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 シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか(ver.30.0) 2019年05月15日

シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか
※なお、この論考は、他の論考も含めて『大学教育と職業教育と ― これからの大学教育』(仮題)として近刊予定。このシラバス論だけで40000文字ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。

(1)1991年「大綱化」以降のシラバス

(2)「概念」型シラバスと「時間」型シラバスと 

 2-1 授業概要が授業回毎に詳細化する意義 ― 概念のインカネーションとしてのコマシラバス

 2-2 教育=学習の「ペースメーカー」としてのコマシラバス

 2-3 「見る」シラバスから「使う」シラバスへ ― メタ教材(教材参照体系)としてのコマシラバス

 2-4 コマシラバスの詳細化は、授業をマニュアル化することではない

 2-5 〈カリキュラム〉の必要性 ― 科目の上下左右の接合性が問われる「多様な学生」の時代 


(3)教員は授業機械か? ― 教育と研究の接点としてのコマシラバス

 3-1 コマの成果、科目の成果を積み上げること

 3-2 長い時間をかける教育としての大学教育とシラバス


(4)期末試験(履修判定試験)とシラバス ― シラバス体系の一部としてのアセスメントポリシー
 
 4-1 履修判定指標の必要性
 
 4-2 「アセスメントポリシー」は「観点別評価」では代替できない
 
 4-3シラバスアンケートの実施


(5)終わりに代えて

 5-1 自己管理のためのコマシラバス

 5-2 生涯学習的なコマシラバス

 5-3 〝次回先送り〟教育との訣別
 
 5-4 10年後のシラバス論 ― 試験センターの創設

※本文中、(●)などの表記が見られる場合は、その前に来る言葉の傍点ルビや読みがなルビを意味している。●が一個だと前の文字一つのルビ、●●と2個だと前の文字二つのルビなどを意味する。
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(1)1991年「大綱化」以降のシラバス

「シラバス」は、通常「授業概要」「授業計画」「科目概要」などと言われている。1991年の「大綱化」以降、カリキュラムが自由化されて選択科目が増えたこともあり、「シラバス」は年々充実(詳細化)してきた。

しかしそれは単に科目選択の便宜のためだけではなかった。

自由化されたカリキュラム全体における各大学(各学部、各学科)独自の人材目標をどのような仕方で実現しようとしているのかを明確化するためには、各科目内容の詳細化は必須だったのである。

「大綱化」の自由 ― 2000年代初頭まで続く「特色ある」大学形成 ― は、各大学が自ら取り組むカリキュラム自己管理や科目自己管理と引き換えのものだった。

シラバス詳細化は、だからこそ、学生サービスのためというよりは、カリキュラムの透明化のためのものだった。「透明」性とは、各コマ間の連関の透明性、各科目間の縦横の透明性を意味する。科目名や概念概要的なシラバスを参照しただけで積み木のように科目ナンバリングしても、各科目の縦横の接合性は見えるはずもなかった。

「大綱化」以来30年経った今でも、各科目の接合性はまだまだ見えないし、それどころか、経済学Ⅰ、経済学Ⅱ、経済学ⅢとあってもⅡの方がⅠより内容が浅かったり、ⅢよりⅡの方が高度であったりすることはいくらでもある。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは履修の順序にとどまり、履修内容の順番(カリキュラム上のステップ)になってはいない。「ナンバリング」とは、履修の順序ではなく、履修内容の順序でなければならない。1年次から4年次までの広範にわたる選択科目をたくさん配置している大学があるが、選択科目にも節操というものがなければならない。その種の大学カリキュラムは、4年間の学生の成長(履修能力の成長)を見込めないカリキュラムであることを吐露しているようなものだ。

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。

科目の自立性(●●●)、分野(領域)の自立性(●●●)こそがカリキュラム編成の阻害要因になっている。〈講座制〉は、〈カリキュラム〉制の反対語なのである。

天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文科大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。

今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授(●●)主義(●●)の起源なのだろう。カリキュラムがあるとすれば、この講座の内部の出来事であり、少なくとも〈講座〉という単位は、科目という単位を軽薄化する分、学科(●●)の(●)カリキュラム構成とは無縁の存在でしかない。カリキュラム主義に立つのなら、学部、学科、科目という「三層」でなければならない。

「学長カバナンス」強化の今日の大学では、〈教授会〉こそが大学の求心性を殺ぐものとされて、教授会すら〈学部〉単位に置く必要はないと文科省は言い出し始めているが、その言い方で言うと講座制(教授主義)こそがカリキュラムの求心性を阻害しているのである。

(2) 「概念」型シラバスと「時間」型シラバスと

① 授業概要が授業回毎に詳細化する意義 ― 概念のインカネーションとしてのコマシラバス

しかしながら、90年以降のシラバス「詳細化」のための大きな変化の一つは、従来授業「概要」などという形で、例えば2単位15コマの講義だとしたらその15コマ全体を通観する「概要」として書かれてきた「授業概要」が、授業1コマ毎(一回90分の授業回毎)に詳細化したことである。たとえ一行しか書かれていない概要であっても、一回毎の授業単位に授業概要が「詳細化」したことには意義があった。

一回90分の授業回毎に(以後、「コマ毎に」と略す)授業概要が存在する意味は、まずは概要が予復習の目安になるということだ。90分×15回(2単位授業)全体を概観した従来型の授業概要 ― これをとりあえず〈概念型シラバス〉と呼んでおこう ― では、選択科目を選択する際の目安にはなるが、実際の授業を受ける段階になると役に立たない。

全体概観型の授業概要では、そこに記載されている内容がどんなに詳細化してもその内容のあれこれが、いつどの授業回で実施される内容なのかわからないために、予復習の課題が見えない。つまり概念型シラバスでは、たとえ、2000文字書いて詳細化しても、授業準備のしようがない。

極端に言えば、授業概要(概念型シラバス)の内容が、2単位15コマの授業中、最後の1コマでしか展開されなかったとしても、そのシラバスも授業もお互いに整合性がなく「間違っていた」とは言えないことになる。

つまり概念型シラバスに欠けているものは、シラバスの〈時間〉化 ― 15コマの前後関係をどう組み立てるのか、あるいは1コマ90分をどう組み立てるのか ― という観点だった。それが概念型シラバスの〈時間〉化、「コマ毎の」シラバスとしての〈コマシラバス〉 ― 時間型シラバス ― の課題だった。

一言で言えば、〈コマシラバス〉は、〈シラバス〉のインカネーション(incarnation)だと言える。コマシラバスは、シラバスを血肉化する。

「シラバスは科目選択のための便宜」という観点からでは、シラバスは期首の科目登録のための配布物(冊子)として存在し、四月が過ぎればもうどこかに行ってしまうものでしかなかったが、コマシラバスは各科目の初回授業冒頭で科目毎のコマシラバスとして単独で配付されないと意味がない。そして毎回の授業で言及されながら使用されないと意味がない。つまりコマシラバスは授業のレフェランスなのだ。コマシラバスは「見る(閲覧する)」ものではなくて、「使う」ものとしてしか機能しない。

コマシラバスではそれが詳細であればあるほど〝教科書(書き下ろしの教科書)〟に近似するものになり、毎回の授業で参照される機会も自然に増えていく。それに応じて学生がコマシラバスを教材プリントの一つとして毎回の授業に持参する機会も増えてくる。教員も学生も ― 教員は講義ノートの骨格の一部として、学生は授業ノートの構成的な一部として ― 授業中に参照する機会も増える。つまり、コマシラバスは単に予復習の便宜をはかるだけのものではなく、毎回90分の授業ペースそのものを学生と教員とで共有するレフェランスになる。

最近の学生アンケートでは、「シラバスと実際の授業とは同じものでしたか」などと問う場合も多いが、概念型シラバスを詳細化してもこの問いに答えることのできる学生はなかなかいない。概念概要のままでは、学生にとっては授業各回の内容が実体であるため、内容の一致の正否に答えるだけの資料(情報)が決定的に不足している。たとえ一回ごとの内容が書かれていたとしても、二行、三行程度の概要コマシラバスでは授業とシラバスとの一致の正否に答えるのは難しい。

授業内で学生と教員とが授業の目的や目標を共有できる仕組みを作らない限り、学生による授業評価はほとんど実体などない。目標共有のない学生アンケートのなれの果てが、「満足度」評価だ。シラバス(コマシラバス)で示すべきなのは、まずは学生の学習目標ではなく、教員の教育目標なのだから。その教育目標を学生と共有するプラットフォームがシラバス=コマシラバスである。学ぶべき目標(学生の目標)が教えるべき目標(教員の目標)に先立つことなどあり得ない。〈学校教育〉は、〈社会人教育〉ではないのだから。

② 教育=学習の「ペースメーカー」としてのコマシラバス

中島英博たち(名古屋大学)のシラバス論(『授業設計』玉川大学出版部、2016年)、佐藤浩章たち(愛媛大学)のシラバス論(『大学教員のための授業方法とデザイン』玉川大学出版部、2010年)、また鈴木克明(熊本大学)のシラバス論(『教材設計マニュアル』北大路書房、2002年)には、教員の教育目標の開示としてのシラバスという観点がすっかり抜け落ちている。教員ミッションとしての教育目標(授業目標)の開示という観点がない。

したがって、学生の学習目標 ― 教員の教育目標ではなくて ― の情報開示、情報サービスとしてのシラバス論が前面化してしまう。「教員が主語の文」でシラバスを書くな、あくまでも「学生が主語の文」を書きなさいというように(たとえば佐藤浩章たちのように)。文科省の推奨する金沢工大の「シラバス」モデルさえも「学習支援文書(シラバス)」となっている。情けないことだ。

しかし大切なことは、科目(●●)概要(一科目としての概要)と授業(●●)概要(この(●●)時間における概要)とは根本的に意味が異なるという認識なのである。中島たちも佐藤たち、そして鈴木も、この認識が決定的に欠けている(※)。佐藤たちの言葉を敢えて使って言えば、「この今日の授業で、『私は』何を教えるつもりで、この教壇に立っているのか」を表明する文書が〈コマシラバス〉なのである。
※ただし、中島(たち)には、「初回配布用」シラバスという概念がある。これは、しかし「シラバス」と言うよりは、「学生の学習支援のため」のものだ。科目全体の履修ガイドのようなものだと思えばいい。従って、「コマ」シラバスという観点からは遠く離れている。ついでに言えば、鈴木克明が自ら書いた「講義シラバス例」においては、コマシラバスは授業全体の「スケジュール」表示 ― 映画館の放映スケジュールかのような ― にまで堕している。

これらの三組の教育学者たちの「学習」支援型、つまり授業サービス型のシラバス論こそが、教員がシラバスを(「面倒くさい」と言って)嫌う起源だ。「私はサービスを行うために教員になったのか」と。教育にサービスなど無縁だからである。教育は教育でしかない。特に学校教育においては。

以前、文科省の高等教育局長は、シラバスは「学習のペースメーカー」だと言っていたが、それは単に「学習の」ペースメーカーではなく、教員の授業時間の組み立ての「ペースメーカー」でもあり、教育=学習共々の「ペースメーカー」を構成している。書式の在り方にもよるが、詳細なコマシラバスを教員が書き始めると、授業時間をイメージする機会は格段に増える。

一回の授業のコマシラバスを記載する力は、まさに授業デザイン力そのものだと言える。そして、この「ペースメーカー」としてのシラバスは詳細なコマシラバスを形成しない限り、機能しない。「詳細」化すべきは、〈シラバス〉ではなくて、〈コマシラバス〉なのである。

コマシラバスの「詳細」性は、概念型シラバスの詳細性とは異なり、授業時間をデザインする力の有無を表す徴表になる。詳細化ができない教員は概念の時間化が苦手な教員でもある。しかし90分で自分に何ができるのかという課題のないシラバスの詳細化は意味がない。つまり、授業デザイン力とは設計図の作成能力、概念展開(=論理)の能力ではなく、時間(●●)の(●)設計(●●)に関わっている。

〈論文〉を書くという行為は概念の詳細化で済むわけだが、コマシラバスを書くという行為は、90分の組み立てに挑んでいるため、単なる「概念の詳細化」にとどまらない時間との闘いになる。〈論文〉が時間に関わるとすれば枚数制限か締め切りの日時に過ぎないのだから。「90分」よりも融通のきかない枚数制限や締め切りがあるとすれば、売れっ子作家か漫画家の仕事以外ないだろう。

私(たち)の大学のコマシラバス(90分1コマのシラバス)は、以下の9項目で成り立っている(※)。
1. 今回の授業の主題(この一回分の授業主題を簡潔に記載する)
2. 科目の中での位置付け(科目全体におけるこのコマの意味を記載する)100~200字程度
3. コマ主題細目(本日のこの「授業の主題」における教育=学習テーマの細目を3~5項目程度で主題提示する)
4. 細目レベル(上記3で上げた主題をどの程度深掘りして学ぶかを提示する)各コマ主題細目につき200~300字程度
5. キーワード(90分授業の理解の鍵を握る言葉を3~5個程度で提示する)
6. コマの展開方法(パワポを使う、e-ラーニングを介在させる、アクティブ手法を使う、一部ゲストスピーカーを参加させるなど授業運営上のサブ情報を記載する)選択記述
7. 国家試験との関連(国家試験との関連テーマがある場合に記載。関連過去問の記載なども有効)
8. 予習・復習課題(「この」授業90分1コマの予復習課題を教材テキストの該当箇所を指摘しながら具体的に記述する)150~300字程度
9. 使用する教材(参照文献)・教具(「この」授業90分1コマの理解のために必要な参照文献、参照教材などを上記3の「コマ主題細目」に関連付けて頁数を示しながら記載する)100~200字程度
以上9項目に渡って、1コマ90分授業で1000文字程度のコマシラバスを用意すれば、概念型シラバスの時間化(incarnation)はその第一段階を終えたと言える。

9項目の中で一番重要な項目はもちろん4番の「細目レベル」である。昨今の大学のシラバスでは、ほとんどの場合「コマシラバス」は存在している。1コマ毎に授業内容が書いてあるという意味では。しかしそれは、詳細に書かれていたとしても、項目1の「今回の授業の主題」を概要化したものにすぎない。

コマシラバスで重要になるのは、特には項目3以下だ。「何を」テーマにして学ぶのかが項目3の「コマ主題細目」だとすれば、その「コマ主題細目」について、どの程度までどんなふうに学ぶべきかを示したものが項目4の「細目レベル」。概念型シラバスでは「何を」学ぶのかの記述は充実している場合もあるが、その「何を」をどの程度まで掘り下げて学ぶのかのレベル表示が大概不足している。この「細目レベル」を詳細化すれば、この授業のレベル(教育レベル、学習レベル双方)も見えやすくなり、概念的なテーマ主義を脱することができる。

著作で言えば章題を拾っただけのようなコマシラバスも多い。それがなぜダメなのかと言えば、それでは、言及主義程度の消化しかできないからだ。「触れたし、話したし。一応シラバス通りだ」ということになる。理解や目標の「程度」や「レベル」が見えない。もちろん学生からすれば、予復習の程度(=「細目レベル」)も見えない。シラバス(=コマシラバス)における言及主義を避けるための鍵が、この4番の「細目レベル」である。一番詳しく「詳細」化すべきなのは、この4番の「細目レベル」、8番の「予習・復習課題」、9番の「使用する教材(参照文献)・教具」、この三項目の「詳細」化が概念型シラバスを脱却する鍵だ。

これら三つの要素に共通するものは、学生の受講前、受講後のフォローメッセージだということ。「何を」の教育=学習テーマ(「今回の授業の主題」ならびに「コマ主題細目」)だけでは、仮に図書館や自宅のパソコン、あるいはスマートフォンで、その用語に検索をかけてもとりつく島のないくらいにランダムな資料が出てくるだけ。「細目レベル」の記載がコマシラバスに存在していれば資料の任意性(拡散性)はかなり減少する。教材参照もコマ主題細目単位に該当頁数指示まで徹底すれば、「予習・復習課題」の明示と関わって、授業の前後でやるべき事が見えてくる。

たとえば、PowerPointやKeynoteを使う授業の難点は何かというと、ここで言う言及主題的なキーワードを中心に構成しているために、その場ではわかった気になっていても自宅に持ち帰った瞬間に大切なことがすべて飛んでいる場合もよくあるということだ。「ハンドアウトあり」でもそうなのだから、教室や会場だけのパワポなら余計にそうだ。

なぜそうなるのか。パワポは話者(スピーカー)のためにあるであって、受講者や聴衆のためにあるのではない。「わかりやすいパワポを」と言うが、肝心な話は、パワポにあるタイトルキーワードに(●)ついて(●●●)話者(●●)が(●)話す(●●)内容(●●)にある。つまり肝心なことはパワポには書かれていない。グラフや図が示されても、肝心な事は書かれていない。グラフや図をわかりやすく、つまり大きくスライドに示せば示すほどに肝心な解説はトークに飛散してしまう。

そして、パワポプレゼンにおいて、その話す主題について詳しく話す中身=「細目レベル」までをもスライドに展開すると、文字は10ポの大きさになってしまう。「これではパワポの意味がない」と言われてしまう。「もっと簡潔に文字数を少なくして」と。

結局、パワポは、話者の自己喚起の道具でしかないのだ。つまりパワポは、話者が自分でわかりきっている内容を展開する機縁、話す機縁に火を付けるために機能しているだけのこと。教育には無縁のツールに過ぎない。授業には何の役にも立たない。なにもないよりはましという程度のものに過ぎない。

コマシラバスで言えば、パワポで表明されているキーワードは、一番の「今回の授業の主題」と三番の「コマ主題細目」にとどまる。いずれも「~に(●)ついて(●●●)話します」という言及主題提示にとどまっている。

しかし大切なことは、「コマ主題細目」の一つ一つのテーマについてどのようにどの深さまで掘り下げて話すかの深度、つまり四番の「細目レベル」である。「細目レベル」について言及のないシラバスは、パワポ程度のシラバスでしかない。

パワポで「細目レベル」の展開は不可能であって、パワポは概念概要型のシラバスと変わらない。それであれば、A4紙で5頁~10頁の書き下ろしの、コマシラバス「細目レベル」をさらに書き込んだ資料を作り込んで教場配付した方がはるかにまともな教材になる。その10枚のA4紙資料がプレゼンツールとしてパワポよりも劣るのは、参照指示性(~を見てくださいというような)が弱いことだが、MS-Wordの「行番号」機能を使えば、「~行目を見てください」と一言で参照指示は果たせる。頁を横断した通し行番号も連番で打てるようにできているため、スライドを探すよりははるかに目的の指示を果たせる(その点ではスライド指示より参照指示性は高い)。行番号の指示のあるパワポスライドなど見たことはないから(小刻みに震え続けるレーザーポインターがその機能を果たしているだけ(※)、参照指示性という点ではWordの「行番号」機能の方がはるかにまともだ。
※レーザーポインターが教育的(●●●)に(●)ダメなのは、指示された瞬間を見落とすとどの箇所かわからなくなるという点だ。レーザーポインターも話者の自己満足ツールに過ぎない。

要するにA4紙を一つのスライドと見なせば、主題と主題についての細目のプレゼンは、パワポよりもA4紙の方がはるかに優れている。

パワポプレゼンが目立つのはプロジェクター投射による面が大きいが、A4紙に、学生も教員も目を落としたままで「アクティブな」〝コミュニケーション〟のない授業の方が教育的な場合はいくらでもある。ハンドアウトがあるとすれば、授業プレゼンがスライドである必要なないのだ。どうしてもスライドが使いたいのなら、ハンドアウトを前提に、スライド一枚につき一枚のA4紙を配し、「細目レベル」を10ポの大きさで書き込めば両者のメリットは活きるが、そんな贅沢なA4スライドハンドアウトにお目にかかることは滅多にない。

逆にパワポを使って授業を行い、実授業でも、唯一(●●)の教材がパワポスライドという教員も昨今では少なくない。しかしそうであれば、授業の教材資料は「コマ主題細目」を少々引き延ばしたものにとどまり、細目レベルを理解する機会― 実授業の意義は細目レベルを解説することでしかない ―を資料としては失うことになる。これではノートを取ることに長けた学生以外には、授業に付いていけない。教材資料をパワポに代えて展開する教員は、危険(●●)なのだ。概念概要的な資料しか学生の手許に残らない授業になっているからだ。コマシラバスの「細目レベル」の書き込みがずさんな教員ほどパワポ依存型の、つまり資料不足の授業をやりがちなのである。

主題主義で書かれたシラバスならどんな教員も同じように書くこともあるだろうが、「細目レベル」の記述まで踏み込めば、その授業の〈質〉が見えてくる。授業では何(●●)を(●)教えているのかよりもその何をどの(●●)程度(●●)まで(●●)どんな(●●●)方法(●●)で(●)教えているのかの方が重要なのだ。細目レベルまで書き込まないと、必要とすべき教材(あるいは設備)や文献も見えてこない。そこまで踏み込んで初めて学生も予習や復習の仕方も見えてくる。

「最近の学生は予習や復習をしない」とよく言われるが、「概念型」シラバスをいくら詳細化しても受講前フォロー、受講後フォローのきっかけは生まれない。大学側(教員側)に、予習・復習を促す工夫が足りない。

そもそも教員がまともな予復習もしないで ― その鍵を握るものがシラバス(コマシラバス)を書くことであって、教材が豊富であっても教材参照の司令塔(コマシラバス)がないと効果的に機能しない ―、学生が予復習するはずがない。田辺元でさえ講義日の二日前から毎週面会謝絶だったらしいから、学生の基礎学力不足を嘆く前に、教員の授業準備不足を嘆くべきなのだ。「研究」であれ、「教育」であれ、教員が研鑽を積むことなしに、どうやって学生が勉強するというのだろう。
※以下は、私(たち)の大学の「建学の精神」を説明する「人間環境学」講義(90分×15回の2単位科目)の5回目90分授業「コマ」シラバスの事例から。なお、左端の大きな欄の記載項目が第一項目の「今回の授業の主題(この一回分の授業主題を簡潔に記載する)」、右端の大きな欄の記載項目が第9項目の「使用する教材(参照文献)・教具」です。
コマシラバスサンプル5.jpg
なお、この9個のコマシラバス項目以外に、科目全体の概要を記載する項目ももちろん存在している。「科目名」「単位数」「授業形態(講義、実習、演習など)」「必修・選択」「学習時間(予習・復習の想定時間)」などはもちろんのこと、「ディプロマポリシー」「カリキュラムポリシー」と、この(●●)科目との関連を記載する項目、この科目を受講するための前提とする科目を記載する項目、この科目の受講成果と関連する科目の記載、さらには、「カリキュラム全体におけるこの科目の位置付け」「科目の目的」(この科目の社会的な意義などを記載する項目)、「到達目標」(最終的な履修判定に必要となる諸指標の開示)、「科目概要」(通常の授業概要的なシラバス)、「科目のキーワード」(授業コマ全体を通してのキーワード)、「授業の展開方法」(PowerPoint&Keynoteを使う、「アクティブ」型の授業を行う、毎回小テストを実施する、社会人講師をコラム的に挿入する、などの授業法の記載)、「オフィスアワー時間の記載」などである。


③ 「見る」シラバスから「使う」シラバスへ ― メタ教材(教材参照体系)としてのコマシラバス

シラバスなどいくら「詳細化」しても役に立たない、と思っている大学教員はたくさんいる。またコマシラバスを「教案」と同じものだとみなして、初等・中等教育では「既にやってきたこと」とうそぶく関係者もいるが、それらの関係者が間違っているのは、ここで言う〈コマシラバス(時間型シラバス)〉は、実際に授業で〝使う〟シラバスだということだ。「教案」を実際の授業で〝使う〟教員などいない。「教案」は教「案」に過ぎないし、学指導要領は「要領」に過ぎない。

内田樹などは、シラバスを前もって読んで授業の内容を判断できるのなら、学生はもともと授業を受ける必要などないと言っていたが ― それはそれでもっともな意見だが ― 、これもまた、〝使う〟シラバスについての無理解から来ている。〈時間〉型シラバス=コマシラバスは、その意味では〈教材〉シラバスでもある。正確に言えば、コマシラバスは、メタ教材である。

いろいろと豊富な教材を持ち込むのが好きな教員はいくらでもいるが、90分間でそんなにたくさんの教材など使いこなせはしない。それは「必要だから」こそ用意した教材だというのなら、その教材が授業内のあれこれの教育テーマの何にどう関わっているのかを示す必要がある。
※ここで言う「教材」とは、教科書(そんなものが在るとすれば)を含め、レジュメテキスト教材(パワポなどを含めた)はもちろんのこと、使用する実習機材・設備なども全て含んでいる。

そうでないと、学生はまともに参照されなかった教材を自宅に持ち帰っても使いようがないからだ。教材としてのコマシラバスがそれ自体メタ教材であるというのは、その意味で、授業内で配布されたり、参照されたり、使用されたりする教材・教具・設備すべての司令塔でなければならない。

つまり、コマシラバスには、単なる授業内容の詳細だけではなく教材参照の体系が印されていなければならない。シラバスは「文献講読のペースメーカー」(苅谷剛彦)でもある。

参照体系が貧弱な授業は、とりつく島のないお喋りに充ちた授業になってしまう。偏差値70以上の学生には、ノートを取る天才が何人かいて、そんな授業でもきれいにノートにまとめるだろうが、「多様化した学生」で埋まる今日の教室でそんな授業をやれば、教員の教育目標は宙に浮いてしまう。そもそも偏差値70もあれば、そんな授業をやった途端に、「先生、今日の話はとても参考になりましたが、なにかそれについての参照・参考文献はないのでしょうか」と必ず訊いてくる。

よく、授業の「参照文献」と言って、シラバス巻末に必要な文献を挙げているシラバス書式があるが、15回分全体のシラバス末尾に「アリストテレス『刑而上学』、ヘーゲル『精神現象学』」と掲げられても意味はない。本人の教員さえまともに読めてもいない参照文献を挙げている場合もいくらでもあるのだから。自分の授業内容の貧弱さを補うためのこけおどしの文献参照指示にとどまっており、学生にとっては迷惑なだけのこと。そもそも、たった15回(90分×15回)しかない授業において、何百頁もある文献を頁指示もなく何冊も挙げられてそれらの授業各回と文献との関係を推測できるのなら、そんな学生はその先生よりも〝優秀〟な学生だ。

少なくともどの授業回で、そしてその授業回のどのテーマと関連して、それらの文献のどの箇所が重要なテキストになるのかを示すことなしに、巻末文献の表示が意味あるものになることはない。つまり、参照文献も含めた教材参照もコマ毎に記載しないと意味がない。

特に〈教科書〉を使うことが少ない高等教育の授業では、授業回毎の参照の体系を組み立てる必要がある。そもそも中等教育以下で使用する〈教科書〉を書く人(あるいはその候補者)が教員をやっているのが〈大学〉というところなのだから、大学のすべての授業の教材体系は、(毎年更新される)書き下ろしの体系であるはず。書き下ろしであればあるほど、その教材展開の意味を紐解くのは毎回の授業以外にはないだから、つまりその解説書は授業行為そのものであるのだから、具体的な頁数などとともに毎回指示する以外に、その書き下ろしのコマシラバスが有効になることなどありはしない。

そのように、教材とは、〈科目〉に属しているのではなく、毎回の〈授業〉 ― 〈科目〉のincarnationとしての ― に属している。そして、毎回の授業の中のさらにいくつかの教育テーマ(学習テーマ)のそれぞれに属している。その関連が明示されてこそ、授業の中の教材は意味あるものとなる。コマシラバスは、単なる「ペースメーカー」ではなく、授業内の参照地図でもあるわけだ。

④ コマシラバスの詳細化は、授業をマニュアル化することではない ― 思惑の差分(●●)を意識することの〈双務性〉について

このように〈コマシラバス〉を参照体系共々詳細化していくと、授業が硬直化し、教育が本来有する活き活きとした果実を得ることを阻害するのではないかと言う関係者が必ず出てくる。教員は機械のように(時間に追われて)定められたレールを走る授業しかできなくなるではないかという懸念だ。

しかし、この(●●)今日の授業で何を教えるべきなのかについて、何も決めずに教壇に立つ教員などさすがにいないはず。〈コマシラバス〉は、とりあえずは、何をどの程度までどういうふうに話そうか、という教員の思いを綴ったもの。しかし、思い通りにはいかないものが〈授業〉。しかし、どう思い通りにいかなかったのかは、その思いが明示化されていない限り見えない。教員本人にさえわからない場合も多い。〈コマシラバス〉が一義的に学生サービスのためでないのは、その実際の授業の場で計画との狂いが生じたとき、その差分(●●)の(●)参照(●●)項(●)としてコマシラバスが自然(●●)に(●)機能するからだ。コマシラバスは、それを書き込めば書き込むほど授業についての自己管理意識が高くなる。つまり〈コマシラバス〉はまずは教員のためにある。この差分の意識が授業改善(授業デザインと授業運営との改善)の契機になっていく。

差分の意識がない授業は、何回やってもいい授業になっては行かない。「冗長すぎた」「展開に無理な飛躍があった」などの反省が具体化していくのは、授業開始前の〝教員の思い〟が事前に明示化されていなければ不可能。その思いが詳細化されていれば、反省や改善の具体化はもっと容易なものとなっていく。

しかもこの〝教員の思い〟が具体的で詳細なコマシラバスにおいて、学生と(実時間的に)共有されていれば、「先生、時間足らずで終わりましたね」という指摘とともに、その反省が外部共有化される。概念型シラバスでは、教員が思い通りの授業ができたのかそうでないのか、学生にはさっぱりわからない、教員さえ自覚できていない。概念型シラバスにとどまる限り、学生に「シラバスと実際の授業とは一致していましたか」と聞いても意味はない。

学生には、今日のこの(●●)授業において、先生が教えたかった内容(テーマとそのテーマの細目とその個々の細目のレベル)の全体が見えない。概念型(主題概要型)のコマシラバスでは全く見えない。しかし、先生が「今日の授業は、主題はこれ、その主題細目の三つはこれ」というように宣言して授業を始めれば、「先生、時間足らずで終わりましたね」と学生は言い始める。この(●●)授業の〈全体〉を学生と教員とで共有することから授業が始まるからだ。

この〈全体〉の共有は、内田が『最終講義』(技術評論社、2011年)で言う「一覧性」とは別のものだ。「未知の知見」に出会うのが教育の場であって、シラバス的な「一覧性」はそれを阻害すると内田は言うが、「一覧性」を詳細化しても、それくらいで消滅してしまわないのが「未知の知見」というものだ。分厚い博士論文や分厚い著作(あるいはたくさんの著作)を熟読しているからといって、その人の(今更の)講義を聞く気にはならないだろうか。それらを焼き直したようなシラバスを見たらもう聞くことはないと思うだろうか。それでも(だからこそ)、講義を聞きたいと思うことはいくらでもある。「未知の知見」は同じ(●●)もの(●●)に基づいて反復し、再生する。内田の「未知」論によるシラバス否定論は、手品の種明かし論にとどまっているのである。

さて、90分の授業においては教員と学生との時間は逆行(●●)しており、教員は授業の終わり(目標)から授業を始める、学生は授業の始まり、つまり前から順に受講を始める。〈全体〉が見えているのは教員だけなのだ。コマシラバスは、その時間の逆行を埋める緩衝地帯なのだ。

したがって、授業計画の成否について学生アンケートを取る限りは、計画は詳細な(=〈全体〉が見える)コマ計画にまで展開する必要がある。しかもそのコマ計画は、授業中の使用に耐えるものになっていなければならない。授業計画の学生との共有は、授業中のシラバス使用なしには不可能だ。そしてその共有評価を学生アンケートなどで反映させていけば、授業改善に組織的に取り組むこともできるようになる。そうやってはじめてシラバスが「双務契約書」(苅谷剛彦)と呼べるものになる。

たしかに、内田樹が考えているとおり、授業を受講する前に学生がシラバスを読んで評価できればそれはもはや学生ではない(そもそも内田はシラバスを「選択科目」の選択便宜としか考えていない)。授業を受講する意味もほとんどないことになる。その意味ではシラバスは契約書ではない。契約者の双方は対等の権利関係になるが、教員と学生との関係は、対等の権利関係などではない。その意味では学生は〈顧客〉でも〈消費者〉でもない。

しかし授業を受講すること、シラバスを授業利用することを前提とすればシラバスの存在意味は変わってくる。受講後のシラバス評価によってこそシラバスは〝契約書〟と類似した関係に入る。苅谷剛彦が「双務契約書」という場合の「双務」性は、受講前ではなくて、受講中(●●●)評価、受講後(●●●)評価が加わってはじめて機能するわけだ。つまり学校教育における〝契約〟の双務性は進行形としてしか存在し得ない。

そしてその「双務」性においてこそ、「先生、時間足らずで終わりましたね」という差分の意識は際立ってくる。

⑤ 〈カリキュラム〉の必要性 ― 科目(科目仕上がり)の上下左右の接合性が問われる「多様な学生」の時代

さて、なぜ差分は共有され、組織化される必要があるのか。それは各科目の仕上がりの接合性が不安定になることについての懸念(●●)からである。

教養主義に徹してすべての科目が完結し、科目単独の啓発性のランダムな結合を目指すカリキュラムならその種の共有性や組織性は不要かもしれないが、普通、それを〈カリキュラム〉とは言わない。〈カリキュラム〉とは科目の自立性の否定(いわゆる〈講座制〉の否定)のことだ。言い換えれば、〈カリキュラム〉とは全体で一つの科目、124単位(124単位以上)の一科目という考え方を前提して初めて成り立つものだ。

早稲田大学のとある学部のカリキュラムは、1000科目の選択科目カリキュラムになっているらしいが、これは、カリキュラムというよりは、カリキュラムの断念にすぎない。バイキングメニューの料理が専門店の料理を越えられないのと同じ事だ。たしかに、下手な専門店より、バイキングメニューの方がましだという言い方もできるが、その言い方も、カリキュラムなんてできないという諦念から来ていることに変わりはない。「選択科目が多いというのもカリキュラムの特徴の一つだ」とうそぶくしかない。

そもそも「多様な学生」(※)を受け入れなければならない昨今の大学では、一科目の完結性で、基礎、応用、高度教育まで展開することは不可能。進学率20%台(90年代以前)の大学科目「2単位」教育の成果は、昨今の大学では4単位、6単位、8単位といくつかの科目を重ねないと達成不可能な成果だと言える。教員がお互い、縦横の科目連携を意識しながら、一つ一つの階段を上っていくように科目の端緒と出口の構成を考えていくことが必要になる。構成を概念的(●●●)に(●)考えるだけではなく、実際の授業もまたその実際の成果が問われることになる。
※文科省が「多様な学生」の時代という場合の「多様」はダイバーシティの多様ではなくて、勉強が出来ない学生のことを言います。「多様な学生」の時代に於ける大学の対応とは、勉強が好きでも得意でもない学生が入学してくる今日の大学の実態を意味しています。そんな「多様な学生」の時代における大学において、選択科目を増大させると、何が起こるのかは明白です。一つに、科目が積み上がらないため、深く学ぶ機会がなくなる。多様な学生が多様なまま卒業することになる(手付かずの自然みたいなもの)。高等教育である大学教育をわざわざ受ける意味がないことになる。二つ目には、科目管理がすべて個々の教員任せになるため、4ポリシー(アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシー、アセスメント・ポリシー)の形成がますます宙に浮く。三つ目には、授業評価が、大概のところ登録学生数の多少でしか目安にならないため、知的な評価から遠ざかる。結論は、選択科目の多い大学は、授業改善が全く進まない教学組織でしかないということだ。

昨今の大学の授業は、全体としてみればカオス。個々の授業科目にいくつか優れた授業があっても科目間連携としてはすべてが断絶している。大学の教育には期待しないという風潮が蔓延しているが、大学の無力は、このカオスによるカリキュラムの不在にすぎない。

四年間もあれば、一つ一つの階段が緩やかでも、その一つ一つの階段がきちんと踏みしめられる強度を持てば、「多様な学生」であってもかなりの高さまで登ることができる。4年間もあれば、偏差値40以下からでも高度人材育成が可能になる。そのためには毎回の授業での差分の意識を持つ体制を築くことが必須の課題になる。

「先生、時間足らずで終わりましたね」という学生の指摘は、ナン癖(●●●)というよりは、後の科目受講(カリキュラム)に影響があることとも関わっているわけだ。

もちろん、それは一つの科目の構成にも関わっている。同じ科目内の授業において二コマ目の授業に失敗すると三コマ目以降の授業にも負担が大きくなる。差分の意識を持つことなしに授業を続けると、どんどん教育目標は先送りされ、後半になればなるほど取り返し不可能な状態に陥る。そこで未完結なまま終わると、「後の科目」(後のナンバーを持つ科目の受講前提)に影響が出てくることになる。それが〈カリキュラム〉における科目と科目との関係だ。そもそも他の科目との関係以前に、その科目自身の履修判定自体も曖昧なものになる。

しかし、そうであるにもかかわらず、なぜ教員はそのことに鈍感であり続けるのか。科目の履修判定(期末試験)に第三者性がなく、授業計画は授業〝計画〟として、実際やったことまでを試験すればいい、という現状があるからだ。選択科目の多いカリキュラムほどそうなる。選択科目とは他の科目との接続性のより希薄な科目なのだから、失敗しても誰の迷惑にもならない。途中で終わったかどうかさえもわからない科目でしかない。

つまりシラバスは「ペースメーカー」にはならず、教員自身の「ペース」そのものが存在してない。「経済学Ⅱ」よりも難易度が高い「経済学Ⅰ」、「経済学Ⅱ」よりも易しい「経済学Ⅲ」がある理由は、その種の「ペース」が不在だからだ。一つ一つの階段自体が崩壊しており、階段でさえない。これでは〈カリキュラム〉は存在し得ない。

極端なことを言えば、経済学部の科目名なら、「経済学Ⅰ」~「経済学LX」までの「ナンバリング」(4年間分の通しナンバー)だけでよく、選択科目もゼロにするくらいの気持ちで取り組んでこそ、初めて〈カリキュラム〉が存在しうるのだから。連続する2、3科目さえ管理できない大学教学体制で、どうやって選択科目が多数あるカリキュラム ― 選択科目が増える度に管理変数が複雑になるカリキュラム ― の仕上がり人材像をコントロールするというのだろう。

(3)教員は授業機械か? ― 教育と研究の接点としてのコマシラバス

① コマの成果、科目の成果を積み上げること

結局、そのことは、教員はシラバスに追われて〝機械のように〟授業をやるしかないということになるのだろうか。授業は〝生きもの〟であって、その躍動性を殺ぐのではないかという、何度も再生するコマシラバスへの懸念だ。

しかし、シラバス=コマシラバスの授業内容は、中等教育までのように〝学習指導要領〟に拘束されて教育目標を強制されるものではない。機械のような授業をやるとすれば、自分が〝自由に〟書いたコマシラバスの記載が機械的なだけのこと。シラバスを生きたものにするかしないかは大学教員の力量にのみ関わっている。

たとえ〝自己管理〟であっても、「授業は計画通りにはいかない」と思うのなら、〝復習コマ〟や〝踊り場コマ〟(※)を15コマ(2単位90分×15回授業の場合)の間に2回程度挟めばいい。そのような進行のバッファー(buffer)を入れると、中身の厳選が必須の課題にもなるが、〝機械化〟を嘆く教員のシラバスは、大概は「あれもこれも」の内容になっているものが多い。あれこれの既成の教科書や参照資料などの見出しを任意に拾い、それを赴任先のシラバス(コマシラバス)書式に流し込んだりすると、大抵の場合、「先生、時間足らずで終わりましたね」と、学生に突っ込まれることになる。コマシラバスの記載が形式的、機械的なのだ。
※たとえば、先の「人間環境学」15コマ講義の場合、6回目と11回目に〝復習コマ〟として、1回目~5回目、7回目~10回目の進行スピードを調整するコマを置いている。単位制の授業コマで「復習」コマという言葉を本気で使うわけにはいかないが、緩急をつけるという意味でバッファーコマを付けるということだ。こうすると〝生きもの〟としての授業の〝機械化〟〝形式化〟も避けられる。

〝機械化〟を嘆く教員のシラバスは、大概は「あれもこれも」の内容になっているものが多い。あれこれの既成の教科書や参照資料などの見出しを任意に拾い、それを赴任先のシラバス(コマシラバス)書式に流し込んだりすると、大抵の場合、「先生、時間足らずで終わりましたね」と、学生に突っ込まれることになる。コマシラバスの記載が形式的、機械的なのだ。

そうでない場合は、研究室などでコマシラバスを書いているうちに概念連鎖が盛り上がり、どんどん書き込みたくなってきて、内容自体が膨張してしまうということもある。コマシラバスの記載がコマシラバスにもかかわらず概念概要的なものにとどまっているのである。

両者とも実際の授業では必ず破綻する。こういったタイプの教員は、コマシラバスがあろうがなかろうが、もともと授業が苦手な教員であって、こういう教員にこそコマシラバスを書いてもらって差分の意識(計画倒れの意識)を持ってもらう必要がある。授業が苦手な教員ほどコマシラバスを嫌うのだから。

「あれもこれも」の内容になり、概念膨張したようなコマシラバスになるのは、結局、その90分で必ず押さえなくてはならないことは何なのかが分かっていないためであって、その意味は、今日の仕上がりの成否が、次のコマ、次の科目の展開に影響を与えることに配慮が足らないということなのである。

売れっ子人気講師みたいな教員や実務家の教員は、2単位授業を持ちこたえる力が不足しており、前者は講演のような授業をやり、後者は実務経験の自慢話に終わる授業になりがちだ。こういった教員たちは、授業コマ(の成果)を積み上げる、科目(の成果)を積み上げるという感覚が薄い。毎回が講演のような授業になる。シラバスを嫌う傾向の本質はそこにある。

② 長い時間をかける教育としての大学教育とシラバス

しかし狭義の生涯学習とは異なり、学校教育における教育の特徴は、長い時間の教育、時間を積み上げる教育にある。6年間(小学校)、3年間(中学+高校=6年間)、そして4年間の大学教育。長い時間の教育であるにしても中等教育までの教科に分断された教育に比べれば、大学教育こそが唯一4年間を一つの科目のようにして構成できる特徴を有している。大学教育こそが〈カリキュラム〉教育が可能な学校(大学)の本質を有しているのだから。学習指導要領のない自由な大学においてこそ、教員がその専門性において自ら自由に書き込んでいく〝学習指導要領〟がシラバス=コマシラバスの存在意味。大学教育の自由とは、自由に計画を詳細化できる自由であって、毎回の授業計画は毎回書き下ろしの教科書を書ける(はずの)大学教員の専門性を反映している。

シラバス(コマシラバス)とは、文科省が「教育と研究」と言わずに「教育研究」と一体化して使う場合の要(かなめ)の内実となっている。実際、コマシラバスを書き進むときに中身が具体化せず形式的になるのは、「授業が苦手」というよりはそのコマのテーマが自分の専門性の薄い箇所であったりする場合も多い。2単位15回の授業を担当する、そのシラバスが書けるというのは、教育能力以前の専門性(研究専門性)に関わっている。だからこそ、アメリカの学会は、「日本の学会以上に、専門教育の実践についての情報を豊富に提供している」(苅谷剛彦)。学会(研究)と教育とが分離している日本の教授たちはだからシラバスを書くことを嫌う。しかし、自分の授業の〝教科書(コマシラバス)〟もまともに書かないで、「教育ばかりやってられない」というのは本末転倒なのである。

敢えて言えば、一回90分の授業トークを有意義に持たせるためには100枚(40000字)くらいの論文が書けるだけの能力がないと不可能である。トークは場合によっては書き言葉(論文)よりも圧縮力が高いからだ。300枚の論文を書いても、何が書いてあるのか話してみて、と言われて、90分×15回も話し続けられるのかといえば、そんなに簡単なことではない。

そもそも各大学で行われている大学教員採用審査は、大概は、担当予定科目を提示して、それに耐えるだけの論文数や論文の質をチェックしているのだから。それは、結果的には、この教員は少なくとも2単位のシラバス(コマシラバス)が数科目分書ける専門性を有しているかどうかを審査しているわけだ。

したがって授業が生きものだからというのならば、論文も生きものだろうし、生きものには生きるための法則やルールがある。ストックのない生命は存在しない。

そしてそのストックの有無を検証することがテスト(試験)の存在だ。

1コマ90分の授業の最後に小テストなどを一度でもやったことのある教員なら、思ったように学生が理解してはいないことはよく分かっている。授業「活き活き」派や「アクティブラーニング」派の教員たちの授業は、テストすれば惨憺たる試験結果になる。

色々と話したけれども何が核(ストック)となっている話なのかへの留意がない授業は小テストをやっても平均60点程度の授業にしかならない。標準偏差も大概の場合20.0以上になる。その結果を見て「やる学生はやる、やらない学生はやらない」とうそぶくことになる。

喋りっぱなしで授業を終える教員は、「必要なことにはすべて触れてある」という言及主義型の授業を行い、学生の身につくプロセスまでを追わない。身につくところまでの成果で、「授業を終えた」という自己評価をしない。いつも言及主義で終わる。シラバスも(教育・学習目標を)書くだけ書いて終わり。こういった教員は、コマシラバスを書いても概念型になり、「言及はしてある」というように書き終える。身につくプロセスを追うのがコマシラバスの意義であるにもかかわらず、これではカリキュラム(他の科目への仕上がり接続)を担う科目のシラバスにならない。

実習授業の場合も、教材や教具、実習設備に紛れて(●●●) ― さすがに実習最中に寝ている学生はいないため ― 、一人一人の学生の実質的な仕上がりに鈍感になってしまう場合も多い。実習仕上がり試験も「よくできた」「普通」「なんとかできた」(あとは「不合格」)の三段階程度にとどまることも多く、せめて5点差の解像度で ― つまり、100点満点を20段階の評価解像度で ― 、合格グループを分布させる必要がある。不合格組みの補習も努力主義評価で「それなり合格」扱いする場合も多く、(大学であるからこそ)知性化(●●●)す(●)べき(●●)実習評価の体制もまだまだ不十分だ。

そんな実習授業の「細目レベル」こそ、きちんと詳細化して書き込むべきなのである。実習は寝ている学生がいない分、講義授業よりも授業の凸凹が見えづらい。だからこそ、「細目レベル」の詳細化と履修判定(期末テスト)の解像度との整合性を取る必要がある。「講義のシラバスはまだ書きやすいが、実習のシラバスは書きづらい」と嘆く教員がいるが、そんな教員はほとんどの場合、解像度の低い実習試験、実習補習、その追再試で授業を終えている。

実習授業において最悪の評価指標が「できる」評価だ(先の佐藤たちが推奨する「行動目標」評価)。これはいかにも客観的で実践的な指標のように見えるが、たとえば「トリプルアクセルができる」とか「100メートルを10秒未満で走ることができる」などのように〈行動〉がただち(●●●)に(●)〈質〉を意味するような「できる」目標でない限り、教育目標にはならない。しかも〈行動〉がただちに〈質〉を意味するような目標とは、常人では不可能な(オリンピック選手でなければできないような)目標を掲げる場合のみだ。

たとえば「ピペットを適切に扱うことができる」はその行動に伴う質をただちに意味しはしない。「適切」と言っても、数多の水準があるからだ。「適切」とは何かこそ、「細目レベル」で刻むべき内実であって、刻む段階の数が、ピペット操作教育の質の諸段階(解像度)を意味することになる。大学教育はほんらい〈行動(ビヘイビア)〉よりもこの〈質〉(細目レベル)を問うべきであって、それこそが〈実習〉の単位が〈講義〉の2分の1しかない意味なのだから。

実習教育目標自体の解像度が、「できる」表現に行動主義的に終始する限り教育成果は期待できない。わいわいガヤガヤ型の演習授業の場合も同じ事が言える。実習や演習のような「アクティブ」型の授業こそ、「細目レベル」の解像度を上げる必要がある。大学の履修判定はどんな授業であっても、Behaviorismに陥ってはいけない。

カリキュラムにおける科目接続とは、講義であれ、実習であれ、言及や行為(みかけ)(ビヘイビア)の連鎖ではなく、質的(●●)な(●)仕上がりの連鎖でなければならない。

ある科目の受講は、他のそれより時間的に早期に受ける科目のシラバス主題(教員の教育目標=学生の学習目標)を〝それなり〟に理解していることが前提になっている。これを「単なる目標に過ぎない」と言ってしまうと、科目連携があやしくなり、〈カリキュラム〉は崩壊する。

結局、コマシラバスは授業を機械化、マニュアル化し、生きものである授業を平板化するという批判は、シラバスを平板に書いているか、自分勝手に書いているかの裏返しの反応に過ぎない。自分が教えたいことについて学生の理解過程を追うシラバスを心がけるなら、コマシラバスは詳細化した方がいいに決まっている。

(4)期末試験(履修判定試験)とシラバス ― シラバス体系の一部としてのアセスメントポリシー

① 履修判定指標の必要性

科目と科目の接合性の度合いを測るものが期末試験(履修判定試験)の点数やその点数分布である。言及主義の限界は、①履修判定試験の内容 ②履修判定試験の点数分布(標準偏差)を見ればわかる。

期末試験の内容は三つの観点からの整合性を問う必要がある。
① シラバス=コマシラバスと期末試験の内容との整合性
② 実際の授業とコマシラバスとの整合性
③ 実際の授業と期末試験との整合性

シラバスも授業もそう悪くはないのに、期末試験の内容が杜撰なものはいくらでもあるし、逆に期末試験の内容はとても立派なのに、シラバスも授業も杜撰という場合も多い。大学における期末試験は、中等教育以下の試験に比べてもお粗末なものが多い。そもそも難易度設定が個々の教員任せになっているために、60点合格の意味がないも同然。他科目との接合性以前の問題が多すぎるのだ。GPA評価が効果的に機能しない原因もそこにある。今回の「高等教育の負担軽減制度」利用の「機関要件」にも、「厳格な成績管理の実施・公表」が義務付けられているとおりだ。

本来は、シラバスを作成する場合に、試験指標も、シラバス項目の一つとして書き込む書式を用意しないと、この三つの整合性は取れない。

私(たち)の大学では、シラバス=コマシラバス作成と同時に、期末試験(履修判定試験)の指標(履修判定指標)も記載し、シラバス=コマシラバスの巻末に「履修判定指標」を5~10指標程度挙げている。これは通常、各大学で「授業の目標」「科目の目標」「到達目標」などという言葉でシラバスに記載されてきたものだ。

しかし、これらの「目標」記述は、結局は、履修判定の指標として具体化しないと意味がない。目標が具体化するのは、期末試験(履修判定試験)においてのことだからだ。従来、これらの「目標」は概念型シラバスと同じように、概念的な目標記述にとどまっていた。しかし目標を概念的に記述しても、それらが15回授業(2単位授業)の中でどんな関連をもって展開するのかが見えない限り、ほとんど意味のない記述にとどまる。目標にもインカネーション(incarnation)が必要なのである。

ちなみに私(たち)の大学では、履修判定指標は、「履修指標」「履修指標の水準」「キーワード」「配点」「関連回」と5個の要素で書き込んでいる(※)。

「履修指標」は、何を履修のテーマにするかの「何」、「履修指標の水準」は、その「何」をについてどの程度に掘り下げた内容を問うかの水準。「キーワード」は、その「水準」を構成するキーワード。「配点」は100点満点における各指標の配点。「関連回」は、「履修指標」「履修指標の水準」「キーワード」までの理解の鍵を握る授業回(15コマの内、どこでその話をするのかの関連回)の提示となる。

なお履修指標(5~10指標)は、シラバス=コマシラバス書式表の最後に記載して、授業開始日に科目毎に配付するシラバス=コマシラバス資料と一体化させる必要がある。そうすることによって、学生達は毎回の授業が何を目指して進んでいるのかをシラバスの巻末の履修判定指標と照合しながら受講することができるようになる。

私(たち)の大学の「履修判定指標」の実際の記述は以下のようなものとなる。
※以下は、私(たち)の大学の「建学の精神」を説明する「人間環境学」講義(90分×15回の2単位科目)「履修判定指標」の事例から。
履修判定指標サンプル1.jpg

これらの指標提示は試験内容とその解答を前もって開示しているような体裁を有しているが、この提示の目的はそこにあるわけではない。時間的に進んできた15回が何を基盤にして(何を目標にして)成立しているのかの提示がこの指標提示の意味。15回のコマシラバスをもう一つ別の観点から解釈し直すための指標提示である。「関連回」の提示をみても、必ずしも関連回が連続していない指標もいくつか混じっているが、これらは理解の道筋と理解の目標とが必ずしも同じものではないことを意味する。こういった理解のジグザグを反映するからこそ、15回を振り返る「目標」(履修判定指標)の提示は意味を持つ。何より、授業の中身を立体的なものにできる。

② 「アセスメント・ポリシー」は「観点別評価」では代替できない

最近、文科省は三つのポリシー(アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシー)に加えて、アセスメント・ポリシー(Assessment policy)を付け加えるようになった(※)。
※最近は、これらを「入学者受入れの方針」「教育課程編成・実施の方針」「卒業認定・学位授与の方針」「学修成果の評価の方針」と日本語で表記されるようになっている。噂によれば中教審の委員から、なぜわざわざ英語で表記するのか、との発言があったらしい。

その基本となるのが科目の単位認定(履修判定)にかかわる方針なのだが、この新方針は、90年代初等に始まった(中等教育における)「観点別評価」の方針開示か、その亜種に代替されそうな気配もある。

たとえば、「期末テスト」50%、「小テスト」30%、「レポート」20%などというような評価のポートフォリオがシラバスで表示されている大学も多々存在している(※)。ひどいものになると、質問点、出席点などという「観点」をいまだに挙げる大学も存在する。これも確かに〈アセスメントポリシー〉の一部をなすかもしれないが、本来の〈アセスメントポリシー〉は、「期末テスト」自体の評価方針(評価基準)、「小テスト」自体の評価方針(評価基準)、「レポート」自体の評価方針(評価基準)などを掲げることである。
※ちなみに、私はこの「観点別評価」(ポートフォリオ評価)自体が中等教育、高等教育の教育力を大幅に殺いだものだと思っているが、すでにそれは別稿で詳しく論じているので ― 「大学入試改革の時代錯誤について ― 『人物本位入試』は階層格差を拡大する」(「教育と医学」No.733号(慶應義塾大学出版会) ― 、ここではその問題に触れないことにする。

なぜそれらの規準自体が具体的に示されないのか。理由ははっきりしている。ほとんどの教員は、シラバスを書くときには(半年以上実施が先になる)試験内容のことなど考えていないからだ。「シラバスを書くのでさえ面倒くさいのに、試験方法やその基準開示などやっていられるか」というのがほとんどの教員の現状だろう。

しかし授業計画(シラバス)を書き上げるときには、その計画の〝成果〟がどんなふうに確かめられるのかを同時に示すべきなのだ。むしろ〝成果(あるいは目標)〟から逆算して授業計画は書かれなくてはならない。目標なしに計画を立てても意味がないからだ。それを棚に上げて、評価割合を観点別に挙げても、いったいその割合の提示が何を意味するのかは全くわからない。おそらく〈目標(試験指標)〉と〈計画〉とが別々に立てられている分、教員は観点別の割合くらいしか思いつくことがないのだ。この程度では、おそらく学生は「期末テスト」の割合が低い授業の履修に傾きがちになるに違いない。試験日一回で決まる〝リスク〟が低くなるからだ。その程度の「ポリシー」にすぎない。

しかし〈アセスメントポリシー〉の内実はそこにはない。その本質は、どんな要件をどの程度満たしたら、その科目を履修したことになるかという規準の開示である。それは同時に科目同士縦横の接合性(=カリキュラム)の規準でもある。シラバスが目指すところがアセスメントポリシーの開示にあるとすれば、あるいはアセスメントポリシーの具体的な実現の過程がシラバス=コマシラバス編成にあるとすれば、シラバスポリシーのないアセスメントポリシーは存在しえない。むしろアセスメントポリシーはシラバスポリシーに内属しなくてはならない。言い換えれば、「なぜこんな試験をするのか」の説明文書がシラバス(コマシラバス)なのである。シラバスは、単位(単位制における)の内実を示すものだからだ。試験の在り方と関係のないシラバスはないし、シラバスと関係のない試験もあり得ない。

さらに言えば、目標(履修判定指標)までの長い授業過程(コマシラバスの15回展開)を追って評価するのはその長さや詳細さも含めて困難も多いが、履修判定指標のそれぞれの項目を見て、「こんな問いかけに答えられるようになる授業なら、ぜひ受講してみたい」と思う学生や学内外の関係者も出てくるだろう。その意味でも、履修判定指標は、単なる受験ツールではなく、シラバスの一部でなければならない。

③ シラバスアンケートの実施

こういったシラバスと履修判定指標との関係の実質化は、シラバスアンケートが鍵を握っている。通常、アンケートは最終授業回で取る場合が多いが、それでは試験評価ができない。

学生がシラバスをまともに読まないのは、試験内容と密接に関連している「授業目標」「科目の目標」「到達目標」などの記載が杜撰か、試験内容自体がその内容とかけ離れているかのどちらかだからである。しかも授業自体がどんなに杜撰でも、試験判定(試験内容)に関心のない学生はいない。だとすると、授業回の最後で取る授業アンケートは、学生の関心の一番希薄なところでのアンケートに過ぎない。大切なことは、試験評価からする授業計画&授業運営全体の評価アンケートを取るべきなのである。

私(たち)の大学では、「シラバスアンケート」(※)と称して、試験終了後5分くらい時間を取って以下6項目のアンケートを取っている。

1. あなたは、コマシラバスを授業の度に持参して使用していましたか
2. 教員は、授業中、コマシラバスに言及していましたか
3. コマシラバスと実際の授業とは一致していましたか
4. コマシラバス(履修判定指標)と実際の試験とは一致していましたか
5. 実際の授業と実際の試験とは一致していましたか
6. 授業は全般にわかりやすかったですか

この集計(すべての項目で、良い評価で2度、悪い評価で2度の傾斜を付けた四択。最良評価で100点、次良の評価で67点、次悪の評価で33点、最悪の評価で0点で、期末に、科目ごと集計実施)を行うと、試験評価を含めたシラバス評価と実際の授業運営全体の授業評価が完成する。教員同士でもできない試験評価 ― シラバス評価さえなかなかできないのだから ― 、かつシラバスには目もくれないが試験内容には関心のある学生の試験評価を知的に行うためにこそ、履修判定指標の詳細化とそれに基づく試験アンケートは必須だった。おそらく履修判定指標とセットで試験アンケートを実施している大学は全国でも私(たち)の大学だけではないか。
※なお、私(たち)の大学では、この「シラバスアンケート」を含めて2種の〈学生アンケート〉を取っている。期末のアンケートが「シラバスアンケート」、期中のアンケートが「授業アンケート」となっている。「授業アンケート」は「期中」7回目~8回目に取るアンケートで、期末で大量落伍者を出すような気配のある授業に対して授業改善を求めるためのものだ。期末アンケートで「まったくわからない授業だった」と学生からの評価の結論を得ても、それは「後の祭り」。15回の苦渋の受講を放置するわけにはいかない。そのための「期中」アンケートである。

(5)終わりに

① 自己管理のためのコマシラバス

私が「コマシラバス」という言葉を最初に使ったのは、1998年だった。その時にはインターネットで検索しても三つしかその検索がヒットしなかった。その三つは、主には小学校の「教案」に使われていたものだった。

しかし、私が「コマシラバス」という言葉を思いついたのはそれとは全く別個の動機からだった。

あるとき、カリキュラム議論ばかりしていないで、実際の授業をみんなで見てみようという提案があり、50クラスの授業(50科目)を、学科を超えて見学。見学者も当該学科を超えた教員が含まれていた。毎回10人くらいの教員が見学に入った。授業終了後、授業担当教員を交えて、「この授業をどう思うか」と見学者に振ったが、意見はまちまち。「いい」と言う教員もいれば、「これはまずいでしょ」という教員もいて、評価が決まらない。

話を聞いていると、ほとんどの発言は、授業法に関わるものばかりだった。「板書が下手だ」「教壇にばかり張り付いてないで教室の後ろにも回れ」「教材の使い方がよくない」「声が小さい」「授業にメリハリがない」「早口でよく聞き取れない」などなど。

これらの評価は、評価者が「私はそうではない」と言っているだけのことだ。声の大きな人は小さい声の人に「小さい」と非難する、板書のうまい人は「板書が下手だ」と指摘する、そんなことの応酬になる。

そのように大概の授業評価会は、「私はそうではない」という議論に終始する。そしてその反対現象を少し整理して列挙すると、「インストラクショナルデザイン」体系ができあがることになる。全く不毛な。

大概の教員が自分の授業に受講生以外の他人を入れたがらない理由は、メモ帳以外にろくな資料も持たずに入室してくる見学者の授業評価が自分の方法を押しつける授業法議論にとどまり、それ以上のまともな感想を聞いたことがないからだ。この拒絶反応は健全なものだ。

そんな経験をしたのが、2000年を前にした私の授業評価初体験だった。しかしなぜそんなことになるのか。おそらくそれは、見学した授業のその回の授業目的を示す文書や資料が授業内はもちろんのこと学内のどこにも存在していないからだ。

当時存在していたのは、旧来型の科目説明としての「授業概要」(授業計画)でしかなかった。ところが、見学の対象としての授業評価は、個々の毎回の授業に対して行われるものであって、科目概要(●●)の批評ではない。科目概要の批評など大学教員同士でやり始めたらつかみ合いの喧嘩にしかならない。何時間かけても決着は付かない。

だから概要だけでは、評価の手前で終わる。というより概要だけでは評価に手を付ける方法が存在しない。普通に授業見学しても、この授業が何をどの程度教えれば教員の本望を果たした(果たせる)授業なのかの資料や情報が存在していないわけだ。存在しているとしても開示されていない。つまり科目(●●)目標はあっても、授業評価できるだけの授業(●●)目標が存在していない、共有されていない状態だった。あっても一、二行、概念概要的に書かれているだけだったのである。

授業目標の開示のない、その資料が不在の授業を何回見学しても授業法議論にとどまるのは明らかなことだった。授業法議論は、そもそも授業目的、授業目標にしか従属しない。「その教育目的なら、この方法はまずいよね」「この試験に合格点を取らせるつもりなら、この方法はまずいよね」と指摘しない限り、授業法議論は成り立たない。どんなに「アクティブ」に授業が盛り上がっていても試験に合格しない限り意味はないからだ。目的に応じて方法も変わる。目的の数だけ方法も多種多様だ。授業法議論は授業目標の自己管理としてしか意味を持たないわけだ。

したがって、授業評価を有効に効かせるには、毎回の授業目標ができうる限り具体的に開示される必要がある。シラバスではなくて、コマシラバスが必要なのだ、と。「コマシラバス」という言葉は、そのときに浮かんだ言葉だった。

もちろん、それは授業評価のためだけではなかった。教員も学生も、今日の授業で何を教えるべきか(学ぶべきか)の情報共有がない。だから評価の基準がない。こんな段階で学生アンケートを何回取っても授業改善につながることはない。学生アンケート自体が授業法評価 ― 「授業の進行は適切でしたか」などの ― か、心理主義的な評価 ― 「授業に満足していますか」などの ― に終始するだけのことだ。

〈学校(大学)〉が組織的に授業評価できる環境にないという結論は、教員自身が授業評価(授業自己評価)できる環境にないということを意味している。

これは私にとって深刻な事態だった。干渉主義的な、そして管理主義的な授業評価を招来する原因は、むしろ自らの授業目標を具体化したり、詳細化したりしていない教員自身にあったのだから。またそういった体制を取ることなく、〝神聖な〟教室に土足で入るかのような(無益な)授業評価会を重ねる管理職や同僚教員にも問題があった。授業評価の前に取り組むべきなのは、コマシラバスだったのだ。コマシラバスのない授業評価はすべて干渉主義でしかない。

そこから、私(たち)のコマシラバスの書式開発が始まった。これは時間単位の教育目標を共有する方法だったのである。まず何よりも教員の自己管理のための。

② 生涯学習的なコマシラバス

もう一つの私のコマシラバス動機は、生涯学習論に関わっている。私は1995年から約5年間、生涯学習(狭義の社会人教育)カリキュラム&マーケット開発に責任者として関わっていた。学校教育の附帯教育部門としてだったが。

最初は、社会人向け初心者パソコン教育カリキュラム程度のものにとどまり、「Excel初級」「中級」「上級」などの難易度パッケージ(各レベルで90分×10回程度のパッケージ)で受講者を集めようとしたが、これが全く不人気。ほとんど受講者は集まらなかった。

原因は、「難易度」と言っても人それぞれだからだ。「人それぞれ」ということは、難易度パッケージされた10回の講義の内に、3回~5回は自分にとって不要な講義が存在しているということだ。その上、受講料はパッケージ化されている分=10回分取られることになる。これでは損だ。

そこで私はパッケージ化そのものが無駄だと思うようになった。難易度とはゼロから始める学校教育体系からの発想であって、受講者がすでに一定の目的を有する社会人教育には向かないということに気付いたからだ。学生教育の主体は〈学校〉にあるが、社会人教育の主体は受講者の目的に属するのであって、前者の教育の特徴がその生産性にあることに対して、後者の教育の特徴はその消費性にあるわけだ。社会人教育の鍵をなす資格学校に、〝同窓生〟組織が生まれづらい理由もそこにある。

したがって、社会人教育の場合、何が〈初級〉で何が〈上級〉かの難易度自体は、つまり何をどんなときにどんなふうに学ぶべきかは受講者が決めるものであって、〈学校〉が決めるものではない、というのがその時の私の判断だった。これはテッドネルソンが1960年代に「ハイパーテキスト」という言葉で表明したものとほとんど同じ思想だった。学ぶ者の数だけ学ぶ順序がある、というものだった。テッドネルソンは、秩序だった(=単線的な)学校教育体系そのものを破壊するために「ハイパーテキスト」という概念を持ちだしたのだったが。それはむしろ生涯学習の概念でしかない(※)。
※なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子供たちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって、子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子供たちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子供たちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成していくのだから。学歴社会(メリトクラシー)というのはもともとそういう意味だった。一言で言えば、学歴主義とは(既存の主体をリセットし続ける)成金(なりきん)主義である。いい意味でも悪い意味でも。テッドネルソンが前提する学びの主体とは、すでに充分に家庭的文化的な恩恵を受けている〝裕福な〟主体に過ぎない。そんな主体の教育は東京の名門私立学校に任せておけばいいのだ。

そこで私がやったことは、90分単位の講義の単独切り売りだった。ExcelであればExcel「データ入力講座」「数式作成」「表作成」「グラフ作成」「ワープロ活用」「関数(数学関数編)」「関数(論理/情報関数編)」「関数(日付/時刻関数編)」「関数(財務関数編)」「関数(検索/行列・文字列操作関数編)」「関数(関数複合編)」「データベース活用(内部リソース編)」「データベース活用(外部リソース編)」「非統計処理データ分析講座」「統計処理(ヒストグラム・代表値編)」「統計処理(相関係数・回帰分析編)」「統計処理(t検定編)」「統計処理(分散分析編)」「統計処理(多変量解析編)」「VBA(文法編)」「VBA(オブジェクト操作編)」「VBA(オートメーション編)」「経営分析」「システムダイナミクス(複雑系)」などなど、難易度パッケージからすべて開放して、「」内の講座それぞれで90分講座の切り売りができるようにした。Excelの最後半の講座などは当時、一橋大学の経営系の教授たち(主には新橋の「統計研究会」系)の講師支援も得て展開していた。

この細分化と同じやり方で、MS-Word、MS-PowerPoint、MS-Access、SQL Server、Oracle、「ネットワーク環境」「ホームページ作成」「Photoshop」「Illustrator」「DTP&DTV&DTM&CG講座」「CAD&3DCG講座」、プログラミング言語各種(C, C++, JAVA, Visual Basic.NET, C#.NET)講座(1990年代後半~2000年代当時のプログラミング言語各種)なども細分化していったのである。

これなら、講座名と講義概要(シラバス)、および「受講の前提」を見ただけで自分の学びたいこと、および学べる講座が何であるのかを受講前に理解することができる。

受講料はその分単独受講料も設定したが、それを積み重ねるとパッケージ料金よりも一回分が高くなるために、一ヶ月、三ヶ月というように期間定額受講料にし、それを払えばどの分野のどんな講座も受講数制限なしで単独で受講できるようにした。期間内で、自分で自由にカリキュラムを形成できるカリキュラム、まさに「ハイパーカリキュラム」が誕生した瞬間だった。受講生はそれ以後、爆発的に増えていった。資格を一切目指さない「ユーザーコンピューティング」カリキュラムで成功した社会人教育としては国内初のものだったと思う。

このハイパーカリキュラムの運営の課題は明白だった。「90分」単独受講で切り売りする分、90分のシラバス通りの授業がやれるか、ということだった。学校教育なら、三学期とか前期・後期とか、修業年限という比較的長い時間で〝つじつま〟を合わせることも可能だが、社内の会議をわざわざ欠席してこの講座の時間に駆けつける忙しい社会人を満足させるのは、90分で終わりと始まりの〝ケリを付ける〟ノウハウの形成が必須だった。まずは、90分のシラバスを詳細化すること、詳細化したシラバス通りの授業をやること、それも機械的にではなく身につくようにやること(受講目的を成就させること)、この三つがハイパーカリキュラムの成立の要件だった。四つ目があるとすれば、その三要件を支える全編書き下ろしの教材テキストの開発だった。

③ 〝次回先送り〟教育との訣別

この時、私が思ったことは、学校教育は、学年や履修単位の卒業要件で学生を閉じ込めている分、前から1コマずつ進む受講がいかに問題の多いものであってもそれが見えづらいということだった。授業に失敗しても試験認定するのは、その失敗した教員であるため、失敗した分、試験基準(履修判定基準)をゆるめれば、その失敗は見えなくなる。学生も最終(あるいは最低)目標は〝卒業(学歴取得)〟だから、試験基準が緩むことに、それほどの不満は生じない(※)。
(※)逆に〝資格の専門学校〟においては、学期末試験の厳粛な判定全体が補習や追再試の慢性化などによってカリキュラムが空洞化し、第三者試験としての官許試験(非文科系の国交省、厚労省、経産省がらみの)には正規カリキュラム外の〝集中対策〟講座でこなすという本末転倒した事態に陥っている。あまりに主観的(●●●)な(●)学期末試験とあまりに客観的(●●●)な(●)外部試験との股裂きにあっているのである。そんな事態に陥るのも、学生に対する授業情報が決定的に欠けているからだ。

その上、学生教育と社会人教育との違いは、学生はゼロから学ぶために、何(●)を(●)学べなかった(●●●●●●)の(●)か(●)の判断が薄くなるが、自分で受講目的を有している社会人受講生は目的満足度の評価に厳しいということだ。社会人受講者は、授業評価基準を自分の中に最初から有しているが ― したがって、受講者アンケートがそのままほぼ100%の授業評価(教員への評価)と重なるが ― 、ゼロから目標なしに黙って教室で座って受講する「学校教育」下の学生(による授業)評価は、学生アンケートだけではすまない難しさが存在している。教育内容を主導権を持って作る者とその履修判定をする者とが同じ(同じ教員)だからだ。「学校教育」における学生は〈顧客〉ではない分、教員は自己管理に厳しい体制を取る必要がある。

さて、会議を休んでかけつけた社会人受講生が「看板に偽りあり」と90分単位でクレームの声を上げ始めたらどうだろう。実際、そう言って、受講後、私の面前に駆けつけてきて私の座る机の幕板を蹴り破り、立ち去っていった受講者もいた。その種のクレームは、これだけ細分化して1000講座以上も管理する立場では、少なからず何回かあった。要するに一回勝負で取り返しが付かないわけだ。学校教育なら〝次回〟があるし、〝補習〟もあるが、社会人教育では、それは許されない。忙しい人たちばかりだからだ。「90分で教える、学べると書いてあるだろう」と言われたら、言い訳できない。

そういう言い訳なしに1000講座以上のコマシラバスと授業運営を管理して、この「ハイパーカリキュラム」はたくさんの受講者(最盛期で月間1万人以上)に恵まれた。「ワープロ(MS-WORD)くらいはできるようになりたい」と、このカリキュラムで学ぶことになった40才くらいの失業中の女性が、一年も経たないうちにMicrosoftの(何十万円もする)開発ツールを御自身で購入されて立派なリレーショナルデータベースシステムを構築するようになった、みたいな事例はいくつもこのカリキュラムから生まれていた。どこから入ってもOK、どこを目指しても果てしなく上っていくことができるカリキュラムがハイパーカリキュラムだったからだ。

そして、もし、この〝後がない〟緊密感 ― 確実に踏みしめることのできる階段(緩やかではあるが、長時間かければかなりの高さまで登れる階段) ― を、〈学校教育〉に持ち込めばどんなことが起こるのだろう、というのが当時の私の感慨だった。

そのためには、何を学べなかったのかがわからない学生でも、(社会人のように)授業評価できる資料を用意することが必要になる。それが「コマシラバス」という言葉に私がこめた意味だった。教員もたとえ2単位15回授業でも、1コマ1コマを切り売りするつもりでシラバスを書いたらどうなるだろう、それに基づいた授業成果を積み上げたらどうなるのだろうというのが、私が考えたことだった。それができれば、元々異質な学生教育と社会人教育との関係はぐるっと一周して同一化する。大学のカリキュラムもまた科目等履修生も含めて切り売り可能な、出入り自由な科目体制となる。

大学の地域連携、企業・組織連携、そして社会貢献の本質は、大学の本旨であり最も豊富なリソースである日々の授業情報を透明化することである。大学の多産な生産性の基礎はそこにしかない。

教育判定の期間単位が期末(2単位、4単位、6単位、8単位)や1年、2年、3年、4年と比較的長い時間で括られる学校教育の在り方、つまり厳粛な結論(履修判定)を補習や追再試によって後回しにしていく〝次回先送り〟型教育が、大学の本来の社会開放を遅らせ、何よりも〈カリキュラム〉の実質化を阻害してきた。

補習や追再試は、場合によっては学生サービスの一環のように扱われたりもするが、教員が(時間内で)「多様な学生」に対する教育目標を達成できなかった〝付け〟でしかない、とも言える。15回(2単位授業の場合)も取り戻しのチャンスがあったのに、やるべきなにができなかったのだろう、という(教員の)反省のきっかけを奪う処置でもある。選択科目が多いカリキュラムにも同じ問題がある、ある科目の履修判定は厳しい、ある科目の履修判定は緩い、この凸凹も、そのような凸凹がたくさんあることによって、履修上は平均化され、履修判定のいい加減さが目立たない。補習や追再試の慢性化も選択科目のたくさんあるカリキュラムも、それを学生サービスのように語る大学には〈教育〉が存在していない。

長い時間の教育の効果を期待するためには、一回毎の階段(授業コマ)を実質化することなしには不可能だったからだ。現在の「長い時間」の教育への期待と成果は、科目自立型の〝曖昧〟で〝個人的な(教員個人的な)〟裁量主義によって雲散霧消している。

そのためには、まずは、本質的に受動的な学生(=学校教育における受講者)を、社会人による授業評価のように「アクティブ」な評価者に変える必要がある。「アクティブ」な評価者を形成するには、授業情報の組織だった詳細化が必要になる。その情報開示の核が「コマシラバス」だった。社会人講座の成否が受講生アンケートに帰趨し心理主義的評価が前面化するのは商業主義的にも仕方のないことだが、学校教育ではコマシラバスを強化すると学生による授業評価もより知性化し「満足度」評価で終わらない教学体制ができあがる。

「シラバスは学生による授業評価と密接な関係がある」と苅谷剛彦が言うのはそのためである。シラバスは学生サービス以前に、学生による授業評価の資料であるべきなのだ。学生による授業評価に知的(●●)に(●)貢献しないシラバス項目をながながと書いても意味がない。

大学教育における学生の育成という観点に、従来欠けてきたものは授業評価ができる学生の育成という観点だった。なぜそれが困難だったかというと、内田樹が言うように、学生たちが授業評価できるのならばそもそもその学生たちは授業を受ける必要がないからだ。今から初めて学ぶ者が、これから学ぶ内容を評価などできるはずもない。この道理の軽重は、シラバスの位置付けに関わっている。

シラバスの、授業における活用比重が重ければ重いほど、学生の授業評価力は上がってくるからだ。学生アンケートの点数が高いことが、その授業が「よい」ことと必ずしもリンクしないのは、そしてまたシラバスが「よい」ことと授業が「よい」こととも必ずしもリンクしないのは、シラバスが「使う」コマシラバスとして展開していないからだ。さらには、そのコマシラバスの記載が履修判定試験と実質的に一体化していないからだ。それらの分節がしっかりと透明化すれば、学生評価(学生による授業評価)はより知的なものとなる。なによりも学生アンケートはそれらの分節を透明化するものだったのである。そのことによって、教員にも、自学の学生に対して90分で何ができるのか、何が2単位の実質化なのかの自己管理課題も見えてくる。そのためにこそ、シラバスはコマシラバスでなければならなかったのである。

④ 10年後のコマシラバス論 ― 試験センターの創設

さて、ここで議論してきたコマシラバスがそれでも教員によってまちまちな仕上がりになることはいくらでもある。書式が充実することとその中身が充実することとは直接関係のないことだからだ。

中身の充実があるとすれば、実際の試験内容を第三者化して作成実施するしかない。コマシラバスを詳細化し、履修判定指標も詳細化するということは、当該分野の他の教員がそれらを見て第三者的に実際の試験を作ることができることを意味している。そうでなければ、両者を「詳細化」する意味はない。詳細化の実質はそこまで練り上げられなければ意味がない。そんなことができるのかということについては、以下の三つの段階を経ることが必須の要件になる。

最初の段階は、受講クラスの上級学生を中心に ― あるいは、上・中・下それぞれの受講生から代表を選んで(これも教員による選抜か、学生による推薦学生、自薦学生、どれでもよいが) ― 、期末テスト前の最終受講日において予想試験発表をさせるということだ。先生はどんな試験を出すだろうか、という模擬試験・模擬解答を学生自身が作成(場合によってはグループ発表でもよい)、それをクラス内で発表し、学生同士で検討するという仕組みの導入である。詳細なシラバス+詳細な履修判定指標+実際の授業+実際受講した学生の評価(試験予想)=授業の実体である。

このとき、担当教員がそれらの発表を聞いて、自分が作成しようとしていた試験問題・模擬解答を学生達がシミュレーションできていれば、その授業は成功だったと言える。「アクティブラーニング」というものが流行っているが、授業における「アクティブ」の最上級は、授業の試験問題・模擬解答を受講学生が作成できることである。

そして、これらの発表された模擬試験をどう処理するかが最後の授業課題になる。それを真似て当該教員が期末試験を作るわけにも行かない。試験に通ればいいというものでもないからだ。なぜなら、試験とは、授業で教えたかったことの全体を一側面からえぐったものでしかないからである。一つの授業(コマシラバス+履修判定指標+実際の授業)には、多様な何種類もの試験問題が潜在的に含まれている。「この問題」が解けたということは、それに関わる多数の別のことも理解しているというように、試験問題は存在しているからだ。

「この問題」を最初から教えてしまうと、「それに関わる多数の別のこと」の理解は消え去る。それでは試験を実施する意味はない。「よい」試験問題とは、それに答えるために多数の別のことも知っていなければならない問題のことを言う。したがって、試験を試験主義的に処理してはいけない。学生の模擬試験を担当教員が評価する難しさは「それに関わる多数の別のこと」の処理が難しいということだ。模擬試験・模擬解答発表を評価する教員は、自分自身に対する授業評価をいちばん厳しく受け止めなければいけない立場に立たされる。あまりにもずれた発表をされたときには落伍者がたくさん出ることを覚悟しなければならないが、しかしそこで教えるわけにもいかないというように。ただし、そんな不安は躓きやすいところで小テストなどを実施していれば、不断に補正できることでもある。授業(●●)を(●)行う(●●)ということは元からそういうことなのだから。最後の模擬試験・模擬解答発表はその補正の連続の集大成でしかない。

模擬試験・模擬解答発表会は、まさに最もリアルな授業評価会である。計画通り授業が実施されたかどうか、教育は効果的に機能したかの。学生アンケートで「シラバス通り授業は実施されたか」「計画通り試験は実施されたか」などの問いには学生の未熟な判断がまだまだ残るが、模擬試験・模擬解答発表会はその不備を補う機能を有している。授業計画とその実際との「差分の意識」は、この学生による模擬試験作成において、もっとも具体的に先鋭化して表れる。

実習試験模試などでは学生自身が試験官になり、解像度が高い厳密なジャッジができるかどうかの模試をやらせればいい。教員から見て不合格のジャッジを間違えて合格ジャッジする学生がいるとすれば、教員の授業自体が不合格判定されているのとほぼ同じ事態だが、それより、試験官である学生が合格と不合格とのそれぞれにどれくらいの点数差(点数の度)を保持しているのかが、実習模試会(実習授業の最終回)において教員が問われることになる授業評価の内実になる。

学生試験官が留意することは、この〝行動(behavior)〟において、わかっていなければならないことは何かである。行動上は同じ(●●)であっても、分かっていなければならないことの程度は、10段階、20段階とあるだろう。それを取り出すには、「あなたは何に注意してこの〝行動(behavior)〟を取りますか?」ということになる。この時の注意点が、10段階、20段階と挙げられるかどうかが、「知的な」実習課題だ。むしろ専門学校や大学教育の実習課題は、このペーパー試験的な注意点の解像度の方だ。実際その行動が〝できる〟かどうかは実は大きな課題ではない。その〝できる〟目標が前人未踏の行動目標でもない限り意味はない。

実務では、どんなに知的でない人でも経験(●●)を経れば〝できる〟ようになることをなぜわざわざ時間を充分に取れない学校教育の中で、〝できる〟評価を行うのか。「頭の中でわかっているだけではダメで、実際に手足が動かないと」とうそぶく実習教員がいるが、そんな授業の学生に聞くと、頭の中でわかっていることなどほとんどない。ただ〝できる〟だけ。行動に質がない教育(ルーブリック評価など)を学校教育の中でいくらやっても不毛であって、むしろ(少しくらい不器用でも)わかっている学生を作っておくことの方がはるかに大切なことなのである。行動の細目指標(質)の体系性こそが実務現場にないものなのだから。どんな職場に入っても、どんなに経験主義的な上長に指導されても、そのことを相対化できる基礎能力(体系性)を有していることが文科省の言う〈自立〉した職業人の育成課題だったからである。

その〈自立〉意識なしに実務主義(●●)(行動主義)の実習をやり続けることは、実務現場の使い捨て要員を育成していることを意味する。高等教育の実習教育は、〈即戦力〉人材を作ることのためにあるのではない。新卒で即戦力になるという評価を得るとすれば、それはその職場の実務偏差値が低いだけのことだからだ(※)。
※2008年12 月24 日の中央教育審議会答申「学士課程教育の構築に向けて」(この答申は2000年以降の文科省の答申において最も印象に残る答申である)において、この種の「即戦力」論は次のように言及されている。「近年、『企業は即戦力を望んでいる』という言説が広がり、学生の資格取得などの就職対策に精力を傾ける大学が目立っている。しかしながら、実際に企業の多くが望んでいることは、むしろ汎用性のある基礎的な能力であり、就職後直ちに業務の役に立つような即戦力は、主として中途採用者に対する需要であると言われる」。また、たとえば専門学校の卒業生調査を2008年に行った小方直幸(当時は広島大学)は次のように言っている。「職業教育でよく『即戦力』という言葉が使われますが、『即戦力』というのは基本的に『ウソ』ではないかと思います。20歳~22歳あたりで即戦力だなんて、あり得ないだろうと感じてます。悪く言えば、すぐ使えるけれども、それは業務が高度化していないのでその程度の力でも対応できてしまうといった意味で『即戦力』という言葉が使われている場合も多いのではないでしょうか?(『キャリアエデュ』No.26 「「専門学校教育と卒業生のキャリアに関する調査」から見えてきた課題」p.8)

その意味で学生試験官が行動評価するとき、どの程度の(知的な)注意点を頭に入れてジャッジするかがその実習授業の成否をはかる鍵になる。

講義であれ、実習であれ、いつも「よい」授業とは何かとよく聞かれるが、それは(とりあえずは)シラバス読解とその実際の授業を経て学生の作る模擬試験(あるいは実習試験官判定)が、教員が思い描いていた本試験の水準と同じものになる授業のことだ。授業に失敗していれば、甘い模擬試験(あるいは実習判定)しか出てこない。

「よい」授業とは何かとよく聞かれるが、それは(とりあえずは)シラバス読解とその実際の授業を経て学生の作る模擬試験(あるいは実習試験官判定)が、教員が思い描いていた本試験の水準と同じものになる授業のことだ。

いずれにしても、しかしこの学生第三者評価試験では、試験主義的な処理 ― 模試の内容を実際の試験内容に誘導するような ― を根本的に無くすことはできない。

二つ目の段階は、その模擬試験・模擬解答評価会(最終授業回の一部)に、学内の教職員を一名以上参加させることだ。そうすることによって、その最終回授業の試験主義をかなり軽減させることができる。第三者の教員の試験作成が運営上考えられない場合には、この二つ目の段階を実施するだけでも第三者性の効果はかなり上がる。

そして最後の段階が、試験問題を第三者の教員が作成することだ。そのときのレフェランスが詳細なコマシラバスと詳細な履修判定指標になる。第三者の教員は、実際の授業を受けずに、詳細なコマシラバスと詳細な履修判定指標に基づいてのみ、文献的に履修判定試験を作ることになる。

「詳細な」と言う意味は、単に文字数が多いことではなく、他の教員がそれをみて試験を作った場合、ほぼイメージ通りの試験ができあがるかどうかまで練られたコマシラバスと履修判定指標になっているかどうかだ。特に「細目レベル」などが徹底して書き込まれていないと試験の難易度にかなり影響が出ることになる。逆にそこが「詳細に」書き込まれていれば、試験問題は第三者が作成してもそれほどずれることはない。

第三者の教員が学内にいるかどうかの問題は残るが、コマシラバスと履修判定指標の本来の充実は、この授業外の第三者の試験作成者を準備するときに完成する。授業担当教員から履修判定試験の作成管理を取りあげれば、シラバス文書(履修判定指標を含む)は、放っておいても「詳細化」する。「取りあげれば」と書いたが、試験作成(と採点管理) ― もちろん最終の履修判定権=単位認定権は担当教員が有している ― は、元から教員にやらせる必要などないのかもしれない。教員は授業計画と授業そのものに集中できる体制を取った方がいいのではないか。「単位認定権」が担当教員にあることは言うまでもないが、その権利の強弱は、授業計画の中身とそれに基づいて行う授業の実態のそれぞれと相関している。その相関性を吟味することが担当教員の単位認定権の在り方であってもいいのではないか。学生の点教は教員の点数でもあるのだから。試験点数こそが「双務的」なのだから、単位認定権の在り方ももっともっと検討される必要がある。(※)
※大阪高裁の平成28年の判決(確定された判決)でも、教員の単位認定権は「専門の研究結果を教授することの不可欠な要素を構成するものとまではいえず、教授に伴って付随的に生ずるものというべきである」(「判例時報」 No.2335)とされている。

現在の大学は、履修判定試験の質的な管理に関心が薄すぎる。だからこそ、「アセスメント・ポリシー」も問われることになった。「カリキュラム改革」などいくら重ねても、肝心の履修判定試験の内実を保持する仕組みが用意されていなければ、広報上のカリキュラム改革にしかならない。バケツの底に穴が空いたまま水を入れ続けているようなカリキュラム(と授業)を思案しても大学教育の展望は見えない。

もちろんそんな〝無責任〟な試験作成をして、学生が大量不合格したらどうするのかという心配(●●)も出てくるだろうが、素点処理(●●)を終えた試験成績表を提出する ― 実点数(=素点)が40点であっても、最高点が60点しか取れていない分布の試験をやった場合に、その教員が素点40点の学生に下駄を履かして合格を付けるような成績表を提出する(それはそれで致し方ないものではあるが) ― 大学教員の方がよほど(試験作成に関して)無責任だとも言える。素点処理をやっている教員の単位認定権も、すでに自分自身の中で他者化し二重化しているのだ。これは単位認定権の乱用でしかない。このような二重化を許す限り ― 「観点別評価」もこの二重化に手を貸しているが ― 、「アセスメント・ポリシ-」も宙に浮き、なによりGPAの標準化も進まない。

第三者が作った試験の「素点」処理はあり得ても、自分がシラバス計画し授業もやり、学生と15回(90分×15回)も付き合った教員が素点処理するというのもおかしなことなのだ。素点処理は、その教員自らが試験作成のノウハウがないか、授業に失敗したことの隠蔽に過ぎない。

いずれにしてもこの「第三者の教員」による試験というのは、当面理念(●●)にとどまる。教員は、自分が書いたコマシラバスと履修判定指標を、第三者の教員(同じ分野の)が読み込んで試験を作成したら、自分が作ろうとしている試験と同質で同程度のものができるだろうか、と自問すべきなのだ。それをたえずシミュレーションしながら書き込んでいけば、「詳細化」は質を有した詳細化になる。なによりそれは、学生の教育(●●)の実質に応える授業計画(コマシラバス作成+履修判定指標作成)になっていると言える。

従来、シラバスが学生サービス(●●●●)でしかないことが、シラバスの詳細性の凸凹の要因になっていた。そうなるのは、計画と実施とその評価(試験)の三要素がすべて同じ教員によって担われているからだ。それらを一人で厳粛にやれる者が大学教員(研究者としての教員)ではないかと言われればその通りであるが、そのときだけ理想論(理念)を唱えるわけにも行かない。「多様な学生」の時代の大学も多様な(●●●)教員がいることを忘れてはいけない。(了)※このブログの今現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンにほんブログ村 教育ブログへをクリック、開いて「専門学校教育」「大学教育」を選択していただければ今現在のランキングがわかります。

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