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 校長の仕事 Part9 ― 作品批評という授業スタイル 2003年09月23日

一人一人の作品を授業の中で通観しながらの作品批評という授業形式には、処理しなければならない要点がいくつかある(事例・教材研究が終わっているとして)。3D科の藤井先生の授業(「DTPレイアウト」)を見ていて思いつくことがいくつかあった。

①一人一人の作品の該当学生は真剣に評価を聞いているが、それ以外の学生は無関心になる場合がある(自分の番のときにしか真剣になれない)。特に理解度の低い学生の場合には、他人の作品評価で(自ら)学ぶ、というのは難しいことが多い。

②一人一人の作品を一つ一つ批評するため、指摘が重複し、批評が単調化したり、印象批評に終わる場合がある。

③学ばせなくてはならない内容(今回の場合であれば、色彩の「対比」「類似」「調和」)に必ずしも適さない作品しかない場合がある。事例的に偏る場合がある。

①の問題を回避するためには、二つの方法がある。一つは、できあがった作品を所与のものとはせず、先生が学生の見ている前で、手を入れることだ。「こうすればもっとよくなる」というふうに。藤井先生は、いくつかの作品で実際に手を入れていたが、そうするとはるかに関心度が高くなるし、理解度も高くなる。一挙に作品の印象が変わるその瞬間は、学生の関心がもっとも高まったときだった。一人の学生作品の個別批評を超え、それが身近な教材に変貌した瞬間だった。とくに、アナログ的なデッサンなどの指導とちがって、コンピュータ上の作品は、多様な仕方で手を入れること(あるいは復元すること)が容易であるため、この方法は、とてつもなく効果的だ。デジタル時代の作品批評の真骨頂だと思った。

従来の作品批評は、教員がぶつぶつと印象批評風な独り言を言いながら、外面的にああでもないこうでもないの繰り返しが多く、実際に言おうとすることは、作品をその通りに〈変形〉させることなしにはわからないことだった。どうすることが、その意味なのかは、教員と学生のイメージの中にしか存在しない状態にとどまっていた。これでは何を教え得たのかは学生が次の作品を作るまで見当がつかない。

しかし作品表出がコンピュータ上で行われること(作品のデジタル化)は、実際に作品を変形させる、復帰させるといった自在な繰り返しの中で作品批評することを可能にした。いわゆる〈シミュレーション〉である。〈シミュレーション〉とは批評の別名である。あるいは教員の実践性そのものである。口で言うのなら(場合によっては)誰でも言える。しかし、本当にそうか。本当かどうかを学生の前に提示するもの、それが作品の〈変形〉、あるいは〈シミュレーション〉である。〈シミュレーション〉とは〈仮定〉や〈模倣〉の別名ではなく、〈実践〉の別名なのである。これほど効果的な教育性はない。

もう一つは(〈変形〉や〈シミュレーション〉の次の高次な段階は)、学生一人一人の作品(あるいは代表的なモデルになる作品)を学生全員に共有させて(データとして配信して)、自分(あなた)だったら、この作品をどう修正するかといった課題を与えること。これは教員による〈変形〉や〈シミュレーション〉よりも遙かに実践的な指導になる。時間がかかることはかかるが、できるかぎり課題を単純化すれば(たとえば色彩の授業であれば、形を変えずに色だけを修正しなさい、というふうに課題を限定化して)、できないわけではない。教員の〈シミュレーション〉を学生側でも実行させるのである。他者批評が自己批評になる瞬間だ。ゼロ出発で主観的になりがちな作品制作の問題点も、こうすれば少しは落ち着いた制作になる。しかしこれには少し時間がかかる(カリキュラム自体に工夫が必要)。本当に時間がない場合は、該当学生に質問するのではなくて、それ以外の学生に口頭で指摘させる。「あなただったら、この色をどうする?」というように。〈批評〉はT.Sエリオットも言うように制作の第一歩。他人の作品を鑑賞させる訓練を同時に行えば、一人一人の批評は全体批評になる。該当する学生しか熱心に参加しないという作品批評授業の問題点を解消できる。

②の問題を回避するには、教員がまえもって全体の作品を課題毎、傾向毎にグループ化し、その作品の主調に沿って批評すること。100人いれば、100人の傾向があるわけではなく、いくつかの傾向に分類可能なものだ。そのテーマに沿って、作品群をまとめておけば、個別批評の問題点(重複や印象批評)を回避することができる。同じ傾向の誤りでも、まとめておけば、誤り度合いの強いものから、弱いものまで、〈度〉を持ち込んだ批評にもなるため、個別評価よりももっと深い全体的な評価が可能になる。

③の問題を回避するためには、一つには、学ぶべき内容全般に触れざるを得ないような課題を出すこと(たとえば、この場合だと「対比」「類似」「調和」)。課題の出し方ですべてを制御すること。小刻みに徹底させるとすれば、「対比」作品、「類似」作品、「調和」作品というように人工的に課題化し、その仕方でそれぞれの色の感覚をつかませ、最後にはトータルな作品を扱わせる、というようなやり方もある。時間がない場合には、?の処理にかかわるが、先生が学生作品に(学生みんなが見ている前で)手を入れ、足りない要素(たとえば、「調和」について言及させる作品が少ない場合)を人工的に形成するというやり方もある。そうやって、個別批評の偏りを修正することができる。

全体的に言えることは、作品評価という教育手法は、個別の要素(偏りがちな学習要素)を、どう普遍的な学習課題に繋げていくかがすべて。そのためには、作品の傾向のグループ化(モデル化)と、学ばせなくてはならない課題との突き合わせが絶えず必要になる。作品評価は、全体の印象に気を取られてしまい、「良かった」、「悪かった」にとどまりがち。あるいは理由を特定して「良い」「悪い」を言ったとしても、それですべての評価になるかどうかは、また別の問題。けなされまくっても、少しほめられた作品よりも点数が高い、ということはいくらでもある。その差は、個別の作品批評では解消できない。その差を作品批評というスタイルですべて開示するためには、作品のグループ化(およびそこにおける〈度〉の提示)と学ぶべき課題の全提示が必須になる。授業における作品評価は「全体」評価でないといけない。言い方を変えれば、他者批評と自己批評との全体が科目目標の全体に収斂するような「全体」評価でなければならない。

こういった作品批評の授業スタイルは、(昔からあるにはあったが)たぶん作品のデジタル化、つまり作品への実際的な介入(自在な変形と復元、およびその履歴の記録)なしには教育効果としてはあやしいものだった。教員の、学生作品への介入(〈変形〉と〈シミュレーション〉)が〈作品批評〉にまとわりついていた恣意性を払拭しつつあるのである。今日(9月12日1時限目※)の藤井先生の“デジタルな”授業を見ながらそう思った。

※この授業評価は、9月12日の私の授業メモを今日まとめたものです。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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