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 症状報告(26) ― また入院してしまいました。 2003年09月07日

 また入院してしまいました。50歳も直前にして、2回も3回も入退院を繰り返していれば、もうとっくに死んでしまっているところでしょうが、この病気の「多発性」というところが、やっとわかってきたということでしょうか。

 8月の初旬に戻ってきて、約一ヶ月間は自宅にいましたから、その最中にも「(自宅療養の)新記録樹立だな」と冗談を言っていたところです(本人は「やめてよ、もう二度と病院には戻りたくない」と言っていましたが)。

 先週の月曜日(9月1日)くらいから、「右足の指が動きにくい」ということと「睡眠が充分に取れない」という“症状”が続いて、3日(水曜日)の病院検診(前々から決まっていた)に行って、主治医の武田先生にその症状を伝えたのですが、「体力が落ちているのかもしれないから、様子を見ましょう」と先生の弁。自宅に戻ったのですが、眠れない。ますます指先が動かなくなっていくのが感じ取れて、こりゃまずい、ということになり、夜9:00頃、病院に電話。丁度主治医の武田先生がおられて、「それでは明日の朝、検査しましょう」とのこと。しかし「明日の朝」では、動かないところが拡大している可能性があるし、全く動かなくなったら移動も困難になる。もう一度電話して、今夜中の入院をお願いした。「それじゃ、待ってますから来なさい」ということになり、夜10:00過ぎに(入院の準備を取りあえずすませて)救急外来に飛び込んだ。まだ少し足は動いていた。

 すぐに、点滴ステロイドを開始。ほぼ二ヶ月ぶりの点滴ステロイドだ。早速の入院手続き。もうこの手続きはなれっこのようなものだ。広尾の夜の病院は、それはそれでにぎわっている。何となく、色々なドラマが在りそうな人たちばかりだ。

 どうもこの病気、体力管理が鍵のようだ。8月初旬に彼女が戻ってきて、少しずつ体調に合わせて動いており、食事の用意なども最初はサラダ作りにとどまっていたが、“欲”が出てきて、私が会議などで遅くなるときには、息子の食事をまかなっていた。あとは、洗濯は室内干しにとどまっていたが、彼女がすべてやっていた。この程度のことでも結構大変だったらしい(今となっては)。それに室内の移動でもつたえ歩き自体も大変だったらしい(今となっては)。室内用の車椅子も必要だったのかな(今となっては)。HONDAのASIMOよりもよちよち歩きだったからそうなのでしょう。

 いずれにしても体力の絶対値が異様に低いため(これは私には実際想像できないが)、家事仕事全般は、彼女が居ないものと思って従来通り100%私と息子でやるしかなかったということか(これも今となっては、のことだが)。自宅に家内が居ると私も安心してしまって、ついつい帰宅が遅くなりがちだった(これも反省)。

 自宅では、日頃自分(家内)がやっていたことが具体的にイメージできるため、あれもやりたい、これもやりたいの連続なのだろう。それに私や息子がその代わりのことをやっていると、不憫になり余計に自分が動きたくなる。この繰り返しだ。やりたいことが色々と浮かぶため、こちらの(私と息子の)ペースと合わないこともある。「うるさいな」と言ってしまう(「うるさいな、私がやるんだから黙っていてよ」「ごめんなさい」というやりとりの繰り返し)。勉強のペースを親につつかれて「わかっているよ」とふてくされる息子に似ている。病人を抱える家族は、時間が一様に流れないため、つまらないことで“ケチが付く”。病人に合わせるしかないのだが、その様子を見ながら病人の方が無理をする。これも悪循環だ。

 もう一つ思い当たるのは、全身を襲うあのビリビリとした突っ張り感についてだが、最初は経口ステロイドの副作用のようなもの、と考えていたが、そうではなくて単に病気の症状であって、むしろ経口ステロイドが効いていなかったと考えたほうがいい(と私は思う)。日に何度も全身を襲う突っ張りはそれ自体、かなり体力を消耗させていた。点滴ステロイドの時には、そんな症状はあまり出ていなかったのだから、やはりこの突っ張りも今回の再入院の原因と考えたほうがいい。8月の退院の一ヶ月前から経口ステロイドに変え、8月中旬から錠数を徐々に減らして来ても、突っ張りは減らなかったという意味でも、突っ張りは病気そのものの症状だったと言える。

 今回の入院は、私の見立てでは、徹底して点滴ステロイド(=パルス)治療すべきだ。体力を消耗させるしびれや突っ張りが完全になくなるまで、退院(=自宅療養)を想定した経口ステロイドはやめたほうがいい。そもそも自分で通院できない退院なんてほとんど意味がない。私もそのために週一日がつぶれてしまう。

 ふたたび(みたび)、私と息子の二人暮らしが始まったが、息子は受験勉強(大学受験)の真っ最中。やけに緊張感のある我が家の2003年度だ。

 20年ほど前に読んだ、E・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』(読売新聞社)を思い出す。死に直面した人間(たとえば代表的にはガン患者)の態度の取り方を、彼は、推移的な5段階に分類していた。?否認(私がガンになるなんてあり得ない!) ?怒り(なぜ他でもない私がガンになるのか!) ?取り引き(神様何でもしますから助けてください) ?抑鬱(文字通り抑鬱) ?受容(文字通り受容)

 この5段階を彼は“病人”に特定し、時間的な(推移的な)経緯のように描いていたが(それがこの本の著者の限界だが)、われわれのあらゆる事件(出来事)に対する態度の取り方がここには記述されている。たとえば、失業者の、その受容を考えてもそうであることがわかる。重要なことはロスの言う「受容」なしには、本来の希望は生まれないということだ。どんな出来事も、否認や怒り、取引や抑鬱の中で見据えている限り、次の希望は生まれない。逆に言えば、出来事を「受容」することほど難しいことはない。大概の人間は、否認や怒り、取引や抑鬱の段階にとどまり、先の希望を見いだせないままに終わる。

 大病の家内が自分の“身体”や“人生”の「受容」に苦闘しているのはもちろんのことだが、この家族の出来事における私や息子もまた同じように「受容」をめぐって苦闘している。それは、しかし特別なことではない。大概な場合、人は「受容」の手前で、日々の出来事をつかみ損ねているのだ。大概な場合、人は「受容」の手前で、おおげさに騒ぎ立てる。そうであれば、日々騒ぎ立てるべきなのだ。些細なことの中にも大きな亀裂はいつも存在しているのである。

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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