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 「電子書籍」について ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第二回) 2018年03月29日

●iPad現象と電子書籍の現在

古典と呼びうる芥川賞的な「純」文学と直木賞的な「大衆」文学とは何が異なるのか?

両者に截然とした差異があるわけではないだろうし、サブカルチャーの水準は従来よりははるかに高度化しているが故にますますその差異を見極めることは難しいだろう。しかしにもかかわらずその差異は相対的には存在している。

敢えて言えば、古典としての純文学は反復読書に耐えうるものということだ。何回もの読書に耐えうる一冊の書物、それを〈古典〉と言う。

何回もの読書に耐えうるというのは、何を意味しているのか。それは読む度に〈そこ〉に何が書いてあるのか、その意味が変わるテキストが存在しているということだ。「意味が変わる」というのは、色々な意味が含まれているということではない。そのつどの時点で、「こう理解するしかない」と決定されたことが変化するということだ。

だからこそ、人は何回もその書物に向かう。決定されていた意味の誘惑に基づいてこそ、その決定が変化する。若い頃に読んだその本に思わず線を引いた箇所が、20年経ってふたたび読み戻ったときに、なぜこんな箇所に自分は線を引いたのかと不思議に思うくらいに文面の意味は異なって見える。それが古典だ。ハイデガーは「存在の決定(Austrag)」という言葉を使っていたが、このAustrag(アオストラーク)というドイツ語は、「忍耐」、「臨月まで持ちこたえる」、「配達」と訳すこともできる意味を有している。

一つの古典が存在しているということの意味は、その存在が様々な亀裂や変貌に耐えているということであって、その意味での耐忍(Austrag)の書物が〈古典〉である。

マルクス主義文学論が盛んなころ、古典文学における文学的な普遍とは何かが盛んに議論されていて、当時の論客の一人小田切秀雄(当時は法政大学教授)などは「人類学的等価」などという今から思えば陳腐な普遍価値論(歴史、民族を超えて人類に共通な価値に触れ得た文学こそ古典という)に言及していたが、それはロマン主義的な「等価」論だった。
しかし事態は逆である。古典が古典的に永続的に引き継がれるのは、その意味が読む度に相貌を変えてくる豊穣さ、耐忍の豊穣性を有しているからだ。古典的価値とは「等価」ではなく「異」価、あるいはその差異を持ちこたえる耐忍のエネルゲイアなのである。

たとえば推理小説が古典的な純文学と区別されるのは、一回読めば(犯人がわかれば)、二回目の読解の面白さは半減するだろう。それは論理的な意味に一義的に縛られているための減衰と言える。直木賞的な大衆小説もストーリー(一義的な筋立て)に縛られている分、推理小説のような2回目以上の読解における面白さの減衰が見られる。

このような読解の一回性に依存した書籍を私はとりあえず「フロー書籍」「フロー記事」と呼んでおこう。「フロー書籍」「フロー記事」の極点は新聞、雑誌などである。漫画類なども入るかもしれない。

他方、読むたびに豊穣な意味が蘇生するような書籍を「ストック書籍」と呼んでおこう。世の中で「古典」と呼ばれるものはすべてストック書籍に属している。ストック書籍は、多様な意味が反復的に増大する。それゆえ、その書籍はフローテキストに属する新聞や雑誌のように捨てられることがない。それらの書籍は数度の引っ越しを乗り越えて書棚に存在し続けている。

捨てられるどころか、むしろ反復読解の痕がそこかしこに残る。ストックとは豊穣な意味のストックにとどまらない。読んだ回数のストックでもある。同じ箇所を何度も読むというのはフローテキストではまずないことだが、古典書籍ではそれが「読む」という行為そのもの。ストック書籍が物質的にボロボロになるとうことは、むしろその書籍の著者の栄誉と読者の栄誉を示している。何度も新しい意味が蘇生するために捨てるわけにはいかない。

言い換えれば、フロー書籍が汚れ、角が丸くなって古くなるということは、捨てられる過程の一つを意味するが、ストック書籍のその過程は、ますます愛着がつのり捨てられない執着に繋がっている。書籍という〈物〉の存在の中にそれを読み込んだ〈精神〉が仮託されているからだ。フェティッシュとはストック書籍にこそ当てはまる。

電子書籍は、このフロー書籍とストック書籍との区別を先鋭化する。省スペース化が加速されるというのは、リビングや書斎に散逸する新聞、雑誌、漫画類、つまりフローテキストのことではあっても、ストック書籍の省スペース化が加速されるということはありえない。

何冊も持ち歩ける、何冊もの書籍のスペースが省略できるというのは、読み流すテキストの場合のみに言えることであって、一冊の本の1行1行を丹念に解読したり(その分、頁の場所イメージと意味とが密接に連関している)、その1行1行の意味が読む度に変化する(一冊、一頁、一行自体が意味の複数性を有している)ストック書籍の場合には、場所は制約の場所(スペースコスト)ではなく、それ自体意味の場所でもある。

言葉とは、表現の手段、道具にすぎないという立場からすると、フロー書籍もストック書籍も一つの内容(=そこに言葉という手段を通じて何が書かれているのかという内容)を有しているという点では同じ、もはや手段=道具としての言葉という体裁は、紙であれ、電子媒体であれ経済的であるに越したことはないということになる。

であるならば、手数のかかる紙媒体よりは、電子書籍の方がはるかに流通的な敷居は下がる。活版印刷からDTP印刷へ、DTP印刷(WEBメディアを含めた)から電子出版へという流れはごく自然な展開だったに違いない。

たしかに何回読んでも意味が一義的に確定できるような内容こそ、フロー媒体=電子書籍に適している。一義的に確定された内容であれば、一度読んでその内容を「知って」しまえば、元のテキスト(表現「手段」としてのテキスト)は不要になるからである。それはまるで屋根にかけられたはしごのように、登れば取り外される手段として存在している。

電子書籍の欲望とは、できれば言葉なしで済ませたいという意味の一義性、意味の透明性への願望なのだ。

しかしそのような一義的に確定された純粋内容など、ストック書籍には存在しない。読む毎に意味が変化しうるような書籍に純粋内容など存在するわけがない。ストック書籍とはそもそもがその内容をめぐっての論争の書物であると言ってもよい。

したがってストック書籍とは純粋な内容であると言うよりは、純粋な表層(=純粋な言葉)のことだ。それはいつも或る感性的な指標に取り憑かれている。それが書物の場所(=実在的で物質的な場所)の意味だ。ストック度が高い古典書籍ほど、或る空間=或る時間に結びついて存在している。

この表層を電子書籍は再現できない。電子書籍は一つの場所に多数のテキストを出現させるように出来上がっているが ― それを人は〈データベース〉と呼んでいる ― 、ストック書籍は場所を有する一つのテキストの中にたくさんの意味をもたらすように出来上がっている。一つのテキストの場所自体が豊穣であるというように存在しているのがストック書籍。

読み終えることのない書籍がストック書籍であるがゆえに、ストック書籍の存在は場所の省略(=省スペース化)ということに馴染まない。場所があるということは反復読書の証明ですらある。一冊の書物が占める場所や一つのテキストが占める場所は、一つの制約や制限ではなくて、滞留の場所を意味している。

現在の読者は、この滞留に耐えられない。いつも表層(=言葉)の奥には何かが存在している。一つの意味「がある」と思っている。

それは「オンライン自己」(http://www.ashida.info/blog/2018/03/_bpnet.html#more) がいつもありもしない「私」を幻想するようにして、言葉を意味の手段、意味のはしごであるかのようにして、その背後にある意味を希求しようとしている。言葉という表層を取り払いたいと考えている。その欲望が電子書籍だ。まるで言葉が、男女の誘惑や欲望の前の衣服のように邪魔なものとして存在しているかのようだ。

iPadが体現しているのは、そのような反感性、反物質、反記号としての意味の純粋性だ。

ハイデガーは『存在と時間』の前半で「ハンカチの結び目」に言及している。「ハンカチの結び目」は何かの目印、何かの記録、何かのメモであった。そのようにそれとは別の何かを意味していた。しかしそれが何を意味するのか、いまわからない。「ハンカチの結び目」はハイデガーによれば今や「押しつけがましい」ものになっている。

その押しつけがましさを解消するには、その目印の目印、その目印の目印の目印と、目印を無限に有意味な記号(意味の代理者)として階層化するしかない。しかしそれは目印である限り、いつもその意味の喪失(代理機能の喪失)と同時に存在している。〈目印〉とは忘れないための目印であると共に忘れるための目印でもあるからだ。

ちょうどTO DOリストにメモを入力した途端に、そのTO DOリスト自体を見ることを忘れるように、こういった記号化はいつも意味の後退を引き連れている。TO DOリスト自体を見ることこそが、TO DOの最大の使命であるにもかかわらず。

結局、リストを見る時間+空間(つまり場所)が必ず確保される必要があるが、それをリスト化することは原理的にできない。TO DOリストを有意義に使っている人は、パソコンを立ち上げた〈とき〉に必ずそこを見るとか、朝起きた〈とき〉にかならず携帯電話のTO DOリストを見るとか、そのように自分の行動を形式化しているに違いない。それでもなおそれが役に立たないのは、TO DOを見る時間(場所)と実際のDOの時間(場所)との間に差異があるためだ。つまり「目印の目印」が絶えず必要になってしまう。

この差異を解消することは不可能だ。漱石が言うように「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」(夏目漱石1905-1906 断片)からだ。漱石はそう言うときカント主義者になっている。AIが体現できないのも、カント的な時空の「有限性」なのだ。

検索とは、この「目印の目印」化のことである。言葉とその意味とをつなぎ止めようと人は検索を行い続けるが、いつまで経っても、言葉の実体に出会うことがない。

だからこそ、ストック書籍は反復読書の対象として汚れていく。頁の角も丸まっていく。

漱石と同じようにカント主義者でもあるハイデガーは「このハンマーは重い」というのは「別のハンマーを持ってこい」という意味を持つ場合があるという(前掲書)。この意味に、「ハンマー」や「重い」という言葉を検索してもたどり着くのは難しい。この言明は、ハンマーの、述語としての重量属性を語っている言明ではないのである。

「このハンマーは重い」の意味は、この言明の〈内部〉にはない。「ハンマー」や「重い」の国語辞典を引いても、「別のハンマーを持ってこい」という意味は見出せない。そもそも言述の意味とは平均化された概念ではない。状況意味論もコンテキストを平均化しているに過ぎない。ハイデガーがカッシーラ-の函数概念を「形式化された実体概念」にすぎないと指摘したのもその点でのことだった。

そしてそれが辞典や辞書を超えてインターネット上の膨大な情報に広がったとしても、「別のハンマーを持って来い」は見出せない。検索を行えば行うほど、「このハンマーは重い」という言明の意味である「別のハンマーを持ってこい」(の現在)からは離れて行く。

電子書籍は、一つのデータベースとして検索システムでもあると言われるが、それはむしろ読むための機能ではなくて、読み飛ばすための機能である。検索は、その言葉の意味が蘇生する場所(言葉の滞留場所)を絶えず外し続けるからだ。

Twitterはそのような検索の空虚を感じ始めたネットユーザーの感触をつかんでいる。Twitterの短文主義は、読み終えることをその趣旨としている。しかも〈現在〉と同期しており、入力(書くことと)と出力(それが読みとられること)とが同時に起こっている。検索と違って、一つの場所を共有しようとしている。一種の滞留だ。

「ハンカチの結び目」の「押しつけがましさ」やTO DOリストのような時間差をTwitterは解消している。

しかしそれが今日、可能であるのは、粉々にされた現在という短い時間(=フローとしての「タイムライン」)においてのことに過ぎない。それは、汚れない滞留、頁の厚みのない滞留にすぎない。Twitterは検索=電子書籍以上にストックテキストを解体する現象なのである。

はてさて、テキストはどこへ? 次回はTwitterについて論じてみたい。

※第二回「ストック情報武装化論」(日経BPnet)初出2010年6月4日→「にほんブログ村」


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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