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 文字教材(※)はプレゼンテーションの一種でも、授業手段の一つでもないということについて 2025年04月20日

※本学では一コマ90分の授業で、教員が書き下ろしの文字教材(10,000字~15,000字)を使用して授業を行っています。「これを単に読み上げて授業をやるのならば、機械でも出来るではないか、板書やパワポを並行して使うのは、いけないことなのか」というもっともな議論がありました。以下にその議論をまとめておきます。

 本日(4月19日)オープンキャンパスの心理学科模擬授業パワポについての私のコメントは、「(精神疾患の)診断一致率の改善を目指し、DSM-Ⅲ(1980)から操作的診断基準が導入された。操作的診断基準は、症状の原因を排除し、疾患に特異的な症状、その持続期間を明確に定めた診断基準である」というテキスト内の「操作的」という言葉を巡ってのものでした。

 これは、精神疾患とは何かという議論が、環境論でも脳疾患論でもうまく〝定義〟できず、最後は、診断一致率(誰がその患者をみても同じ診断をするかどうかという診断一致率)の改善という議論に収束し、1980年のDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders(DSM)において、「操作的診断基準」が導入されたというものです。たとえば、五つの(測定可能な)症状を上げておいて、その三つ以上に適合したらその患者は「精神疾患」にかかっているというような診断基準を「操作的」診断基準と呼んでいるわけです。

 その内容はある程度わかったとしても、それをなぜ「操作的operational」(元のテキストには英語表記はなし)と言うのか、と私は発表者に聞いたわけです。「これまでそう言ってきました」というのがさしあたっての発表者の回答でした。

 40歳前後までの他の若手教員(准教授、講師)に聞いても答えは同じでした。S教授は、「〝長さ〟というものそのものを定義は出来ないけれど、物差しで測れるものを〈長さ〉としようという取り決めを〈操作的operational〉と言うんだよ」と言われました。一方、K教授は「元々は物理学の概念。その反対語は辞書的概念です」と教えてくれました(※)。どちらも私には中途半端だなと思いましたが、若手(40歳前後)よりもまともな説明です。
※結局、この言葉の起源は、わがM教授の指摘により、ノーベル物理学賞を受賞した物理学者パーシー・W・ブリッジマンの著書『現代物理学の論理(The Logic of Modern Physics)』(Bridgman 1927)となった。ブリッジマンは概念というものは実験操作にほかならないと主張。「ある物体の長さを知りたければ,われわれは物理的な操作(operation)を実行しなければならない.したがって,長さという概念が確定するのは,長さを測定する操作が確定したときである.すなわち,長さの概念は長さが决定される操作の集合にほかならないことになる.一般に,どんな概念であっても操作の集合そのものである.言い換えれば,概念とはそれに対応する操作の集合と同義である」(Bridgman 1927, p. 5)。この引用から言うと、実験操作、操作手順の「操作operation」だというのがよくわかる。

 
この四者(若手、S先生、K先生、M先生)の話は、プレゼンテーションのうまい下手の差ですか?のというのが、今日、私がみなさんに振り出した議論です。

 「操作的operational」の訳語も含めて、これをどう教えるか、どう訳すかは、認識(専門性)の問題です。わかっていないと教えられない。認識が深ければ深いほどわかりやすく教えることができる。「……というのを〝操作的〟と言います」という説明で終わると、この「操作的」は理解の対象ではなくて、暗記の対象になる。現に先のパワポの説明はそうなっていたわけです。

 そして、文字教材とは、何が書かれている場処かというと、operationalという言葉についての認識が表れている場処なわけです。それ以外には文字教材の本旨はない。いくら段落毎に一行空けて改行している、マーカーしている、小見出しも付けていると〝工夫(これぞプレゼンテーション)〟しているとしても、書いてあることが、「……というのを〝操作的〟と言います」という説明で終わると、何も教えたことにならない。むしろ、operationalを教えるだけで、Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders(DSM)がいかに精神疾患について右往左往しているManualなのかがわかる。あるいは行動主義心理学、科学的心理学の根本がわかるほどのoperational(という言葉)なわけです。

 私が、大学においては教育と研究とは一致するというのは、この地点です。話し方や学生への態度が穏やかであっても、あるいは授業法研究に研鑽をつんだ者であっても、operationalの意味がわかっていなければ、どんなに授業満足度が高くても意味のない授業なのです。教え方というのは、テクニックから生まれるものではなく、認識、学識から生まれるものです。認識、学識そのものが〈方法〉を生むわけです。〈方法〉は認識の外にあるわけではない。

 偏差値が高い学生なら「なんでそれをoperationalと言うの?」と質問してきますが、偏差値が低い学生は、難しい内容だから何を聞いたらいいのかもわからず、通り過ぎる。偏差値の低さのお陰で、自分の(教員の)無知を棚に上げることができる、その種の教員ほど、日常的には、「(学生が)バカだからやってられない」と苦情を言う(もちろんこの発表者は断じてそんな教員ではありませんが)。これは二重に学生をバカにしているわけです。

 その場合、以下のような小テストになります。私がお遊びで作りました。

【問い】以下の文章の中の()内には同じ言葉が入ります。その言葉を以下のA~Eの選択肢の中から選びなさい。

「診断一致率の改善を目指し、DSM-Ⅲ(1980)から(   )診断基準が導入された。(   )診断基準は、症状の原因を排除し、疾患に特異的な症状、その持続期間を明確に定めた診断基準である」

A. 統計的
B. 生物学的
C. 操作的
D. 客観的
E. 精神分析的

という感じかな。
 
 これで「C.操作的」を選んだから、この学生が「操作的operational」の意味をわかっているかと言えば、何もわかってはいないわけです。なぜか。先生自身がわかっていないからです。もちろんそれを開陳する教材もない。それは不手際や怠惰ではなく、勉強していないからです。つまりプレゼンテーションの問題ではない。授業がうまい下手の問題ではない。授業法の問題でもない。話し方の問題でもない。認識、学識の問題です。文字教材とは、認識、学識の開陳の場処なわけです。認識・学識の高低が、そのままプレゼンテーションであるような場処、それが文字教材です。つまり大学の授業の〝わかりやすさ〟とは、学識の深さが形成しているものであって、あれこれのプレゼンテーション能力にかかわるものではない。

 だから、文字教材の外に〝説明〟を求める傾向は、危険です。読むだけの授業は学生が退屈してしまう、というのは、書字になれていない学生の偏差値のせいなのではなく、その学識が退屈極まりないものだからです。「……というのを〝操作的〟と言います」というように。これでは学生は寝ます。

 足りない知識(足りない認識)をつぎはぎして出来上がった文章、あるいは生成AIに依存して作成された文章に面して学生が寝ないはずがない。足りないテキストのなお〈外〉で語られる言葉(トーク)が、どう新たな学識を生むというのだろうか。書字を読むのを退屈と、教員自らが言うとすれば、それは学生が退屈と思う前に教員が退屈と思っているからに過ぎない。開陳するほどの学識も何も刻まれていないテキストだからです。

 議論の中で請園先生が、「講義の部分は大変だったけれども、演習(実習)になってくると何とかなるのではないか」と言っていましたが、それでは専門学校の演習と同じです。どんどん講義がなくなっていって、最後残るのはプログラムを書き込んで行く実習だけとなる。これが専門学校のプログラミングの授業です。手は動いて、寝ている学生はいない分、安心できますが、学識に裏付けられた実習ではない。読めない学生に、手を動かすようにさせても意味がない。自分が何をやっているのか、何のために何をやっているのかをわからせるのは実習ではなくて講義だからです。講義でテキストを離れる、テキストを退屈だと感じる学生に、実習など1000時間やらせても何も生まれはしない。一人の専門学校生を生むだけです。私たちが、90コマを使ってプログラミングの授業を形成したのは、〈理論〉を〈認識〉にまで高めるためのことであって、間延びした手の作業を収めるためのものではない。

 大学の授業は、学識でもってわからせるものです。実習でわからせるのではない。そして学識こそが学力の高低を差別しない。operationalの訳語の選定について、そしてその意味を語ることについて、偏差値の高低はなにか影響するとでも言うのでしょうか。「C. 操作的」と暗記して答えた偏差値40学生にそれ以上考えさせることは、なにかその彼の不幸を招来するのでしょうか。

 私は、「C. 操作的」を暗記させて、認識としてではなく、知識として答えさせることの方がはるかに不幸だし、楽しくもないことだと思います。その上、答えられたとしてもすぐに忘れてしまう。認識になっていないからです。

 つまり、先生自身に(テキスト自身に)元々ないものを外(テキストの外)に求めても、何も生まれはしないということです。文字教材は、授業プレゼンテーションの一つではないというのはその意味でのことです。大学の授業にプレゼンテーションも授業法も、ましてやアクティブラーニングも不要です。それらは、大学教育においては無知の別名に他ならない。

 教材を読み上げるだけの授業であれば、機械でも出来るではないか、という反問の答えは、したがってこうです。

 挑発的にこの反問に答えるとすれば、われわれは、機械でも出来るような授業を目指すべきだということです。言い換えれば、そのテキストを使えば、どんな教員でも授業が出来る、満点ではないにしても80点くらいの授業は出来るテキストを書き上げるべきだということです。その起始点になるテキストを書くこと、それが文字教材を大学教員が書き下ろすことの意味です。機械と唯一違うところがあるとすれば、この大学の授業のおける文字教材は、書き手が〈そこ〉にいるということです。書き手が〈そこ〉にいるテキストを読むことは、大学で以外にあり得ないことです。

 書いてある言葉や文章に関して、質問する。「そういう意味だったのか」ということについて、それは書き手である教員の責任なのか、それを読み込めなかった受講者・学生のせいなのか、そういった〝コミュニケーション〟の場処が大学の教室です。教室は営業(わかりやすい話し方)の場処ではない。

 高校までの〝読書〟では、ほとんどの読解が独りよがりなもので、特に古典の理解などは、テキストが〈そこ〉にあっても2割も理解できていません。私は、高校時代、授業の中でも、授業の外でもたくさんの本を読んできたつもりですが、大学で勉強し始めて、なんと自分勝手な解釈をしてきたことかと、当時書籍に書き込んでいた傍線をことごとく消し続けた経験があります(それ以来傍線はいつでも消せる鉛筆で引くようになりました)。

専門書(専門的なテキスト)は、大学教員が伴走しないと読めないのです。そのことを〈知る〉以外に大学へ進学する意味はない。

 書き手が〈そこ〉にいるテキストを読む訓練をすることによって、はじめて〈古典〉(20世紀以降の近代学問を形成してきた現代的古典も含めて)への途が開かれるわけです。そういった起始点としてのテキストを読む訓練を重ねていけば、あとは〈TA〉と一緒にでも、諸々のテキストが読めるようになっていくというのが、大学の〈文字教材〉が〈そこ〉に存在する意味です。大学の先生は、いつまでも〈教室〉にとどまる必要などないのです。

 もう一つの反問。「同じ内容を教えるにしても教える人が異なれば、伝わり方も違うのでは。だからプレゼンテーションは重要です」というもの。

 これはその限りではその通りです。が、私が議論しているのは、その「同じ内容」ということ。内容のある内容をまず用意することが重要であって、それ以前にプレゼンテーションの方法が問題になることなどないということです。大学の授業が、答え(教科書)も定まらない先端の内容を扱う場合には余計にそうです。国際性を意識しないで研究をやっている大学教員などどこにもいない。

 だから、「同じ内容を教えるにしても」ということなど、大学の授業には存在しない。「同じ内容」など大学には存在しない。「心理学概論」という科目でさえ、教える教員によってまちまちな内容だからです。

 だから、この問題は、プレゼンテーションの問題ではない。operationalという言葉をどう訳すか、それをどう解説すべきかという課題はすべて学識問題です。ここを外して、プレゼンテーション(授業法)課題は存在しない。

(19日27:30了)

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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