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 病院は面白い。 2004年09月25日

病院は、面白い。今日も朝から、家内のMRI検査で約1時間、その後ステロイド点滴で午前11時から、3時間くらいの予定で待たされているが(ただいま12:40)、老若男女、貧富差、職業差入り乱れていろいろな人が私の眼前を通り過ぎる。キョロキョロしているのも怪しいから、時間潰しに、例のエミリィディキンスン詩集(思潮社の「海外詩文庫」版)を読んでいるが(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=341.334.3)。

これほどまでに多彩な人に出会えるのは、ここが病院だからだ。

人は生きることよりも確実に死ぬ。生まれることは偶然だが、死ぬことは必然だ。言いかえれば、死の前でこそ人は、平等だ。それに死は代理が効かないから、必ず自分を参加させるしかない。散髪も病気に近い。これも代理が効かないから自分を介在させるしかない。散髪もまた身体を介在させているからだ(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=233)。そして身体を介在させるものの究極は死、ということになる(要するに死は“避けられない主体性”、最も受動的でありつつ最も主体的、という矛盾概念だ)。だから、世俗的、社会的なあらゆる差異を超えて病院は、人間の博物館になる。それは〈死〉が点や瞬間(=物理的、生理的な切断)ではなく、世界より広い振幅だからである。

自動車ディーラーには幸せな人しかこないし、映画館には若いカップルしかこないが、病院では、退院する人、退院で迎えにくる幸せな人も含めて、いろいろな人が往来する。自動車免許をコネで「頼んで」手にいれる芸能人がいるらしいが、病院ばかりは芸能人であっても自分で来るしかない。韓国の厳しい兵役をヨン様は「目が悪い」という理由で免れたらしいが(あんな優しい顔をしながら、彼は実際は国家犯罪者なのである)、「目が悪い」のなら病院へ行くことからは免れることはない。軍隊よりも病院の方が強制力がある。軍隊を脱走したジェンキンスさんだって、病院には入院した。長嶋もジェンキンスもここ東京女子医大(http://www.twmu.ac.jp/)に来れば会うことができる(現に私の家内は入院中長嶋と二人っきりになったhttp://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=284.124.58)。それほどに、死の強制力は強烈だ。

だから、人間が〈多様〉であることを本当に知りたければ、病院に来るのが一番だ。17、8の物心のつき始めた子供をつれてきて一日中病院に来る人たちを見せ続けてやれば、健康、非健康以前に人間の〈多様〉がわかる。自動車の中の男女の悲喜こもごも、映画館のどんな喜怒哀楽よりも振幅の大きな泣き笑いがここにはある。ここは、死の博物館だからだ。動物園を訪問した後は、病院訪問も日程に入れた方がいい。

私だって、家内中心の時間にこんなにも素直に付き合っている(病院ならではなのだ)。若い昔に、京都河原町の路上で、家内を8時間以上も待たせたことがあったが(待っている方も待っている方だが、待ってると思って行く方も行く方だ)、長い二人の時間(=私中心の時間)の中で、こんなにも私が家内に合わせてる時間はない。私を知る者からすれば、この女子医大の私の待ち風情は、それ自体が「芦田の博物館」だ(だから私は誰からもここでは見つからないようにしている)。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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