選択的夫婦別姓問題について ― 貧相な個人主義のなれの果て(Spotifyポッドキャスト解説付き) 2025年11月03日
夫婦別姓を、〈家庭〉より〈個人〉という思想で持って主張する人は、何を考えているのだろう。
たぶんそれは、性愛の否定でしかない。性愛の本質は〈子供〉を疎外化するというのは、ルソー的な自然主義やロマン派(ゲーテやノヴァーリス)の「内なる心」論に反して、ヘーゲルの考えたことだが(『精神現象学』、『法哲学』など)、その疎外の意味は、二人で一つという性愛の本質(子供)を言い当てている。
その場合、その子供の姓が男のものであれ、女のものであれ、それはどうでもいいことだ。精神現象学の言葉で言えば、「快楽(けらく)と運命(さだめ)」ということが一体になっていることを、性愛の本質として言い当てたのがヘーゲルのこの言葉だ。
二人「である」(この「である」の化身が子供)ことを引き受けたくないのなら、もともと結婚などしなくてもいいではないか。もっとも、法的な結婚の有無と関係なく、性愛が生じれば、「運命(さだめ)」もまた生じるが。
近代化の果ては〈個人〉なのだとしたら、そして、それが性愛における子供の否定だとしたら、これは、最後には親の否定に行き着くに違いない。彼女や彼も愛する人を〝拘束〟するが、その意味で言えばもっと子供を拘束するのは〈親〉だからだ。〈個人〉(の自立性、純粋性)にとっては、彼・彼女以上に親こそがノイズだからだ。
だとしたら、この(ホリエモンや古市が好きな)個人主義的な個人とは何なのか。
二人「である」ことを引き受けることのできない個人とは、なんと非力な個人であることよ。それは、親を引き受けることのできない非力な個人であることと同じ事態だ。大人になるとは、どんなふしだらでだらしのない親に対してでも、「お父さん、お母さん、私の親でいてくれてありがとう」と言えることではなかったのか。それが言えないとしたら、その個人は「イノセントな」個人に過ぎない。ホリエモンも古市も単なる〝ガキ〟に過ぎない。(了)
※この記事のSpotifyポッドキャスト解説はこれ→選択的夫婦別姓問題について ― 貧相な個人主義のなれの果て
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/1416