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 私立中学受験に私は反対する(学歴社会とは何か) ― 子どもを愛せない親たちに再度捧げます。 2009年01月26日

 年明けの1月、2月、3月は胸騒ぎの季節。新入生、卒業生の季節。また進学・卒業で人生が大きく変わる節目。この間も私立中学受験に失敗して悩んでいるご夫婦の相談に乗っていたが(人の悩み事の相談に乗っているほどわたしに悩みがないわけではないが)、そんなときにいつも思い出すのは、今から5年前に書いた私立中学進学反対の長いレポート。私の家内は、このレポートを書き終えた1ヶ月後に発病するから(このときにはまだ元気な様子で登場する)、その意味でもなつかしいレポートだ。今でももちろんその時の考えに変わりはない(当時に比べて“格差社会論”は大流行中だが)。子供たちの進路に悩む保護者の方々に、謹んで(確信を持って)捧げます。

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●私立中学か、公立中学か ― 新中学生の進路に悩む親たちへ
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_1.html

 昨日は、住宅の現地説明会の後、知人の娘さんが名門私立中学校(中高一貫教育の女子中学)の入学試験に合格したというので、そのお祝いのための食事会に招待した。烏山の『広味坊』。ここは『料理の鉄人』にも出た有名な店だが、今では「ビーフチャーシュー麺」しかうまいものはない。

  私は、子供を中学校で私立に入学させるのは反対だ。まして幼稚園や小学校で私立学校に入れさせるのにはもっと反対だ。私の考えでは、日本の中学生までは、どんなに“不良”であっても、どんなに「頭が悪く」てもたかが知れている(どうにでもなる)。小さいときから、色々な人間がいることを体験させておいた方がいい。悪いこともいいことも含めて、それを概念としてではなく、人間の多様として体験しておいた方がいい。中学までは家庭がしっかりしていれば、不良になっても、勉強ができなくても取り戻せる。単に取り戻せるだけではなく、積極的に(自発的に)経験させた方がいい。

 中学までは自分の子供の、友達との付き合い方に直接的に親が介入してはいけない(見守る必要はあるが)。すべては、大人になるための(自発的な、その意味では不可避な)子供の学ぶ過程だ。ここを親が勝手に隔離してしまうと、大人になっても隔離した環境でしか仕事ができない、子供のような大人にしかならない。

 小学校や中学校から私立学校に通っていた社会人で、まともな仕事のできる〈大人〉に、私は出会ったことがない。この人たちは、“概念”でしか、多様な人間を語れない。だから仕事の幅や深さにも限界がある。小さな時から、人間との付き合い方が或る階級の内部でしか動いてこなかったからだ。

 しかし中学校までは、本当の階級は存在していない。それが、日本の階級のあり方だ。日本の公立中学校には、まだなおトップの階級からそうでない階級まで多くの豊富な体験のできる家族が反映している。ここを通過するかどうかは、子供が成長する過程では大きなポイントだ。

 大人になると「社会人」とは言っても、実は非常に小さなサークルの中で動くにすぎない。それは中小企業や大企業という差異にとどまらず、業種や部署の違いによる差異も含めて、出会う人間も起こる出来事も、小さな、同種の経験の繰り返しにすぎないことも多い。「国際的」ビジネスマンで、世界を飛び回るビジネスマンであっても、それもまたそういった小さな経験にすぎない。時間自体を倍にでもできない限り、この種の世界はひろげることができない。「社会人」は、その意味では非社会的(階級的)なのである。

 だからこそ、子供時代は大切だ。子供の時代にこそ、人の人生の何倍もの時間を累積させた〈社会〉や〈世界〉(つまり〈歴史〉)は存在している。このときにしか(いい意味でも悪い意味でも)出会えない人間たちがいる。そういった出会いや経験の資産が、社会人になったときに、その小さな〈世界〉を〈変える〉力に結びついていく。会社の組織論や常識を疑う力をはぐくむ。“公立”中学校の本来の社会性は、革命的なものである。パブリックという言葉の意味(の一つ)は、「社会的」ということと同義なのだから。

 私立中学を出た人たちは、新しいことを言ってもしても少しも新しくはない。新刊本を読むことによってしか、そしてまた、“概念”でしか〈新しい〉ものや〈他者〉がわからないからである。少数の(小種類の)人間の行動しか〈知らない〉からだ。

 その意味で、中学校から、ことさらに私立学校に、ましてや女子中学校に入れる意味はない。むしろそれは害悪。人間は放っておいても階級的だ。“社会人”はもっと階級的だ。そんな事実を前にして、ことさらに中学生時代を階級的にする必要はない。そんな子供たちは、自分の階級さえ守れないかも知れない。子育てはもっとドラマティックだし、人間の人生もさらにもっとドラマティックだ。

 そんなことを熱っぽく語ったものだから、お祝いの会ではなくなったような気がして、恐縮、恐縮。でも、まだ入学する必要はありませんよ、Hさん。入学金くらい、自分の娘の人生全体を考えれば、大したことはありません。

●続編(1):親の子どもへの愛情とは、あれこれの能力ではない
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_2.html

 学校選択の最大の悲劇は、学校を選ぶことで何かを選んだと勘違いすることです。確かに私立学校の方がはるかに先生は優れていますが、子供にとっては最高の先生は〈親〉です。〈親〉が変わらない限り、何も選んだりすることはできません。

 最高の選択は、親を変えることです。しかし変えられないものを〈親〉といいます。子供の階級を、学校を選択することによって選択できると思うことこそ、幻想です。学校にそんな力はありません。重要なことは、親が自分の子供を信じられるかどうか、自分の子供に何を伝えられ得るかだけです。

 学校や友人や地域を選ぶことによって、子供の教育が可能だと思うこと、それを“成り上がり根性”と呼ぶのです。最大のNobilityとは何か。それは、どんな学校や友人や地域の中にあっても、自分の子供を最後まで愛すること、親が誰(学校や友人や地域)にも負けない子供への愛を信じることです。私立中学校へ子供を通わせるというのは、卑屈なNobilityにすぎません。結局のところ、自分の子供の力、自分が子供を育てたことの意味をわかってはいないのです。

 親の学歴や分別や配慮が問題ではなく、子供を信じる力、子供への愛情が子供を育てるのだということを、もう一度原点に戻って考えるべきです。この場合の愛情の有無というのは、能力(愛情の能力)の問題ではありません。そういった能力がないから私立中学へ入れて、ある種の“安心”を買うという問題ではもとからないのです(そもそも愛情の有無は〈能力〉の問題ではない)。

 そんな安心こそが幻想だと言っているのです。そもそも「公立中学校の教科書は薄いから」なんていう心配を本気でするのなら、東大に合格するためには、どんな学校の教科書も薄いというべきです。どんな学校の教科書であっても、教科書では入学できない大学を“一流”大学というのです。

 また、私が大学院で席を同じうした「英語の発音がきれい」(留学体験すら豊富な)女子学院や桜蔭中学出身の女子学生たちは、T.S.エリオットのエッセイすら(あんなに簡単な英語ですら)まともに訳せませんでした。学校が教えることなどたかが知れているのです。どんな場合でも、学校が子供を進学させるのではなくて、子供が “進学”するのです。

 私学への“進学”や“安心”がうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。公立中学へ入れてうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。それは、現実的にも理論的にも全く等価です。育つものは育つし、育たないものは育たない。それだけのことです。

 それだけのことにすぎないのに、学校選択を“安心”だと思うその傾向が卑屈だと言っているのです。親が基本的にコンプレックスを持っているのです。だから、自分の子供への関わり方も否定的にしか関われない。子供のことを結果信じることができない。“評判”や“知見”でしか、自分や自分の家族を評価できない。だから、「いい学校」へ入れても、それを「いい」と思う親のそばにいること自体が子供への害悪です。子供の本当の能力が見えていないのです。

 親が最高の先生であり得るのは、“評判”や“知見”以前に子供を裁くこと(あるいは許すこと)ができるからです。それが、最大の〈教育〉です。それが親の最大の責務であって、学校を選択することなどどうでもいいことです。

 親が社会的でないこと、それが親の子供に対する最大の教育なのです。家庭は(くだらぬ社会学が言うように)「社会の基本単位」ではありません。家庭はもともと反社会的なものです。それを私は、「子供を信じること」(親であることを信じること)と言ったのです。そうやって自分すら信じることができない子供を誰が育ててくれるというのですか。卑屈なNobilityの集団。それが東京の私立中学校というものです。それは結局のところ、家族の力を信じていない者たちの集団なのです。



●続編(2):学歴社会とは何か ― ○×試験は民主主義の原点

http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_3.html

 学校を選べば、階級が選べるという考えは、学歴社会の思想だ。学歴社会の思想とは、しかし無階級の思想である。そもそも、偏差値やマークシート試験、その元基である○×試験などは、階級を隠すための装置だった。どんなに貧乏でどんなに無階級(“下級”階級)の人間でも、点数さえ取れば、官僚にもなれるし博士にも大臣にもなれるというのが学歴社会というものだった。

 国語・算数・理科・社会・英語が主要5科とされたのは、その他の科目である音楽や美術や体育には、(「主要5科目」に比べて相対的に)家庭環境や遺伝要素が強かったからだ。前者の主要科目は一夜漬けの努力が効く科目だったが、後者の科目は努力の効かない科目だったのである。「主要」か、そうでないかは、個人的な努力(親の“能力”からは相対的に自立した努力)が効くかどうかの指標だったと言える。

 「主要」科目とは他の科目への差別だといった発言が昔から多いが、むしろ差別的な科目は、「音楽」や「美術」や「体育」の方である。こんな“科目”は半分以上は親の能力(=家庭環境)に属している。その意味では、「主要」科目による学歴選抜はもっとも民主的な選抜装置だったのである。 

 たとえば、○×試験の正反対は、記述試験と面接試験である。これは、親や家庭環境を問う試験であるといってよい。まともな試験官であれば、記述式の文体や文字の形を見れば、国語能力以上に当人の性格や人格をかぎ分けることができる。面接試験となれば、もっとそうである。こういった試験は、知的な(「主要5科」的な)能力を問うているのではない。その生徒や学生の所属する家族や階級を問いただしているのである。

 日本の私立幼稚園、私立小学校、私立中学校などに見られるこういった選抜試験は、その意味で(その本質において)階級選抜なのであって、学力選抜なのではない。本人よりも親が緊張する試験なのである。日常は成金スタイルで着飾っているブレスレットや指輪を地味なものに変えるのも、この試験にありがちなことである。学力試験は合格点を取っているのに、親が“お下品”ということで不合格になる場合も多い。

 そういったことに比べれば、○×選抜は、はるかに本人自体の能力を問う試験だったと言える。「個人として尊重される」という日本国憲法13条の精神(http://www5.ocn.ne.jp/~sekaihe/kenpounokihongenri.html)に○×試験はかなったものなのである。日本のくずれ左翼教育学者たち(日本の教育学者のほとんどは、そして岩波書店の著作や朝日新聞に登場する教育学者のすべてはくずれ左翼です)は、○×試験の“非人間性”をことあるごとに批判し続けてきたが、それはむしろ逆で、人間=近代的個人であるとすれば、○×試験ほど近代的な選抜方式はなかったのである。

 日本の高度成長を支えた理由の一つは、日本の一流企業(や官僚組織)に、○×選抜のおかげで多くの階級がなだれ込んだからだ。アメリカが人種のるつぼだとすれば、日本の一流企業(や官僚組織)は多階級のるつぼだった。○×選抜のおかげで、日本の一流企業(や官僚組織)は日本の“総力”を結集できたと言える。それが日本経済の活性化の要因の一つだった。

 東大の村上泰亮が「新中間大衆の時代」(1984)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01440188&volno=0000と呼んだのも、この事態だ。私の論脈で言わせれば、「新中間大衆」とは○×試験によって形成されたということ。その後(最近)、京大の橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波書店、1998)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01595374&volno=0000、東大の佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01890101&volno=0000などが、村上の言う「新中間大衆」は80年代以降崩壊しつつあるという論陣を張り始めているが、それは(大阪大学の大竹文雄が言うようにhttp://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/booklet.htm)日本の超高齢化と超高学歴化を無視しているだけのことである。依然として、○×試験の「新中間層」化は機能している。

 私が言いたいことは、この「新中間層」の逆説だ。彼らは学歴を買うことで階級を買うことができると思っている。しかしそれこそが幻想にすぎない。学歴と階級とは何の関係もない。天皇家でさえ偏差値の低い学習院大学にすぎない。ダイアナでさえも大学は出ていない。彼ら(彼女ら)は、自分自身がブランドなのである。学歴を上位階級の指標だと思うのは、新中間層の幻想にすぎない。

 特に東京の「新中間」層は、お金があり、高学歴で、つき合うデパートが三越・高島屋であれば、高階級だと思っている。全体が成金な街、それが(ウルトラモダンとしての)東京だ。それは階級とは何の関係もない。単に新中間層が膨張しているだけだ。それを〈近代〉と言う。そもそも(単なる軍人階級にすぎない)武家階級が公家階級と分離して拡張した室町・鎌倉以降(そして徳川以降はもちろんのこと)、日本のウルトラ「新中間層」は膨張し始めていたのだとも言える。

 私の田舎である京都には、高学歴でなくても、貧乏でも、私立中学校に行かなくてもNobleな人はいくらでもいる。たとえば冷泉家(http://www.nbz.or.jp/jp/kikakuten/200109/200109gaiyou.html)の末裔が京都にはいくらでもいるが、その人たちは食事を一緒にしただけで、ただものではないことがすぐにわかる。一切音を立てないで食事ができる、音を立てても不快ではない衣擦れのような音がする。しかも背筋が伸びた姿勢がまたにくい。その人たちに向かって学歴や年収を勘ぐるのが恥ずかしいほどに美しい。

 キリスト教のシスターたちは平気で人前で鼻をかむが、冷泉家の人たちは鼻をかむときにさえ気品がある。どこからともなく鼻紙が出てきて、何事もなかったかのようにどこへともなく鼻紙が終われる ― それは『斜陽』の「かず子」の母の食事の所作を「ひらり」「燕のように」と形容した太宰の心境に近い(後に三島由紀夫にあれは貴族的ではないと批判されたとしても)。

 こういったものは何らかのマナーなのではなくて、別の自然なのである。「マナー」は「新中間層」が(私立中学校へ入れて)学ぼうと思えば学べるが、こういった人たちの自然は学べない。私の息子を東大に入れるよりは、この食事の自然な、そして日常的な所作を教える方がはるかに難しい。一流バレリーナの衣服の身につけ方がどんな一流モデルのそれからも一線を画しているように、食事マナーも本当のところ学べないものの一つなのである。そもそも教えたり、選択できないものを〈階級〉というのだから、それは当たり前のことなのだ。

 学歴や年収(ごとき)で変化するものを階級とは言わない。もちろんそんなことはくだらないことだとも言えるが(実際まったくくだらないことだが)、名門私立中学校へ自分の娘を入れようとする新中間層の卑屈に比べれば、はるかに価値あることだ。

 冷泉家を超えて言うとすれば、本当のNobilityとは、従って〈自立〉ということだ。そういったNobilityは、たしかに〈世間〉とはつき合わない。学歴や年収は世間そのものだ。変化しないということの最大の意味は保守性を意味するのではなく、“歴史”や“社会性”を超えることを意味している。それは家族というものの意味でもある。そして「新中間層」が解体させつつあるのは、この家族性というものだ。もともと「新中間層」の私学狙いは、私学の精神自体に反しているのである。

 名門私立中学校の価値は、実は、家族(親)が子供を自由に育てる権利に属している。公立中学校は、むしろ子供は(家族の子供なのではなくて)社会の子供だという立場に立っている。したがって、家系(親の養育権)を守ろうとする親ほど私立中学校へ入れようとする(そのように東大の苅谷剛彦は『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1999)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00030269&volno=0000 でアメリカの社会哲学者フィッシュキンの論文(Liberty & Equal opportunity,1987を借用して述べていた)。苅谷の著作の意義は、このフィッシュキンの論文を紹介したことに(のみ)ある。

 これは、一見正しいことのように見える。しかし「新中間層」がここまで膨張するとほとんどこの区分は意味をなさない。むしろ私立中学校は、卑しい新階級(幻想階級)の集まりなのである。90%以上が自らを「中間層(の上)」と見なす日本社会では私立も公立もとうの昔に解体してしまっている。そういったことを一番よく心得ているのは、旧華族だ。たぶん私立中学校の面接官に、冷泉家の子孫をあてがえば、誰ひとりとして合格する家族などいないだろう。

 学歴のみならず、階級さえももはや「世間」や「ブーム」になっているのである。〈家族〉が超歴史的、超社会的であるのは、階級さえも「世間」になっている、この事態に対してのことである。この時代(ウルトラ民主主義の日本)において、子供を私学に入れるというのは、家族の中に「世間」が侵入している証にすぎない。それは「家族の自立」(フィッシュキン)を意味するのではなくて、逆に家族の解体を意味している。私立中学校は「新中間層」ファミリーの個人主義の中に埋没しているのである。

 こういったときには、学校を選択したことぐらいでは、あるいは名門私立中学へ入れたくらいでは子供を養育したことにはならない。ただ単に「世間」に従って受験勉強をさせただけのことなのだから。親が社会的なものから自立していなければ、子供も自立しない。大人を小さくしたような子供にしかならない。「分別」をもった子供を作ってもしようがないではないか。親が本気で子供を育てようと思ったら、どんな社会的なノイズからも自由でなくてはならない。そもそも自由「である」のが家族なのだから。

 冷泉家も貴族も『斜陽』の和子の母のように滅びるだろう。しかしだからといって、家族は滅びはしない。貴族が存在するからNobilityがあるのではなく、家族があるからNobilityが存在する。家族は「世間」に媚びないNobilityの起源だからだ。階級さえも超えているもの、それが家族のNobilityなのである。

 Hさんの新中学生の娘へ。謹んで『斜陽』の主人公の言葉を捧げます。

「世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかってきました。あなたは、ご存じないのでしょう。だからいつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです」(『斜陽』http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00778723&volno=0000)。

●続編(3):私立受験を強いる母親の残酷 ― 家族のNobilityとは何か?
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_4.html

今日は、私の家内が電車の中で(折良く)実際に聞いた話の報告です。できるだけ忠実にまとめてみました。今、都内の電車やホテルは受験生にあふれています。今日、家内が出会った風景もその風景の一つです。

 一人の母親が知人の女性と今日の昼の山手線で話していた。その母親は、息子が私立高校を受験して、第一志望は失敗し、第二志望に合格。たった今、その二次志望の私立高校に入学金を払ってきたばかり。

 「都立高校なんてひどいものだし、遊んじゃうし、私立の二次志望に受かっただけでもありがたいと思わなきゃ。しようがないわよね。そうよね」と知人に相づちを求める。「そうよ、そうよ、別に悪い学校じゃないし」と隣の婦人は冷静。「その日は、(第一志望の私立高校の)受験に行くときから、不安がって、自信がなさそうだったし」「そしたら、案の定、『調子が悪かった』『ダメかも知れない』なんて言って、帰ってきたのよ。この子って本番に弱いタイプなんだ、と思ったりして」「でもね、これでいいよね。都立高校に行くよりはましよね」「私ができることと言えば、入学金を出すくらいのことしかないし」「やれるだけことはやったからいいんじゃない、って息子に言ったのよ」などと、隣の友人にひたすら相づちを求める様子。諦めきれない。息子の受験を悔いており、友人にひたすら慰めてほしいという感じが誰にでもわかるようだった。

 ところが、その話は昼間の山手線、まわりのみんなに何気なく聞こえていた。斜め前に立っていた(その二人の母親たちに背を向けて立っていた)中高生ふうの男の子が、突然、「てめえ、うるせぇんだよ」とくるっと母親たちの方を振り向いた。「(息子に)何してやったって言うんだよ」「(息子のことを)真剣に考えてたのかよ」「金出しゃいいってもんじゃないだよ」「(これからの)3年間どうしろっていうんだよ」「誰が落ちると思って受けるんだよ。そんなことあるわけないだろ。わかってねぇんだよ、結局」と、捨てぜりふを一気にはき続けた。

 母親たちはその少年が“切れた”と思って、席を立って逃げようとした。まわりのサラリーマンふうの大人の人が、「君、やめな」と手を男の子の肩に当てて、少年の動きを止めようとした。近くにいた私の家内は、そのとき「大丈夫みたいですよ」と少年の顔を見ながら、そのサラリーマンに合図を送った。サラリーマンもその意味をよくわかっていた。少年は「大丈夫みたいですよ」と言った家内の顔を「おまえ(たち)も聞いていたのかよ」という感じで悲しそうな顔をしていた。そうこうするうちに二人の母親たちは、他の車両に移っていた。まるで、“都立”の“不良少年”の災難にあったかのようにして。

 私の家内の観察では、その子もまた、高校受験生のように見えたらしい。同じように不本意な高校の入学手続きの帰りであったようにも見えたらしい。

 要するに、(新中間層が肥大化した)東京において私立受験をさせる母親のほとんどが、こういった子供との距離の中で子供を育てているのである。こんなものを子育てとは言わない。子育ての放棄にすぎない。家族にまで「世間」が侵入している事態に子供たちは息切れしているのである。なぜ母親たちは、子供に直接に向かわないのか。なぜ自分の子供に直接に向かわないで、勝手に自分の子供のことを嘆いているのか。「わかってねぇんだよ、結局」。この少年の家族に幸あれ。この少年の怒りのNobilityに幸あれ。

(Version 1.1)

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感想欄

公立中学の大きな意味、納得です。

此処でぼくは人生の殆んどを学びました。

時は60年安保前夜、クレージキャッツ「大人のマンガ」の頃。

〈家族〉という、〈社会〉と抗う唯一の拠点、ちちはは、是が今の僕らの全てを支えている様に思います。

投稿者 江口淳 元芳林堂池袋本店次長 : 2009年01月26日 20:35

 この記事、いいですね!!

 一番最初に力強く結論を提示して、それを支える根拠は分かりやすく提示されている。

 内容もさることながら、こういうスタイルの文章を書けるようになりたいと思いました。

 出版社とけんかしないで、本にしてほしいです。お願いします。なにをそんなにけんかすることがあるのですか? 

 遠くからでいいから、芦田さんを拝んでみたいです。

投稿者 大森 : 2009年01月29日 12:43

ほとんどその通りと思いますが、若干のズレを感じる点があります。

一つは最近の私立進学校では偏差値上位校でもそれなりの多様性があるんじゃないでしょうか。

親の職業もマチマチだし収入もバラバラ、子供もガリ勉もいますがユニークな子も悪い子もいる。

多分、受験をする子が増えたせいだと思います。(東京だと4人に一人?)

二つ目は私立希望の理由はいい先生に充実した授業を受けさせたいというのが一番じゃないかということです。

階級?を意識しないと言えば多分ウソだと思いますが、上記のようなことで「買ったつもりが無駄だった」という感じでしょうか。

それにしても公立からでも東大に行けるようでないとまずいですね。改革は何でもてっぺんから、ですから高等教育の改革から始めないとダメでしょうか。芦田さんのお仕事ですね。

投稿者 大田 : 2009年01月30日 10:09

>江口さんへ
そうですよね。「家族は社会の最小単位」などという「家族社会学」の陳腐な「定義」を我々は乗り越えねばなりません。


>大森さんへ

最近の出版社は、書くのが仕事の大学教授にさえ、「ゴーストライター」を付けるのですよ。養老の『バカの壁』さえそうです。私にはそれが耐えられませんでした。


>大田さんへ
「私立の多様性」についてですが、確かに日本の場合、「ウルトラモダン」によって「多様」だと思いますが、しかしむき出しの多様ではない。多様な多様ではない。「ユニークな子」と「不良」「登校拒否児」とは別です。

「私立希望の理由はいい先生に充実した授業を受けさせたいというのが一番じゃないかということ」ですが、それはそうだと思います。しかし私が言いたいのは、若い時代には「いい先生」に出会わせるよりも、同世代の「多様」に出会った方が価値があるということです。

「いい先生」というのは(高校までなら)結局大学受験のためでしょうから、予備校か塾の「いい先生」で充分代用が効く。というか一流私立の先生の「いい先生」程度であれば、まともな予備校の先生の方がはるかに勉強しています(しかもはるかに安い)。若い世代(幼児期から高校まで)の人格的な成長にとって、「いい先生」とは多様な同世代の「友達」のことです。友達との関係の中で子どもは一番育ち、学ぶのです。そう思います。

投稿者 ashida : 2009年01月30日 11:45

 ある人の言は、個人的経験則ですね、仰ること自体には、共感を感じますけど、一般論としては極端すぎる面もあるような。そういう傾向が認められるということは、否定しにくいとは思いますけどね。

 歴史は繰り返すことが多いですし、学ぶべきと思っています。が、芦田さんの論理も、切り口で見えてるような方たちはそうなんでしょうけど、私学、一貫校に入学させている父兄が、皆そのような思考かどうか、それは疑問でしょう。多面性があると思います。

 実際、公立校の荒れ方というのは、局所的には、想像を絶する面もあるようです。

投稿者 K : 2009年01月30日 13:23

>k さん

あなたは子どもをまるで純粋無垢のように考えていますが、それは間違いです。子どもは元々荒れているものです。それに比べれば、公立中学の「不良たち」なんてはるかにお人好しで、単純です。

彼らから、自分の子供を「守る」ものなんて何一つないのです。子どもは元々「不良」です。

「いい子」「悪い子」なんて存在しません。元から〈子ども〉は親殺しのために存在しているのですから。

投稿者 ashida : 2009年01月30日 13:27

子供の本質といったことでは、芦田さんの言うとおりだと思います。

私は、前職は公立の教育機関の教員でした。その関係で、いわゆる「不良」とよばれるような子供たちに接してきました。

行動がひどすぎて、関東の教育機関では受け入れる教育機関がほかにはない、というような子供たちとも接してきました。

そのような彼らでも純粋というようなところを持っていました。
「いい子」とか「悪い子」というのは存在しないのだろうと思います。

子供の世界に、安易に大人が干渉するのもよくないようです。
「子供」には「子供」の世界もありますし、「子供」でいられる時間もあるのだろうと思います。

「子供」であるうちは、(これも芦田さんの言うとおり)同じ「友達」との関係のなかで育っていくのだろうと思います。

投稿者 MIRACLE : 2009年01月30日 22:29

>MIRACLEさん

そうですか。公立の現場からの発言ですので説得力がありますね。

私のいた専門学校には、公立高校の教員に相手にされなかった学生がかなり入学してきていましたから、間接的にそういった高校の「教育」(教員)や「生徒」が見えてきます。

ただしまだまだいくらでも彼らのアプローチする方法はある。偏差値40で入ってきても、偏差値60の学生が入学した大学と同等かそれ以上の就職を実現させる方法は私の専門学校はもっていました。

だから、「不良」なんて大したことはないのです。彼らは、一度心を開くとしつこいほど向こうから寄ってきます。あっちへ行け、と言っても付いてきます(苦笑)。

若い子達はみんなそういった孤独や愛情不足を有しています。だから、こちら側(教育する側)の態度を変えればいいだけのことなのです。向こう(生徒や学生)の問題ではありません。

でもそのことを教員集団に理解させるのは、とてつもなく大変なことでした。未だにわかっていない教員もたくさんいます。

たぶん、教育の本質は、生徒や学生を変えることにあるのではなく、彼らにかかわる人間が不断に変わり続けることです。相手を変えるには自分が変わるしかありません。それが私が理解している教育の本質です。

投稿者 ashida : 2009年01月30日 22:49

私は結構前から芦田さんの教育論に惹かれています。

私は公立中学に通っていたのですが、今思うとかなり冒険していたと思います。ただ、中学生がいくら悪いことをするといっても、実際は教育者が制御できていない為(または見放すだけ)に「荒れている」と表現されるだけなのではと思います。

局所的には想像を絶する所もあるというコメントを拝見させていただきましたが、たぶん私もその局所を経験した人間ですが、現役で国立大学へ入れています。

ただ、社会構造的には子供には辛い環境が増えてきていると感じています。その子ども達を救うためには、芦田さんのような考えを持った大人が増えるしかないと思います。


追記「日本語のゆくえ」読了しました。

投稿者 みちまなぶ : 2009年01月31日 00:35

はじめまして。

突然メールを差し上げる非礼をお許しください。「にほんブログ村」の教育カテゴリーからたどり着きました。

私は中学高校受験指導に長年携わってまいりました。

家庭教師として、また以前は大手進学塾の時間講師として、中学高校とも御三家と呼ばれる学校を筆頭に、多くの学校に合格させてきました。

その経験から、また公立中学から芦田さんの息子さんと同じ大学、学部に娘を進ませた体験(高校は特殊なところでしたので東京の私立でしたが)から、現代の「私立中学受験ブーム」に反対しております。

理由は、芦田さんがあげられたものにすべて同意いたします。

小学校時代は、勉強より大切なものがあること。家族との団欒、友達との交流、今でなければできない「遊び」も含んだ人生体験。それらをすべて犠牲にして中学受験にのめりこむほどの価値は、ほとんどの子どもにとってないこと。

小学校3年から通塾、5、6年では22時近くまで塾にいて、就寝時間は0時を回る、そんな生活をしていて、出口がGMARCHと呼ばれる大学に入れれば御の字である。

あまりにコストパフォーマンスが悪すぎます(教育はコストパフォーマンス重視であるべきでないことは重々承知しておりますが)。

そういうと、「私立に進ませるのは大学進学のためだけではない。環境を買うのよ」という「私学教の信者」としか思えない方々の反論が寄せられます。

でも、それはほとんどの場合綺麗事であるし、また「環境を考えるなら、なおさら公立を選ぶべき」と思うのです。

その理由も、芦田さんがおっしゃっているとおりです。
純粋培養で育てて、ろくなことはありません。世の中にはいろいろな人もいると知り、どんな人たちとでもそれなりに付き合っていける術を身につけるべきです。

特に男子は。この点だけは、芦田さんがおっしゃっていた「特に女子中に入れる価値はない」とちょっと異なります。

女の子であれば、これからはますます少なくなるでしょうけれどまだしばらくは存在するだろう「同じ価値観、生活レベルの人しかいない社会から出ない専業主婦」という選択肢がある、しかし男子はそれでは社会でやっていけないという理由です。

また、「女子校」(別学)の問題点という面では、私は県立の女子校(浦和第一女子高校」出身であり、長い人生の一時期別学を体験することは、異性の大切さを再認識する意味からも、決して無駄ではなかったと思っているからです。

しかし、それでもなお「地域の公立の価値」を否定するものではありません。

確かに、ごく一部、公立に行かせたらつぶれてしまうお子さんもいるでしょう。

でも、それは「優れているから」でなく、逆に「弱すぎる」ことが理由なのですよね。

親か子どちらかが精神的に脆弱で、多様な価値観の中でうまくやっていけない。

同じ立場の人と傷を舐めあって生きるしかない、そういう人は私学を選ぶしかないでしょうね。現代社会の荒波を泳いではいけないでしょうが。お気の毒です。

健全な心身を持っていれば、公立恐れるに足らず、のはず。

それがどうしてこんなブームになるのか。それは少子化におびえる私学と塾業界の煽りに踊らされているに他ならないと思うのです。

「公立中学に進んだだけで人生負け組」そんな根拠のない妄想から、多くの保護者を解き放つことを私は自分のライフワークにするつもりです。

今までの自分の仕事は、上記の信念との葛藤に悩まされてきました。

しかし、去年から、私と同じ考えの塾長(小学校生活を犠牲にしてまで望む価値を私立中学に見出さない)の経営する個人塾で主に公立高校受験生の指導を任されております。

私が在住しているのは埼玉県の浦和地区です。もとから公立王国といわれている地域で、保護者にも高学歴、堅い職業の方が多いです。

そのため、塾産業に踊らされることなく、しっかりした考えを持ち、小学校時代は実体験と交友関係、社会体験重視、当たり前のように公立中学に進学させています。

そして、U高校、U一女をはじめ、大学進学実績では私学に遜色のない公立高校に余裕を持って進学していくのです。

私は、部活動に生徒会活動にと活躍しながら、勉学にいそしんでいる生徒たちを心の底から誇りに思っています。

中3の駿台模試(中学生対象としてはおそらく日本最難関のレベル)で、私が指導している教科で、おそらく中高一貫私立や国立、難関私立受験のために過剰な通塾を強いる大手塾の生徒を尻目に、全国3位(性別では全国1位)をとった子さえいます。

彼らを見ていると「健全な中学生の典型を見る」思いであり、「こういう子たちが将来の日本を背負って立って欲しい」と思うのです。

これからも、彼らの持てる能力を、最大に引き出す手伝いをしていけることを、心からの喜びと感じていきます。

長々と書いてしまいました。申し訳ありません。

今まで教育系のサイト(インターエデュなど)で、こういう主張をしても「私立にいけなかった僻み」と一蹴されるばかりで、切歯扼腕しておりました。

「わが意を得たり」の書き込みを読んだあまりの嬉しさに、筆が進んでしまいました。

今、上に書きました、息子さんの太郎さんの後輩に当たる我が家の一人娘は、就職活動に走り回っております。

やはりマスコミ第一志望で、すでにテレビ局は何社か落ちてしまい、当日はショックのようでしたが、気持ちを立て直してがんばっているようです。

娘の憧れの企業に複数合格された太郎さんにあやかりたいです。太郎さんのブログを読むように勧めたいと思います。

ご縁がありましたら、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

見ず知らずの方に、初メールで長文をさしあげましたこと、ご寛恕いただけましたら幸いです。

末筆ながら芦田さまのご健勝とますますのご活躍を心からお祈りしております。

投稿者 Nより : 2009年02月08日 22:59

質問ですが、親のいない子どもはどうすればいいのでしょうか?

最高の「先生」がいない、ということ?

投稿者 Xin buu : 2009年02月13日 14:02

>Xinさん

「親のない子ども」にとっての親は、「友達」です。利害にかかわらない人間関係を「友達」とも言います。中学生時代までの友達が決定的なのではないでしょうか。それは第二の家族のような気がします。

最近では「親」もまた利害だけで「子ども」とかかわろうとしている親の方が多いくらいです。あるいは子どもに「嫌われたくない」などと平気で言う親が増えてきています。

本文の記事の最後に出てくる電車内の親たちは「親」ではありません。「親」の意味もどんどん希薄になりつつあるのでしょうか。確かに難しい問題です。

投稿者 ashida : 2009年02月14日 00:18

回答ありがとうございます。

なるほど。「利害にかかわらない人間関係」が親である、というのは説得力がありますね。その通りだと思います。

しかしそれは「人間関係」と呼んでいいものなのでしょうか?

むしろ芦田さんのいう親と子の関係とは、私たちが一般的に使っている「人間関係」という範囲には入らないものなのかもしれませんね。

「親子関係」という「人間関係」はありえるのでしょうか。

制度上のさまざまな権利義務関係を超えたところで成立しているのが親と子の関係、つまり「利害にかかわらない」関係、ということなのかもしれません。

もちろん何をもって「利害」とするのか、という問題もありますが。

家族の中に「利害」がない、とは言えないと思いますので、そうすると、家族という関係性の中でも親と子は特殊な関係??

じゃあそれは実の子じゃなくても成立する???永く別居していても親は親だし。

芦田さんの言っているのはもちろん生物学的な親と子、という意味に限定されるものではありませんよね。

うーん。わからなくなってきました。

確かなのは本題からずれてるってことですね!。失礼しました。

投稿者 Xin : 2009年02月14日 03:53

とても興味深く読ませていただきました。

現在小6の息子が中学受験目指し、最後の追い込みに入っています。

私自身は、そして夫も中学受験を体験しておらず、当初はさせるつもりもありませんでしたが、本人の強い希望で、4年生から大手進学塾に通わせています。

まだ結果も出ておらず、ましてどこの学校に通うことになるのか分からない状態ですが(国立が第一希望です)、自分の子供を見ていて感じることをお伝えしたく思いました。

中学受験に対しては、当初マイナスのイメージを持っていましたが、子供は、毎回目を輝かせて帰宅し、嬉々としてその内容を話してくれます。

学校の授業は、正直簡単すぎてつまらないらしく、塾では思う存分学んでいるようです。

公立中学では、内申が重要とのことで、先生の顔色を窺うことも多いとか。

また、今後3年間、更に退屈な(と思われる)授業を受けさせるのはしのびないとも思いました。

様々なバックグラウンドを持つ人々と学ぶことも勿論大事ですが、同じような知的好奇心を持った友人に囲まれ、切磋琢磨していくことも少年期においては重要に思われます。

公立に進学した場合、ポツねんと浮き上がってしまうこと、請け合いです。

大好きな鉄道を極めたいと、鉄道部入部も切望しており、これも公立にはありません。

子供といっても、それこそ多様な子がいる訳で、その子その子に向いた道を進ませてやるのが、親のつとめだと思います。う

ちには娘もおりますが、彼女に関しても、本人が強く希望した場合にのみ、受験を考えるつもりでいます。

投稿者 ブルースカイ : 2009年10月04日 17:13

>ブルースカイさん

なんだか、嫌な息子さんになりそうですね(苦笑)。

「子供は、毎回目を輝かせて帰宅し、嬉々としてその内容を話してくれます」。

これはたくさんの子ども時代に学ぶことの一面にすぎません。

また、くだらない、面白くない先生がいることを学ぶことも大変重要なことです。

世の中に出れば、まともな上司に出会うことなどほとんどないのですから。

良い先生に出会うことの方がはるかに人工的なことなのです。

あなたの錯誤は、「良い学校」に入れれば、子どもが全人的に育つかのように考えていることです。

それは幻想です。「知的好奇心」なんて、子どもが育つことのごく一部でしかないでしょ。特に子ども時代は。

どんな受験(あるいは「知的好奇心」)も「大学受験」のためでしょうが、大学受験なんて、小学校時代から考えていてもほとんど当てになりません。公立学校でダメになる連中と同じくらい私立進学でダメになる連中がいます。お金を払っている分、私立学校進学の方がはるかに無駄です。

大切なことは、親の役割とは何かということです。「本人の希望を尊重してあげる」とかいいながら、結局は自分が安心したいというのが親の怠惰なのです。私立受験は私には親の手抜きにしか見えません。

それで本当に子どもが育つのでしょうか。

子育ては、一にも二にも親の品格が問われていると思います。「子どもの希望」を聞いている場合ではありません。

投稿者 ashida : 2009年10月04日 21:39

お忙しい中、早速ご返答ありがとうございます。

御察しのとおり、息子は見方によっては、幼少の頃からかなり嫌なヤツです。クセが強く、決して万人受けするタイプではありません。

公立をよく知る知人からは、「あまりの個性はつぶされるよ」と言われたほどです。それも親子で受験を考えた理由のひとつです。

子供と言っても、千差万別。公立向きの子も、私立向きの子もいるでしょう。

物事には、すべて正負の面があって、「中学受験」も然り、と思います。要は、本人がきちんと通えるか、だと思います。あまりに向いてない学校に行けば、足が遠のいてしまうかもしれません。

養老猛さんや浅田次郎さんは、受験組ですが、母校や旧友についてかけがえのない存在と述べてらっしゃいます。公立に通った方でも、同じような感想を持つ方も多いでしょう。

私は、何も諸手をあげて受験を礼賛しているわけではありません。本人が長じて、あるいは壮年・老年となった時に振り返って、「あの学校に通ってよかったな」と思えれば、公立であれ、私立であれ、いいのではないか、と思います。

また、社会に出て、あまりいい大人に出会えないのであれば尚更、少年期にいい恩師に巡り会うのは大切とも思えます。

何事も、白か黒かで、割り切れないと思うのです。

投稿者 ブルースカイ : 2009年10月06日 09:13

私は公立か、私立かといっているのではなくて、私立に「子供が希望するので」などと言って進学させている親には子育て放棄の傾向がある(あるいは中流幻想の傾向がある)と指摘しているのです。

「白か黒か」の議論に拘泥しているのは、むしろあなたの方です。今あなたが吐露された息子さんの傾向は私立に行っても決してなおりはしません。

子供に「個性」などあるわけないじゃないですか。そんなこと言われてまた息子を甘やかしているわけです。子供にとって大切なことは、「子供らしさ」です。

私立に行かせる親の子供は、いつも私立か公立か以前のところで子育てに失敗しているのです。

投稿者 ashida : 2009年10月08日 23:31

度々ありがとうございます。

ご参考までに一つの意見と思いお伝えしたまでですが、僭越でしたね。どこまでも「私立」というだけで、そこに進学させる親を育児失敗と決め付けられるようですね。

ちなみに、最初に申しましたように、我が家は国立希望です。うまくいかず、結果「私立」ということも大いにありますが。

息子の傾向はクセはありますが、決して直すべきものではないと思っています。ステレオタイプ的な「明朗活発な子」を良しとする一部の人には、「嫌なやつ」とうつる可能性はありますが。

幸い、公立小学校の先生方にも高い評価をいただいています。わざわざ個性をつぶし(それこそ彼の「子供らしさ」をつぶすことです)、枠にはまった「つまらない大人」には絶対したくありません。子供に個性ナシという極論にも、心底驚かされました。

私はただ、子供の向き・不向きを全く考慮せず、また本人の意向を無視して、中学受験にひた走る親も、「私立」というだけでひとくくりにして言下に否定する親も、どちらも本当に我が子を愛する親の姿とは思えないのです。

親の意見を押してつけているばかりで、選択肢を狭めているように感じます。勿論、最終判断を下すのは親です。

だからこそ、親には多角的に物事を見る目が必要と思います。

公立の荒波にもまれ、その経験を人生の糧にすることが出来る子もいれば、波に呑まれてしまう子もいます。

子供が何人かいれば、その子その子で対応が分かれるのも至極当然です。うちの場合は上は受験、そして下は恐らく公立進学となるでしょう。

突然お邪魔して、色々申しました(私自身の調べものをしていたら、行き当たりました)。世の中には様々な信念をお持ちの方がいると知っただけでも、私にとっては収穫です。

投稿者 ブルースカイ : 2009年10月09日 12:51

わからないひとだなぁ。

私は55歳の今になっても自分が何に向いているのかわかりません。それを小学生(ごとき)で何が「子供の向き・不向き」ですか。

「個性」も同じことです。子供は「多様」ではあっても「個性」的であるはずがありません。中身がまだないのですから。それは18歳~22歳の大学生に「個性的な」プレゼンを求めるのと同じ空虚というものです。

「子供らしさ」と私が言うのは、「元気」とは何の関係もない。情報量が少ないため何をやるかわからない、逆に何にでもなれる、可能性が全くないことと可能性だらけであることとの両極に引き裂かれているのが「子供らしさ」というものです。

私は長い間、高等教育に関わっていますが、彼ら学生の情報量なんてたかがしれています。判断、行動、進路選択も無知の連続です。「無知」はこの場合、いい意味でも悪い意味でもそうです。

「個性」なんて、一押しか二押しすればすぐに代わる程度のものです。高等教育でさえそんなものですから、小学生なんてどうにでもなります。「どうにでも」というのは小学生をこころから尊重するという意味でのことです。

あなたはまたご自身の文面で「幸い、公立小学校の先生方にも高い評価をいただいています」などとバカな事を書き付けています。小学校の先生くらいに「高い評価」をもらっていることが、どう、私とのやりとりに必要なのですか? 

「先生」なんて一番「評価」が当てにならない連中じゃないですか。

「私はただ、子供の向き・不向きを全く考慮せず、また本人の意向を無視して」なんて言う人に限って、「高い評価」を口にするわけです。

その傾向を、私は指摘しているのです。「信念」の話ではありません。観察の結果です(苦笑)。

投稿者 ashida : 2009年10月09日 19:11

>元から(子どもは)親殺しのために存在しているのですから。 ← 同感です。

ただ英語・数学・国語・理科・社会の偏差値が高いというだけで息子を カトリック系の中高一貫校 に進学させましたが、“聖書”もまともに読まず、いまだに親父の携帯のメールも返信してこない馬鹿息子に育ちました。

現実的な(動物的な、植物もか?)本質は、子孫を この世に残したことで、親の役割を果たしたのかもしれませんね。

教育は、未来への行為において、より一層立派に働くことのできるように、その経験を獲得させていく過程である。

教育は決して他人と競争させるためのものではなく協調と発展のためにのみ存在するのです。

ちなみに、筆者の公立高校受験は全人教育の指針のもとで、保健体育・美術・技術・家庭科もありましたよ。

投稿者 AGNOSTICISM : 2009年10月09日 20:30

"お受験”の話題ですね。

学校とか教育というものは、子供から人間の生活を取り上げる

ためにあるものではない。

子供たちは受験競争に勝つための塾通いを親によって強制させ

られることになる。

しかしこうして子供たちの頭に詰め込まれたものは学問でも

知識でもなく、それは単にテストにのみ必要な「答」を書く

ためのものであり、将来この学習方法が大学に持ち込まれて

迷惑するのは大学そのものということになる。

勉強というのは、それが何故社会に必要かという目的意識が

基準になるべきです。

投稿者 PROFESSOR : 2009年10月10日 02:46

数年前から「学生の学力低下」の問題が叫ばれるようになってきました。

すべて戦後の新教育をねじまげてきた日本の大人たちの無責任な所業によるものと思っています。

よってこれを取り戻すための終末処理は、最終の大学に於いてできるだけ ケリ をつけるべきが本当かと考えています。

投稿者 大学教授(匿名希望) : 2009年10月10日 08:41

>AGNOSTICISMさん

「教育は決して他人と競争させるためのものではなく協調と発展のためにのみ存在するのです」。

私はそんなふうには全く思いませんが、ご意見としてきいておきましょう(苦笑)。

>PROFESSORさん

まだこんな左翼崩れみたいなことをいう連中がいるのですねぇ。そもそも「社会」という言葉の使い方が間違っています。「目的」のないものを「社会」というのですから。

>大学教授(匿名希望)さん

というよりも、「教育制度」改革は「大学」からてを付けないと意味がないということです。初等教育を含めて全ての学校は、基本的には「大学受験」を中心としたヒエラルキーの中に存在していますから、(たとえば)「ゆとり教育」をやりたければ、「ゆとり大学受験」を先に実施しない限りうまく行くわけがないのです。

上(大学)から改革しない限り、どんな教育制度改革もうまくいかない。しかし大学こそが一番手を付けられない、というのが現状なわけです。さてどうするか?

投稿者 ashida : 2009年10月12日 20:39

ツイッターからたどり着き、記事を拝見しました。

拙宅は川崎市在住で、京大を卒業して3年経った院生の長男、一橋4年の長女、東京芸大1年の次女の3人の子供がいます。

こうみると、世間的には立派な大学に育てあげてうらやましい・・というような言い方をされますが、結果的にまあうまく子供を進学させること「は」できたという状況だけです。

子供は3人とも公立中学高校でした。3人とも神奈川の上位県立進学校です。拙宅はたまたま長男が小6の時には海外赴任中で私立中学受験はせず、中1に帰国し、そのまま県立高校に入れました。

というか、素晴らしいと思えるような私立高校は開成、慶応あたりしかなく、しかも超難関です。自然、「それなりに勉強ができる程度」の長男は「そこそこ勉強して」神奈川の県立進学校に入り、まあまあの成績で高2まで過ごし、京大に行きたいと思う気持ちが強くて第一志望のみの大学受験で入学しました。

長女も、拙宅の家庭内に長男の流れがあって私立女子校に行かせるという気持ちがないままに公立中学に入学、長男と同じように「そこそこの勉強」で長男と同じ県立高校に進学、高1の頃から一橋か東京外大の志望になり、高2から近くの中堅予備校に週1で通学、幸いなことに現役で合格しました。次女も同じ公立高校ですが、高1の頃から芸大志望で都内の美術専門予備校に通い、一浪しましたが芸大に合格しました。

つらつら状況を書きましたが、3人同じ公立中学・県立高校に通わせましたが、公立に通いながら有名大学・難関大学に現役合格するのはなかなか大変なことで、拙宅は3人ともうまく行き過ぎた位だとの実感を持っていますね。

その理由は何といっても、公立中高の生徒の多数が積極性と目的意識の芽生えがほとんど見られていないことからくる(と思われる)停滞感です。

専門家・評論家がいくら鋭利な議論をしようが、私には偽善者にしか思えません。中学1年で「積極的で活きのいい」成績上位層がごっそり私立に抜けるというインパクトは世間で言われている以上に、あるいは専門家が書く以上に大きいと思います。

子供は3人とも小学校では中の上か、上の下の成績でしたが、中学1年には公立でトップクラスの成績になりました。3人とも中学では何も変わっていない、むしろ勉強しなくなったのに成績が上がったというこの不思議。

しかし、公立ではクラスで成績がトップだとねたみやいじめがあると3人とも口を揃えていっていました。学校では教材等の窃盗は日常茶飯事、とても勉強に集中できる環境ではなく、3人ともそれに「耐えながら」学校に通っていたといっても過言ではなかった。

公立学校を理屈だけで言っても世間はついてこないでしょう。学校によって様々ですが、公立中高は幅広い問題を抱えていて、私立上位校に比べて到底勉強に集中できる環境ではありません。

専門家もわかっているはずなのに、こうした闇の部分を言わないまま、思想的あるい単層的論理で私立中学受験を批判する。私立受験を考える親は、「いい学歴」だけを求めているのではなく、もっと求めることは幅広く、それは親自身も表現できていないと思います。

あえていうならば、「いい学歴」、「いい授業」、「いい友達」、「健全な考え方の形成」でしょう。私立に行って、期待していたような有名校に入れなかったからといって、私立選択が間違っていたというふうに世間の親は思っていないでしょう。

要するに、「学歴のために私立」ではなく、「いろいろな意味で、いい学習環境、人生の環境」としての私立選択だと思います。長くなりましたが。

投稿者 masa : 2010年02月12日 14:18

masaさんのご意見に共感します。

海外から帰国して東京に隣接する県の公立中に通いましたが、正直人生で最悪の3年間でした。

価値観がなにもかも覆され、努力はカッコ悪い、無気力に生きるのが正しい、授業中に手をあげて発言なんてもってのほか。

こちらも異なる環境へ適応しようと必要以上に頑張ってしまい3年の間にはすっかり無気力無関心を是とする高校生になりました。

公立王国の県でしたので県立高校に進学、高校はすっかり適応していたので非常に楽しかったですが、友達に影響されて大学へ行く意味さえもわからなくなりました。

その時点で親も始めて事態の深刻さを悟り、非常に後悔したようです。

運良くまた親の転勤で海外に出ることになり帰国子女でなんとか大学へ行きましたが、思春期にしみついてしまった「本気だしたらカッコ悪い」という価値観をなかなか変えることができず大変に苦労しました。

大学に入ってから私立出身の友人と触れ、初めて自分の置かれていた環境がいかに劣悪だったかを悟りました。

人生の貴重な3年間を無駄に過ごしたと思いました。

私が特別流され易かったのかもしれませんが、日本に帰国したら、学校で目立ったらいじめられる、はやく適応せよとの周囲の雰囲気の中、自分自身を信じ価値観を守り続けることは難しかったです。

子供はまだ幼稚園に通う年齢ですが、絶対に公立中には行かせません。

幼少から同じ環境で公立小から中学へ進むというなら、両親の教育方針がしっかりしていればなんとかなるかもしれませんが、そういう人ばかりではありません。

たまたま私は公立に行くべきでは無かった芦田さんの言うところの脆弱な人間なのかもしれませんね。

そうかもしれませんが、非常に気分悪いです。

子供に個性がないなんてよくいえますね!

こういうことを教育者が考えている限り日本の子供達の個性がつぶされていく現状は変わらないなと思います。

公立中の生徒の間に漂うあの無気力な雰囲気は先生による支配的な行動のせいと思います。

中学受験は一般的でない地域でしたので上位層が抜けていたということもありませんでしたので。

子供の個性はたしかに一押し二押しで変わってしまうほどのものかもしれませんが、だからこそ私は大切に見守りたい。

あまりにも極端なご意見に驚いてしまったので感情的に書き込んでしまい失礼しました。

私のコメントにはレスは要りませんが、masaさんへの返信はぜひとも読んでみたいです。

投稿者 rainbow : 2010年04月05日 20:54

rainbow さん

芦田さんは、一部の人にとっては、わざと極端な意見に読めてしまうような書き方をたぶんあえてしているのでわかりにくいところがあるのですが、よくよく読むと、芦田さんの意図はもっと違うところにあるような気がしますよ。

代わりに説明しろと言われてもできませんが。

芦田さんの書き方から、それぞれの体験を思い出し、感情的になってしまって、もともとの内容を誤解してしまう人もかなりいるのだろうなあと思います。

私自身も時々そうなることがあります。でも、本当は書き方や文体ではなく、内容について考えたいと思っています。

今は、感情的になっておられるようなので、難しいかもしれませんね。私自身も感情的になってしまうとまったく文章が読めなくなってしまいます。

ですから、今すぐではなく、もう少ししたら、芦田さんの言っている個性という言葉の意味や、芦田さんが別に公立対市立のどちらがよいかというレベルのことを言っているのではないということが、伝わるといいな~。

大きなお世話ですね。

投稿者 トロク : 2010年04月22日 14:01

私は元塾講師です。現在は違う業界で仕事をしております。

>>親が社会的でないこと、それが親の子供に対する最大の教育なのです。家庭は(くだらぬ社会学が言うように)「社会の基本単位」ではありません。家庭はもともと反社会的なものです。それを私は、「子供を信じること」(親であることを信じること)と言ったのです。そうやって自分すら信じることができない子供を誰が育ててくれるというのですか。卑屈なNobilityの集団。それが東京の私立中学校というものです。それは結局のところ、家族の力を信じていない者たちの集団なのです。

>> こういったときには、学校を選択したことぐらいでは、あるいは名門私立中学へ入れたくらいでは子供を養育したことにはならない。ただ単に「世間」に従って受験勉強をさせただけのことなのだから。親が社会的なものから自立していなければ、子供も自立しない。大人を小さくしたような子供にしかならない。「分別」をもった子供を作ってもしようがないではないか。親が本気で子供を育てようと思ったら、どんな社会的なノイズからも自由でなくてはならない。そもそも自由「である」のが家族なのだから。

本当に仰るとおりです。私は過去の中学受験世代で、知性と知識、教育と訓練は違うことを実感し、自分が社会からいまだ自由になることの困難さを実感しています。
中学受験進学塾の講師連中に読ませたい気分です。

私立中学受験教育に関しては、宣伝が多い中、最も内容のある批判だと感じます。今後のご活躍に期待します。

投稿者 高橋 : 2010年10月10日 10:39

私は、現役の中高一貫女子中学の三年生です。

私は、自分が中学受験をさせてもらったことに感謝しています。
小学校の時の遊ぶ時間を削ってしまうのはよくないと言われがちですが、私たちの世界は、受験時代、小学校という狭い世界だけではありませんでした。

私たちは塾で、同じ志を持つ仲間たちと、友情をはぐくみ、大切なものを学んでいきました。

そして、私の小学校は公立でしたが、公立は最悪だと思いました

厄介事は見て見ぬふりする教師というのが、わたしのたんにんとして実在していたからです。

クラスメイトの向上意識も皆無、教師たちには生徒のひいきがはびこり、中学受験生いじめもしていました。
最低です。
偏見かもしれませんが、私は、公立小学校でさえこんなひどいさまなのに、中学の公立が、いいとは思いません。私の通う私立中学では、みなが同じ志を持っています。
学校の勉強は先取りで、普通の都立高校より、現役性の合格実績は格段にいいです。
そして、先生は最高です。
少しでも生徒に変化があると、積極的に電話をしてきて、しかも、一人でいる生徒がいると、職員室に誘って、よくゲームなどをしてくれます。
公立小とは大違いです。
私は、私立中学に入る意味は、たくさんあると思います。

投稿者 あい : 2013年08月28日 09:54

自分は、30年前地元の中学がものすごく荒れていたうえ、校長先生がこの学校に来るやつはさいしょから落ちこぼれだなんて公言する公立でしたので親の意向で中学受験をしました。

しかし当時は5年生からの通塾で十分、その上親も別に上位の学校を目指さなくていいという感じでしたので、親にいろいろ言われずもちろん家庭教師や個別みたいなくだらないオプションもなし。自分で入りたい学校を見つけ(多分塾誘導ですが)頑張ったので大学受験とそんなに変わった感じはありませんでした。

しかし子育てをして子供を受験と考えた時、今の塾業界のあまりに煽るやり方にどん引き(低学年の塾なんて・・・)。

まず遅くても4年生からを進められ4年生でも宿題わんさか・・御三家が偉いみたいなやりかた。偏差値至上主義。毎月の組み分け、 子供たちはカンニングしてるらしい・・・

その上昔のように受験する子は一部でその親もしっかり考え家庭の方針で行かせたい私立がある親ばかりでなく、偏差値がいい学校がいいと思い込んでいる。

田舎出身の親や自分が御三家出身で御三家以外学校ではないという価値観のまま大人になってしまった親の間で個別や家庭教師まで塾以外にお願いする始末・・なんだかあほらしくなりました。

子供の犠牲は?価値観が偏るのでは? その上今は学校群制度もなくなり 今や公立もかなり頑張っています。

私は実は御三家出身なので中学受験は普通だと思っていましたが、この現状をみてやめようと思いました。

また40にもなると私学で狭い価値観で育ったことの負の部分〈芦田さんがおっしゃること)も感じるようになります。もちろん通っていた時は それなりに楽しかったですが、一貫校だからよいという感覚は違うと思います。

投稿者 わかります : 2016年02月27日 13:34

ひさしぶりに(コメ欄での切実なやりとりも含め)興味深い文章を読ませて貰いました。ありがとうございます。社会、世間、教育、いろいろなトピックを論じるネタが詰まっていますね。

「こどもに個性なんてない」という芦田さんが書かれた(やや過激な)一文は、つまりこういうことなんじゃないでしょうか。

個性などというものをこどもに簡単に見つけるのは、まちがっていると。こどもの個性なんて所詮大人(とくに親)たちの都合の良い投影にすぎず、むしろ、世間の既成概念にまみれてしまっている大人たちがどう捕まえて良いかわからないような得たいのしれないものを抱えているのがこどもであって、そしてそれこそがこどもの可能性(=社会や世間を変えてくれる素晴らしいもの)であって、どこに転ぶかわからない、それこそがこどもという総体の本質=個性なんだと。それを簡単に「個性を伸ばす」などとテキトーなことを言ってくれるな、ということなのではないでしょうか。

投稿者 せんせと呼ばれ早呍年 : 2018年02月21日 11:14
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