「試験の点数」軽視と教育格差について ― 〝主体性〟〝人間性〟教育が教育格差を拡大することについて 2025年08月26日
教育の目標は「試験の点数ではない」、「点数で子供の〝能力〟を測るべきではない」と言われて、もっとも被害を受けるのは、文化的にも経済的にも貧乏な家庭の子どもたちだということを未だにわからない連中がいる。
その連中は、「知識だけ」ではなく、〝主体性〟や〝人間性〟が大切とか言いながら、文化的にも経済的にも貧乏な家庭の子どもたちを食いものにしているだけのこと。そもそも「主体性」「人間性」という科目免許を持った教員などいない。そんな教員審査もされていない。誰が何の名目で、そんな〝審査〟ができるというのか。
そもそも泥棒も主体的に(場合によっては命がけで)泥棒をやっているわけだし、戦争のような非人間的で卑劣なことを行うのも人間性と言われているものの一つです。人間的であるからこそ非人間的であることはいくらでもあります。主体性とか人間性という耳障りのよい言葉は、問題の本質を解決する言葉ではなくて、むしろ混乱の元になっている言葉です。
具体的には「コミュニケーション技法」や「自己表現力技法」という科目の先生ほどつまらない授業をやる連中はいないのだし(大学の場合)、中等教育の「◯◯探究」なんて科目は〝主体的〟な分、さらに無知蒙昧な授業になっている。実質「◯◯探究」授業は受験放棄の授業でしかない。受験だけが人生ではないと言いながら。
現代の(中曽根臨教審後の1990年代以降)文科省の教育施策は、〈力〉(ハイパーメリトクラシー)能力ばかりを前面化するが、それは、勉強嫌いな子供たちには、無理して勉強させる必要はないという三流のエリート主義施策なわけだ。それでは、自らの省庁が三流だと宣言しているだけだ。無能な学校、無能な大学の教員たちを救済しているだけのことだからだ。
私立大学の6割が定員割れというのは、その種の抽象的な力(りょく)能力に走り、低学力学生の底が抜けているからだ。教育格差の拡大の実態はそこにある。入ろうと思えば、入ることのできる大学を高校生が選ばない事態もそこにある。もはや、「とりあえず大学だけは行っておけ」という〈大卒〉資格主義は通用しない。
なぜか。そこそこの伝統ある中位大学の偏差値もどんどん下がって、もはや無試験でも入学できる状態にあるからだ。いまや、中位以下の大学は、学力のない高校生(大学本来の教育に付いていけない高校生)の奪い合いになっているのです。偏差値50未満の国立大学さえどんどん増えている状況では、〈大卒〉資格主義の大学は崩壊する。
かつての中堅伝統大学が入りやすくなってきているという事態では、「とりあえず大学には行かないと」という層は、中身は何であれ、「名前のある」大学を選ぶのは当然のことだろう。どの大学へ入ってもその4年間の中身は大して変わらないのだから。
この〈大卒〉資格主義の中身というのは、期末試験などの厳格な成績判定で教員の教育目標や学生をしばらずに、のびのびと楽しく4年間過ごすという住宅パンフレットのキャッチのような大学作りのことを言う。教育ではそれを〈アクティブ・ラーニング〉と呼んでいるだけのこと。手足は動いているが、頭は何も動いていない。この種の授業は、出席だけしていれば、まず不合格になることはない。こんなことで保護者や高校生をだまし続けることができると思っている文科省の気がしれない。
底の抜けた大学教育に国庫助成をすることなど無駄遣いでしかない。教育助成を増やすことを言うのなら、バケツの底の穴(〝主体性〟〝思考力〟などの穴)を塞ぐことをまずやるべきなのだ。
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上記は、2025/08/24以降のツイートですが、それに対する反応として、もう〈学校〉には期待しないで、すべて自由化すれば、という意見もありました。「私は、もう私塾で義務教育の卒業資格を取れるようにしてしまえ、とさえ思います。ある程度の指導要領以外は自由にしてしまってはどうですか」というもの。それには、私は、以下の回答をしています。
それは、1985年に始まる中曽根臨教審第一部会(香山健一座長)の考え方です。
土光臨調で国鉄が民営化された。これは、国労(社会党)の解体を意図していました。それと同じように日教組を解体しようとしたのが、中曽根臨時教育審議会です。臨教審は、教育改革の組織であるにもかかわらず、日教組を動かし切れない文科省下に置かれず、中曽根首相直下の総理府に置かれました。国労と日教組の解体を目指した土光臨調と中曽根臨教審は、中曽根さんの宿願の政策エンジンでした。
左翼崩れの香山健一(中曽根ブレイン)が構想したのが、あなたとほぼ同じ考え方の学校民営化でした。もはや〈学校〉の時代ではないと。私塾も通信スクールもすべて学校教育として認めればいいじゃないかと。
はてさて、この考え方の問題は何だと思いますか。これに対抗したのが、有田一壽たち、学校派の第三部会だったのです。
歴史上、この第一部会と第三部会との対立は、「教育の自由」と「学校派」との対立と言われています。
香山たちの「教育の自由化」論は、反国家主義としての左派運動(日教組)に使われやすいとして、その妥協の言葉が、後に前面化する「個性」「多様性」教育という言葉です。個性論とか多様性論は、耳障りのよい言葉なので、自立的で中性的な言葉のように吹聴されていますが、もともとは臨教審における「教育の自由化」論が起源です。その分、左翼も右翼も、個性論、多様性論は大好きなのです。
で、この対立の意味が40年以上経ってもいまだに整理されないまま、右往左往しているのが、現在の文科省施策です。
教育の自由論の問題点は、それは、強者の論理だということです。ほっといても勉強する子供は、その子供の純粋な主体性なのではなくて、幾分かまともな家族に保護された主体性な訳です(高学歴な親に恵まれた)。自由化で、自由になれるのは、家族の自由に他ならない。
だから、教育の自由化論は、「家庭重視」(家庭教育重視)ということと相補的に登場します。臨教審でも独立の章をあてがって重視されています。元来保守派の自民党施策として、家庭教育重視が謳われるのはわかりますが、左派野党が、この尻馬に乗る理由はありえない。貧困家庭にどう教育機能が存在するのか。コロナ禍の教育では家庭環境の優劣が教育格差を前面化しました。学校の授業がダメでも塾や予備校(これらも家庭教育の延長に過ぎない)で補える家庭環境の有無もまた左派野党には許せない思想のはずなのですが、なぜか、個性、多様性という言葉を聞くと、左政党も賛成してしまうのです。
文科省は、個性や多様性重視政策をこっそり反省して、「学士課程教育の構築に向けて」(2008年12月24日)において、「多様性と標準性の調和」という方針を出しました。この「標準性」の担保なしに、個性も多様性もないという至極まっとうな方針でしたが(単位制の実質化、成績評価の厳格化などがここではじめて明確に打ち出されたのです)、民主党政権交代と重なり、雲散霧消したのです。その後は、「多様性と柔軟性」となり、〈標準性〉はすっかり消えてしまいました。〈学校〉の家庭・地域依存はまずます加速し、学校自体は家庭・地域の凸凹をそのまま再現するもっとふにゅふにゃな組織になったのです。
しかし現代の家族など、ほとんど解体しているのでは。スマホ登場以降もっとそうです。そのとき、子供の自由、教育の自由と言い出すと、貧困家庭の子供の教育は、今よりもっと脇に追いやられる。この問題をどうするのかということが、私の、点数主義を放棄するなという主張の背景です。〈家庭〉の反対語が〈点数〉です。

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