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 信心は生死を超える… 2004年12月24日

私の母などは人からは信心深いと思われているが、手を合わせながら「お願い」ばかり続けている。息子の私が「親孝行でありますように」とか、息子の私に季節の食べ物を送ったら「ありがとう」の電話の一つくらいかけてくるように、とか、いちいちうるさい。私は彼女から物が送られてくると、たまには「電話を下さい」というシグナルだと思っている(それがわかっていてもなかなか電話をできないが)。だから、本当は受け取らないほうがいい。

本当の贈答とは、感謝を期待しないことだろうが、彼女の贈り物は、したがって贈り物ではない。自分の(不肖の)息子に電話を期待するというのはまだまだ煩悩が深い。しかし母の煩悩は、生命力そのものだ。人間、煩悩がなくなれば、生きていけない。煩悩に高尚な煩悩、欲深い煩悩なんて区別があるわけがない。

本来の信心は、反生命的なものだ。生きることとは何の関係もないし、ましてや「良く生きる」こととは何の関係もない。仏教というのは、特にそうで、だからオウム事件も起こる。オウム事件は麻原が仏教的だからこそ起こったのであって、その逆ではない。輪廻転生なんて、生命(あるいは生死)を拒否している概念だ。信心は、いつでも生死を超えている。

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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