多様性教育、個性教育はマーケティングにすぎない。 2025年05月17日
たぶん、学校教育において、「多様性尊重」とか「個性を伸ばす」とか声高に叫んでいる人たちは、単に営業しているだけなのだ。そう言わないと集まってこない、教育できないマーケットを相手にしているに過ぎない。
本来は、好き嫌いと関係なく、学ばなくてはいけないことがたくさんある学校教育の課題を正面から見据えず、また見据えることができるほどの教員マネジメントのノウハウを持たないまま、そういった体のいい営業言葉を前面化しているだけのこと。
楽しく、主体的に学ぶことは重要なことだが、それは、学ぶべきことを学ぶプロセスの中でないと意味がない。
文科省が「多様な学生」という言葉を使った最初の答申は、(私の知る限り)1991年の大学審答申「平成5年度以降の高等教育の計画的整備について」だったが、そこでは「高等教育の規模が拡大し、多様な学生が学ぶ状況で、学生の学習意欲の向上を図り、学習内容を着実に消化させるためには、学生の学習に配慮した教育プログラムの開発・提供に取り組むことが重要である」と指摘されています。
「多様な学生」という言葉のコンテキストは、 「学生の学習意欲の向上を図り、学習内容を着実に消化させるため」のというもの。アメリカ的な「ダイバーシティ」(ある種「生物多様性」論的な)とは異なる「多様な」という言葉の使い方で導入したことは明らかなのです(詳しくは拙著『シラバス論』60頁以降参照のこと)。
つまり「多様性」教育のマーケットは、低学力層であり(そこまでは何も問題ないが)、低学力層の学力を一定の水準まで上げることを断念した学校と文科省とが、1990年以降〈学力〉概念までも変更して、「(主要科目の)勉強することだけが教育の目標ではない」と言いはじめて成立したマーケットに過ぎない。
結果、「多様性」学校は、親や地域の階層を再生産する装置になってしまいました。ブルデューが言うように、「主体性」「多様性」「個性」というような誰も反対しない「中立的な」言葉は、階層性を隠蔽するように機能する。多様性教育の本質は、保守反動なのです。にもかかわらず、教育左派までが「多様性」「個性」を称揚するという事態が、今日の教育の停滞を形作っています。

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