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 【第二版】コミュニケーション教育論補論(1) ― もっともな質問を受けました。 2009年06月03日

昨日の私のコミュニケーション能力論(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_350.html#more)について、ありがたいことに、以下のようなコメントを頂きました。まず全文掲載します。

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読みました。完全に芦田さんの書いてる事を私が理解できたかは不明ですが、コメントを書こうと思います。

まず一つは、いかに、どんな専門的な知識を勉強する専門学校だとしても、その知識を学ぶのは人間ですし、その知識を誰の為に活かすのかと言えば、それも人間の為だと思います。

だからこそ、仮に属性として弱い意味を持った「コミュニケーション教育」だったとしても、ある程度の意味は持てるのではないかな?と思います。
また、私は思うのですが仮に、「お客さんとのコミュニケーションについても教える専門学校」と、「お客さんとのコミュニケーションについて教えない専門学校」の二つがあったら、学生は「お客さんとのコミュニケーションについても教える専門学校」を選ぶと思います。

またたとえ話になってしまいますが、お客さんも美容院に行った時、美容に関する知識で上手にコミュニケーションが取れる美容院と、美容に関する知識で上手にコミュニケーションが取れない美容院、この二つであれば、やはり上手にコミュニケーションが取れる方を選ぶのではないでしょうか?

結局「コミュニケーション教育」とは、他の専門学校との差別化、あるいは社会進出した後の学生の為、またお客さんとの少しでも円滑な、コミュニケーションを図る為という意味があるのではないでしょうか?

ただしかし「大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない」という部分には、とても笑わせてもらいました。

このコミュニケーション不全状態の背景には、多くの人は物事のあるべき方向性について「こうすべきだ!」という路線を判断し、発言する事が難しい事だからではないかと思います。

長くなってしまいましたが、以上です。

例え話ばかりになってしまって申し訳ないですが、考えられる限りを書いてみました。もし論点がズレていたら、すいません。(2009年06月02日 17:07)

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以上のようなもっともなコメントを頂いた。就職活動中の大学生の方らしい。この質問や疑問は私の議論について普遍的な現象だと思う。また、専門学校の関係者の中にもこういった考え方の中で「コミュニケーション能力」教育を進めている人がたくさんいることを私はよく知っている(苦笑)。

そこで、この大学生の疑問に答える形で、先日の議論を補いたい。

「まず一つは、いかに、どんな専門的な知識を勉強する専門学校だとしても、その知識を学ぶのは人間ですし、その知識を誰の為に活かすのかと言えば、それも人間の為だと思います。だからこそ、仮に属性として弱い意味を持った「コミュニケーション教育」だったとしても、ある程度の意味は持てるのではないかな?と思います」

この点について直接に応えているのは私の昨日の以下のコンテクスト。

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では、専門的な知識とは何か? それは勉強をしないと身につかない知識のことを言う。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」を、営業が「商品知識」を知るようにして知ることなどできない。営業の「商品知識」が「専門的な」(=営業に特有な)知識でないのは、その知識が在るからと言って、営業の目的である〈売る〉ことに貢献することには繋がらないからだ。営業に〈知識〉が必要である度合いは人間性(=人柄)が重要、話し上手が必要という度合いとほとんど変わらない。その意味で営業にとっては〈知識〉は道具に過ぎない。

それに比べて「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」にとっての知識は人間性と代替される道具ではない。それらは「専門的な知識」がないと対象に関われない領域を有している。知識は相対的な道具ではなくて対象そのものに関わっている。
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つまり、私の言う〈知識〉はそれ自体コミュニケーション能力です。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」に関わる人たちにとって、色彩や顔の造形、肌の生理性や化粧品の素性についての「知識」は、人間の顔にアプローチする(人間の「顔」とコミュニケーションする)最大の武器です。同じように動物についての「知識」、障害者の生理についての「知識」もそれ自体がコミュニケーションの最大の武器です。

「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」は、人間対人間の一般的な関係なのではなくて、それ自体、専門的な知識や技術なしにはアプローチできない専門的な関係なのです。

「メイクや肌の手入れ」の高等教育があるとすれば、それは、渋谷を歩く高校生の、化粧センスの良い不良の自己研鑽とどこが異なるのか。

「動物に関する幅広い知識」の高等教育があるとすれば、それは、寝ても覚めても犬や猫をかわいがって10年以上飼育しているペット愛好者の自己研鑽とどこが異なるのか。

「食事や入浴などの介護技術」の高等教育があるとすれば、それは、敬老の精神や家族愛の自己研鑽とどこが異なるのか。

こういったことが、カリキュラムを作って、教員を用意して、年間100万円以上の授業料を取っている(高校卒業後の)「学校」関係者に問われているわけです。

先の三つの問いは、別の言い方もできます。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」に関わる仕事を、高校を卒業してすぐに関わり始めた人がいるとしましょう。その場合、2年間の実務に解消されない内実を専門学校のカリキュラムが有しているのかどうかということです。

要するに、経験的な仕事の接し方では獲得できないような内実をそのカリキュラムが有しているかどうかです。「経験的な仕事の接し方では獲得できないような内実」、それを私は「知識」(あるいは技術)と言っています。

いくら笑顔や言葉使いが素敵でも、肝心の化粧が下手、動物の扱いが下手、介護技術が下手なら、仕事にならないでしょう。もしその場合、下手であっても笑顔が素敵な方を選ぶという「顧客」がいるとすれば(そういった顧客がいることを私は良く心得ています)、それは、その技術の下手上手に大した技術差の出ない領域でのことです。つまりもともと体系的な教育、あるいは高度な教育に馴染まない領域でのことです。つまり仕事の偏差値自体が低い職場なわけです。40歳を超えても年収500万円に届かない。「即戦力」職場なわけです。

それは医療のような人間の命が関わっている技術で考えればすぐにわかります。医療での接遇は「ベッドサイドマナー」と言いますが、「ベッドサイドマナー」で病気が治せるわけではない。医療的な、あるいは医学的な専門知識・技術の有る無しが、患者を大切に扱う最大のコミュニケーションなのです。患者にとっては、医師が「ベッドサイドマナー」の勉強をするくらいであれば、先端医療・治療の勉強をして欲しいと思うに決まっている。

「接遇」的なコミュニケーション能力を前面化する「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」についてのカリキュラムや学校があるとすれば、それは、ことさらに専門的な知識を介在させなくても、接遇レベルで「顧客満足」が得られる領域だということを自己前提しているわけです。

だから、仕事は人間がするもの、人間のためにするものという前提は、私の「知識」論を特に否定するものでも何でもありません。私もまたそのことを否定するつもりで「知識」論や専門主義を議論しているのではない。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」は、それらの専門知識を通じて人と人が関わり合うものであって、直接的に人間と人間とが関わり合っているのではない。美容師、動物介護師、介護福祉士を信頼するのは、その人たちの専門性についてであって、一般的な人間性に付いてではない。

このときに、専門性や知識や技術があっても、愛情や人間性がなければ、決して「人間のために」仕事をしたことにはならない、というのが先の議論だったのかもしれない。

しかし専門性や知識や技術を深める、極めるということが、どう人間性と関係していないというのか? それらはその領域を通して人間や社会や世界に関係を持ちたいという尋常ならざる関心と愛情がなければ生まれない。高等教育へと足を進めるものは、そういった人間性を選択したということです。一口に「人間性」と言ってもそれは一義的ではない。それが私の先の質問に対する第一の回答です。

次のコメントに移ります。

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また、私は思うのですが仮に、「お客さんとのコミュニケーションについても教える専門学校」と、「お客さんとのコミュニケーションについて教えない専門学校」の二つがあったら、学生は「お客さんとのコミュニケーションについても教える専門学校」を選ぶと思います。
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この問題については、あなた(質問者)は部外者だからわからないでしょうけど、一つの前提があります。

「お客さんとのコミュニケーションについても教える」と言う場合の「も」が重要です。この「も」は、専門性(や知識や技術)はもちろんのこと、その上でコミュニケーションについて「も」ということを意味しています。

しかし専門学校の大半のカリキュラムは、専門教育になっていません。資格教育に侵された「あれもこれも」主義か、実務で一年もすればすぐにでも摩耗するような、教材不在のトレーニング実習に満ちています。

どこにも専門教育は存在していない。そもそも2年間専門主義的な科目を積み重ねることができる専門教員が存在していない。ほとんどの場合、実務経験者が実務で自分が教わったように(経験主義的に)教えているだけで、学校における教育の体裁をなしていない。

そうなると「コミュニケーションについても教える」というのは正確にはウソであって、コミュニケーションくらい「しか」教えることができないのです。専門学校の3年制、4年制課程のカリキュラムを見るとほとんどの場合、専門科目の積み上げはなくなり、専門外の科目が入り込んでくるのはそのためです。特に非資格系はひどい。

つまり専門学校の「コミュニケーション」教育というのは、大学とは別の意味で専門教育の不在を意味している、ということです。言い方を変えれば、専門学校はコミュニケーションくらい「しか」教えることができない。マナー教育くらい「しか」教えることができないのです。

企業側もまた口を開けば「コミュニケーション」「マナー」と言うのは、大学、専門学校双方の専門教育への期待の断念から始まっているわけです。専門教育が出来ないのなら、「せめて」接遇教育くらいはやっておいてくれ、というもの。

ということは、その程度の「コミュニケーション」や「マナー」教育しかできないということです。実務の専門家が集まっていると思われているにもかかわらず、その専門教育が機能不全なのだから「コミュニケーション」「マナー」教育がまともに機能するはずがない。コミュニケーションについて「も」教える専門学校は、結局のところ、専門教育「も」、コミュニケーション教育「も」できないのです。

そもそも、人にどうすれば自分の思いを伝えられるか、なんて卑屈な教育でしょ。そんな話しは「ポパイ」か、「アンアン」に任せればいいでしょ(苦笑)。「思い」の重さを問わずに、ノウハウ論ばかりで「伝わる」「伝える」ことばかりを考えるから、くだらない話しになるんですよ。こりに凝ったパワ-ポイントプレゼンがいかにくだらないか、あなたも卒業して仕事をし始めればすぐにわかりますよ。思いの「重さ」こそが、至高のコミュニケーションなんだということを。

(Version 4.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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