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 表現の成立について(メモ) ー 検索か、終わりか 2018年05月03日

いろいろな〈思い〉が、言葉の〈表現〉の〈より先に〉あるとすれば、〈表現〉の課題は、言葉の時間過程なのだから、〈思い〉の存在は、時間がかかる言葉の展開と絶えず矛盾する。そもそも時間をかけて繰り出した言葉の全体も、最後まで読まれないかもしれない。なにから言葉にすべきか、なにをもってピリオドを打つか、これは極めて人工的な(意識的な)行為だが、それも、〈表現〉が時間的なものとの戦いによって構成されているからだ。

そもそも、何をもって〈終える〉か、というのも、コンピューター(AI)には無縁の時間であって、コンピューターの本質は、やらせればいくらでも終えずにできることを本質としているのだから、ピリオドを打つという行為は人間に固有なことなのである。

というのも、もっとも人間に固有な芸術も、そこに〈作者〉が存在しうる度合いは、ピリオドを打つ能力と比例している。これ以上はない、とする能力は、コンピューターとは真逆で、コンピューターの野望は無限のデータベース形成(経験の集約)だが、芸術作品は反データベース、反経験だからだ。それを一言で言うと〈終わる(終える)〉能力。

だから、〈終わる〉〈終える〉能力のない人は、〈表現〉できない。言い訳に終始する。だらだらと。だらだらと生きる、だらだらと死ぬ生き物のように。あるいはだらだらと続くNetflixのドラマのように。

そういう人は、データベースに親和的。だらだらと検索する。〈表現〉の敵は、〈検索〉と〈データベース〉だ。

前からの(先にある)言葉は、次の言葉、その次の言葉によって、どんどん否定されていく。そして最後の言葉(段落)が最も遠い最初の言葉までも否定する力を有したとき、人ははじめてピリオドを打つことが出来る。まるで最初の言葉はそうでしかあり得なかったように、否定はいっきに肯定(存在)に転化する。〈作品〉は〈そこ〉で完成する。

終えたい終えたいと思いながら、彼は、最初の言葉を繰り出す。人は終えるにも時間がかかる。〈作品〉の創造が神の創造と異なるのはそのためだ。自殺が不可能なのは、時間がかかることに通常の意志が耐えられないからだ。自殺に見える人の死も事故死に過ぎない。

その意味で、〈作品〉こそが現世に於ける死の結晶だとも言える。人は〈作品〉のピリオドによってこそ死ぬことができる。

サルトルは、他人との色々な別離は人が死ぬことの準備だと言っていたが、終わりを蔵した芸術作品を堪能することこそが、人に〈死〉を予感させているのである。逆に、死は〈作品〉の中にしか存在し得ない。死を体験した人などいないのだから。〈作品〉の共感というのも、死の共感なのである。

〈作者〉とは生きている内に死に終える人のことだ。たった一冊の処女作のために何冊も書き続けられるのも作者の特権に属している。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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