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 吉本隆明全集(晶文社)第三巻「月報」 ― 「転向」について 2017年01月13日

●「転向」について (芦田宏直)

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私は、吉本さんと個人的に対面したことは一度もない。私の家内が学生時代(今から四〇年ほども前)、吉本さんを神田の古書街で見付け、彼がどんな本を買おうとしているのか知りたくて追い回したことがある。

吉本さんは、いくつか書店を出入りする内に家内の尾行に気づき、早足になり、最後にはしつこい家内を追い払おうとパチンコ屋に飛び込んだらしい。家内もそれにめげず初体験のパチンコ屋に潜入し、裏口から出る吉本さんを追尾し続けた。

そして吉本さんは、ついに書店巡りを断念。神保町駅(地下鉄)で帰路についたが、家内も諦めず同じ電車に。その車両では偶然にも家内と吉本さんだけになり、吉本さんがついに家内のそばに近寄って来た。

「僕になにかご用事でも?」と吉本さん。
「吉本さんですよね」と家内(顔を赤らめて)。
「そうですが」
「私の友人(私のこと)が吉本さんの大ファンで、その吉本さんかしら、と思ってついつい後をつけてしまいました。失礼の段、お許しください」
「なんだぁ、そんなことか(笑)。今日はどうして神田なんかに」
「その友人に本を頼まれて」
「どれどれどんな本を買ったの?」

そうして家内(まだそのときには結婚していないが)はそのとき買ったデリダの『ポジシオン』、ハイムゼートの『カント哲学の形成と形而上学的基礎』、リクール『解釈の革新』などを見せたが「この本なら私もよく知っています」と吉本さんは笑いながら答えた。

 「そうですか、友人も喜ぶと思います。私なんかお使いしているだけですから」と家内が言うと、吉本さんはとっさにまじめな顔になり「いやいや、お使いができるというのは大したものですよ。それはそれで大切なことです」と言ってくれた。

そうこうするうちに電車は千駄木に着く。吉本さんは、「あなたはここへ来るのが目的じゃないでしょ。送ってあげるよ」とわざわざ反対ホームにまで送ってくれたらしい。なつかしい思い出だ。

 以来、私は家内にお使いを頼むことについて、少しは表立って頼めるようになった。還暦を過ぎてまでも、家内に大小のお使いを強いてきているが、彼女が特に不満を口にしないのは、吉本さんのお陰だと今でも思っている。

ところで、こういった「生活意識」「相対感情」と、ユダヤ教的な律法の「一元性(現実と信仰・倫理との一元性)」、マルクス主義の「論理性」「近代性」との関係を問うことが、若い吉本さんにとっての思想の「自立」的な課題だった。それは実朝を論じても親鸞を論じても変わらない、吉本さんの生涯をかけた問いかけだったと私は思う。すべては〈転向〉論だった。

今であれば、それらの「一元性」「論理性」「近代性」は、グローバル社会や人間的なもののAI化トレンドと即応している。現在では、日本的なもの、伝統的なものさえグローバル化し、「生活意識」「相対感情」さえもがSNSによって秒刻みでインフレしている。

 それでも、グローバル化論者やAI未来論者が、「転向」した佐野や鍋山が衝撃を受けた『大乗起信論』をまともに読んでいるとは思えないし、知識があるにしても仏教史程度のものにとどまるに違いない。

丸山眞男の『日本政治思想史研究』もヘーゲル主義的な近代論に過ぎなかったし、彼が歴史意識の「古層」に言及するのも、丸山=東大的なプレゼンスを獲得したずっと後でのことだった。もっと悲劇なのは、その「古層」の指摘も近代主義的だったことだ。それも吉本的には〈転向〉にすぎない。

丸山=東大のみならず、日本のハイデガー研究者が留学してハイデガーに会った途端、西田や禅仏教について後になって勉強し始め、唐突に日本文化論者になっていくのも、同じ事態だ。それも今風に言えば「グロテスクな教養」でしかない。

そんな「上昇」主義的な教養主義にとどまる限りは、『村の家』主人公勉次の父親孫蔵(「平凡な庶民」である父親)の言葉 ― 「本だけ読んだり書いたりしたって、修養が出来にゃ泡じゃが。(…)今まで書いたものを生かしたけりゃ筆ア捨ててしまえ。そりゃ何を書いたって駄目なんじゃ。今まで書いたものを殺すだけなんじゃ」 ― をまともに受け止めることができない。

父親の言葉は、近代でも前近代でもない重力として主人公に響く。この重力を吉本さんは〈大衆の原像〉と呼んだのだった。柄谷行人は、〈大衆の原像〉から〈マスイメージ〉論へと吉本が立ち位置を変えたかのように ― 〈関係の絶対性〉の内面化として ― 論じているが、〈マスイメージ〉は依然として「逆立ち」した〈大衆の原像〉にすぎない。

その柄谷は、マルコ伝を引用して、イエスに「あなたは私を三度拒むだろう」と言われてペテロが泣く「転向」の場面を、『村の家』の父親に対峙する勉次に重ねる。自意識に内面化されない「微細な差異」として。

しかしそれこそが、「微細な差異」(の転向)としてしか存在しない〈大衆の原像〉の重力だった。そうして、『村の家』の主人公勉次は、「やはり書いて行きたい」と父親に応える。

この「やはり」のペテロ的な差異をこそ、吉本さんは〈関係の絶対性〉と言った。〈関係の絶対性〉こそが、むしろ柄谷の言う「ライプニッツ症候群」に抗うものなのである。

「いやいや、お使いができるというのは大したものですよ」と私の家内に返してくれた吉本さんの言葉の中には、認識と社交とが瞬時に交差する〈現在〉論がいつも存在している。

この現在論は、自己表出と指示表出との現在論でもあった。彼の思考には、いつも起源の現在論とでも呼ぶべき〈現在〉意識がある。だからいつでもみずみずしい。「いやいや、お使いができるというのは大したものですよ」、それは、吉本さんと私たちとの〈関係の絶対性〉だったのかもしれない。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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