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 ノート論 2018年05月16日

1)ノート論

授業が〝わかる〟とか〝わからない〟とかいう場合の一番切実な問題は、学生一人一人の理解の水準に授業(授業教員)が対応できないということである。

理解の〝水準〟と言っても、それは学生の基礎学力に差があるということではない。〝水準〟というより、すべての人間(学生)は同じひとつのことを学ぶにしても、様々なプロセスを通して〝理解〟に至るのであって、一人の教員が授業で行う展開は、たんに一つの理解プロセスをシミュレーションしているにすぎない。

水準が多数あることが問題なのではなくて、理解の仕方が多数あることが授業(特に集団教育的な授業)をわからなくしている最大の問題だということだ。

この問題は、授業を主宰する教員が〈話す〉ことだけに頼った授業を行った場合に特に顕著になる。〈話す〉ということは時間(のリニアな流れ)において話すということであり、〈最初に〉話すことが〈後に〉話すことの前提(原因)になり、その順序が逆転することはない。話すことを〈聴く〉者は、一つの流れに不可逆的な仕方で追従せざるを得ない。

一つの〈前〉〈後〉の関係を理解できない場合には、それは〈全体〉の理解に至ることにかなりの障害を生むことになる。つまり〈話す〉授業は、理解プロセスの多様な経路を最も単純化し、単一的に閉ざしてしまっている。

従来、この話す授業の欠陥を補うためになされてきたのが、〈板書〉であり、学生のとる〈ノート〉であった。どちらも、話す時間(=前後)を空間的な〈位置〉に変換し、前後を同時に(=後からでも)見渡せるメディア変換を行うためのものである。

両者にはしかし微妙な差異がある。板書は教員の理解プロセスを示したものだが、ノートは学生自身の理解プロセスを示している。一つの授業には学生の数だけのノートがなければならない ― 事実はそうでなく、板書をただ写すだけのノートを取る学生がなんと多いことか! 原因は教員の方にもあって、中学・高校の教員で「写せ、写せ」といいながらノートを強制している教員がいるが、ノートと板書との落差の意味を教員自身が理解していない教員も多い。

もし、写すことがノートを取ることの意味であるなら、教員は最初から自分自身が授業レジュメを作って(あるいは教員自身の講義ノートを)学生に前もって配っておけばよいのであって、わざわざ授業時間中に学生にノートを取らせる意味はない。

仮に、そのレジュメを前提にして、先生が板書なしに授業を続けたとしよう。それでも、学生はそのレジュメに何かのコメントを書き加えるだろう。そして、そのコメント(の場所と量)は学生一人一人違うはずである。その全体が〈ノート〉である。〈ノート〉はいつも(教員の意図を超えた)メタレベルを含んでいる。
 
なぜ、ノートと板書には違いが出るのか。教員の板書の内容が学生にとって必ずしも新しい、未知の内容ではなかったり(ノートをとるまでもないことであったり)、また教員が板書として書かなかったことが学生にとって必ずしも自明ではない場合があるからだ。

つまり教員の〈話す〉内容の中には、板書のことばの筋道とは異なる様々な凹凸 ― それを〈聴く〉学生にとって未知と既知との、あるいは印象の凹凸 ― があるということである。その種の凹凸の痕跡が〈ノート〉の全体ということになる。

つまり学生たちは、板書をとりながら ― 教員自身の想定した凹凸をシミュレーションしながら ― 自分自身の理解過程を記録にとどめているのであって、ノートをとることにおいて学生たちは2重の(教員と自分自身との)理解過程をシミュレーションしている。ノートをとるということは、高度に知的な作業なのである。大人でもまともにできる人はいない。

2)講義ノート、そして教科書論

むろん授業(教員)が〈話す〉ことに集中すればするほど、この作業の負担は大きくなる。話すという単一のメディアの中で、学生は教員の強調する(あるいは反復する)プロセスと自分自身の理解プロセスとを二重化しなくてはならないからである。

それに比べれば、〈そこ〉に〈板書〉が加わるということは、少なくとも教員自身のプロセスはまえもって与えられているという点で負担は軽減している ― 板書はその意味でマルチメディア授業の〝はしり〟である。

さらに授業レジュメなどがまえもって(印刷されて)学生に配られていれば、学生はただ自分の理解プロセスだけを記録することに集中すればいいことから、負担はもっと軽減する。教員の講義ノートが公開されていれば、学生ノートはもっと充実することになるだろう。

にもかかわらず、教員の講義ノートはなぜ公開されないのか。それは教員が授業を行う自分自身のために書くためのものだからである。自分自身のために書くものがなぜ公開されないのか。それは、学生に見せるために書くことになれば、少しはプレゼンテーションを意識した叙述 ― たとえば字を ひと 他人にも見やすく丁寧に書くとか ― を心がけなければならないからである。しかし講義ノートである限り自分自身がわかればそれでよいのだから、見せることを意識することは面倒なことでしかない。だから講義ノートは公開されない。

しかし、もしワープロで講義ノートを書いている教員がいるとすればどうだろうか。このワープロノートを公開することに面倒なことは何もないはずである。ノートという意味で、多分に私的に専門的なこと、授業にとって過剰なことが書かれていたとしても、その分は「削除」して公開用「ファイル」をもう一つ作ればよいだけのことなのだから、少なくとも講義ノートとは別個の授業レジュメを作るよりはよほど簡単なことなのである。〈話す〉ことを〈書く〉こと、書くことを〈ワープロで書く〉ことにメディア変換することは、講義ノート・講義レジュメ・板書のそれぞれの固有な垣根を取り払い、講義で教員が話そうとしていたこと(話すことによって教えたかったこと)を限りなく直接に学生に開放することになる。

講義ノートの公開とは、従来、大学の教員が自分の講義のために書いた〈教科書〉 ― あるいは小・中・高の授業を大学教員がシミュレーションした〈教科書〉 ― のことであった。従来、ノートの手書き文字が(他人にも読める)きれいなものになるためには出版社・印刷所、あるいは〝編集者〟の介在が不可避であり、大学の専門性(専門的な体系性)、およびその社会的な認知なしに講義ノートが公開される契機はほとんどなかったと言える。

書くことがワープロで書くことになりつつある今、〈教科書〉(=講義ノート)は講義(講座)の数だけ存在してもよいはずである。講義ノートがワープロ変換(ファイル化)されている限り、講義ノートと教科書とは限りなく近似するだろうからである。言い換えれば、講義レジュメや自らの教科書をもたないで授業を主宰する教員は講義ノートを作らないまま授業計画(授業無計画)をたててしまっている怠惰な教員にすぎない。

シラバスが単なる年度初めの〝作文〟になってしまい、授業実体と別のものになってしまうのは、そもそもその教員に講義ノートそのものがないか、それとも書くことをワープロ変換していないかどちらかである。誤解を恐れずに言えば、どちらにしてもワープロを使えない教員はもはや教員ではないか、教育に熱心でないかのどちらかである。つまり、教育方法に関心がある教員であれば、その彼が悩んでいた諸々の問題のかなりの部分をワープロは解決してくれるはずだから。

ワープロ変換された講義ノートは、従来の「教科書」よりもっとすぐれた教科書になっている。印刷所を経由した紙媒体の教科書では発行年月日とともに内容は固定されてしまうが、各教員の手許にあるワープロ変換された講義ノートは、想定される学生や授業環境を具体的にイメージした教科書であり、実際の講義を終え、講義の中で記述に過不足があると感じた場合にはすぐに訂正・加筆・削除され、次回の授業内容(講義ノートの次回分)にフィードバックされるし、当日の講義(講義ノート)内容は次年度の講義のために新たに全体的に書き換えられることになるだろう。それは生成する教科書なのである。
 
つまりワープロ変換された講義ノートは授業現場に近い分、学生ノートの実態により近いものになっている。

ただし、この生成する教科書であってもなお限界はある。〝生成〟は授業の前か後に生ずるのであって、授業そのもの(授業の現在)にとっては依然としてそれは固定された一つの印刷物にすぎない。学生にとっては、なお理解の自己プロセス化の課題は残っているのである。

もともと〈話す〉ということ(あるいは〈聞く〉ということ)が自己消滅的な時間性であったのは、そういった教科書的な固定化を流動化させ、その時々の現状にあった内容に変化させるということである。精緻で詳細な講義ノートを用意しておいても、その場に臨んで変更せざるを得ないもろもろの事情 ― 講義の〈気分(Befindlichkeit)〉ととりあえず呼んでおこう ― があるということをすべての教員は経験している。

その分、印刷され出力された文字ではかなわない感動を与えたりもすることができるわけである。学生の理解度を(講義の雰囲気で)触知しながら、そのつどことばを選んで授業を進める職人芸的な要素が、授業を〈行う〉ことの中に潜んでいて、これには講義ノートもシラバスもかなわない。

ワープロノートの可塑性は、この講義の気分の流動性にいくらかでも対応できるという点で、従来の教科書と話し言葉中心の授業との中間にあるメディアだといえる。ワープロは話しながら書き、書きながら話すという中間的なメディア変換を行っており、ワープロ変換された教材はその分(修正が自由自在であるという点で)、授業の〈気分〉に近いメディア、つまり話し言葉に近い書き言葉だと言える。
 
3)講義フルテキスト論

だとすれば一人の教員が講義で話したことをすべて録音し、文字おこしすればいいのである。これが、授業の気分に一番近い書き言葉だといえる。

しかし、このテキストには2、3の問題がある。まず、このテキストはそもそも授業の前に渡すことができないという意味で、〝その〟授業には役立たないということ。第二に、精緻な音声認識装置でもない限り、文字おこしには大変な労力がかかるということ。第三に、90分授業で話されたことの文字数はだいたい25000字から28000字、400字詰め原稿用紙で60枚から70枚になり、読みこなすのにかなりの分量になるということ。

最後に、話されたことがそのまま文字になっているため、(後から見てみると)無駄なところや舌足らずのところが多く、講義ノートのような整合性や要点の前面化という点では、むしろ理解しづらいテキストだということ。

いわゆる〈教科書〉や〈講義ノート〉に比べてこのテキストが重要なのは、教員が教員なりに学生の理解プロセスをフィードバックしたテキストになっているからである。

たとえば、講義ノートを用意して、授業で話すことを〈前もって〉イメージして臨んでも、学生の前に立ったとたん話すことが変わってしまうことがある。学生が何かの原因でざわついているときには導入の話しで半分授業時間を費やす場合がある。

個人的な経験でいえば、ずっとスーツを着て授業を行っていた講座で、ある時(偶然に)ポロシャツで教壇に立ったとき、その授業はざわついたまま終わってしまった。第1回目の講義からポロシャツで行っていればまた事情は違っただろうが、このポロシャツの〝変化〟に学生は〝何か〟を感じ取ったのである(むろんこのことは授業が終わった〈後で〉よくよく考えてわかったこと)。むろん内容は空回りのまま、予定の半分も消化できないままだった。どんな教員も授業(の現在)がこういうきわどさを持っていることを肌身で感じている。

こういう環境の授業内容は、〈教科書〉にも〈講義ノート〉にも現れはしない。学生の理解プロセス(学生の〝抵抗〟)に出会った講義ノート(のかけら)が講義のフルテキストなのである。

今、(他人の書いた)教科書のテキストを学生の理解プロセス(のシミュレーション)にもっとも離れたもの、講義で教員が話したフルテキストを学生の理解プロセス(のシミュレーション)にもっとも近い(教員側の)テキストとしてみよう。

しかしどちらのテキストも、教員が〝その〟授業で学生に教えたかったことの全体ではない。出版年月日のついた(しかも多くの場合、他人が書いた)教科書が授業に遠いのは明らかであるが、講義のフルテキストも講義ノート(教員が教えたいことそのもの)の内容を必ずしも反映してはいない。多くの教員は自分の講義のフルテキストを後から見て、ここはこういえばよかったとかここはくどすぎるとか反省しきりということになるだろう。

ノートをとる学生だけではなく、教員もまた〈話す〉ということにおいて時間に追われて話している。〈話す〉とか〈聴く〉ということは、時間に追われて〈話す〉、〈聴く〉ということなのである。
 
だからこそ板書や教科書、あるいはレジュメなど〝書かれたもの〟 ― 空間展開されたものが、その時間に追われた教員や学生の余裕のなさ(非反省性)を補ってくれる。それらのメディアは書かれた痕跡として死んでしまっている分、一つの〝踊り場〟になり得るのである。またしかし死んでしまっている分、単に教員の意図 ─ 学生の理解ではなく ─ を示したもの(板書、教科書、レジュメなど)にすぎなかったのである。

3) 質問論

つまり書かれても、話されても、学生の理解過程をシミュレーションしたことにはならない。書かれても、話されても一方通行にならざるを得なかった授業メディアの中で唯一、理解過程がかいま見えるものが学生の〈質問〉である。教員の言うこと、示すものが〝わからない〟ということを直接表明するのが質問であるとすれば、それに教員が〝答える〟ときにこそが、教員の授業プロセスと学生の理解プロセスとが初めて合流するときだと言える。

教員の授業運営にとっての課題のひとつは、学生の理解状況(履修状況)を計るということである。

従来、このことは〈試験〉によってなされていた。試験という履修判定の最大の特色は、ほとんどいつも授業の最後に行われるということである。授業の最後に行われるという意味で、それは学生評価(教員による学生の評価)という傾向を有していた。つまり70点を取ったり、80点を取ったり,場合によっては50点という赤点を取ったりする、これらの点数の差を、学生の能力の差(授業を聞き・書き取る能力の差) ― 教員の授業力の有無ではなくて ― に帰すということである。

場合によっては、これらの差は教員と学生との相性であるかもしれないし、教員の授業のやり方によっては変化するかもしれないという問題を(授業の最後に行われる)〈試験〉は、覆い隠す傾向がある。試験による履修理解は、教育指導という点ではいつも〝後の祭り〟なのである。

〈質問〉は、その意味で「こんなわからない授業をしたあげく、(後の祭りの)試験評価をされてはたまったものではない」という学生の叫び声とも言える。

教員は、学生の質問において、その学生が授業の何に関心を持ち、何に躓いているかを理解することができる。また逆に〈質問〉は教員が話したこと、教員が用意した教材のどこに問題があったのかを明らかにしてくれる。〈質問〉は単に学生評価なのではなくて、学生による教員の授業評価でもある。

〈試験〉が授業の最後に行われる点で、主には学生評価の意味しか持たなかったのに比べて、〈質問〉は授業の途中に行われ教員の一方的な授業運営を止めようとする。もちろん教員は仮想的に学生の〈質問〉を繰り込みながら授業の進行をイメージしつつ、授業の実際に臨んではいるが、しかし実際の反応としての〈質問〉は、リアルタイムな授業評価として貴重なものである。

しかし、〈質問〉(というメディア)の問題点は、まず、それが個人的になされるものであることにある。個人的というのは、その質問が些末なものであったり、授業の本道を外れるものであったりするということだ。したがって、そういった質問に(まさにリアルタイムに)関わりはじめると授業全体の進行を大きく阻害することがでてくる。

あるいは、授業の本道に関わる質問であっても、〝他の〟学生たちにとっては理解できている場合には、退屈な質問になる場合がある。どちらにしても〈質問〉は、たとえそれが「いい」質問であっても個人的なのである。

従来の、「できる」学生に(授業進行を)合わせるか、「できない」学生に合わせるかという問題は、こういった質問処理の問題、あるいは補習や補講処理の問題に集中的に現れる。試験や質問の共通性は、それが学生の履修状況がはじめて(アクティブに)現れる場面だということだ。質問に最後まで付きあいきれない、落第点に最後まで付き合いきれないというのは、…(まだまだ続く) 
1998年10月29日にほんブログ村 教育ブログへ
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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

大学に入ってようやくノートが書けるようになったのですが、まとめることができずに、ただ、だらだら書くだけで、授業内容が全部書ききれませんでした。

一つの授業の中で、大切なところとそうでないところ、つまり、先生たちは一般的な話と具体的な話をされていることがわかり、大切なのは、一般的な話を分かることで、具体的な話は、その一般的な話を学生たちにわからせるためにされていることに気づきました。

ここで先生の話には、レベルがあること、そして一般的な話にさらにレベルの違いがあることがわかってきました。

授業内容をノートして要約することは、具体例を捨象し、それをさらにまとめあげていくことで、そうすることで今度は、授業中に先生が話される内容を、全体の中の部分として位置付けて聞くことができるようになりました。

高校の時はいつも、試験前に習ってきた膨大な授業内容を目の前にして、途方に暮れるばかりでしたが、授業内容を毎回ノートして要約することで、膨大な量と思えたものが、たったこれだけのことを習ったのか、と思えるようになってきています。

投稿者 エンピツ : 2018年05月16日 17:25
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