。シラバスは予告編にすぎない。予告編は裏切ることもある。シラバスをいくら詳細化しても、それは〈授業〉それ自体ではない。〈シラバス〉が意味を持つのは、授業評価と一体になってこそのことである。

 そして私たちに欠けていたのは、その授業評価のノウハウだったのである。 

 むしろ授業評価のない、評価のできない教育をすべてカリキュラムの所為にして、それを隠すための処方箋が“カリキュラム改革(あるいは新科の設立)”“シラバス改革”という戦略だったとも言える。脚本(=カリキュラムやシラバス)は何本も用意された。しかし舞台は穴だらけで誰もまともに演じようとしない、というのが少子化問題(=基礎学力低下)以来の教育改革の空虚な中身だったのである。というより、肝心の〈内部〉に手を付けられない挙げ句の果ての“改革”が「新科(新学部)設立」「カリキュラム改革」「シラバス改革」という看板だったのである。




●「授業評価」という課題


 ところで、「授業評価」とは、一体何か? 

 評価のためには、目標がなければならない。その授業が“いい”授業か、“悪い”授業かを評価するためには、いったいその授業が何を目標にしてなされているのかがはっきりしていなければならない。「シラバス」は、その意味で、一つの目標提示にはなっていたが、それが「授業評価」に何の役にも立たないのは、実際の授業は、一つ一つの時間割の中で展開していくものであり、そして授業評価は実際の授業に向けられなければ意味がない。しかしシラバスは、科目の“全体”目標を描いたものにすぎず、“この”授業の目標を示すものではない。シラバスをいくら詳細に検討しても授業評価にはならない。

 われわれの教育改革が始まったのは98年だったが、机上の論議は止めて実際の授業の中に入り込むことにした。他の科長や教員、総務のスタッフなど“異分野”のスタッフも含めて、50クラス以上の授業で、一授業に10人くらいが授業見学し、その日の内に担当教員を交えた授業評価会を実施した。この授業評価会をやってはじめて(今更のようにでもあるが)わかったことは、評価がばらばらだったということだ。「この授業はダメだ」という人もいれば、「そんなに悪くないじゃないか」という人もいる。

 なぜ、そんなことになってしまうのか。理由ははっきりしていた。まずまともなシラバスが存在していない。あったとしてもほとんどが抽象的。また具体的に書かれているものでも、コマ展開毎(時間割展開毎)の内容になっていないので、実際の授業評価に入った“その”授業(“その”時間)で何を教えるべきなのかを示すものがどこにもない。科長さえそれをつかんでいない。“その”授業で何が教えられるべきかがわかりもしないのに、授業評価ができるわけがない。せいぜいのところ、教員の声が小さい、板書の字が乱雑、学生が寝ているのに注意をしないといったことしか言えない。これでは、授業評価にならない。

 実際の授業に入って、その同じ授業を同時に見学しながらも、参加者が行う授業評価がバラバラだということは、その学校が学校として学生を受け入れる体制になっていないということである。教員が個人的に授業を行っているだけの学校だということだ。

 少子化問題における入り口側(入学時)での“基礎学力”低下。インターネット時代における出口側(卒業時)での即戦力養成、高度職業人養成。この敵対した難問に答えるためには、もはや教員個人で学生に対応することは不可能だ。幾重にも教員や個々の授業をアシストする環境を形成する必要がある。もちろん、これは教員の個人的な能力の過不足の問題にとどまらない。

 そもそも、学校は、学校として学生を受け入れるのであって、個々の授業や個々の教員に向かって学生を受け入れるのではない。個々の授業は、学校としての人材形成を約束するための一ステップ、学校として卒業生を送り出すべき一ステップにすぎない。個々の授業評価にブレがあるということは、その学校が学校としての教育目標を持っていないということと同じことである。つまり、学校として入学生を受け入れ、学校として卒業生を送り出すという目標を有していないということである。授業評価にブレがある学校は学校ではない。こんな単純なことが今まで看過されていたのは、学校が学生を「選ぶ」ことのできる“幸福な“環境にあったからである。個人的にしか教えない先生と何もしない名誉職的な校長先生という幸福な環境に長らくあったからである。





●履修評価のずさんさについて ― 補習・追再試、担任制の諸問題

 授業評価ができない学校は生き残れない。自己評価ができない学校が、学生や企業の声に耳を傾けることなどもっと出来ない。それがわれわれの“問題”の出発点だった。

 ところがいざふたを開けてみると評価がバラバラ。シラバスはあるが、コマ単位の授業計画(授業時間毎のシラバス=コマシラバス)がない。だから評価できない。

 なぜ、コマ単位の授業計画がないのか?

 これにはいくつかの理由があった。

 最大の理由が、補習、追再試といった履修判定を曖昧にする“システム”が日常化していたことである。学生が授業を聞いていなくても、また授業を休んで試験が不合格になったとしても、補習か追再試で「なんとかなる」という“救済”システムが授業の背後で動いている。そうなると、“この”授業で何を教えなければならないのかという計画は精緻に立てても意味がない。補習は授業時間を任意に延長してしまう。追再試は授業目標そのものを相対化する。

 元来、計画とは、限りあるものの中でしか意味をなさない。目標とはそもそも限界付けであり(英語で言えば、目標=end なのだからますますそうである)、限りある授業時間の中で、具体的に限定された目標を達成しようとする限り授業計画は意味を持つが、補習も追再試も、その限界を取っ払ってしまう。そもそも教材開発という動機も、限られた時間の中で教育目標を達成しようとするからこそ存在していた動機であって、「できない子は後の時間で」ということになると教材開発も停滞してしまう。またその“できない子”も、授業時間の中で少しでもわからないことが出てくると、「また補習か」「また追再試か」と自ら早々と“その”授業へ参加することを拒んでしまう(同じように教員もその学生を早々と授業対象から外してしまう)。

 “その”授業(授業時間)の中で、“その”授業が目標としたことが達成されているかが、授業評価の要だが、補習のような、授業の相対的な延長 ― しかもプログラム化されていない時間での、教員の個人的な判断による(個人的な“善意”)による時間延長 ― は、カリキュラム(授業目標やカリキュラムの時間割的な文節)に問題があるのか、担当教員の授業ノウハウに問題があるのかの判断を曖昧にしてしまう。そのうえ、肝心の履修判定試験が追再試で相対化される。授業評価もカリキュラム改革さえも一歩も先に進めない根深い構造が、ここにある。  

 さらに、担任制の問題。最近、大学でも担任制を強化する動きがある。短大や専門学校ではその傾向はもっと強い。しかし担任制もまた、授業評価の阻害要因になっている。

 たとえば〈担任〉主導で学生指導を行うと、最後には、学生の素質としての基礎学力、性格、家庭環境などが必ず前面化し、担任の個人指導にとどまってしまう。学生が「学校が面白くない」と感じはじめる局面を最初から最後まで学生の素質の所為にする傾向が、担任主導の学生指導の最大の問題点である。

 なぜ、問題なのか。一つには、この“指導”は、結局のところ“心理主義”的なものになり、〈担任〉は教員としてよりも一個人(一人格)として学生の前に露呈してしまい、最後には性格的ないがみあい(好き嫌い)に終わってしまうことが多い。

 もう一つは(これが大事なことなのだが)、〈担任〉は、学生から授業についての不満を聞いてもその授業の科目指導へとは進まない。同僚の教員の科目指導について積極的に動ける立場ではないからである。どんな学生の不満も科目不満(授業不満)に始まり、科目不満(授業不満)に終わる。授業が有意義で楽しいのに、担任課題が山積するということはありえない。授業のダメな学校ほど、ますます担任制を強化し、ますます授業をダメにする。ますます担任業務が肥大化する。悪循環である。

 担任の抱える問題のほとんどは、実際は科目−授業問題なのである。ところが〈担任〉はそこに口を出せない。むしろ担任制は、科目問題(授業問題)を学生素因論にすり替えてしまい、授業評価や科目改善が進まない要因の一つになっている。〈担任〉は、宗教家でも哲学者でも心理学者でもない。人格としての学生、生活者としての学生を指導する資格など〈担任〉にはない。高等教育への負託の意味は、専門教育にある。専門教育の成功のないところに、人格指導、生活指導などあるはずがない。日頃まともに授業もできない教員が人生や生活の指針を提示したところで、誰が信じるというのだろう。人格指導、生活指導がもし効果を発するとすれば、それは授業活動を通した信頼関係(専門性への信頼)なしにはありえない。





●作品評価・実習評価の問題

 授業評価を曖昧にするものはまだたくさんある。

 実習授業の履修評価も、いい加減なものが多い。実習授業の履修判定は、ほとんどの場合、作品提出か、実習作業のチェック(実際に実習作業をやらせて、その行為の妥当性を評価するもの)のどちらかである。

 作品評価の担当教員は、「作品を見ればわかる」というが、それはよほど優れた作品か、よほどひどい作品のどちらかの場合であって(つまり誰が見ても、専門家でなくてもわかる作品の場合であって)、たいがいは優劣を付けがたい中間的な作品が多い。なぜ、この学生が不合格的で、なぜこの学生が合格かの明確なラインは、作品(の存在)だけでは見えてこない。ほとんどは教員の好みにすぎない。

 なぜそうなるのか。それは作品というオブジェクトに評価指標(技術指標や創造性の指標)が紛れ込んでおり、いったいこの作品が作品として存在しうる指標の何をどこまで満たしているのかを明確化する手だてそれ自体は、作品の中にはないからである。それは作品を評価した教員の胸の内にしかない。ほめられてもけなされてもわけもわからずそうだというのが、作品履修判定の実際だった。これでは、よほど著名な創作家を教員か審査員にする以外に、評価の社会性(=信用)を勝ち取ることは不可能だ。

 実習作業の評価も同じことが言える。あることが〈できる〉か、〈できない〉かという評価は、一見実践的で高度な教育目標のように思えるが、しかし一方でわかりもしないのに〈できる〉学生を作り出しているのではないか(厳密に言えば、わからないとできないような高度な実践課題を見いだせていないのではないか)。実習授業や実務教育を特徴とする専門学校の実習評価には、特にその傾向が強かったのではないか? 意味を理解しないまま黙々と作業に従事するという「マニュアル職」の職業人を作り出してきた要因がそこにあるのではないか? 

 さらに問題なのは、作品作成も実習作業も担当教員が作成や作業に(授業中)関与する度合いが見えづらいということだ。作品作成も実習作業も担当教員が手伝ったり、アドバイスやヒントを与えながら進行する度合いが大きい。場合によっては学生同士がグループ(=班)を形成して、一作品や一作業を“完成”することもある。挙げ句の果てに、そのままそれが履修成果として試験評価となる。結果としての作品や結果としての作業終了の中には学生の自立的な能力の評価のためにはかなりのノイズが潜んでいることになる。こういった“共同性”が履修評価を再び曖昧にしている。

 〈作品主義〉と〈実習主義〉に共通する誤りは、相対評価である。「昨日より、今日は進んだ。それなりに頑張った。とりあえず、作品は“完成”した。とりあえず、作業は“できた”。だから合格」というのがほとんど。何が合格で、何が不合格なのかの水準が確定しない。だからこそ、補習や追再試(=再提出)を行っても履修評価がずさんだという実感が関係者にわかない。元々の評価指標がずさんだからだ。

 このやりかたでいけば、「できる学生はできる」、「できない学生はできない」と言っているだけで、カリキュラムや教育プロセスの関与が内外に説明できる形にならない。どんなひどい学校にも「できる学生」はいるし、どんないい学校でも「できない学生」はいる。それはどんなにむごい侵略戦争でも一人や二人のヒューマンな英雄はいるのと同じことにすぎない。要するに学校(組織)としての教育目標は皆無だということだ。すべては、学生の個人的な能力や教員の個人的な能力に依存していることになる。





●コマシラバスと授業計画(シラバス+コマシラバス+試験の先行作成)

 補習や追再試、評価尺度のはっきりしない作品評価、実習評価など、授業評価を曖昧にする要素は数え上げればきりがない。

 わが学園の改革の端緒は、この授業評価にまとわりつくノイズを徹底的に取り払うことから始まった。

 この改革の第2フェーズは、何といっても授業計画の、時間単位(授業時間=コマ単位)の詳細化にある。評価と目標は裏表の関係にある。授業評価が進まなかったのは、先の多くのノイズのみならず、各授業の目標が明示されていなかったことにある。期単位の目標は「シラバス」という形であったとしても、コマ単位(授業単位)の目標=〈コマシラバス〉がなかった。コマシラバスなしのシラバスなどほとんど意味のないものにすぎない。

 〈科目〉の実体は、90分毎に行われる〈授業〉であって、シラバスはこの〈授業〉に沿ったものであるとき(コマシラバスであるとき)にこそ意味を持つ。補習や追再試のようなノイズが多い授業も評価ができないが、目標がない授業も評価はできない。もともと補習や追再試も評価のダブルスタンダードを形成してしまうためのノイズであって、結局のところ、目標をなし崩しに相対化してしまうからこそノイズだったのである。目標が曖昧なままの授業評価は授業評価ではない。評価は前もって提示された評価基準(授業計画としてのシラバス=コマシラバス)なしには、趣味の悪い“検閲”になってしまう。

 もちろん時間単位、コマ単位の詳細化といっても、1年間の(時間単位の)授業計画など、生き物に等しい授業にとってはほとんど不可能なことだ。たぶん、一般的な大学の前期・後期制(約15週×2)であっても、15週のコマ単位の授業計画は、難しいだろう。大学の先生は、“書く”ことには慣れているので、(事務局の要望に従って)いくらでも授業計画を提出するだろうが、たぶん15週のコマシラバス計画は“作文”に終わるに違いない。

 そのため、われわれは、1年間を5期に分けて、5週×1期(各学年の導入教育期)、7週×4期(メインの学期)の体制とした。長くても7週の授業計画ならば時間単位(コマ単位)でも可能、と考えてのことだった。逆に言うと〈計画〉が可能な期間の、それが(われわれの)限界だったということである。

 この履修期間の短期化は、計画の精緻化だけを意味しているのではない。7週くらいの短い内容であれば試験落伍した未履修者であっても、履修回復のためのハンデは少なくなる。むしろ落伍可能性の早期発見にも繋がる。またその意味では、計画通りに進んでいない“危険な”授業(授業を杜撰に遂行する“危険な”教員)の早期発見にもなる。科目と他の科目との関係(カリキュラム構築)は、これまで以上に厳密さを要求されるが、しかし授業評価自体は期間の短縮化によって、より明確化するに違いない。一つ一つの科目評価を厳密化することなしには、カリキュラム評価などできるはずがないのである。

 もう一つは、試験を先行作成することである。これまでの試験作成は、授業をやりながらの試験作成だった(ひどい場合には試験日の直前にできあがるものもあった)。授業の進行状況をなぞった限りでの内容を試験していたわけである。これでは授業に〈計画〉や〈目標〉がないのと同じことだ。

 試験は何よりも、教員が授業計画通りの授業が行えたかどうかの試験でなくてはならない。そうでなければ、カリキュラムや授業計画の正否は何によってもはかることが不可能になる。試験はまず何よりも担当教員の授業が成功したかどうかの試験なのである。 

 少なくとも授業が始まる前、あるいはシラバス作成(コマシラバス作成)と同時に試験を作成することが理想だ。





●実行評価としての授業評価(1) ― 授業シート体制

 授業計画は、シラバス・コマシラバス・履修判定試験の三つがそろって、はじめて計画になる。この三つが揃うと、その科目が何(シラバス)をどう(コマシラバス)教えようとしているのか、また教えたことをどう評価しようとしているのか(履修判定試験)がわかる。しかし、これらはそれでも計画(プログラム)にすぎない。シラバスと実際の授業とは必ずしも同じではない。同じくコマシラバスがあるからといって、そのコマシラバス通りの授業が行われているとは限らない。

 計画上の尺度と実行上の尺度とは、必ずしも一致しない。そこでわれわれは、コマ単位で、広い意味での教材の一つとして〈授業シート〉を学生に配布することにした。このシートは三つでワンセットになっていて、一つは、各授業の冒頭で配布する、そのコマの全体を概観するための「今日の授業」シート、二つ目は、授業の最後で配布・実施する、そのコマ目標の達成度を学生に問う小テスト「授業カルテ」シート、その授業カルテの模範解答シート(間違った場合にはどうすればよいかまでを記してある)の三つである。A4用紙各一枚で、計3枚。これがコマ毎に全授業で配布される。実行上の評価は、この三枚があれば可能になる。

 この中で一番重要なシートは、「今日の授業」シートだ。これまで教員は〈授業概観〉を行うことをしなかった(復習を授業冒頭に行う教員はいても)。理由は簡単。今日、何をやるかは、教員自身が一番よく知っているからである。しかしその授業を受ける学生からすれば、授業の意味は、授業の最後になってやっと露呈することになる。受講過程の一つにでも躓くことがあれば、緊張を維持したり、理解の連鎖を追うことができなくなる。したがって、どの授業でも理解の基盤作り(理解のレフェランス)として、その授業の全体をまず概観することが肝要になる。「今日の授業」シートはそのためのものだ。

 「今日の授業」シートは、科目全体の授業目標である「シラバス欄」、当該コマの授業目標である「コマシラバス」を10項目に学習主題化したもの(90分の内容を10ポイントに“目次化”したもの)=「10項目欄」、その10項目に分節した学習主題の理解の鍵となる「キーポイント欄」、同じく学習主題のテキスト教材上の参照箇所を示した「参照文献欄」、そして当該コマについての注意すべき全体的なコメント(200字程度)。以上の6つのインデックスからなっている。

 このシートの学習「主題欄」を特に利用して、そのコマで習う概要を必ず授業冒頭5分から10分は入れる。これは、いわば、コマ目標の学生への宣言、しかも計画上の宣言ではなくて、実行上の宣言だ。従来の授業評価に根本的に欠けていたのは、この実行上の宣言の評価だった。

 計画上の目標、実行上の目標(計画上の目標へ向かっての日々の実行上の目標)がそろってはじめて日常的な〈授業評価〉が可能になる。





●実行評価としての授業評価(2) ― 〈カリキュラムリーダー〉という分掌

 《授業計画》(シラバス+コマシラバス+履修判定試験)は、〈カリキュラムリーダー〉という必ずしも担当教員ではない《授業計画》責任者が作る。科目相互の関係が見えなければ、シラバスもコマシラバスも書けないことから、《授業計画》は担当教員を越えた仕事になる。大学、短大、専門学校のカリキュラム組織論の問題は、科目相互の関係をカリキュラム全体の視点からライン統握している分掌がないということだ。

 「教務」担当がいても、時間割や教場手配、教員手配を行っているだけであって、誰も科目の入り口(受講の前提)と出口(受講の成果)を見ている者がいない。専門教育ということになれば、一科目で教えることは限られている。諸科目の諸水準の厳密なヒエラルキーが組み立てられてこそ、カリキュラム(高度カリキュラム)と言えるが、実情は講座主義の弊害で各教員が勝手なことを言い合い、お互いの責任をお互いになすりつけ合っているだけという状態が長く続いていた。どの科目の入り口と出口の設定に躓いたのか、どの科目の運営につまずいたのか、そういったことを最終的に判断する分掌が存在していなかったのである。

 もちろん、カリキュラムリーダーは、コマシラバスや試験の細部にわたってそれらを作成するわけではない。学内の専門教員を組織し、シラバス・コマシラバスの分担計画の中で、統一的な人材像を形成するというのが、その中心的な仕事になる。ただしそれは教員間の合議的な人材像形成なのではない。あらゆる“調整”(学内的な調整)に先だつ人材像の提示がなければ、カリキュラムリーダーの存在意味はない。「最初に人材像あり」。この原則を外せば、時間割作成、教場手配、教員手配に奔走する従来の「教務担当」と何も変わるところがない。

 一方、《授業シート》は担当教員の作成になる。担当教員は、特には〈コマシラバス〉を解釈して、その授業目標を把握し、それをシートに反映させる。もしこのコマシラバス目標を90分で達成しようとすれば、どんな主題を細目化しどんな順序で教えればいいのか、というのが授業シート作成の課題になる。

したがって、一つの科目を複数のクラスや複数の教員で教える場合、コマシラバスは同じでも(クラスや教員が違えば)授業シートの内容は異なるということは当然あり得る。専門性の高低や学生の理解の現状を含めて、授業シートは千差万別であり得る。目標は一つでも教育ノウハウ、授業ノウハウは100人の教員がいれば、100のノウハウがある。授業の進行が遅れた場合も(よくあることだ)、その遅れを取り戻すのは、授業シートに盛られた90分の授業計画なのだから、当然内容は変わりうる。コマシラバス(計画中の計画)を変えるというのはよほどのことだが(それはカリキュラムリーダーの許可なしにはあり得ない)、その分、授業シートはさまざまな“現実”を踏まえた変貌を含んでいる。それは何をやっても良い、ということではなくて、(たとえば)もし同じ内容を80分で、あるいは60分で教えるとしたら、どんなふうな授業組み立てがあるのかという問いに対する解答である。授業シートの多様さは、むしろコマシラバス目標を遵守しようとするための多様さなのである。





●実行評価としての授業評価(3) ― AG評価

 さて、《授業計画》とその実行シートとしての《授業シート》があれば、これで授業評価は、できるのか。答えはYESであり、NOでもある。《授業シート》によって教員の授業組み立ては明確になり、授業カルテ(小テスト)によって、授業毎の相対的な達成度は明らかになるが、授業は一クラスだけで行われているわけではない。毎日毎日数多くの授業が行われ、場合によってはそこかしこに数多くの不合格者が生まれているかもしれない。授業カルテ(小テスト)の精度が曖昧なものであれば、不合格者ゼロでも安心してはいられない。潜在的な不合格者の可能性はいつもありうる。そういった全体の兆候や実際の未履修者(不合格者)へのフォロー状況は、詳細な授業計画と精緻な授業シートが存在していても何も見えない。

 期開始前の《授業計画》、授業前の《授業シート》から始まって、一日の授業が実際に終わる、ということは、期末の試験(の全員合格)に向かって、履修目標が順調に消化されているということを意味するのでなければならない。あるいは、そうではないとしたら、学生の誰が何をどの程度に履修不足なのかが把握されているのでなければならない。またその不足に向かって教員や科長がどのような取り組みをおこないつつあるのかが明確でなければならない。それが「一日の授業が終わる」ことの意味である。あるいは《授業評価》の主眼も果たして今日の授業は、最終的な(期末の)教育目標に臨んで成功だったのか、失敗だったのか、失敗だったとしたら、その失敗をどのようにとり戻そうとしているのか、それらについて該当教員に留まらず、科長、校長が履修状況を把握していることをもってはじめて「(その日の」授業が終わった」と言える。

 その点から言うと、《授業計画》も《授業シート》もまだあまりにも情報が希薄だ。たとえば、授業カルテ(小テスト)の結果をどのように次の行動(不合格者がいる場合のフォロー)につなぐか、その場合のカルテの精度をどのように評価するのかなど、これらの解答は、教室に入る前に作られた、言い換えればまだ授業を実際にはやっていない状態で作られた《授業計画》・《授業シート》からは何も得られない。

 そのため、われわれは、実際に開講された授業データで必要な指標を取り出してみた。

 一つは出席率(欠席率)。出席率が高いからいい授業だ、というふうには一概に言えないが、出席が悪いのに、いい授業だとは決して言えない。ほとんど“義務”教育化されている高校までの授業評価では、出席率は意味がないのかもしれないが、大学や専門学校ではずさんな授業をやると出席率にすぐに反映してしまう。出席率がよくないのは、学生に原因があるのではなくて、その学校の授業に問題がある。

 次には、不合格者率。授業カルテで不合格者が何人でたか、これも実際の授業の重要なデータだ。

 三番目には、カルテ(小テスト)の点数分散。カルテ不合格者(小テスト不合格者)を指標にした場合、そのカルテの〈テスト〉としての精度が問われねばならない。易しすぎる問題を作って、「不合格者なし」=「授業は成功した」と安心するわけにはいかない。したがって、カルテを評価指標にするのなら、そのカルテの精度自身を同時に評価する(=テストをテストする)必要がある。易しすぎるのもよくないし、一つの点数帯に固まるのもいけない。低いところ(60点台やそれ以下)に固まるのも高いところ(90点台)に固まるのも良くない。

 最後の指標は、教員自己アンケート。授業の担当教員自体が実際の授業を終えてどのように授業を総括したのか、という自己診断データ。アンケート項目は以下の10問。

 ①「授業シート」類は自分で作りましたか? 更新しましたか?

 ②「授業シート」類の内容はコマシラバスと一致していますか?

 ③「授業カルテ」の内容は、コマシラバス目標の達成度を問うために適切なものだと思いますか?

 ④「今日の授業」シート通りの授業が実際にできたと思いますか?

 ⑤カルテ点数の出方は妥当なものだと思いますか?

 ⑥授業目標(コマ目標)は達成できたと思いますか?

 ⑦定時開始前に入室して、資料の机上配布、教材準備、出欠チェックを行い、定時開始後1分以内に実質的な授業開始ができましたか?

 ⑧定時開始直後、授業シートを参照しながらの充分な(少なくとも5分以上の)「授業概観」を行いましたか?

 ⑨進捗管理のための学生の座席側への回り込みや実習巡回が充分にできましたか?

 ⑩今日の授業に入るために、科長との打ち合わせを行いましたか?

 とりあえず、教員自己アンケートを含めたこの4つの指標を、実際の授業での評価指標とした。「とりあえず」というのは、これらの指標は「よい授業」の必要条件ではあっても、必要十分な条件ではないからだ。「必要十分」という点で足りないのは、結局のところ内容的な評価になるが、それでは個別的・専門的にすぎて、日々の授業評価にはなじみづらいこともある(それにそれは誰にでもできる授業評価なわけでもない)。したがって、これらの指標は、まず“失敗した”授業をいち早く見つけることに主眼が置かれている。

 そのため、4指標を段階的に定量化し、以下のようなマイナスポイント制(まさに「必要条件」にすぎないがゆえの減点制)を敷いた。

■欠席率が

1)在籍比5%以上の場合は、マイナス1点。

2)在籍比10%以上の場合は、マイナス2点。

3)在籍比15%以上の場合は、マイナス3点。

4)在籍比20%以上の場合は、マイナス4点。


■カルテ不合格率(59点以下率)が

5)受験者比5%未満の場合は、マイナス1点。

6)受験者比10%未満の場合は、マイナス2点。

7)受験者比10%以上の場合は、マイナス3点。


■カルテ(小テスト)の点数分布について

8)60点台の学生が受験者数の20%以上を超えた場合、マイナス1点

9)カルテの平均点が85点以上、あるいは70点以下である場合、マイナス1点

10)カルテ点数の最低点と最高点との乖離率(最低点数÷最高点数)が、ワースト10%の学生が取った最低点を除いて、75%以上である場合、マイナス1点

8番の指標は、不合格者はいないにせよ、潜在的に不合格者を抱えている授業だったという反省から。9番目の指標は、問題全体が簡単すぎた(85点以上)、あるいは難しすぎたか教え損なった(70点以下)という反省から。10番目の指標は、一つの点数帯に学生の点数が固まりすぎて、テスト問題自体が平板化してしまったという反省から指標化されている。

■教員自己アンケートについて

11)一問10点として、80点以下になった場合には、マイナス1点。

以上の11の項目に基づいて、最悪値がマイナス11点。最高値がマイナス値なし。これを以下のようにA〜Gに段階化した。

A評価=マイナス点なし

B評価=マイナス1点

C評価=マイナス2点

D評価=マイナス3点

E評価=マイナス4点

F評価=マイナス5点

G評価=マイナス6点以上

A〜G評価は、一コマ毎の段階化にはいいが、コマを通観したり(つまりコマの集合体である「科目」評価を行ったり)、科目を複数担当している教員評価を行ったり、そういった教員を複数有している科のAG評価を通観したりするのには不都合であるため、マイナス点数を逆転させて、

逆に

A評価=7点

B評価=6点

C評価=5点

D評価=4点

E評価=3点

F評価=2点

G評価=1点

とし、たとえば、週6コマ担当している教員が、1コマはA評価(7点)、2コマがB評価(6点)、残り3コマがC評価(5点)である場合、総点数は34点。34点÷6コマ=5.66。通観した場合の、この小数性を処理するために、

A評価=7〜6.5

B評価=6.5(未満)〜5.5

C評価=5.5(未満)〜4.5

D評価=4.5(未満)〜3.5

E評価=3.5(未満)〜2.5

F評価=2.5(未満)〜1.5

G評価=1.5(未満)〜1

 というふうに段階化した。上記の例で言えば、6コマ=5.66点の平均AG評価はC評価となる。このように教育評価の最小単位である授業コマを数値化しておくと、科目評価、教員評価、科評価、学校評価(わが学園は中野校、国立校、世田谷校、品川校の4校を有している)のすべてがAG評価で表現できる。科目評価、教員評価、科評価、学校評価がAG段階化できるということは、すべての科目、すべての教員、すべての科、すべての学校で、目標設定とその達成評価の(前進と改革の)全体が明確化するということだ。

 またただ単に規模や内容的な分節で段階化できるだけではなく、コマ単位、一日単位、期単位、年間といった時間軸でも評価可能であるため、日増しにその授業(コマ単位、科目単位、教員単位、科単位、学校単位)がよくなっているのか、悪くなっているのかがわかるため、組織的な取り組みの要不要が即座に判断できる。

 さて、「AG評価がよい」ということは、従って「出席率がよい」「小テストの不合格者がいなかった(授業目標が達成できた)」「授業目標の達成度を問う小テストの精度も高かった(信頼して良い)」という三つの内容を評価しているわけである。しかし、その反対、「AG評価がわるい」ということは、欠席者の存在、不合格者の存在、カルテ精度の問題(潜在的な不合格者の存在)が問われており、「わるい」と“判断”して、それで事が済む問題ではない。





●実行評価としての授業評価(4) ― フォロー評価

〈AG評価〉は終着点なのではない。不合格者をどうするのかという課題は依然として残ったまま。G評価だった、と結果を公表するだけでは何もしたことにならない。そのため〈AG評価〉とは別に〈フォロー評価〉が存在している。

 学校の負の要素の最大のものは、退学。これは、もっとも強い形で在学生から学校体制全体を批判された形態。次には、長期欠席→欠席→「授業がわからない」と続く。欠席は退学の日常的な形態と言える。欠席要因の最大のもの(欠席の一歩手前)は、「授業がわからない」ということ。学校関係者はこんな当たり前のことをこれまでなかなか認めなかった。「退学」も「欠席」もほとんどが学生の個人的事情を前面化させて、校側の教育体制の反省にはほとんどつながっていない。たとえば「退学」の「理由」に挙げられるものはほとんどの場合、家族の「経済的事情」か、本人の「進路変更」ということになっている。

 しかしこんなものは理由にはならない。「経済的事情」について言えば、「それでは彼(彼女)よりも経済的事情の悪い者はひとりも校内にいないのか?」と担当科長に問い返せば、「そうでもない」という答えが返ってくるのがほとんど。「進路変更」の場合はもっと理由にならない。それは、勉強を積み重ねはしたが、結局のところ、学校側が学生本人に自信と将来展望を切り開かせることができなかったことの表れにすぎないからだ。要するに学校に魅力がなかったのである。

 結局、つまらない授業を改善もせず放置しているか、「わからない」と学生が授業に躓きかけたときに即座にフォローの体制が取れるかどうかが、これらの「退学」を防ぐ最大の課題になる。出席しても授業が「わからない」(授業カルテを不合格なまま終えてしまう)。これが「欠席」を呼び、「欠席」を繰り返し、当然のように試験に落第し、最後は「退学」する。すべては90分の授業の中で起こっていることなのである。

 われわれの授業シート・カルテ体制は、何を学ぶべきか(「今日の授業」シート)、何を学べたのか(「授業カルテ」)、そしてAG評価を90分単位にくり返すことによって、「わからない」授業の最初の発生に目を向けることができるようになっているが、実際に生じる(場合がある)「わからなかった」学生については、課題ポイント制(=フォロー評価)を敷いて対応している。

 「課題ポイント」というのは、教え損なった課題を学校側が背負ったという意味で、そういった名称を付けている。最初の頃は、履修「負債」、つまり学生に教え損ねた“借り”を作ってしまったという意味で「負債」ポイントと言ったりもしたが、それではあまりにも露骨すぎるということで、「課題ポイント」という名称になった。

 「課題ポイント」は、三つの指標で構成されている。

1)まず、欠席者対応について

 欠席者が1人でもいたら、1課題ポイントが付く。というのも「欠席者」というのは、聞くべき授業を全く聞いていないという意味で、カルテ「不合格者」の極限指標と考えるべきだからだ。2人いれば、2課題ポイント付く。これらは「AG評価」のように「率」でポイント化するのではなく、実数でポイント化している。個別学生への早期対応が求められているがゆえに、実数でなければ意味がない。

2)カルテ不合格者について

 これは「授業カルテ」(小テスト)で59点以下を取った場合。1人59点以下の不合格者がでれば、1ポイント。2人不合格であれば、2ポイントというように、これもまた実数でポイントが加算される。

3)カルテ未提出者について

 出席しているにもかかわらず、カルテ(あるいはカルテ点数)が回収(記録)できない場合。こういった未回収学生は、ほとんどの場合、59点以下の不合格者であると見なしてよい。未回収学生=潜在的な不合格学生。したがって、これもまた未回収者(点数未記録者)1人に付き、1ポイント。同じように実数でポイントが加算される。

 以上、実数3指標によってフォロー課題数が一授業(90分)毎に算出される。たとえば、欠席者が2名、カルテ不合格者が7名、カルテ未提出者が2名の授業があった場合、計11ポイントの課題が発生したことになる。つまり11名のコマ未履修学生(大げさに言えば潜在的な退学者)を発生させたことになる。

 この総数(11ポイント)をわれわれは「課題発生数」と呼び、各科目内での累積、各科内での累積、各学校内での累積を毎日集計して学内公表している。一日で、どのくらいの未履修学生(のべ学生数)を発生させたのかが、学校単位、科単位、科目単位、教員単位ですぐにわかるようになっている。

 さてこれらの「課題発生数」はそれをわかることが目的なのではなく、学生のフォローに回ることが本来の目的。たとえば、11ポイント=11人のフォロー対象者を集めて、授業時間外で補習する必要がある、ということを促しているのが「課題発生数」の本来の意味。したがって11人のフォロー学習が時間外でなされた場合は、この発生数は消える(教員がフォロー学習を終える度に教務データベースに自己記入することになっている)。たとえば、11人を一挙にフォローできなくて、8人に留まっている場合は、3人(3ポイント)が未処理ということになり、それを「課題残数」という概念で指標化しており、「課題発生数」と「課題残数」の発生の仕方、残数の残り方を見ていれば、学生の履修状況が把握できることになる。

 ここで言う「フォロー」は、われわれが禁止した「補習」とは異なる。禁止された「補習」と区別して、われわれは「フォロー」のための補習を特に〈コマ補習〉と呼んだ。「補習」は試験合格のためのいわば「試験補習」(詰め込み補習)だが、〈コマ補習〉は授業復帰のための補習。授業がわからなくて悩んでいる学生を早期に発見して、もういちど通常授業の流れに復帰させることが〈コマ補習〉の目的である。「課題発生」と「課題残数」の推移を見守ることによって、その早期の発見、復帰体制を形成する。このための補習(コマ補習)を避けるわけにはいかない。

 「残数」が一挙に減ったりする場合は、集中補習(いわば禁止されている試験補習)が行われたことになるが、課題発生の度に、残数が縮減していけば、コマ単位の補習、つまりコマ補習が丁寧に行われていることもわかる。コマ補習の質量の適正な処置は、必ず「課題発生数」(の減少)に反映する。残数は縮減しつつあるのに、課題発生(欠席者数・カルテ不合格者数)は増大するばかり、ということなら(実際にそういった事例もある)、たぶん「コマ補習」が空回りして授業復帰のためのものでなくなっていることを意味している。理想的な数値の推移は、「課題残数」の減少に応じて「課題発生」も減少するということだ。両者の推移を、AG評価と同じように、コマ単位、科目単位、科単位、学校単位、またタイムスパンで言えば、一日単位、一週間単位、期単位で見ていれば、その科目や科の教育がうまくいっているのか、破綻しつつあるのかは(特に破綻しているのかどうかの否定的な評価の方は)だいたいのところ把握できる。

 《AG評価》と、この《フォロー評価》(コマ補習評価)との両輪によって、実際の(実行上の)授業評価が可能になる。従来、“フォロー評価”(と実際の補習)は熱心な教員にとってはある意味で日常的なものだった。しかしこの熱心さは、結果的にカリキュラム問題や授業運営上の問題を覆い隠し、教員個人の“努力”に相対的にすり替えてしまう危険をいつでもはらんできた。《AG評価》はその意味で、そういった人間的な相対性に解消しない授業評価の柱になる。つまり落伍者(期末試験の)がひとりもいない科目でもAG評価がDやEということはあり得る。これは、カリキュラムや授業運営上の問題(AG評価)を教員が個人的にフォローしたということを意味している。落伍者がいないということは決してわるいことではないが、従来、それで組織的にはすべて済んでいた。しかし、欠席者がたくさんいる、カルテの不合格者がたくさんいる、90分の授業目標が90分で終了していない、こういった授業現象はそれ自体早急に改善されるべき主題である。それがフォロー主義では見落とされてしまう。結果よければすべてよしになってしまう。その意味でこそ《AG評価》と《フォロー評価》は、実行上の授業評価の両輪なのである。





●結びにかえて

 結局、これまで学校が忘れ続けてきたものは、?教育目標の明示 ?教育目標の達成方法の明示 ?達成評価(実績)の明示 この三つである。この三つは、当たり前のように見えて、学校(特に大学、短大、専門学校)が全く踏み入れてこなかった領域と言える。わが学園グループ(東京工科専門学校3校+東京テクニカルカレッジ)はすべての授業において、コマシラバス+授業シートで??の課題に取り組み、AG評価+フォロー評価で?の課題に取り組んでいる。

 このことの眼目は、どんな教育をするとどんな結果(成果)が生まれるのか、そして逆に、どんな教育成果(教育目標)を達成するには、どんな教育をすればよいのか、そういったことがシナリオとして描け、かつそれが実行でき、その結果、目標が年々高度化していく学校になるということである。従来の学校は、学生(在籍生)は、(毎年入学や卒業をくり返して)変化して新鮮になるが、学校自身は何も変わらず「学年批評」(「今年の学生はおとなしい」「今年は元気だ」などと)をくり返すばかりだった。しかし、本当に変わらなければならないのは、学校自身である。自ら変わることができる学校だけが、学生を真に変える(=育てる)ことができる。

そして「学校が変わった(前進した)」と確信を持って言えるときというのは、授業が変わるとき以外にはない。OUTPUTとしての学生の能力育成の現場は、授業なのだから、授業現場に注目しない改革などほとんど意味がないのである。どんな“教育改革”もそのことを忘れ続けてきたと言える。われわれの、4つのツールからする授業評価体制(コマシラバス、授業シート、AG評価、フォロー評価体制)は、その反省にこそ基づいている。在籍率、進級率、卒業率、出席率、就職率など学校評価の基本指標と思われるものは、ここ数年連続的に好転し始めている。東京工科専門学校、東京テクニカルカレッジの教育改革にぜひ注目していただきたい。(了)


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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