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 返信: デリダ追悼(2’) ― 京都を散策するデリダ(たくさんの写真付き) 2004年10月12日

当時はまだ日本の誰も注目していなかったデリダを『声と現象』の本邦初訳(1970年:原書は1967年刊)以来追跡してきた高橋允昭(のぶあき)先生にとって、70年代後半〜80年代全体を支配する世界的なデリダ“ブーム”の中でデリダが初来日した1983年は、先生の仕事全体にとっても頂点とも言える時期だった。「これがあのデリダの紹介者の高橋允昭か」と私は彼の初講義で神々しく見上げたことがある。「脱構築(だつこうちく)」という言葉、「差延(さえん)」という言葉をどこかで聞いた人は、みんな高橋先生のこの訳業の空気の中で息を吸っている。この訳語に対してその後、異を唱える人もたくさんいたが、それもこれも(いい意味でも悪い意味でも)デリダ=高橋「現象」の中でのことにすぎない。

derrida(早稲田のデリダ)05.jpg
熱気あるふれる早稲田でのデリダ


新しい思想の発見という仕事は、いつも後からしかわからないという意味で、1970年の孤独な仕事(訳業)が10年以上の長い年月を経て日の目を見たわけだから、1983年秋のデリダと同行する先生の表情(特に早稲田の教授たちを前にしての)は「どうだ、私は正しかったんだ…」と言い続けているようにも見えた(高橋先生は樫山欽四郎先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4061596365.html亡き後、早稲田の哲学専攻からははじき出され、仏文専攻に籍を置いていた)。高橋先生が最も輝いていた時だったのである。デリダと同行することは確かに光栄なことだったが、それ以上にその高橋先生の誇らしげな(余裕のある)笑みが私には今でも忘れられない。

以下は、高橋先生が、1983年のデリダの初来日の“滞在記”を雑誌『海』で綴ったもの。どれほど高橋先生がデリダを愛していたのかがわかる。「愛していた」というのは誇張ではない。そうでないと異文化の“新人”を発掘するなんてことは本来出来ないからだ。それは一つの賭である。私も仲間と一緒に『還元と贈与』(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8A%D2%8C%B3%82%C6%91%A1%97%5E)という本を訳したことがあるが、訳している内になんてくだらない奴だ(著者マリオンhttp://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A5%EA%A5%E5%A5%C3%A5%AF%A5%DE%A5%EA%A5%AA%A5%F3&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=1&s1=za&dp= はフランス現象学の領域ではそれなりの大物だが)、と思い始め、最後まで訳すのがイヤになったことがある(おかげで訳者後書きを書くのは大変だった)。一部分や一論文に賛意を示すだけでは訳業はなりたたない。身も心も捧げるつもりでやらないと、翻訳なんて出来ない。※その時、訳者を代表して書いたのが、「存在論から現象学へ」という後書き
(http://www.ashida.info/blog/2004/10/hamaenco_4_100.html)


だからデリダを無名の頃から10年20年に渡って訳し続けた高橋先生の“愛情”は並々ならぬものだったのである。デリダに“けち”をつけると先生自身の顔がゆがむことをみたことが何度あったことか。

以下は、その先生の気持ちが一番素直に出ている1983年、デリダ初来日の滞在記である。雑誌『海』(1984年2月号)が初出で、後に1989年『デリダの思想圏』(世界書院) ― この本http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%83%66%83%8A%83%5F%82%CC%8E%76%91%7A%8C%97 は先生の論文の集大成とも言える書物である ― に収められた。文章のところどころで、同行した私たちがとった写真をリンクしておいた(あまりいい写真ではないが)。今となっては高橋先生も許されることだろう。今頃一歳年上のデリダと一緒に、このときの京都滞在の模様を語らっているかもしれない。

後日、「あのニーチェのように笑う芦田は元気か?」とデリダが私(高橋先生)に心配して聞いていたよ、と高橋先生から聞かされたときには、少しうれしかったが、フランス語が堪能でない私は実はデリダの前で笑い続けるしかなかっただけのことだ。それもこれもなつかしい。合掌。

●デリダの来日

デリダ自身の表現を借りるなら、それは「地獄のリズム」の15日間であった。10月23日(1983年)の正午近くに成田に降り立った彼は、時差ぼけに悩まされながらも、翌日の夕方6時には、東京日仏会館の大ホールを埋め尽くした聴衆を『バベルの塔』で魅了した。これを皮切りに、東京で講演三回、討議会一回、ターブル・ロンド一回、インタヴュー五回、サイン会一回、京都でゼミナール三回、福岡、仙台で一回の講演と文字通り息つくひまもない日程であった。

難解をもって鳴る哲学者だというのに、どの会場も大変は盛況で、特に東京日仏学院での『掟の門前』には多数の学生、教師がつめかけ、場内に入れない人たちは別室のテレビを通じて聴かねばならない始末であった。二年前に胆石を煩ったとかで、77年に私が初めて彼にあった頃に較べるといくらか衰えを見せていなくはなかったが、それにしてもこの53歳のユダヤ系フランス人の講演ぶりはまさに精悍そのものであった。「エクリチュール」の問題に打ち込む彼の、執念とも呼べそうな情熱の熾烈さを感じたのは、たぶんわたしひとりにとどまるまい。

多忙なスケジュールに追い立てられていながらも、京都での四日間は彼にとって日本滞在の楽しいひとときであったにちがいない。詩仙堂、銀閣寺、竜安寺などを訪ねる一方、哲学者の道を逍遥したり、山水画を鑑賞したり。デリダは歩くのが好きで、賀茂川にかかる荒神橋あたりの川べりをぶらついたあと(下記写真)、

加茂川散策.jpg

加茂川散策休憩中(高橋、デリダ、私).jpg

丸太町通り近辺の店々を気の向くままのぞき、しまいには四条河原町あたりまで足を伸ばしても、いっこうに疲れを見せなかった。彼はとりわけ毛筆や和紙といった、エクリチュール(書くこと)に関係ある品物に興味を示し、息子たちの土産にとその種のものを何点か買い入れた(下記写真)。

丸太町散策書具屋3.jpg

とにかく、「エクリチュール」、「痕跡(トラス)」、「刻印(マルク)」といった、彼のテクストによく出てくる言葉が、いつも彼の心を領しているらしく、文房具店の店先でシャチハタ・ネームを見かけたときにも彼はその三文判の群れに強く心を引かれ、同行の学生たちにその用途をくわしくたずねたばかりか、既製品のほかに特別注文も可能と知ると、さっそく自分もつくらせたい、と言い出した。それも、日本の文字(エクリチュール)で彫らせたいというのである。二日後、「J・デリダ」と刻まれた印章を紙片に試したとき、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべてよろこんだ。六年前、われわれは、グランシェをまじえて対談をもった。その折、出版社の要望でデリダが、私宛の手紙という形式で自筆原稿を書くことになった。すると彼は、冒頭の、私への呼びかけと、それから自分自身の署名とは、日本のエクリチュールで書きたいと言い、私のつくった見本をまねてそのようにした。書き終えた彼の顔には、やはりこのときと同じほほ笑みがあった。(「他者の言語」・「現代思想」1977年7月号参照)。

彼が京都御所の門前で、カフカの「掟の門前」に出てくる田舎者のポーズを演じ、それを写真に撮らせた話は(その時の実際の模様は下記写真参照のこと)、

掟の門4.jpg

掟の門2.jpg

すでに他のところに書いたが、(「ふらんす」1984年1月号参照)、「世界の遊戯」をテクストに書きつけるこの「メタ哲学者」はこの種の戯れが好きなばかりか、真剣な議論のさなかにも折おりの言葉遊びまじりの冗談を差しはさむ。ある「深淵的(アビッサル)な構造」に思考をめぐらしながらも、その構造は「非−根底的な、表面的であると同時に底のない、常にまだ《浅い》構造である」(『衝角』(エプロン))と説く彼は深淵ぶったり孤高に構えたり、といったポーズが大嫌いなのである。

嵯峨野めぐりの道筋をたどっていたときのことである(下記写真)。

苔寺1.jpg

ふと私は木の間がくれに、古びた墓地が日ぐれ時の弱い光を浴びてひっそり広がっているのを見かけた。デリダにそれを指摘すると、彼はわざわざ墓地の中に入っていき、静かに墓を見守りながら日本流の弔い方につて質問を重ねた。まことにそれは、「神の死」のあとの「喪の作業」に心を砕き、コギト・エルゴ・スムと宣言する精神の生の中にすでに死がひそんでいる、と書きつけるニーチェアンならではのことであった。

日本料理が大好きで、エコール・ノルマルで哲学を勉強中の長男とよくパリの日本レストランに足を運ぶと語るデリダは、伊勢長の懐石料理、貴船ふじやの川魚料理(下記写真参照のこと)をはじめとして、

貴船追加1.jpg

貴船derrida02.jpg
一番左は、29才の私。


南禅寺門前の湯豆腐(下記写真参照のこと)

南禅寺(デリダと高橋先生)2.jpg

瓢亭の松花堂弁当、すし、てんぷら、関西風うどんなどを、慣れた箸さばきで実に楽しそうに食べた。とくにさしみには眼がないらしく、食事時になって今日は何を食べましょうか、と私がたずねるとポワッソン・クリュ(生魚)にしよう、と提案したことが一、二度にとどまらなかった。

そんなわけで、ある日の夕方われわれ一行は山科のとあるすし屋に車を走らせた(下記写真)。

山科の寿司屋.jpg

八畳ほどの和室で食卓を囲むわれわれの眼前に、大きな桶いっぱいに並んだ色とりどりのすしが運び込まれると、彼は「美しい」と驚嘆の声を発し、上機嫌でポワッソン・クリュを賞味した。

ところが、食後、パリ近郊の自宅に電話して部屋に戻った彼は、緊張した面持ちで突っ立ったまま、「変なんですよ」と同行の若いフランス人の方を向いて言う。電話口に出たのは中学生の次男だったが、子供の話がどうも腑に落ちないし、その上、そうこうするうちに電話が切れてしまったのだという。デリダの話を聞いている私に、学生のひとりが小声で注意を促すので見ると、デリダは店のサンダルをはいたまま畳の上に立っていた。

彼は家族に何か事故でもあったのではないかと、しきりに心配していたが、二時間後には再度の電話で安堵の溜息をついた。いつもは大学の寮に住んでいて、日曜ごとに親元へ昼食を取りに帰る長男が、電車の中で本を読みふけってるうちに一駅乗り過ごし、そのため車で彼を迎えに行ったデリダ夫人と次男との連絡がうまくつかなかったのであった。

11月6日の正午少し前、われわれ家族三人に見送られて、デリダはエール・フランスに乗り込んだ。折り返しパリから届いた手紙の封筒には「J・デリダ」の封印が朱肉も鮮やかに押してあった。(『海』1984年2月号初出)


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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