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 コミュニケーション教育論補論(2) ― OUTPUTモデルとしてのコミュニケーション論 2009年06月04日

この記事は、

●「なぜ三流の専門学校は『コミュニケーション能力』に走るのか(大学がコミュニケーション能力に走るのはまだわかるが)」(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_350.html#more

●「【第二版】コミュニケーション教育論補論(1) ― もっともな質問を受けました」(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_351.html#more
の二つの記事の続編です。

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コミュニケーション教育は、接遇能力やチームワークシップの形成に、その教育的な意義を持つのではない。

私が考えるところ、コミュニケーション教育の最大の意義は、OUTPUTから始める教育モデルの一つという点だ。

たとえば、OUTPUTモデルの最も原初的なものは、試験(期末の履修判定試験、資格試験など)だ。試験をされてはじめて、自分にINPUTされていたもの、されていなかったものがわかる。INPUTの点検を自己点検していた限りでは完璧に思えていたのに、〈試験〉という他者による点検でそのINPUTの内容に不充分な点を初めて見出すというような。〈試験〉は、OUTPUT主義に立てば、教育の終点ではなくて、教育の始点なのである(学生にとっても教員にとっても)。

言い代えれば、講義であれ、実習であれINPUTされていた内容を、実際に行使する、利用する=OUTPUTする段階で自分の理解に欠陥があることを自覚する局面だ。自分の内部ではわかっていたような気になっていたが、実際にそれを説明しようとしたり、使おうとした段階で、自分の知識や技術に欠陥があることに気付く。

つまり、教育課程を積み上げ型で構成するのではなく(INPUT型)、〈使う〉〈利用する〉という行使型で構成する(OUTPUT型)というものだ。コミュニケーション教育というのは、このOUTPUT型教育モデルの一つとして位置づけるときに初めて意義を持つ。

専門学校の、近視眼的な接遇モデル、チームワークモデルで「コミュニケーション能力」を扱うからこそ、このOUTPUT型教育のメリットが見えてこない。

気をつけなければならないのは、このOUTPUT型教育は、INPUT強化のためだということ。この観点を忘れるからOUTPUT論が「接遇型」「営業型」戦術論やノウハウ論に変質してしまう。

たとえば、実習授業は、講義(INPUT)のOUTPUT形態である。しかし実際は講義の体系と実習の体系とは分離している。基本的に資格カリキュラムになっているからである。だから、INPUTのない実習授業に堕している。

特に1年生の夏休みを過ぎれば(前期はオペレーション集中授業)、実習授業では黙っていても手が動き始めるので学生と教員との交流(=コミュニケーション)はほとんど無くなる。作品や課題物を勝手に作って勝手に終わる。履修判定も課題物を提出すれば、60点はもらえる、なんてことになっている。2年生の実習授業になれば、一コマの授業で一言も教員と口を交わさないままに授業を終える学生も出てくる。

一人の教員で20人~30人以上の実習をマネージメントするノウハウが専門学校の実習授業には存在していない。一人でも手の遅い学生か、質問好きの学生がいると、その学生の傍に長く滞留し、他の学生は置き去りになる。出来る学生はどんどん勝手にやりはじめ、出来ない学生はどんどん遅れていく。格差は授業が進めば進むほど拡大していく。

結局、INPUTのない実習(OUTPUT)、放牧状態のような実習授業が延々と続く。これが専門学校の実習授業だ。私は、この放牧状態を「大人の保育園」と呼んできた(苦笑)。

講義の体系と実習の体系が資格主義的に分離していることと実習授業の放牧状態が、「コミュニケーション」不全現象なのである(メインのカリキュラムで、「コミュニケーション」不全な学校が、どんな顔をしてコミュニケーション能力「も」教育をすると言うのだろうか)。

OUTPUT型教育の変種である「問題発見・解決」型授業やグループ学習もINPUT指標が明確でないために放牧実習授業の亜種に留まっている。メインのカリキュラム(シラバス)をそのままにしておいて、その種の授業を外面的に挿入しても成功するはずがない。それはむしろメインカリキュラム改革からの逃亡を意味するだけのこと。

実習は本来、自分の知識や技術に何が欠けているのかという反省の契機でなければならない。それを繰り返しながら、一つの行為に込める情報量(INPUT量やINPUTの質)を拡大、高度化していくというのが、高度な実習授業のあり方である。

古典的な手法では、中身(INPUT)を拡大していけば放っておいても表現(OUTPUT)の水準は保たれるということになる。ノウハウは中身が決めるというものだ(これは思想的にはヘーゲル主義)。パワポのアニメーションに凝るプレゼンを見せつけられると、たしかにヘーゲルが言うことは真理。そんなヒマな時間があれば、もっと中身を考えろよ、ということになる。

しかし大学全入時代を迎え、「基礎学力」に欠ける学生?を受け入れざるを得ない専門学校・大学では、INPUTの長い蓄積に耐えられる学生が減りつつある。小刻みなOUTPUT契機(=評価=他者性)を介入させないことには、まともに教育できない。ヘーゲル的な正統派の学生はほとんどいない。

大学が通年制からセメスター制(2期制)、クォーター制(4期制)にシフトしつつあるのも、INPUT主義からOUTPUT主義へと転換しつつある表れと言える。履修判定は教員と学生との最大のコミュニケーションだからだ。

専門学校が「コミュニケーション能力」論から学ぶべきことは、「接遇」教育や「即戦力」人材の観点からではなくて、むしろその根幹をなす実習授業の「コミュニケーション」契機をどう拡大していくかということである。たくさんの専門情報が飛び交う実習授業をどう構成するのか? 授業中は教材に目を落とし、放課後は本を読んだり、図書館へ向かう気にさせる実習授業をどう構成するのか? それが問われている。

「接遇」「人間関係」「人間性」以前に、専門知識、専門技術の修得のど真ん中に「コミュニケーション」教育モデルを導入することが「コミュニケーション」論の最大の意義なのである。

(Version 4.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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