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 【第二版】専門学校(=学校教育)の実習授業は何が間違っているのか ― 50箇条×50箇条の改善改題 2009年05月19日

ここ2ヶ月ほど、色々な専門学校の「実習」授業を見せていただいている。そこで感じたことをいくつかあげてみよう。実習授業の現状と改善50箇条の認識。

1)全般に「教材」がほとんどない。

2)「教材」とはテキスト教材のこと。実習授業のための資材や設備はあるが、授業の説明教材(テキスト)がない。あっても数枚の貧相なテキストにとどまっている。

3)ほとんどの「実習」授業では、「もの」(資材や設備)とN個の学生とを「教員」の「トーク」が結びつけるという形をとっている。

4)教員の「トーク」のキーワードは、「見ろ」「聞いてろ」ということになる。

5)市販の教科書がある場合もあるが、ほとんどの場合、その進行通りの参照的な内容を持たない。授業をやる教員自身が書いていないという意味でも目次の進行が授業の進行と同じなはずがない。教員の気ままなつまみ食いのような参照がなされるだけである。「せっかく買わせたのだから教科書を使ってください」と学生から苦情が来る場合さえある。

6)教科書がつまみ食いなのと同じように、気ままな板書がたまに存在している。「トーク」も不安定だが、同じように板書も思いつきの板書にとどまっている。

7)これが専門学校の「実習」授業の風景の全てだ。「見ろ」「聞いてろ」などはまだましな方で、入学してから数ヶ月経つと、教員と一言も話しをせずに実習授業を終えて帰る学生が何人も出てくる。作品作成に集中する「熱心な」学生ほどそんな感じだ。デザイン系の授業などは何しに学校に来たのか、通学時間が無駄とも思えるわけのわからない授業がたくさんある(この理由については後述)。

8)何が問題なのか。「見ろ」「聞いてろ」と言われても、何を見て、何を聞けばいいのか、それを分別をもって理解することはかなり高度な知的能力を必要するということだ。

9)それは、今とここが、どの今、どのここなのか原理的に指摘できないことと同じ。ヘーゲルも言うように、今やここはどこまで行っても微分可能だからだ。

10) 講義(自衛隊的に言えば「座学」)なら、まだ典拠するテキストが存在する場合が多く、聞き逃しても復習が可能だし、場合によっては予習も可能だが、実習にはそんな予復習の機会が少ない。

11)「予復習」の可能性があるかないかは、授業の再現性があるかどうかに関わっている。

12)実習授業とは、授業の再現性の薄い授業のことを言う。だから、文科省的にも、実習授業の単位は、講義授業の半分しかない。90分授業15回の講義授業は2単位あるが、同じ”時間”をかけても実習授業では1単位にしかならない。

13)講義に較べて 「再現性が低い」ということは、「今」と「ここ」の緊張度が高いということになる。学生に高度な理解能力を連続的に強いることになる。一瞬でも見逃したり、一瞬でも聞き逃すと授業がわからない。

14)その上、仮に一所懸命、見たり、聞いたりしていても、「今って、いつのいま?」「ここって、どこのここ」という疑問は付きもの。見る=聞くということには安定した理解の要素は極めて少ないと言わざるをえない。

15)私は、その事態について、「長嶋型授業」という言い方を常にし続けてきた。長嶋には「今・ここ」を読み解く理論がない。だからバッテングの指導を「こうやって打つんだよ」と自らがバットを振って(具体的=実習的に)指導する。しかしそう言われて、そして実際に目の前でそう(実践的に)指導されても、「『こうやって』ってどうやって?」ということになる。

16) 結局、「長嶋型授業」とは、「わかる奴にはわかる」「わからない奴にはわからない」授業でしかない。

17) 「頭が悪い」学生とよく言われるが、その「頭」というのは、一般に「知性」の能力「格差」に関わって言われている。しかし、目や耳や手(器用としての手)や足(運動)の能力は知性以上に格差を有している。「勘が悪い」「感性がない」と言うのは、「頭が悪い」以上に差別的な(=非教育的な)要素を有している。

18)長嶋型には予復習の要素が薄い分、「格差」を拡大する要素の方が多い。だからこそ、大学受験は、「国語・算数・理科・社会・英語」の「主要五科目」が中心に構成されている。「技術家庭」「音楽」「体育」「美術」は、「努力」(=お勉強)ではどうにもならない要素が多すぎるからである。「主要五科目」の方がまだ民主的なのだ。「学歴社会」は民主主義の原理なのである(苦笑)。

19)講義は教材が充実すればするほど、格差を縮める生産性が期待できるが、実習授業は実技能力に長けた人(=長嶋型教員)が授業をやればやるほど、「格差」は拡大する。

20)結局、講義も実習も、「良い授業」とは再現性の有無にかかわっている。授業が終わってもその中身が再現できる要素をどの程度持っているかだ。

21)かつての大学で、実習が講義(座学)の単位数の半分しかなかったのは、実習授業には授業の再現性(=予復習の契機)がないからである。言い代えれば実習は知的ではないということだ。

22)さて、その再現性の要点は、二つ。一つは、見逃しても、聞き逃しても、後でも(ある程度)わかるという再現性。二つ目には、何を見ていたらいいのか、何を聞いていたらいいのかの注意点が明確になっていること、である。実施(授業実施)の再現性と注意の再現性の2点がどんな授業でも「良い授業」の基準であり、取り返しの付かない実習授業では更にこの基準は強化されるべきなのである。

23)長嶋型実習授業は、再現行為そのものを文字通り何度も本人の前で見せるしかない。何度もトライアンドエラーを繰り返しながら「習うより慣れろ」になる。

24)この授業モデルで高度な実習訓練を行うためには、物理的な時間をたくさん与えるか、同じ授業時間の中で教員数を増やすか、学生数を減らすしかない。

25)もちろん教員数をこれ以上増やすわけにはいかない。クラス内の学生数もこれ以上減らすわけにはいかない。もう一つ、入学してくる学生の「質」はどんどん落ちてきている。

26)その上、授業時間数は増やせない。設備投資・実習資材供給も増やせない。そうすると結果は明白。学生の仕上がりレベルが落ちていくしかない。

27)長嶋型実習レッスンは、職人の徒弟教育とほとんど同じ構造を有しているが、それが通用するのは、既にそれが企業内教育であること(お金をもらって教育を受けるという強い職業意識があること)、職人の徒弟教育の場合には寝起きをともにするまでに生活と教育が一体化していることが前提になっている。

28)豊富な練習時間数と強い学びの動機がない環境、さらには学生「顧客論」までもがまかり通る現在のインフレした高等教育では、長嶋型実習モデルほとんど役に立たない。学校の教育力はますます落ちていくしかない。

29)そこで、以下、専門学校の教員現象=授業現象50個を列挙してみよう。

【1】授業開始のベルが鳴ってから職員室を出る
【2】授業時間中に出席を取ったり、教材や資料を配付したりする
【3】授業準備(の一部)を授業中に行う
【4】教員が教場に手ぶらで入場する
【5】教科書はあるが、ほとんど使うことはない授業
【6】教科書を使うがつまみ食い的に使う授業
【7】教科書は使うがいつも(教員自身が)教科書にケチを付けている授業
【8】授業開始時どこからやり始めるのかを学生に聞く教員
【9】その日のその授業で何をやるのかのプランが示されていない
【10】その日のその授業でどうなったら100点なのかが示されていない
【11】その日のその授業でどうなったら100点を取れるのかが示されていない
【12】思いつきの板書しかしない
【13】実習教室の割に、講義型教場のように教壇の前(後ろ)にしか黒板がない
【14】実習教場の割に鏡やマルチアングルビデオの設備がない。
【15】一つの作業を指示する場合に、時間提示がない(「この課題は10分でやりなさい」というように)。段取りが教員の胸の内にしかない。学生に時間意識がない。
【16】学生がばらばらの実習作業をやっている
【17】学生がバラバラの実習テーマに取り組んでいる
【18】その割にバラバラの実習テーマに即した説明教材や評価課題が用意されていない
【19】「先週の続きからやってください」というかけ声で授業が始まり、あとは個々の学生やグループを徘徊指導することに終始する
【20】「実習授業だから」と言いながら誰も筆記具やノートをもって授業に参加しない。
【21】授業中、学生がノートを取る習慣がない。そんなふうに実習授業環境が用意されていない。
【22】授業が終わる時点でもその日の進捗チェックをしていない学生がたくさん残っている
【23】作品指導を口頭でしか行わない
【24】作品指導を教材を使って行わない(参照性のある指導を行わない)
【25】実習の成功サンプル、失敗サンプルを提示しながらの進行がない
【26】授業での主題課題以外に練習課題や練習問題のない授業
【27】授業グループ学習の場合、リーダー選定や役割分担を学生に任せてしまう
【28】学生同士が教え合う工夫やしかけがない
【29】出来ない学生に注意をしない(熱心な学生にばかりに関わりたがる)
【30】教室を教員が勝手に出て行ったりすることがある
【31】教室を学生が勝手に出ていったりする
【32】宿題を提示できない授業
【33】宿題を誰もやってこない授業
【34】宿題をやるための教材がない授業
【35】TAはいるが、別の常勤教員がTAをやっている授業
【36】TAはいるが、そのTAが常時立っていない授業
【37】TAはいるが、教員と同じように前列に侍っている授業
【38】TAはいるが、一人の学生の指導に長い時間を取られる場合が多い授業
【39】オリジナルの(=授業に沿った)テキスト教材を持たない
【40】オリジナルのテキスト教材があっても図が中心で解説文が少ない
【41】図示があって、解説文があっても、図のどこを見ればいいのかの参照性が弱い
【42】図示と解説文と参照指示性が高いテキストが存在していても、時間展開の表示がない(ページの時間進行に並行する授業時間進行の表示がない)
【43】図示と解説文と参照指示性と時間展開の表示があってもその通りに進まない授業。
【44】その通りに進んでも毎年同じ内容のテキストを使って同じ実習をやっている授業
【45】授業が終わった後、出来ない学生が真っ先に帰る授業
【46】授業が一斉に終わらず、三々五々学生が教場から退出していく授業(「出来たものから帰って良い」という授業)
【47】放課後学生がたくさん(出来る学生も出来ない学生も)学校内に残っている実習授業
【48】欠席学生のフォロー指導が出来ていない授業
【49】出席率の悪い授業。特に2年生の出席率の悪い授業。
【50】「頭でっかちの人間を作ってもしようがない」と言いながら、一度も頭でっかちの人間を作ったことのない教員

30)こういった諸項目の統一的な原理は、〈今・ここ〉の貴重な瞬間の再現性に関わっている。再現性はいつでも擬似的なものに過ぎないが、それでも瞬時に消え去る職人芸的な教員の実技を有限な時間と有限な能力の中で学ぶ学生にとっては決定的に重要な要素である。

31)要するに、実習授業の安定度は、その実習授業外でもその内容に擬似的にアプローチできるいくつもの仕掛けがあるかどうかにかかわっている。実習授業の一時間(一コマ)は単に学ぶべき氷山の一角というように相対化される必要がある。

32)そうでなければ、実習課題の高度化は、時間を拡大するか、教員数を増強するか、担当学生数を減らすか、実習設備や素材を増強するか、あるいは素質の良い学生だけを選別的に入学させるかのいずれかの方法を取るしかない。いずれも現在の学校教育経営では取り得ない方法だ。

33)したがって課題は、時間依存型の実習授業を、豊富な教材で包囲することでしかない。教材の出来が実習授業の高度化を実現するのである。

34)講義(座学)には豊富なテキストが必要だが、実習にはテキストは要らないという教員がいるが、それは逆。講義は(今となっては)インターネット上にたくさんの教材があふれているが、実習授業の実時間で「その」先生の「その」手さばきを教えるには、先生自らがその「秘伝」を丁寧に教える教材を作るしかない。「秘伝」を全ての学生に教えるのには「授業時間」は少なすぎるし、設備投資も資材投入の物理性にも限界があるからだ。

35)この場合、教材には2種類存在している。一つは、作業手順とその要点を明確に示した教材。作業実施に至る前にそれを見れば「わかったような気になる」くらいの再現性の高い教材。もう一つには、評価の教材。実施した作業の成果を教員のチェックが入る前に、学生自己評価できるくらいの評価教材。

36)これら2種類の教材が充実してくると、実習課題や実習教員にも階層化が可能になる。本来の(高度な)実習課題に充分な時間を割くことや、低位の実習課題はTAレベルで充分に間に合うことが見えてくる。

37)言い代えれば、低位の課題には、教員1人あたりの学生数を増やし、高位の課題には学生数比を減らす、たくさんの教員を付けるというように。

38)現在の授業形式では、単純な(技能的な)実習にも、比較的高度な実習にも同じ質の教員、同じ数の教員を付けているため(その上、同じ教室を使って)、本来の高度実習ができない。

39)事情はむしろ逆で、単純なオペレーションスキル実習の方(=初年次初期の実習)にたくさんの教員を付け、高度実習の方(2年次)には教員が少ないという場合もある。

40)なぜそうなるのか。理由は明白。とりあえずは手が動けばいい、という考え方で授業が進んでいるからである。入学時期には何をしたらいいのかさえわからない学生達なので、とりあえず手を動かさせる。そこまではいい。時間が経つととりあえず何かをし始めるようになる。とりあえず何かを作るようになる。勝手に学生が動き始める。だから、時間が経ち2年次にもなれば、教員が細かく指導しなくても授業が成り立つ。本来は何かが出来るようになった時点でさらに高度な課題を細かく指導しなくてはならないにもかかわらず、むしろ初年次指導よりも、教員の干渉は減っている。その分2年次は出席率さえも落ちる。就職が決まればもっと出席率が落ちる。

41)ここに、専門学校の実習の最大の問題点がある。「とりあえずできればいい」という以上の課題に進まないのだ。〈もの〉の総合性や統一性の影に隠れて、それに分析的にアプローチすることができない。だから、「見事な」作品を作っている学生に、少しばかりテクニカルタームを使って突っ込んでみると何一つまともに応えることが出来ない。自分がその作品を作った「意味」がわかっていない。

42)こういった学生がさらに先の課題に進むためには、別の(偶然の)経験が生じない限りは不可能。どんな「勉強」が足りないかを明示的に担っていないからだ。逆にどんな「勉強」がその作品を可能にしたかをわかっていない。

43)勝手に(個人的に)時間を使い、勝手に(個人的に)素材を集め、勝手に(個人的に)本を読み、勝手に(個人的に)先生に相談し、勝手に(個人的に)作品を作り上げただけなのである。

44)だから専門学校の実習授業は、万年、シラバスが変わらない。変わらないだけではなく、コマシラバス(一コマ単位の詳細なシラバス)さえも存在しない。変わる場合は「教場の都合」か、「認定科目の変更」がある場合だけである。個人的な能力と個人的な無能力が授業の中で直接的にぶつかり合っているだけというのが現在の実習授業。教員にとっても、学生にとっても。

45)「専門士」の規程の第三項(「高度専門士」の規程の第四項)には「試験等により成績評価を、その評価に基づいて卒業認定を行っている」ことという条文が存在している。これはタイトル(=士)を与えるには、何をもってしてそのタイトルなのかの判断基準がなくてはならない、というまともな趣旨に基づいている。最近は「ディプロマポリシー」などと言って大学でもこの仕上がり判定(=「組織的な」仕上がり判定)を厳密化しようという傾向が強い。

46)この条文が1994年になってはじめて専門学校の規程に書き込まれたということは、それまでは専門学校には時間数しか教育成果を問うものがなく、内容的な水準には無関心な教育組織だったということである。時間数しか成果規程がないと言うことは、保育園のようなものだということだ。専門学校の教員の中には、「専門学校は出席率だけしっかり指導していればいいんだよ」と真顔で言う教員がいるが、それは元々は「単位」縛りのない時間性の専門学校に特有な事態だったのである。厚労省、国交省などの官許的な規制の一部も実習判定を時間数で縛ろうとする傾向が強いため、時間主義、経験主義になる。

47)ペーパーテストも安易な選択問題か記憶問題が多い。実習評価は作品か、課題提出。授業の延長で提出される課題物を履修判定に使っている(教員の指導はその場合公認のカンニングと同じ)。ゼロリセットで行われる実習試験も教場や時間数・教員数の「都合」でほんの10分くらい(学生1人あたり)の単純な技能試験にとどまっている(「実習が専門学校の生命線」と言っている割に実習試験は杜撰)。こんな現状では、教育目標も達成評価も個人的なものでしかない。先生が辞めればすぐに消える水準にすぎない。学校の「特長」にならない。

48)一方、カリキュラムは官許的な「資格」規制によって、形式的なものにとどまっている。官許的な規制が比較的低いIT系でも「基本情報」(=経産省)の影響が強い。「形式的」という意味は、基礎主義(=「あれもこれも」教育)にとどまっていて、実習と理論の有機的な統合に欠けているということだ。それぞれの中途半端な専門家が自分勝手に授業をやっているだけ。だれも仕上がり年次の共通目標(=「人材」目標)を念頭に置いて授業をシェアしていない。専門学校は資格か出席率にしか興味がないのである。

49)結局、専門学校の実習教育で(大学もそうだが)、優秀な作品を生み出すことの出来る学生はせいぜいのところ上位10%~20%に留まる。20%に留まるということは、その「優秀さ」は学校(教員の組織性+カリキュラム+教材)の力によるものではないということ。私の経験では、どんなにひどい学校でも必ず優秀な学生はいる。20%くらいはどんなにひどい学校にでもいる。20%の優秀な作品というのは、20%の優秀な学生の成果であって(=入学以前の「優秀さ」)、この「優秀な」学生達は教員やカリキュラムや教材の不備を補うことが出来る学生達なのである。「優秀」とはそういうことだ。東大や早稲田の学生達もそういう学生達なのである。決して教員やカリキュラムが一流なのではない。

50)一方で物理的時間的制約がある、一方で学生の「基礎学力」が年々低下している(どこまで本当かわからないが)。「基礎学力」と言わないまでも、学習動機や入学動機が弱くなっている(それは確かだ)。他方、外国人労働者の流入で出口の「日本人」には高度な技術要求が高まっている。現状の専門学校の経験主義的な教育、形式的な教育では、高卒で1年間、2年間実務経験を経た学生の方がよほどまし、とも言える(学校現場の方が教育現場よりもはるかに緊張感があるからだ)。そうでない場合があるのは、すでに学歴選別が(高卒と専門卒との間でさえ)効いている場合であって、学生の素質に依存している場合だけなのである。どこにも「学校教育」が存在していない。さて実習教育を組織的にどう高度化するのか。それが専門学校の実習教育の課題だ。

※専門学校の実習授業の問題点は他にもこちらで言及している→http://www.ashida.info/blog/2008/10/2_1.html

●補遺
昨年の12月に文部科学省は「学士課程の改善について」という答申の中で、重要な提案をしている。この答申の最大の意義は「特色化・個性化・多様化」という91年の大綱化と2001年の遠山プランの「競争」路線を自己否定していることだ。文部科学省は「特色化・個性化・多様化」や「競争」施策だけでは教育の質を担保するのが難しい、と言い始めたこと。

「言わば市場化の改革手法のみでは、教育の質の向上について充分な成果を期待することは出来ない」と言い始めたのである。「多様性と標準性の調和」というタイトルが付いている。昨年4月の大学設置基準の変更も、この「質」の問題に関わっている。組織的な教育目標と履修判定基準の明確化が変更の趣旨の一番大きなものだった。12月の答申はその路線に沿っている。

この答申の中で、私の目にとまったのは、「学際的な(interdisciplinary)教育活動について、関連する学問の知識体系(discipline)に関する基礎教育が必ずしも十分になされていない」という件(くだり)だ。

これは、実際には2003年の「人間力」(内閣府)、2004年の「就業基礎能力」(厚労省)、2006年の「社会人基礎力」(経産省)、2007年の「学士力」(中教審)などの「学際的な(interdisciplinary)」能力の育成に関わっている。2003年来の「特色GP」、「現代GP」、「教育GP」のほとんどがそういった「学際的な(interdisciplinary)教育活動」を取り組みのテーマに選んでいる(http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_305.html)。しかしそれらのほとんどが「関連する学問の知識体系(discipline)に関する基礎教育が必ずしも十分になされていない」。ひとことで言うとデタラメだということである。

しかし、実習授業こそが「学際的な(interdisciplinary)教育活動」の最たるものだ。その実習授業にこそ、「知識体系(discipline)」が欠けているのである。つまりdisciplineの有無は、実習授業の「質」、専門学校教育の「質」の問題に関わっている。大学や専門学校が「学際的な(interdisciplinary)教育活動」に走るのは、学生迎合し、教育点検を棚上げにしようとしているだけのことである。どこへ行くのか、日本の高等教育?

(Version 13.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

芦田さん こんにちは

我慢できないので書きます。

どうして芦田さんの文章は、こんなに心地いいのだろうといつも思います。内容は、現状に対する批判であったとしても、嫌みがない、読んでいて不快にならない。誰かを批判している文章であってもすさんだ気持ちにならない(私が批判されたら、そうは思わないのかもしれませんが)。何かいつも暖かく、ポジティブで、ユーモラスで、読みやすくて、話の流れがしっくりくる。他のブログやメーリングリストを読んでいてもなかなか得られない爽快感がある。

内容がたとえ厳しい批判であっても、気持ちよく読める。

何でだろう。不思議だ。他の人の文章と比べて何が違うのか。

芦田さんの人となりなのか、なにか気をつけているところがあるのか。

やっぱり本にしましょう。注文つけずに出版してくれるところとはないものか?

なんだかおべっかみたいなので、匿名にします。

投稿者 匿名希望 : 2009年05月22日 05:12
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