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 コミュニケーション教育論補論(3) ― 「学ぶ姿勢」の教育論はいかがわしい 2009年06月05日

前回の質問(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_351.html#more)の後にもいくつかの重要なやりとりがありました。再度コミュニケーション教育論を補講したいと思います。

>Sさん(2009年06月03日 10:14)

おはようございます。

私は「大人の自分たちでさえコントロールできない『コミュニケーション』」を、それでもやっぱり、教育に必要項目としての「コミュニケーション」を教えようとする大人がいる事はとても大切な事だと思います。3流とか1流をどこで特定するかは別として・・・・・・。

介護学校の校長先生の講演を最近聞いたのですが、そこの職員さんと知りあう機会がありまして卒業したらすぐプロとして勤務できる教育をするって言う話を聞き、会社で講演して頂いたんです。学校見学もしました。

とても小さな介護学校で、でも、100パーセント介護の仕事に就職させるって言う信念の元、学校を休んだら親に電話かけるそうです。面接も父兄同伴、職業として介護に携わる覚悟がある子を教育するそうです。

だから生徒の獲得が難しいようですが・・・私はそこには感動しました。私はカリキュラムの中にとてもシビアなものが入っていてびびりました。専門学校真剣に取り組んでる機関も多いはず・・・・・・。

その時の話で、教育現場も採算を優先させると理想を貫けないようですが。

>「大人の自分たちでさえコントロールできない『コミュニケーション』。

でも・・・・・・大人は真剣に教えようとしないといけないと思いました。
専門学校も理想を持って教育している所を選ばないといけない思います。
昨日も書こうと思ったのですが、やっぱりむつかしくって(汗)。
うまく書けないです、すみません。

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>上記Sさんへの、芦田の返信(2009年06月03日 12:18)

「卒業したらすぐプロとして勤務できる教育をする」って、ウソだと思いませんか。「プロ」というのは、その人材を作るのに時間のかかる人材のことを言うのです。知識と技術の体系だった質を有した人材を「プロ」というのです。

卒業したらすぐプロとして勤務できる「職場」ってどんな職場ですか。それはその職場の(仕事の)水準が低いだけのことです。

専門学校関係者は、よく「即戦力」という言葉を使いますが、20歳前後の若者が、2年中途半端に勉強して「卒業したらすぐプロとして」働くことのできる職場って、マクドナルドくらいじゃないですか。

教育も仕事もバカにしてるんですよ、そこの「校長」。ふざけるんじゃないって(苦笑)。私はそう思います。

私は、学生達に「20歳代は、お金をもらいながら勉強できる、ありがたい時期だと思え。給料で仕事を決めるのではなくて、自分より頭のいい、腕のいい連中がたくさんいる職場を狙え。自分が一番バカだくらいの会社が一番あなた方にとっていい会社。若いときに給料がいい会社は、長い期間、あなた達に勤めてもらおうとは思っていない会社。使い捨てとしか思っていない。『即戦力』は『使い捨て』と思え」と言いつづけてきました。

教員たちには、「物知りふう」「訳知りふう」の学生、特に生意気になってくる2年生の連中の自尊心をぶっつぶしてやれ、と言いつづけてきました。まだまだ何もわかっていない。

ところが専門学校の2年生(上級生)は、出席率が悪くなる。就職が決まればもっと悪くなる。まだまだ勉強が足りない、と思わせるだけの(奥の深い)カリキュラムができていないのです。「放牧実習」(http://www.ashida.info/blog/2009/05/_50.html#more)で自分勝手に作品を作らせていると、2年生の出席率は上がらない。「放牧」度の高いデザイン系の学生などは、在学中に就職してしまう(退学して)。学校もそれを退学率の分子にしないで就職率の分子にしてしまう(笑)。学生も学校も「即戦力」の幻想にのっかっているのです。教員とカリキュラムに、2年生のそういった幻想をぶっつぶすだけの専門性がない。

そもそも介護の学校の卒業生って、30歳を超えても年収300万円中盤を超えるのが難しい。「即戦力」の職場って、そういうものです。この間も、結婚が決まったら職を変える(生活できないから)ということがニュースになっていたくらいです。これを「逆コトブキ退社」と言うらしい。何のために高校を卒業してさらに勉強するのかわからない。ふざけるんじゃないって(苦笑)。そう、その校長に言っておいて下さい。たぶん、その校長は、人はお金のために仕事をするんじゃない、「心」が大事だ、なんて言うのでしょうが。「心」ってそんな使い方をされているわけです。

そういうことを本気で言うのなら、「心」を持って、自分の学校のカリキュラムと教員の水準を上げるべきです。そして現在の日本の介護の知識水準、技術水準を上げる努力をすべきです。「人材教育」というのはそういうものです。給料を上げてやる努力をせずに、「心」を強いるというのは本末転倒です。「心」がないのはその校長です。

若い学生達を預かる専門学校の校長がやるべきことは、「業界のニーズ」をくみ取ることではなくて、次世代の業界を形成する人材を作るのですから、業界全体の専門性(知識水準・技術水準)を上げることなのです。業界人材の専門的な信頼性を社会的にどう上げていくか、が問われているのです。

一挙に業界全体を上げることができないのなら、せめて自分の学校の卒業生くらいは、業界のTOP20%の人材になっているくらいの人材育成を目指すべきなのです。

そのことを棚上げにして、「保護者」までも呼んで、給料は低いけど「心」が大切だからなんて言いながら、超人間的な「覚悟」をさせる、就学の継続を勧めるなんておかしいでしょ。自分の校長としての「心」が問われているのに、追求するのは、学生と保護者の「心」ばかり。就職も「就職率」ばかり目指して就職の「質」を考えない。おかしいと思いませんか。

全般に「コミュニケーション」能力を教育の主要なテーマにあげたり、「即戦力」を目指す学校は、就職先の知識・技術水準が低い分野です。就職「率」ばかり目指している。自分の子どもを学校(高等教育)にもやれない給料しか出ない。だから全般に「即戦力」専門学校の卒業生は就職継続性が弱いのです。

専門学校は、業界全体の水準をあげてやるくらい「覚悟」(苦笑)がないと、将来のある若者たちを受け入れる資格はないのです。


>Mさん(2009年06月03日 12:36)

議論大変面白く拝見しています。
専門とコミュニケーションという分類ですが、それぞれの内部に以下のような分極を持ち込んで考えてみることを試してみます。

(1)専門性
1.1 考え方の土台となって長期に渡って役立つ技術・知識
(一般教養に収まらない範囲の数学、科学、語学や専門書へのアクセス)
1.2 最新ではあるが、中短期において重要な技術・知識
(ある時点ではトレンドであっても、常に更新が必要な技術)

(2)コミニュケーションスキル
2.1 日々の仕事・学習の現場で必要なスムースな情報交換のスキル
2.2 最新のスキル獲得に必要な情報源(専門誌、論文等、教師、同僚)への接し方(学び続ける姿勢)

 コミュニケーションスキルという用語は「上司やお客とスムースに話せる」といったような、やや狭い印象を受けるのですが、実際重要性を感じている人たちは、多様なものをその言葉によって表現しているように感じました。情報のやり取りは送り手と受け手の姿勢の掛け算みたいなところがあると思いますので、相手がお客や患者であっても、上司やメンターであっても、建設的な態度のような姿勢と、話し方の順序のような戦術が必要なときがあると感じています。

 一方技術のほうも、長期に渡って役立つものと、5年ぐらいで陳腐化するものもあるでしょう。やっぱり色々忘れますし。だから一生学び続けるわけですが、ここで実際には職場の同僚やメンターとの接し方も重要になる気がします。そしてその接し方の精神論的な面が“学ぶ姿勢”であったり、技術的、戦術的な面の一部がコミュニケーションスキルであったりするのではないかと。

 そういう仮定の下では専門性とコミュニケーションは相補的な面もあるかもしれません。

 教育の現場における実情がどのようなバランスになっているかという議論においては、専門教育の、特に1.1の弱さが問題なのであろうと解釈しています。

 先生の論旨を誤解してしまったでしょうか?


>芦田の上記Mさんへの返信(2009年06月03日 17:18)

私は、第2版(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_351.html#more)の末尾で以下のような文章を追加しました。

そもそも、人にどうすれば自分の思いを伝えられるか、なんて卑屈な教育でしょ。そんな話しは「ポパイ」か、「アンアン」に任せればいいでしょ(苦笑)。「思い」の重さを問わずに、ノウハウ論ばかりで「伝わる」「伝える」ことばかりを考えるから、くだらない話しになるんですよ。こりに凝ったパワ-ポイントプレゼンがいかにくだらないか、あなたも卒業して仕事をし始めればすぐにわかりますよ。思いの「重さ」こそが、至高のコミュニケーションなんだということを。

これに尽きます。そもそも、「戦術的な」スキルを学んだ「コミュニケーション」って相手をバカにしていませんか。そんなビジネスマンと話すくらいだったら、銀座でお姉様たちと飲んだ方がマシ(そちらの方が「スキル」が上)。それが一つ。

もう一つ。コミュニケーションスキルって、誰が何の権利と資格でもって教えるのですか。
たとえば、大学で、どんな教授が教えるのですか。そんな分野の「先生」っていないでしょ。

おそらく、街の講座屋か、くずれリクルートの連中くらいが関の山。そんなの「先生」じゃないよ(苦笑)。

「日本コミュニケーション学会」(http://www.caj1971.com/)なんてのがあるのはよく知っていますが、心理学でさえいかがわしいのに、もっといかがわしい連中が「論文」の名の下に税金を食い散らしています。比較文化論をやる連中も含めて、そういった周辺領域の教授連中は、メインの専門分野からあぶれた連中ばかりです。言い過ぎたかな(苦笑)。


>私の返信に対するMさんの再回答(2009年06月03日 18:49)

コメント頂き、ありがとうございます。

 職場でコミニュケーションスキルのクラスを取ったことがありまして、まあ内容的には有用な部分もあったのですが、終わった後にちょっと寂しいような感じがしたのも事実です。

クラスの方は、職場でのトラブル回避を主目的としたもので、印象に残っている範囲では、

(1)Emailは非常に用途の限られたメディアである。容易かつ大量にそこまでの文脈を検証不可能な第三者に転送され、その後ずっと残り続けるので、ネガティブな内容は一切メールでは送ってはならない。ネガティブな内容には電話を使う。どうしてもネガティブな内容を送らざるを得ない場合はポジティブな内容でサンドイッチにする。

(2)謝罪は24時間以内に。遅れるほど謝れなくなる。

(3)コミュニケーションのトラブルが発生した場合は、問題をパーソナライズせず(自分が個人的に攻撃されていると考えず、極力相手の人格の問題と捉えず)、誰にでもおこり得る一般的な問題として対策を考える。

(4)コミュニケーションの8割は実は非言語的に行われる。(顔の表情、語勢、身振り手振り等)。非言語情報の欠落したメールでは誤解が生じやすい。

などでしょうか。よく考えると、職場で如何に”感情的”なものを排除して手続きを済ませるか、という内容が多かったように記憶しています。

 接客業の人たちの中には確かに飛びぬけてコミュニケーションの上手な人がいますね。それも小手先ではなくって、なんだか人柄そのものがコミュニケーションの壁を低くしているかのように感じられる人たち。それはセンスかもしれないし、ある種の集中力なのかもしれないと感じています。


>芦田のMさんへの再回答(2009年06月03日 22:29)

あなたがあげた(1)~(4)は、どれも一般化できない認識ばかりです(反対議論がいつでも成り立つ)。コミュニケーション論やノウハウ論は、結局のところ、「事情によって違う」というのが最後の結論になります(役に立つ人には役に立つ、立たない人には立たない)。思想的に言えば、カント主義の限界と言って良いかもしれない。

だから、コミュニケーション論やノウハウ論は学校教育の体系や高度教育には馴染まないものです。せいぜいのところ囲み記事のような特別講座でやるのが限界です。研修屋タッチの教育を学校教育でやろうとしているのがすでにおかしいのです。職業人大学院の教育が崩壊しているのもそれが原因です。

最後に、この前回の質問の中に“学ぶ姿勢”などの精神論も重要だという指摘がありました。

それについて、私はこんなことを考えています。一ヶ月ほど前、私のブログを見つけた15年ほど前の教え子からメールを頂きました(http://www.ashida.info/blog/2009/05/post_346.html#more)。

「ブログを読んでいると、当時の授業での先生の口調や風景を思い出し、懐かしく思いメールしました」と始まり、「(返信は求めません)が、やはり先生のブログは読んでいると当時の刺激(ワクワク感、考えたこともないことを考えなければならない若干の頭痛)に似た『もっと聞きたい、もっと知りたい』感情を思い起こさせるので、これからも読み続けます」というものでした。

これは、あなたの言う“学ぶ姿勢”に近いものです。「ワクワク感」「考えたこともないことを考えなければならない若干の頭痛」「もっと聞きたい」「もっと知りたい」というのですから。

そこまではいい。ここから総務省や文部科学省や厚労省や経産省のお役人、三流の教育学者が出てきます。教育には「ワクワク感」が必要だと。「学ぶ姿勢」を植え付ける教育が必要だと。結局、あれこれの知識や技術ではなくて、そういったあれこれの学びの内容ではなくて、学ぶ力(また〈力〉が出てきた! 苦笑)を育成することが必要なのだと。

これはくだらない結論です。私はこれを教育テーマの(悪しき)還元主義と呼んでいます。知識だって、技術だって結局は人間が人間のために有しているもの。大切なのは知識・技術ではなくて、「人間」というものです。

そんなこというのなら、すべては「脳」が考えていること、「人間」と言うのも「脳」という解剖学者が出てきたら負けてしまう。どうしますか? 脳も「(利己的な)遺伝子」によってできているから「遺伝子」の方が大切という遺伝子工学者が出てきたらどうしますか? それ以前に人間も空気がなくては生きていけないから、空気の方が大切という素朴な還元論もあるかもしれない。もっと言えば、「人間」「脳」「遺伝子」「空気」も、すべて言葉がそう名付けているのだから、「言葉」が一番大切、とか言語学者が言い出したらどうしますか?

こういった意見は、全部正しいとも言えるし、全部間違っているとも言える。要するに「人間」だから、という回答は回答になっていないのです。教育上のテーマを考えるときには「人間だから」という回答は還元しすぎ(苦笑)なのです。

現に私の授業は「ワクワク感」を目指したわけではないし、「もっと聞きたい、もっと知りたい」などと思わせようとしたわけではない(学生全員を哲学者にしてやれとはいつも思っていましたが)。ましてシラバスにはそんな言葉は一言もない。

当時のこの女学生が受けた私のシラバスは以下の通り。

「哲学」(4単位) 1997年
前期テーマ「人間と機械-機械の人間化か、人間の機械化か?」
講義概要
「 機械観が人間観と本質的に切り離せなくなるのは、人間の尊厳として考えられてきた〈思考力〉を、入-出力の制御の問題として捉え返すサイバネティクスの登場以来のことである。そこでは、個人/社会、人間/動物といった人間的な区別もまた、〈制御〉の問題として相対化される。

システム工学的には、それらの区別は決定的なものではないのである。もし、人間の尊厳(人格)の源泉が脳にあり - 〈足〉がなくなってもまだ人間であるが、〈脳〉がなくなればもはや人間ではないという意味で - 、「脳死」が「人間の死」として認められるとすれば、この帰結は当然のようにも思える。

というのも、その〈脳〉こそがニューロンの電気的な刺激の制御性によって機能しているものだからである。どんなに複雑で還元不能に思えるもの - 人間性もそのひとつだろう - も単純なものから構成されたものにすぎないとサイバネティクスは確信する。

また一方、「人間機械」論(機械の人間化)におけるシステム工学(情報の科学)の確信は、人間そのものの機械化、つまり人間-社会観の変貌と相関的である。この情報論的な機械化は、チャップリンの「モダン・タイムス」に描かれた古典的なものとはまったく別のものである。

機械的なものからことさらに人間を区別するために用いられてきた主体性・意志・自由といった人間的な概念こそが、逆にこの情報論的な機械化の近代的な起源なのであって、〈人間〉がもし〈機械〉から区別されるとしたら、それらの人間的な概念からむしろ人間が解放される場合にのみなのである。

サイバネティクスの確信はどこまで正しいのだろうか。またこの確信を否定するにしても、そういった人間の工学的・数学的形式化に、“人間的な”諸概念(主体性・意志・自由・心・感情)を持ち出すことにどれほどの意義があると言えるのだろうか。人間と機械との(関係の)今日的な先端の状況を考慮にいれつつ、近代的諸概念の限界を考えてみたい」。

◎授業計画
1.サイバネティクスとは何か
2.フィードバックシステムは〈思考〉する
3.テューリングテスト-脳が思考するのではない、植物も思考する
4.制御性と理性
5.実体主義と機能主義と還元主義
6.サイバネティクスと近代主義
7.自由・平等・サイバネティクス
8.サイバネティクスと因果論的思考
9.フレーム問題(Frame problem)-ロボットR2D2の蹉跌
10.人間の開放性とフィードバックシステムの開放性の限界
11.心理(学)主義的な〈学習〉概念の錯誤
12.サイバネティクスの挫折-近代主義の問題

◎参考文献(とりあえず邦訳のあるものに限ります)
1.『マインズ・アイ』上・下、ホフスタッター他編、TBSブリタニカ、1984年
2.『ゲーデル・エッシャー・バッハ』、D・R・ホフシュタッター、白揚社、1985年
3.『認知革命』、H.ガードナー、産業図書、1987年
4.『メディア論』、M.マクルーハン、みすず書房、1987年
5.『心、脳、科学』、J.サール、岩波書店、1993年
6.『アンチ・オイディプス』、G.ドゥルーズ、河出書房新社、1986年
7.『認知科学の基底』、M.ミンスキー他、産業図書、1986年
8.『認知科学の展望』、ドナルドA.ノーマン著、産業図書、1984年
9.『人工知能になぜ哲学が必要か』、J.マッカーシー、哲学書房、1990年
10.『一般システム理論』、ベルタランフィ、みすず書房、1973年
11.『人間機械論』、N.ウィナー、みすず書房、1979年
12.『心の科学は可能か』、土屋俊、東京大学出版会、1986年
13.『知性の脳構造と進化』、澤口俊之、海鳴社、1989年
14.『心と物』、大森荘蔵、東京大学出版会、1976年
15.「フレーム問題と世界」(芦田宏直、1996年)(http://www.ashida.info/blog/2008/01/post_261.html

以上である。この講義のどこが「ワクワク感」なのか? 私自身はワクワクしているかもしれないが、しかしそれにしても自他共に「ワクワク感」を目指したのではない。私はたんたんと専門的な講義を行っただけだ。このシラバスを総務省や文部科学省や厚労省や経産省のお役人が読んで、「学ぶ姿勢」を追求した講義だ、と判断できますか。そんなことまずあり得ないでしょう。

逆に「みなさんがワクワクするような講義を行いたいと思います」。講義のタイトルは「ワクワク講義です」なんて、おかしいでしょう。そのおかしさは、「コミュニケーション」講義というのと同じおかしさなんですよ。

「ワクワク感」も「学ぶ姿勢」などというものもそれを目指すとたちどころに消えてしまうようなものです。スキルを学んで人と話そうとする連中の何を信じろと言うのですか。「人間性」という言葉も、ことさらに「人間性」を訴える連中に「人間的な」人間を見出せることは少ない。ナチズムだって、あんなに「人間的に」盛り上がった運動はない。

「専門性」とは別個に「人間性」や「精神性」や「コミュニケーション」を持ち出す連中は、いちども勉強自体を楽しいと思ったことのない連中です。しかも「勉強」という勉強はない。このことの意味をよくよく考えるべきです。

>最初に質問コメント(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_351.html#more)をくれた就活中の大学生(2009年06月03日 13:14)

私のコメントが芦田さんのブログに載る日が来るとは・・・
私の気になる点に対する、返信が読めて嬉しい反面、どこか恥ずかしいです(苦笑)。

今回コメントしてやはり良かったと思いました。

理由は「専門家は専門性を通じてコミュニケーションを図るのです」という今まで私の感じていなかったコミュニケーションを知る事が出来たからです。

私の拙い質問に、態々補論まで書いて頂き、ありがとうございました。

>芦田の上記学生への再返信(2009年06月03日 17:24)

そうです。専門性を高めれば高めるほど、世界大の人に影響を与えることができます。一言も話したことのない、会ったこともない人たちと「コミュニケーション」をとることができます。高等教育を受ける、というのは、そういった「コミュニケーション能力」を身に付けるということと同義です。

あなたが高等教育を受けているということは、世界大の「人間」を相手にする、人生の中でまたとない貴重な「勉強」の時期なのです。頑張って「勉強」しましょう。

(Version 8.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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