「芦田の毎日」について twitter 私の推薦商品 今日のニュース 写真ブログ 芦田へメールする

 「オンライン自己」について ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第一回) 2018年03月29日

先日、私のTwitterのフォロワーから、日経BPnetに2010年から連載していた「ストック情報武装化論」(第一回~第九回)が読めなくなっていると聞いて、ブログに掲載することにしました。

なお、この「ストック情報武装化論」は、書き切れなかった最終回も含め再編集して(大幅な加筆修正を施して)、近々出版されます。最初の回は「オンライン自己」について。当時、結構反響を頂きました。出版の原稿は、この四倍の分量になっており既に出来上がっていますが、とりあえずはこの短編で我慢してください。

-------------------------
91年の大学大綱化から早くも30年近く経った。「大綱化」の基本はカリキュラムの自由化。総単位数124単位以上取れば卒業できるようになった。従来存在した分野別の必修単位科目は設置基準上はなくなり、大学は自由にカリキュラムを組めるようになった。

少子化を前提にした「学校」の90年代後半の危機を前にして、文科省は官許規制を緩めた。「学校」がつぶれるのは文科省の所為ではなく、自由化による大学のカリキュラム開発力であると、そう文科省は言いたげだった。

文科省は高度人材育成よりは、「特長」ある、「個性」ある教育を大学に求めたのである(最近はふたたび「質保証」と言い始めているが、その問題はまた別の機会に論じたい)。

「大綱化」施策以後、文科省は偏差値試験会場を学校から追い出す方針を打ち出す(1992年「高等学校教育の改革の推進に関する会議・中間報告(文部省調査研究協力者会議)」+1993 年「高等学校入学者選抜の改善について・第三次報告」)。これは偏差値に基づく進路・進学指導を排除するため。偏差値のような単一の指標(言わば知識主義的な)による進路・進学指導を相対化しようとしたのである。大綱化の「特長」、「個性」化路線に向けて中学校、高等学校の進路・進学指導も生徒の「個性」や「自主性」による指導に転換した。

大学進学者だけではなく、就職指導も「個性」「自主性」尊重路線に転換。本田由紀の言う「ダブルトラック」現象の基盤となった。

偏差値教育の知識主義は「暗記主義」にまで狭隘化されて、基礎学力主義までもが相対化され(1980年代後半の中曽根臨調路線)、意欲重視の進路指導が前面化する。

意欲、自主性、個性、特長…といったキーワードが学校教育全体に浸透していったのが、90年代以降の学校教育だった。

現在40才以下の人たちはみんなこのキーワードで育ってきている。その特長は、世界や仕事や知識を自己表現の手段としか見なさないことだ。コミュニケーション論(=自己表現技法)や自己啓発本が好きなのも共通の特長。

ちょうど95年には、Windows95が登場し、インターネット隆盛の端緒となる。ドコモのi-modeが99年。知識が「学校」や「図書館」の外部にあふれ出し始めた時代は、必修科目体系を揺るがすに充分な社会環境を準備したのである。

テッドネルソンのハイパーテキスト論(1960年代)は、学ぶ順序の自由、つまり「学校」教育体系の相対化を目指したものだったが、その大衆化は、90年代中盤以降のハイパーリンク型インターネット情報を待ってのことだった。必修科目の相対的な縮小は、インターネット時代において加速することとなった。くしくも大学「大綱化」路線は、少子化現象のみならず情報技術的な潮流に呼応していたのである。

そもそもテッドネルソンのハイパー概念は、強力な学ぶ主体=意欲ある学習主体を前提にしていた。学習目標を自分自身に課しながらハイパーリンクを丁寧に辿り続けるには、根気が要るに違いない。

学ぶ順序を相対化した分、学ぶ主体(を前提すること)はむしろ強化された。学校教育体系は保守的な分学ぶ主体は受動的であり、そのことによって主体性の形成 ― 主体性の存在ではなく ― に力点が置かれていたが、ハイパーリンク型(学校教育で言えば「選択」制カリキュラム)は学ぶ主体=積極的な学ぶ主体を半強制していた。

若い中学生や高校生はそういった選択的な「学校」体系の相対化を前にして、言わば強制的な主体主義=自主性を強いられるようになったのである。

現在のハイパーメリトクラシー主義(コミュニケーション能力論、問題発見・解決力、社会人基礎力、人間力など)が改善の見えない教育現場と親和性が高いのは、教育の出来不出来を生徒、学生の個人的な素因に解消できるからだ。自分で「選んだ」科目や進路の出来不出来は自分(生徒・学生本人)にあるというように。教員の教育力は永遠に棚上げにされる傾向になる。最後には「学力」の高低さえも個性になってしまう。

しかし、そんな重い選択の責任を取れる自己など生徒や学生に存在するわけがない。「学校」教育の受講者(生徒、学生)がいわゆる〈顧客〉ではないのは、彼らが消費者的な主体性以前の学習者だからだ。これから自己を形成する若い世代に、「自己」など存在しない。

しかしこのような空虚な「自己」主義を普段に強化する装置が携帯電話やITオンライン環境だった。

現在の40才以前の(かつての)若者達は、通信手段の個別化、24時間化を通じて、その反作用のようにして「自己」を獲得していった世代なのである。私はそれをとりあえず「オンライン自己」と呼んでおきたい。

Input(ストック)よりは、output(フロー)中心の「自己」が肥大化している。つまり他者が自分をどう思っているのかばかりが前面化する。「自己」はその反作用でしかない。

他者が自分をどう思っているのかなどという悩みは、その他者が少数者でしかない場合にのみ可能なこと。携帯電話の着信表示やハイパーリンクの選択的な情報化は、自己拡大の契機と言うよりは、既知なものへの心理的な安定を獲得するためのものでしかない。

既に知っているものの知識拡大とは奇妙なことだが、自分に肯定的な要素を持ったものだけを過剰に獲得しようとする傾向のことである。逆に言えば否定的な要素は過剰に排除する。非通知の着信には一切反応しないように。

現在の40才以前の(かつての)若者達は、そうやって自己を形成してきた人たち。言わばコミュニケーション過剰反応症とでも言うものに自己形成を委ねてきた人たちなのである。土井隆義が言うように「『個性』を煽られる子供」時代をすごした大人達である。

i-modeは、初めて設定操作なしに(その初期には電話番号が自動的にアドレス名になっていた)、インターネットメールを手のひらにもたらした。iPhoneは初めて(実践的に)フルサイトブラウジングを手のひらにもたらした。

「手のひら」というのは、個人化と24時間化を意味している。いまではベッドの中にまでに、そして眠りにつく瞬間まで、そしてまた眠りを妨げるまでにインターネットとメールが個人の生活の中に入り込んでいる。

そしてiPadはPCそのものを机の上から解放し、パソコンワークそのものをベッドの中にまで拡大しようとしている。そうやって個人の意識は絶えず覚醒を強いられている。「絶えず」というのはまるで電気のようにフロー状態の覚醒を強いられているということだ。

かつて昭和30年代(前半)以前の人たちは自宅を出るときには、電気メーターを見て自宅を後にした。付きっぱなしの電灯が存在していないかの確認のためだった。当時、電流が流れっぱなしの家電など存在していなかったのである。

電気冷蔵庫が付きっぱなしの家電の最初だったが、今ではそれがサーバーになっている(私は、IT時代というのは依然として電気の時代の比喩でしかないと思っている)。そうやって個人もますます先鋭化し、付きっぱなしの個人が前面化している。個人がフローになっている。対面機能主義(functionalism)=行動主義(behaviorism)、つまり「オンライン自己」論が、現代の自己啓発論、コミュニケーション論の諸前提を形作っている。

この連載では、「オンライン自己」現象の諸問題とでも言うべきものを扱っていきたい。

次回は「iPad現象と電子書籍の現在」について論じたい。

※第一回「ストック情報武装化論」(日経BPnet)初出2010年5月20日→「にほんブログ村」


にほんブログ村 教育ブログへ
※このブログの今現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「専門学校教育」「大学教育」を選択していただければ今現在のランキングがわかります。

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
トラックバック

この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/1349

感想欄
感想を書く




保存しますか?