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 退職しました(その4)― 「特色ある大学教育支援プログラム(=特色GP)」「質の高い大学教育推進プログラム(=教育GP)」の仕事と専門学校改革 2008年11月16日

私は昨年まで「特色ある大学教育支援プログラム」(2003年~2007年)の審査部会委員、今年の「質の高い大学教育推進プログラム」審査部会員を務めたが、両者の取組は「自己点検・評価」以後の大学教育改革の傾向を見るのに随分勉強になった。

文部科学省は、91年の大学の「大綱化」(=規制緩和)と並行して「自己点検・評価」の努力義務を大学に課したが、20年近く経った今でもまともな「自己点検・評価」報告書は出来ていない(失礼!)。網羅主義的で学校案内パンフレットを詳細化したようなものにしかなっていない。

少子化対応の眼目はあくまでも各大学が各自のコアコンピタンスを見出し、特色ある学校体制を構築することであった。91年の「大綱化」の意味もそこにあり、「自己点検・評価」の眼目もそこにあった。

が、始まったら横並びの「自己点検・評価」ばかりが「報告」されることになった。現在の「自己点検・評価」報告書を読んで、各大学の内実ある「特色」を見出すことは神業に近い。

そういった現状を打破するために、2002年には「第3者評価」が義務化され、同時に「21世紀COE」(http://www.jsps.go.jp/j-21coe/index.html)が始まった。

「21世紀COE」は大学(の先端研究)に対する助成傾斜配分処置第一号であり(当時一般紙でも大々的に取り上げられた)、少子化下の大学競争は、緊縮財政下における助成競争でもあった。自前の「自己点検・評価」報告では見えなかった競争や特色の内容が問われたのである。その皮切りの試みが「21世紀COE」だった。

しかし先端「研究」ばかりで傾斜配分されたら「教育」に傾注しつつある多くの大学にとってはたまったものではない。先端「研究」ということになれば、結局は大きな国立大学やそれに比する私立大学の一部に予算が集中し、傾斜配分の意味が薄れてしまう。

それもあって2003年には「21世紀COE」に引き続いて「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」が始まり、その翌年の2004年には「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/needs.htm)が始まった。

前者は、実績中心の教育支援、後者は政府の施策対応やマーケットニーズ中心の教育支援である。

これら「特色GP」と「現代GP」とがここ数年の大学の「教育改革」の両輪をなして進んできた。

たしかにこれらの文科省施策には批判もある。草原克豪は次のように言っている。

「各大学は無理をしてでもこれに応募して高い評価を受けようとするが、その結果、大学本来の使命である地道な教育活動の充実が二の次になってしまいかねない。採択されたプログラムに対しては使途を限定した予算が配分されるので、大学としてはつい、必要性の高い事業よりも採択されやすい、言い換えれば予算を付けてもらいやすい事業を実施するという倒錯した発想にもなってしまう。それでは学内の教育活動の優先順位という点でバランスを欠いたことにもなる」(『日本の大学制度』弘文堂)。

この草原の指摘は間違いではないが、しかし大学の自己改革(「自己点検・評価」約10年の歴史)が一旦挫折したところから、このようなプログラムが始まったことを草原の指摘は見落としている。「地道な教育活動の充実」が存在しているとすれば、このようなプログラムは最初から開始されなかっただろう。

もう一つの見落としは、この改革評価は実質的な「自己点検・評価」=「第3者評価」になったということである。特に「特色GP」では大学の教員たち自身が他大学の教育改革を公開的に評価するという審査方法をとったために、文科省主導というよりは、大学関係者たちの評価指標自体が問われる審査になっている。もしこれらの評価が陳腐なものだとすれば、それは大学の当事者たち自身が陳腐な評価指標しか有していないということになる。こういった「GP(Good Practice)」施策はマーチントロウの言う「システム」型の自己規制にあると言ってよい。草原のようにわざわざうがった見方をする必要はない。

「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」が「特色GP」と別個に存在せざるを得なかったのは、むしろ「特色GP」が文部科学省の施策趣旨とは別個に展開したからだとも言える。「特色GP」は、その意味ではいい意味でも悪い意味でも現在の大学課題の“大学的な”取組の現状を表現しているのである。

その「特色GP」「現代GP」が昨年度で終了し、今年度からは「質の高い大学教育推進プログラム」(=教育GP)に一本化された。

「特色」が「質の高い」というように「質」に変化したのはなぜか。それは、「自己点検・評価」の内実がないところで「特色」を求めても、各大学のコアコンピタンスを形成するような特色ある取組がなかなか生まれなかったことによる。

2003年~2007年の5年間の各大学の取組の「特色」はほとんど「ローカル」と区別が付かない状態だった。

そんな反省から今年4月大学の設置基準が改正される(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/07091103.htm)。私から見れば、それは3つの大きな要点を有している。

一つは、91年の大綱化の根本思想である科目主義からカリキュラム主義への転換を設置基準そのものに盛り込んだことである。「大学は、学部、学科又は課程ごとに、人材の養成に関する目的その他の教育研究上の目的を学則等に定め、公表するものとすること」(第2条の2関係)とある。「人材の養成に関する目的その他の教育研究上の目的」という言い方は抽象的で曖昧だが、この条文の附則留意事項では以下のようになっている。

「大学設置基準第2条の2の規定による目的の策定に当たっては、各大学のそれぞれの人材養成上の目的と学生に修得させるべき能力等の教育目標を明確にし、これらに即して、体系的な教育課程を提供するとともに、責任ある実践のための人的、組織的体制、物的環境を整えることに資するよう留意すること。また、組織として目的を共有するため、学則、学部規則又は学科規則などの適切な形式により定めるとともに、大学のホームページ等を活用し、これを広く社会に公表するよう留意すること」。もはや科目目標ではなく、「人材養成」を意識した「体系的な教育課程」を「人的」「組織的」「物的」に、学則レベルで提供しなさいということである。

次には、授業計画(内容と方法)の明示、および成績評価基準の明示。「大学は、学生に対して、授業の方法及び内容並びに一年間の授業の計画をあらかじめ明示するものとすること。また、学修の成果に係る評価及び卒業の認定に当たっては、客観性及び厳格性を確保するため、学生に対してその基準をあらかじめ明示するとともに、当該基準にしたがって適切に行うものとすること」(第 25条の2関係)とある。

この附則「留意」事項は「大学設置基準第25条の2第2項に規定する学修の成果に係る評価等の基準については、各大学が作成するいわゆるシラバスに記載するなど、学生に対して明確に提示するよう留意すること」となっている。

特に91年の「大綱化」以来、科目シラバスは年々詳細になり分厚くなってきたが、肝心のその履修評価の厳密性は置き去りにされたままだった。

このことの意味は二つある。一つには各教員がシラバス通りには授業をやっていないこと(やっていない場合がある)。二つ目にはたとえシラバス通りにやっているとしても、その通りの実力が付いていないこと(付いていない場合がある)。

この二つが日本的なシラバス主義の弱点だった。今年4月の改正は、その二つの問題を履修判定の厳密化(詳細化と公開化)によって補うというものである。このことによってシラバス主義の空回りがすべて解決するわけではないだろうが、単なるレポート提出とその印象批評で終わっていた履修評価よりははるかに前進する機会になるだろう。シラバス主義(input評価)よりは、成果評価(output=outcome評価)を重ねる方がはるかにシラバスは厳密化するに違いない。

三つ目には、FD(Faculty Development)の義務づけ。「大学は、授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究を実施するものとすること」(第25条の3関係)とある。

この附則「留意」事項は「大学設置基準第25条の3の規定によるいわゆるファカルティ・ディベロップメント(FD)については、これまで努力義務であったものを義務化するものでるが、これは大学の各教員に対し義務付けるものではなく、各大学が組織的に実施することを義務付けるものであること。これを踏まえ、各大学においては、授 業の内容及び方法の改善につながるような内容の伴った取組を行うことが望まれること」となっている。

FD(Faculty Development)は昨今大流行だが、その起源(本来の意味)についてはここでは省こう。日本で使われているこの言葉の意味を意訳すれば、「組織的な教員教育」という感じか。現に4月の新設置基準での「FD」はその意味で使われている。

しかし最高学府の「大学教授」を教育するとは、誰が何の資格や権利でもって、と大学教授たちに怒られそうだ。このFDは、教員を教員として再教育することではなくて、一つ目の「人材育成」に関わる「教育目標」を共有化するFDのことを意味している。

※ちなみに特色GPのリーダーであった絹川正吉(前ICU学長)は以下の13項目でFD(FD活動)をまとめている。これらは良くも悪くもFDの啓蒙的な定義だ。

1)大学の理念、目標を紹介するワークショップ
2)ベテラン教員による新任教員への指導
3)教員の教育技法(学習理論、授業法、講義法、討論法、学業評価法、教育機器利用法、メディアリテラシー習熟)を改善するための支援プログラム
4)カリキュラム開発
5)学習支援(履修指導)システムの開発
6)教育制度の理解
7)アセスメント(学生による授業評価、同僚教員による教授法評価、教員の諸活動の定期的評価)
8)優秀教員の表彰
9)教員の研究支援
10)大学の管理運営と教授会権限の関係についての理解
11)研究と教育の調和を図る学内組織の構築の研究
12)大学教員の倫理規定と社会的責任の周知
13)自己点検・評価活動とその活用


91年の「大綱化」において、もはや科目内教育目標主義(=講座主義)は解体されるべきだった。しかしそのように進まず形式的なシラバス主義の膨張だけが目立つ結果になった。

重要なことは、シラバスの詳細化は科目相互の連携を取るためのもの、何よりも教員同士の連携にとって重要な資料だったということである。統一的な(学校内、学部内の)人材目標からして再配置されるべきものが91年以降の「科目」の意味である。

この意味は二つある。少子化の教育的意味は低学力化である。低学力化はもはや一つの科目だけでは対応できない。あれこれの科目の力業で低学力学生には対応できない。諸科目の配置全体(=カリキュラム)が学生を教育するような体制を構築する必要がある。

もう一つは、あれこれの科目(ゼミ)の名物教授の存在だけでは、学校の「特色」は形成できないということ。「ゼミ」の位置づけも含めた初年次から卒業年次までの科目配置の全体を視野に入れない「特色」形成はあり得ない。「人材」教育というからには、もはや個々の教授の師弟教育ではあり得ないだろうからである。

今年度「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」(平成20年度予算額86億円)は、この設置基準の変更に伴って、単なる「特色ある」取組内容の検討ばかりではなく、教育目標の整合性(理念+学部目標+科目配置などの)と公開性の水準、授業計画(内容と評価)の厳密性と公開性の水準、FDの組織性の水準、それらに追加して91年来の基本政策=自己点検・評価の水準を問うものになっている。

申請書の前半が新設置基準の三項目(教育目標+授業計画+FD)+自己点検評価の提案、後半が改革プログラム提案になっている。言わば昨年度までの「特色GP」+新設置基準への対応=「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」ということである。

「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」が施策対応要素を含んでいたという点から言えば、「質の高い大学教育推進プログラム」は文字通り「特色GP」と「現代GP」とを統合したものと言えないわけではないが、申請書前半の新設置基準への対応は、むしろ各大学の「特色ある取組」の改革の「質」を下支えしているものと言える。5年間の「特色GP」の「特色」がインフレして散漫になりすぎた反省からそれは来ている。

「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」の本来の審査基準は、申請書前半の新設置基準への取組と後半の特色化取組が一致することである。教育目標+授業計画(内容と評価基準)+FD+自己点検・評価(ここまでが前半)への取組が、後半の特色化取組に呼応するような取組であれば、満点だろう。それが「質の高い」特色化ということの意味だ。

だが大概の場合これらの取組は個々別々に行われており、「質の高い」取組はまだまだ不充分なものに留まっている。

今年の「質の高い大学教育推進プログラム」で採択された申請の特徴的なタイトルをざっと掲げてみる。私の考えでは、取組は三つに分類される。

【タイプA】(順不同)
「PISA対応の討議力養成プログラムの開発」(東京大学)
「実践臨床医養成への問題基盤型学習の実質化」(佐賀大学)
「相互啓発による創造的学力育成カリキュラム」(同志社大学)
「知的能動性をはぐくむ理学教育プログラム」(大阪大学)
「販売現場に密着した問題発掘型スタディーズ」(大阪府立大学)
「ユビキタス社会の問題発見解決型人材育成」(慶應大学)
「実践教育による社会的問題解決能力の養成」(大阪商業大学)
「学生の学力・人間力・社会力の養成」(帝塚山大学)
「食農コープ教育による実践型人材の育成」(神戸大学)
「学士力向上を図るフィールド科学の創設」(県立広島大学)
その他

【タイプB】(順不同)
「地域密着型環境教育プログラム」(北九州大学)
「現場主義に基づく地域参画型教育」(香川大学)
「都心の文化資源等を活かした知の創造と発信」(青山学院大学)
「体験型実習を基盤とする海洋環境教育の実践」(東海大学)
「酪農場での長期実習を組み込んだ新教育方式」(酪農学園方式)
「地域交流で生活の質を学ぶ実践的保健学教育」(群馬大学)
「地域貢献活動を活用した理系女性人材育成」(奈良女子大学)
「地域再生・活性化の担い手育成教育」(東京農業大学)
「流域主義による地域貢献と環境教育」(和光大学)
「医療現場との情報双方向性を持つ保険学教育」(九州大学)
その他

【タイプC】(順不同)
「博物館を舞台とした体験型全人教育の推進」(北海道大学)
「地域に教育の場を拡大した包括的教育の取組」(奈良県立医科大学)
「一年間の留学を基軸にした高度総合英語教育」(同志社女子大学)
「地域・産学連携による自主・自立型実践教育」(明治大学)
「地域社会問題を学生想像力で解く学びの仕組み」(立命館大学)
「模擬学校による教育実践力向上モデルの開発」(琉球大学)
「海と湖を舞台とするやる気触発プログラム」(福井県立大学)
「販売現場に直結した問題発掘型スタディーズ」(大阪府立大学)

今年の大学申請総数は739件、採択数は117件(上記A、B、Cの28件はこの117件の内の28件)だが、全体の傾向は、私の考えではこの「タイプA」と「タイプB」に代表される。「タイプC」はタイプAとタイプBの混合型と考えて良い。

【タイプA】は、パーソナリティ教育をテーマとしている。いわゆる非専門系のテーマが並ぶ。「討議力」「問題発見解決型」「人間力」「知的能動性」「実践型」など。

【タイプB】は、教室外教育タイプである。「酪農場」「都心の文化資源」「地域」「医療現場」「体験型」などの言葉が並ぶ。講義授業を脱して、学生自体のなんらかの行動に期待するというもの。

【タイプC】は、パーソナリティ教育を教室外教育によって行うというA+B型である。「博物館」を使って「全人」教育を行うとか、「海と湖」を使って「やる気」を触発する教育などである。

タイプA~Cに共通している傾向は、教室内で1(教員)対n個(学生)で対峙する古典的な専門の授業がもはや成立していないということである。

だから教育目標が抽象的になる。その結果がパーソナリティ教育。しかし「討議力」「問題発見解決型」「人間力」「知的能動性」などの「パーソナリティ」教育が大学教育の課題でなくてはならない理由はどこにあるのか。

そもそも「討議力」「問題発見解決型」「人間力」「知的能動性」を「教える」ノウハウを有した大学人がどこにいるというのか。そんなテーマで修士論文や博士論文を書いた大学人などほとんどいないだろう。ここに大学教育改革の苦悩が読み取れる。

もう一つの傾向は、学生の主体的な活動を期待するB傾向。この型の教育は苅谷剛彦などがアメリカカリフォルニア州の「実験」をあげて指摘するようにほとんど失敗している。

苅谷は、こういった傾向が趨勢をなす理由を以下のように説明する。

「知識の陳腐化が急速に進む情報化社会、予測できない不透明な未来、そして、生涯学習の時代 ― こうした時代認識をもとに、問題発見能力や問題解決能力、さらには批判的思考力の育成が求められる。このような社会の変化を目の前にすれば、子ども中心主義の教育こそが、これからの時代の教育だと言った主張はもっともなことだと思えてくる」(『教育改革の幻想』講談社現代新書)

そして苅谷はこの認識の間違いを3点指摘する。

1)急速に陳腐化しているのはマスコミ的な流行の知識やニュースであって、「学校で教えられる知識」ではない。「高校程度の社会科の知識」なしには「新しい知識の理解」はありえない。

2)情報社会の「情報量が多くなればなるほど、どの情報が正しいのか、問題解決にとって意味があるのかを判断するために、周辺的な知識を集め、当該テーマに関する知識が必要になる。(…)集めた情報を理解した上での取捨選択が不可欠になる以上、ここでも基礎的な知識の有用性は否定できない」

3)生涯学習時代だからと言って「学び直すにしても、どの段階から始めればよいのか。中学程度の基礎知識があるのとないのとでは、学びのスタートラインはずいぶん違ってくるだろう。(…)生涯学習の機会を広げるためにも、基礎的な知識を学校教育においてどれだけ広く子どもたちに理解させておくのかが重要」

苅谷は、ここで学識でも何でもない普通の話をしている。しかも議論がかみ合っていない。
私は「子ども中心主義」の問題を次のように考えている。

「子ども中心主義」の問題は、OUTPUT重視ということである。つまり「教える」ことより(=INPUT重視)、「使う」(使わせる)ことが必要という観点から出てきている。つまり、単に「教える」ことではなく、教えたことを「使わせる」ことが必要、「使う」ことによってこそ教えたことも身につくという考え方である。これは間違いでも何でもない。正しい。

問題は、「単に教えるだけでは」と言う前半の認識。はたして(最低限の知識を)教えているのか?ということだ。そうなると苅谷が普通に指摘した問題が出てくる。

なぜ苅谷剛彦の指摘が「普通」かと言うと、彼はINPUTがあってこそOUTPUTがある、という当たり前のことを言っているに過ぎないからだ。しかし、「子ども中心主義」が本当に言いたいことは、その(普通の)順序で「教える」「学ぶ」を考えているからこそ、本来の教育が出来ないということである。

テッドネルソンの指摘を待つまでもなく、学ぶ順序は万人に開かれているだろうからである。

「子ども中心主義」の本来の動機は、「基礎」教育(INPUT教育)の階層そのものに、OUTPUT重視の教育を持ち込めないのかということだ。この提案も悪くはない。カリフォルニアの当事者たちもそう考えたのだと思う。ここが苅谷と議論がすれ違っているところだ。

「子ども中心主義」の本当の問題は別にある。3点ある。

1)「詰め込み」(INPUT主義)でやろうが、OUTPUT型でやろうが、その場合の「基礎」とは何を意味するのかがはっきりしていないということ。「子ども中心主義」の当事者たちは、子どもが「熱心に」「活き活きと」学んでいる姿を見て大概の場合満足してしまう。「特色GP」も「教育GP」も、この子ども(学生)中心主義のプログラムの達成度評価は「学生アンケート」の満足度調査結果で終わっている。

2)したがって、「子ども中心主義」の問題は、「基礎教育」を忘れるところにあるのではなくて、何を持って子どもの「能動性」を育成したというのか、という「評価」を忘れるところにある。大概の場合、「子ども中心主義」(=「参画型」教育とも言う)の評価タイプは心理主義的なアンケートで終わっている。ここに問題がある。

3) もう一つ、苅谷剛彦が指摘していない問題がある。「子ども中心主義」に立つときに、教員は何をするのだろうか。それは「産婆役」と言われたりもするが、産婆にも産婆でかなりの専門知識がいる。「子ども中心主義」の動機がそれなりに斟酌される理由の一つは、講義型授業では、一方通行になり学生がほとんど寝ているというものだが、それは講義の教材が足りないこと(あるいは場合によっては専門性が足りないこと)が大半の理由だ。

この問題(教材不足)を、「子ども中心主義」は覆い隠す危険性がある。「子ども中心主義」であっても教員の労力は同じ。あるいは講義よりも労力はもっと増すはずだろうにその問題が見えなくなっている。

講義と参画型授業との違いは教員関与の有無ではなく、関与の仕方の違いの有無が問題にされなくてはならないのに、それらが棚に上げられてすべては「学生アンケート」で終わっている。つまり「子ども中心主義」教育は、極端に言えば講義の手抜き授業を隠蔽する形式に他ならない。

最近の大学講義では、かなりの教材を用意しないと大概の学生は寝ている(あるいは一授業内での“格差”がひどい)。それを嫌がる教員は、発表型、討論型の授業に変える場合が多い(これについては→http://www.ashida.info/blog/2008/09/_nhk.html#more)。それを従前の同じコマ数の講義でやると講義で教える基礎知識はおそらく半分以下に落ちるだろう。学生が「主体的」になる分、消化しなくてはならない知識量は半分にも満たない。そのために発表型、討論型の授業では、全体の発表や討論の様子を評価するという履修評価になっている。曖昧にやるしか60点以上を付けられないからだ。要するに「子ども中心主義」は、講義の半分の単位量しかない実習授業なのである。


以上3点を踏まえるなら、「講義」をまともに出来ない教員が「子ども中心教育」の「産婆役」になれるはずがないと言える。

だからこれは中等教育までの「子ども」教育の問題ではない。利根川進は『精神と物質』(文春文庫)の中で、京大の大学院修士時代は「自由に実験をしなさい」と言われて実験ばかりやっていたと言う。その後アメリカのカリフォルニア大学の修士課程に入り直したら、週に五コマの講義授業をみっちり受けることになった。彼はそこで京大修士の「実験」時代に自分が何をやっていたのかをはじめて理解できたと言う。「日本の大学院にディシプリン(discipline)はない」と利根川は言う。

私は、この利根川の「ディシプリン」を「基準と評価(に基づいた訓練)」と訳したい。INPUT派にもOUTPUT派にも欠けているのは、この意味での「ディシプリン」なのだ。どちらにも共通しているのは「やりっぱなし」ということである。

そして「基準と評価」を適切に形成することが出来るのは、「専門性」そのものの仕事である。自分自身が最も得意な専門分野の「ディシプリン」を離れて、「討議力」「問題発見解決能力」「人間力」「知的能動性」などを自立的にテーマとする教育が出来るだろうか。

何歳になっても必要とされるような「討議力」「問題発見解決型」「人間力」「知的能動性」などというテーマの専門家などいないだろう。ビジネス書などにそういったテーマを掲げた書物が登場することがあるが、読んでみるとその著者自身の「討議力」「問題発見解決能力」「人間力」「知的能動性」を疑うものばかりだ。

研究の大学か、教育の大学か、という問いかけが、まるでそれが大学間格差のように大学を実体的に分離する問いでしかないとすると、専門性教育という大学本来のテーマはどこに位置付くのか。

学生の基礎学力が低下しているという問題と専門性教育を放棄するということとは直接同じことを意味しないだろう。専門性の高い教員が集まった大学では、高校までの(たとえば)英語教育とは異なる興味深い英語教育の可能性がいくらでもあるだろうからである。

まさか大学に入ってまで、英語のitを「天候のit」「時間のit」「代名詞(それ)のit」などとバカな教え方をする文法学の教員はいないはずだ。その意味では教育性と専門性は分かちがたく結びついている。学生の「基礎学力が低い」のは、教員の専門性が低いことと無関係ではない。

高校までの授業がつまらないのは、高校生が専門性の高い教育を未だ受けたことがないからだと言っても良い。高校までの勉強で優劣がつくのは、つまらないことに耐えられるかどうかの能力に過ぎない。それはある一定の能力だが(人生、そう面白いことばかりがあるわけではないということの)、「優秀な」高校生とは教員のつまらなさを補うことの出来る生徒だと言っても良い。

だから大学の名誉教授あたりが、中学校の数学を教えれば数学嫌いはなくなるだろう。専門性=難しいということには直ちにはならない。教員の専門性が低ければ低いほど学生(生徒)は「暗記」教育に追い込まれて、勉強のきっかけを失う。大学教育が面白いのは(もし本来の専門性の高い教員に出会えば)暗記教育から開放されるからだ。形式的な「基礎学力」論を乗り越えるキーワードは〈教育〉ではなくて、むしろ〈専門性〉なのである。

現在は少し崩れつつあるが、昔は学部や専攻を代表する名誉教授級の教員が〈概論〉講座をやっていた。たとえば、「経済学概論」、「社会学概論」、「哲学概論」というように〈概論〉講座を張れるということは、カリキュラム上の教員階級表現だったのである。

これは専門を極めた教員だけが、初学者(教養課程の学生)の指導に当たれることをも意味していた。何から学べばよいか(何から教えればよいか)を〈知る〉には、全体を(終わりまで)極めないと見えてこないからだ。中途半端な専門家ほど、学生を選別(差別)するが、専門を極めたものは「基礎学力」などという陳腐な基準で学生を選ばない。学生を差別するのは、学生の〈始まり〉が見えないからなのだ。〈始まり〉が見えないのは専門性がないことと同じである。概論教授は初学者であっても〈始まり〉を見出せる。それが〈概論〉教授の名誉と機能だったのである。

私の考えでは、基礎学力の低下は、教員の専門性低下と同時に起こっているとしか言いようがない。

にもかかわらず、「科研費」助成はますます尖った専門研究になり、「特色GP」「現代GP」「教育GP」助成は軟派なパーソナリティ教育に成り下がっている。両岸をつなぐ橋がない。

その結果、大概の申請内容は、一科目、あるいは数科目のシラバスを詳細化したものでしかなく、カリキュラム全体が目指す目標に影響を与えるような内実も持っていない。あるいは、大きな目標が掲げてあっても、動いている科目はほとんどわずかで主要専門科目はシラバスすら何の変更もない。カリキュラムのコアとなる科目や教員が動いている気配がない(採択されたプログラムはこの問題が少しはクリアーされているということだ)。

「教育GP」が新設置基準の三項目(目標+授業計画+FD)+自己点検評価を、取組の審査基準の一つ(前半)に加えたのは、カリキュラム全体の「人材目標」を形成することに少しでも関わるような「特色ある」取組を期待しているからである。前半と後半は本来は無関係であってはならない。

あるいは前半の新設置基準と直接の関わりはなくても、一科目の特長、あるいは一プログラムの内容がカリキュラム改革の端緒となるようなモチーフを有しているかどうか、が重要な要素となる。

なぜなら、一授業の、一プログラムの、一教員の「特長ある」取組などは、どんな大学にでも一つや二つ必ずあるだろうからである。それはどんなにひどい学校でも優秀な学生は一人や二人は必ずいるというのと同じである。

重要なことは、「組織的な」取組である。理想は、その取組によって学部科目の「シラバス」全体が(少しでも)書き換わるような取組なのだ。これが教育目標+授業計画(内容と評価)+FD+自己点検・評価が当該「取組」と一体になって審査されるようになった「教育GP」の新しい評価水準である。

大学が、そうは言っても、なかなかその体制に踏み込めない理由はあきらかだ。長年の教授-助教授の講座主義体制が科目の細部に(学内第3者が)入り込めない弊害になっている。助教授制が廃止され准教授制が2007年から始まったが、これもこの教授講座主義を相対化する施策の一つ。カリキュラムに向かって全教員が同じ資格で参画せよ、というメッセージなのである。

これは現在の大学ではなかなか難しい課題だろう。「特色GP」も「教育GP」も依然としてカリキュラム全体に影響を及ぼす取組が少ないのは、カリキュラムを意識しながらシラバスを書く必要のない講座主義がまだまだ強い影響力を持っているからである。パーソナリティ教育はそのあだ花のようなものだ。

専門学校に教育上の勝ち目があるのは、設置基準(教員に対しても科目配置に対しても)が弱い分、カリキュラム形成が比較的やりやすいということである。たくさんの(小うるさい)専門家がいるわけではないことを逆手にとって、全体目標をしっかりとさだめ、全教員の共同戦線で臨むという教育が専門学校には出来るはず。厳密に累積的なヒエラルキーを有したカリキュラムは現在のところ専門学校以外には出来ないだろう。

その場合でも全てを見通せる専門性の高い優秀な教員が最低一人はいるが、大学よりははるかに動きやすいはず。「全てを見通せる専門性の高い優秀な教員」というのは矛盾であるが(「専門性」と「すべて」は矛盾)、その分、教育目標を余り大きく広げずに、「専門性」と「すべて」が矛盾しない程度に限定した教育目標をかかげ一丸になって厳密な相互対応を有した科目内容を教えきる体制を築けば、大学とは別の高等教育の柱となるに違いない。

今こそ、専門学校は多科主義や選択(コース)制を取らず(両者とも反カリキュラム主義)、自分たちに何が出来るのかを内省すべきなのだ。同系で多科体制を取ったり、選択コース制を取っている学校にまともな専門学校はどれ一つない。〈人材〉を作る気など全くないと言ってよい。

要するに〈カリキュラム〉開発ができるかどうかが、大学、専門学校双方の係争点なわけだ。大学は講座主義がそれを阻害しているが、専門学校では教員組織がそれを阻害している。

現在の専門学校では、カリキュラムを書いたりシラバスを書いたり教材を作ったりすることの出来る教員と出来ない教員が混在している。また実習は出来るが講義は出来ない教員が数多く存在している。それらを一括して〈教員〉と呼んでいる。名称が同じということは、給料や業績評価という点でも年齢給が基準になっている場合が多いということだ。まともな教員もTA(実習授業しかできないティーチィングアシスタント)並の教員にも同じ給料を出しておいて、カリキュラム開発、教材開発ができるはずがない。

大学教員でさえ(大学院の博士課程を出ていてさえ)、助手、助教、准教授、教授という階層(そしてさらにはtenure制)を有しているのに、ほとんどまともな教員資格のない専門学校の教員が質的な階層を持たないというのは致命的なことだ。

大学に比べれば助成金のほとんどない専門学校で、この教員組織体制を続ければ、カリキュラムを開発することの出来る優秀な教員はひとりもいなくなるに違いない。実際にいない。だから専門学校のカリキュラムは資格カリキュラムか、官庁の認可カリキュラムしか存在していないのである。〈教員〉はティーチャーではなくて、トレーナーなのだ。

そういったカリキュラムはカリキュラムの不在を証明するカリキュラムであって、本来のカリキュラムではない。本来の「特長」がないからである。大量学生時代にはそれでも成り立ったかもしれないが、少子化と大学全入双方に挟まれた専門学校は、もはや「資格」も「認定校」も通用しない。それくらいの平板な教育は、偏差値50以下の大学が(偏差値50以下であっても)すぐにでもはるかに魅力的な仕方で取りかかるだろうからである。

結局、専門学校の教育改革もそういった教員組織の致命的な問題を抱えて、「パーソナリティ教育」に、あるいは「子ども中心主義教育」に逃げ込もうとしている。資格や認定カリキュラムの中にそういった授業を差し挟んで、「ディシプリン」のない「(楽しい)実習」授業、「選択科目」に逃げ込もうとしているのである。

私たち東京工科専門学校が取り組んだ教育改革は、この危機感に対してのものだった(次項に続く)。(この項終わり)。

(Version 10.0)

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