生成AI批判の前提について ― 誰でも間違うようにして、生成AIも間違う 2026年01月13日
生成AIの時代になると、その回答が正しいのか、間違っているのか、判断する側の〝能力〟が問われるし、これからの教育の課題もそこが大切、とアホな教育関係者は宣うが、そんなはずがない。
そもそも、生成AI時代以前の教室であっても、教員は勝手な話をし続けて、〝無知な〟生徒や学生の前でしか通用しない〝知識(えせ知識)〟をしゃべり続けてきたのでは。〈教室〉という伏魔殿が、教員の無研鑽と生徒・学生の無知(未熟)を包み隠してきただけのこと。
判断の対象がどうであろうと教室の内外の境界はそんなに明快に引けるものでもない。
生成AIの〝間違い〟が目立つのは、その判断が絶えず〈外部〉に晒されているからだけのこと。
「こんな簡単なこと間違えて、生成AIも大したことないし、使い方次第」とうそぶく教育関係者も、自分たちの足元の〈教室〉の中で何が起こっているのか、何も把握しようとしない。生成AIの粗を探す前に、〈教室〉の粗を見いだすべきなのに。〈教室〉は、毎日毎時間間違ったことが起こり続けている場処なのに。
中等教育以下だけではなく、高等教育の教授たちも毎日のように間違ったことを言い続けている。生成AIの間違いなどどうということもないくらいだ。その上、生成AIは日々進化し続けているが、教室の中の教員は毎年同じ間違いを同じ箇所でやり続けている。
偏差値の低い高校や中学の教育関係者が「進学だけが教育の意味ではない」「偏差値だけが教育の目標ではない」とうそぶくのは、何もできていない無研鑽と無知の教室の学外評価を避けたいがためだ。教育の自立性の意味を取り違えているのである。
多様性教育とか個性教育とか、また最近の「探求」授業の導入も、すべて伏魔殿と化している低偏差値中等教育の評価(成果評価)を逃れるための言い訳に過ぎない。足し算、割り算もろくにできない、簡単な漢字も読めない大学入学者が年々増えているのも、それらの学校の伏魔殿教育(多様性教育、個性教育、「探求」教育など)の実際を表している。
生成AIの間違いの外に生徒や学生の〝主体的な〟判断を期待する前に、その主体性は、普段の授業の中で、すでに常に充分曇ったままになっている。生成AIに警鐘を鳴らす前に、自分たちの足元の授業のあり方に疑問符を突きつけるべきなのだ。
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