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 学校教育における〈試験(学期末試験)〉の意味について 2012年09月16日

この夏休み期間中に、特には8月中にやったFD研修の中で、特に、学校教育における試験の意味について質問や議論があったところを、Q&Aふうにまとめてみました。ご参考になればどうぞ。

【質問1】教えるべき内容の本質は変わらないとして、シラバスの完成度を上げ、教育力を上げて、試験を行えば、結果は100点に近づいてくるのではないでしょうか? もちろん、1点刻みなど、より細やかな評価をしなければならないとは思いますが。

それは違います。みんなが100点取る授業ができるようになったとしたら(それはそれ自体いいことではありますが)、次にやることは、以下の二つ。


1)時間の短縮(授業時間の技術密度の向上)という課題

同じ教育目標・学習目標をさらに短い時間でやるにはどうしたらいいのかを考えること。従来までは1年かかっていたものを半期でできないのか、半期とまでは言わないにしても30%くらい短い時間でやることはできないかを考えること。これを繰り返し続けることがカリキュラム開発です。

たとえ、(たとえば)資格教育であっても、認定校規制上の科目名はそのままであっても、シラバス・コマシラバス(=授業内容)は毎年更新して授業時間の知識密度・技術密度の絶えざる向上を図る必要があります。

そのことによって、空き始める時間こそが、あらたな高度課題の(他校ではできない)シラバス展開につながっていく。この毎年の(あるいは期単位の)更新こそが、資格スクールや職業〈訓練校〉のカリキュラムと、専門学校教育、大学教育との違いです。


2)目標の高度化という課題

みんなが100点取れるようになったのなら、もっと難しい目標を設定することができるのだから、120点の要求、150点の要求を考え、その高水準の要求を100点満点に換算した授業計画を立てることを(次年度からは)考えることが重要。

最初の内は、この高水準の目標においては、全員100点は取れずそれなりの点数分布を示すはず。たとえば全員100点のクラスで、120点の要求を反映した試験問題をまともに作れば60点~100点の間で分布するはずです。つまり全員100点状態というのは、学生がさらなる高度な課題に取り組める状態になっているということのサインにすぎない。終わりではない。

上記 1)も2)も、高等教育としての高度教育にかかわる組織なら当たり前のこと。中等教育までの教科書教育、生涯学習的な(消費主義的な)資格教育、訓練校的なルーティン実習、ルーティン講義、これらを常に脱皮する志向をもつことが高等教育の課題。具体的には、①の授業時間の質を上げるという意味での時間短縮、②の各科目の試験水準を年々上げ続けていけるような教員の自己研鑽、この二つが重要。


【質問2】私の所属する学科では試験直前にテスト対策を授業で行っていますが、そのことをどのようにお考えになりますか?

それはサイテ-な「授業」だと思います。私はそういうのを「試験主義」と呼んでことごとく退けてきました。即刻止めた方がいいと思います。

なぜか。結局、それも蔓延する追再試処理と同じで、前もってテスト対策することによって、教員の授業内での不備(教育不足)を棚上げにする処置に過ぎないからです。

どちらも(追再試もテスト対策も)、学生サービスを装っている点では同じですが、実際は、教員が日々の授業の課題(特には落ちこぼれ対策など)に鈍感になるだけのことです。

「テスト対策こそ落ちこぼれ対策のためだ」と言ってはいけません。試験前のテスト対策授業(指導)を教員が念頭に置いてやる授業では、むしろ「試験前対策がある」と教員が最初から想定して授業をやるので、逆に授業中の毎時間の履修課題において学生が躓いてもそのことに鈍感になってしまうのです。

ちょうど追再試も同じような悪い副作用を持っています。「あいつは追再試組だ」というように最初から「できない」学生を差別してしまう。こうなると「追再試」は“いじめ”でしかない。

授業中に躓く学生を発見しても、ヒューマンに厳しく当たったりはしていますが、「どっちみちこいつらは追再試だ」とか、「試験前にはテスト対策があるから」となると、逆に日々の専門的な内容の指導に結果的には手を抜くことになります。

これは、教員の態度の問題ではなくて、追再試やテスト対策があることの問題です。追再試やテスト対策指導を前提にして、教員が日々の授業の精度や密度を上げたりするはずがないのです。

もう一つの問題は、「試験主義」の問題です。試験主義とはテストに出る問題だけを解ければいい、という考え方です。そんなことはありえない。

たとえば、(試験前に)「鎌倉幕府の成立年が試験に出るからよく勉強しておけ」と言ったら、学生はそこしか勉強してきません(どちらにしても大して優れた試験問題ではありませんが)。しかし授業は〈鎌倉幕府の成立年〉という授業ではなかったはず。

ふつう、その成立年が試験に出て、それがきちんと解答できるということは、それ以外に授業で学んだことも“そこそこできる”ということを意味します。
試験というのは実際に学んだ時間の10分の一、100分の一の短時間において、全体の習得度を測るためにやるものです。〈鎌倉幕府の成立年〉はその一つの実例に過ぎない。

この実例を試験予告してあたかも科目授業全体の評価にしてしまうのが、「試験主義」です。

学生は具体的には何が試験に出るかわからないからこそ勉強する(予復習する)わけですから、テスト対策をわざわざ(試験を行う教員が)行うというのは、教員にとっては(学生にとっても)自殺行為です。

そもそも普段の授業こそが本来の“テスト対策”なわけですから、ことさらにテスト対策を行うというのは、普段の授業が機能不全を起こしているということを意味しているに過ぎない。

試験というのは、授業で教員が教えたかったことの全体が、いくつかの個別の問題(課題)に集約されて、学生がその全体をどう会得したか、それが評価されるわけですが、個別の問題はその意味で結果に過ぎないわけです。

試験主義では、その結果に過ぎない個別の試験問題が事前予告(あるいは事前暗示)されることによって、自己目的化し、その問題さえできればいいということになります。これでは長い授業時間をかけた教育の意味が軽薄化するばかりです。

授業担当教員の最後の教育契機は、よい試験(学生本人の実力がまるごとわかる試験)を出すことによって(そういった試験伝統を継続することによって)、学生に最後の(よい)復習をさせることです。場合によっては、そのことが教員自身の授業不備をカバーすることにもなります。

しかし授業不備の多い教員や学校体制は、大概は試験体制もずさんです。だからますます復習(よい復習を)する機会のない試験、試験対策、追再試を繰り返すわけです。

試験対策授業など即刻中止して、日々の授業の授業改善に取り組むべきだと思います。学生が勉強しないのは、教員が試験対策と追再試に甘えているからです。


【質問3】まず、授業担当者が自身で試験を作っていない場合があることもあり(共通問題であるため)、そして問題数が少なすぎるのが現状。試験合格を最終目標とするのか疑問です。

これはいくつかの問題が含まれています。一つは、担当教員が試験を作らなければいけないということはないということ。むしろ授業担当から、試験作成、採点処理・管理を切り離した方がいいとさえ私は思っています。学内に期末試験センターなどを作った方がいいのです。

授業担当者が試験作成、採点処理・管理をやってしまうと、どうしても(上述2のような)試験主義になってしまいがちです。

むしろ授業計画(シラバス+コマシラバス)を授業担当者が詳細に書き込んで、それを元に第三者が試験作成しても、それほど変なことにはならないというような体制が理想だと思います。だからこそ、詳細な授業計画が必要なのです。

逆に言えば授業計画(シラバス+コマシラバス)とは、授業担当者が試験を作らないで済むような精度を持つべきです。

そもそも試験とは教員がどれだけの教育ができたのかを計る目安なのですから、試験を自分で作るというのはおかしなことなのです。(上述2のような)試験主義を払拭する最大の方策が第三者試験作成・試験採点です。

さらに二つ目の問題。学校や学科によっては、同じ授業科目を複数の教員が持っていたりする場合があることもあるのでしょうが、それが悪い方に働いていて、大ざっぱな試験問題、つまり教員格差や授業内容格差を覆い隠すような単純な試験問題(「問題数が少なすぎる」試験など)になってしまっているのだと思います。

そうなるのは、結局、まともな授業計画(シラバス+コマシラバスに基づいた教育目標)が存在していないから。まともな授業計画(=詳細な教育目標)がない状態で、複数教員体制をとってしまうと、不備が一番多い教員の水準に合わせた試験をやらざるを得なくなり、そうしない場合は、その不備をテスト対策授業や追再試で覆い隠すことになる。

そうやって、誰も試験問題と実際の授業との関係をまともに考えなくなる。それがこの種の学校の大きな問題だと思います。

だから、重要なことは、あなたが「疑問」とする「試験合格を最終目標とするのか」ではなくて、その試験体制をきちんとしたものにすることです。それが至上命題です。そうはならないという障害、たとえば一科目一授業複数教員制、期内ローテーション実習制(一つの期内で学ぶ主題ことに縦割りローテーション実習が存在している不可思議な体制など)などの障害を、一つずつ取り除いていくことが課題になります。

いずれにしても学生の実力がわかる試験体制にしていかないと、教員の実力、授業の実力、学校の実力も見えてこない。見えてこない限り、それらの改善も成長もあり得ない。


【質問4】分けて考えるものではないと思いますが、実習系科目と講義系科目とを別にして考え方を聞いてみたい。学生側のモチベーションも違いますので。

質問の意味がもう一つ理解できないのですが、私になりに趣旨を補足して答えてみます。勘違いしているならまた考えますので、お許し下さい。私は(たとえば)専門学校の実習授業と講義授業とはもっと融合すべきだと思います。

これを分離している限り、講義授業は大学(の専門分野の先生の授業)に必ず負けます。専門学校の講義授業は、実務的にも学問的・理論的にも中途半端な“先生”が教えているだけ。そんな中途半端な授業をして学生が寝ない方がおかしい。すべての講義授業で、実践的な中身に変えていくことは不可能かもしれませんが、工夫をすればできることもたくさんあります。

私の経験でいえば、建築系(国交省「二級建築士」)やIT系カリキュラムの開発ではそれをやりました。

従来、建築カリキュラムは、〈設計〉(実習中の実習)、〈施工〉、〈構造〉、〈建築法規〉の四本柱でできあがっていて、それに沿った科目が国家資格カリキュラムの元に配置されていたわけです。

学生は設計(設計製図)の授業では寝ませんが、大学に比べて設備の貧弱な専門学校ではほとんどが講義にとどまる〈施工〉、〈構造〉、〈建築法規〉ではみんな寝ていたわけです。

施工できる、地震でも倒れない、法律的にも建てられる〈設計〉が重要なのですが、ほとんどが設計家気取りの自己満足なお絵かきに終わっているのが現状でした。

設計の独創性や創造性、個性があるとすれば、そういった諸条件(〈施工〉、〈構造〉、〈建築法規〉)との戦いを勝ち抜くパワーを持った場合だけです。その本来のパワーが現在の建築教育には欠けているわけです。

原因ははっきりしています。設計テーマと関係のない独立した教科書で〈施工〉、〈構造〉、〈建築法規〉を教え続けていたからです。学生が小規模木造住宅を設計している授業の週にある〈施工〉や〈構造〉の授業がコンクリート造のものであったりしているわけです。担当している教員も学生達がいま何を設計しているのか無関心なままに非常勤教員だったりしていたわけです。専門学校の建築系は〈設計〉教員の吹きだまりみたいなところがありましたから。

そこで私は、教員たちに、その週、その月、その期の設計テーマに関係する〈施工〉、〈構造〉、〈建築法規〉を小刻みに再編成させました。施工できる、地震でも倒れない、法律的にも建てられる〈設計〉実習を目標に、それを小規模設計、中規模設計、大規模設計(都市計画を含めて)にさらに再編成してカリキュラムを全面的に再編したのです。

〈設計〉、〈施工〉、〈構造〉、〈建築法規〉の四課題がその時々の〈設計〉テーマを中心に連関しながら、徐々に高度化していくというこのカリキュラムを私たちは〈らせんカリキュラム〉と読んでいました。もちろん学生達の講義授業への関心は格段に上がっていきました。

国土交通省の外部受験資格のある建築系であってもそれが出来るのですから、外部試験のない分野での教育でこの種の〈らせんカリキュラム〉が不可能なはずがありません。

今の専門学校の職業教育の問題は、実習授業は実習過ぎる、講義授業は講義過ぎるという問題をまったく解決していないところにあります。大学の教育も同じですが。手作業(実習)で頭が働いていない、頭作業(講義)で手の動きがイメージできないという問題です。誤解を恐れずに言えば、頭の足りない教員と手の足りない教員とが実習と講義を担当していると言い替えてもいいかもしれない。

 
【質問5】試験についてですが、3月卒業時点で全員80点以上を目指しています。今は平均50~60点です。間違いでしょうか?

この質問については、質問1で書いたことと同じ回答になります。ちょっと違う答え方をしてみましょう。

あなたは、そのクラスの学生の技術格差、知識格差の実態が80点~100点の間の20点差に収まるものと思っていますか。かなり出来ない学生を80点まで持ち上げることは意味のあることかもわかりませんが、かなり出来る学生が、その学生と20点しか差が付かないというのはどうなんでしょう。

あなたの中学校時代のクラス同級生の顔(特に採点後の試験解答用紙返却時の顔)を思い出しながら考えてみて下さい。たぶん、100点の学生には不満が残るだろうし、その学生たちにはもっと高度なことを教えられる状態の点数分布なのだと思います。

もっと言えば、「できない」学生だって、点数の甘い試験で「よい」点数を取ってもさしてうれしくはないでしょう。授業は厳しいが試験は易しいということを一度、“経験”すると(特に)できない学生はますます勉強しなくなります。

さらに言えば、「平均点」で、学生の能力や自分の教育力を見てはいけないということです。100点が一人いて、0点が一人いれば、平均点は50点。2人ともが50点でも平均点は50点。この二つの状態を「平均点50点」で「同じ」クラス状態とは考えられない。

大切なことは、点数の分布状態を見るということです。平均点がダメなのは、分布を隠してしまうということです。〈分布〉とは、別の言い方でいえば、目標とその現状ということを意味しています。

〈60点〉が意味することは、まだ40点分の学習すべき目標を有しているということです。100点というのは(とりあえず)教員がその授業で想定した最高状態の履修目標を身に付けているということです。この最低合格点と最高合格点の差異の体系(点数の刻みの体系)が、その授業(その授業の教育)の精度や密度を表しているわけです。点数差が縮まれば縮まるほど杜撰な教育になります。広がりすぎたら、単に(教育以前の)自然状態です。

試験問題100点満点の体系とは、まずは最低基準60点の履修基準を立てる→そこから40点分の体系を作る→その40点分の履修格差を可能にする〈授業計画(シラバス+コマシラバス+試験問題)を立てるということになります。


【質問6】サービスという側面をもつ業界の性質上、優良といわれる企業が「人物評価」を重要な採用基準のひとつとすることは避け難いのではないでしょうか。

それはもっともなことですが、それを大学や専門学校が自らに課す場合には、少なくとも専門分野の技術や知識が、教員自身満足の行く状態において学生達に身についているかどうかを検証済みの場合だけです。

教育関係者内外からよく聞く言葉があります。「単に知識や技術を身に付けただけではダメだ、人間性や社会人としての基本(あるいは接客マナー)が重要」と。

しかし、私はかれこれ40年近く教育に関わっていますが、「知識や技術を身に付けた」学生を見たことがありません。人間性や社会人的な基本(あるいは接客マナー)に親和的な学生を見ることはよくありますが。

「身に付けただけでは」の「だけ」という言葉に注目すべきです。前提が崩れている状態で、「人間性や社会人としての基本(あるいは接客マナー)が重要」というのは、教育上の自分の持ち分(責任)を棚に上げているだけのことです。追再試やテスト対策授業が蔓延する学校で、「人物評価」を議論する資格はありません。

別の言い方をしましょう。そもそも学生時代の人間性とは、学業(専門性)への集中ということから形成される人間性です。この集中性は、大概の場合、もっとも純粋な意志に関わる集中性です。(直接には)なんの役にも立たない”お勉強”への集中性ですから。この無益な集中性のためにこそ、学校教育の教室は校門と塀によって囲まれているわけです。

現役社会人的な生涯学習はその意味で(利害の関わる)不純なお勉強なのです。集中性の基礎訓練は、したがって学校教育が涵養しているものです。

そして一つのことに集中するということの中には、集中力、注意力、観察力、自制心(自己コントロール)、計画性など様々な“人間力”が含まれています。偏差値の低い大学や専門学校に入学してくる学生は、余り勉強が得意でない学生が多いため、この種の集中力が途切れがちになります。

「国語・算数・理科・社会・英語」(いわゆるジェネラルエデューケーション)では、この集中力が身につかなかったが、自分の好きな専門分野の学習の中で、その集中力を涵養する、その学校が専門学校や大学の専攻分野なわけです。

顧客要求に対する観察力、注意力なども、ほとんど学力(学歴)と相関しています。7割近くがサービス産業(顧客対応)の日本社会の中で、中卒者の3年以内の離職率は83%、高卒者では62%、大卒者では38%です。実は、勉強をきちんとさせる、息の長い能力が必要とされる学習にきちんと耐えさせるこの訓練は、必ずしも接客能力と無関係ではないのだというのが、この数値の意味するところです。

大切なことは、息の長い教育(すぐにはアウトプット=成果がでない教育、1年、2年、3年、4年かけないと成果が見えてこない教育)を若者に体験させることです。それが並列メニューカリキュラム(選択制カリキュラム)や単純化した実習試験、慢性化するテスト対策や追再試でかき消されているわけです。

 
【質問7】この業界の企業が技術力のある学生に就職してほしいと思っているのかは疑問です。また、60点以下だと卒業認定できないのに、試験をむずかしくするとは、結局、学生で試すということでしょうか?

これも6番の質問の答えと同じです。だったら、技術力を身に付けさせてから、疑問視しろ、と言いたい。「60点以下だと卒業認定できないのに、試験をむずかしくするとは、結局、学生で試すということでしょうか?」という言い方は、点数だけいじって自分は何もしないと言っているのと同じです。

たしかにどうしようもない学生が入ってきている場合はあるでしょう。しかし一方でテスト対策や追再試を繰り返して、本試験の意味を軽薄化しているのですから、まじめな試験をして落としたら問題だ、というのは“ためにする”無用な心配です。そもそもまじめな試験(まじめに点数分布する試験)などやっていないのですから。

まずはまじめに点数分布する、つまりは中上位の学生達が100点から60点までの40点間に2点刻み、5点刻みで分布する技術試験指標を形成して、その中で、どんなふうに60点未満学生が分布するのかを見ることが、自分の(科目担当教員の)教育力の現状評価になります。

その現状が測れる試験体制が整ったら、次にはいかにして、60点未満者を減少させていく授業改善に取り組むのかという課題になります。高度教育(100点を超える)にも最終頂点はありませんが、60点未満の下限の学生を減少させる教育力向上にも最終頂点はありません。年々学力低下の学生入学は増えているのですから。

今の体制では、何が、この学校の教育目標(教育力)の上限なのか、何がこの学校のその下限なのか、それがまったく見えないわけです。「できない学生はどうするのか」の「できない」の意味が極めて曖昧なままで、試験を難しくすると卒業「できない」学生が増えると心配する教員は、下限も上限もましてや40点間の技術や知識の機微についても注意したことのない教員です。要するに学生を評論家のように見下しているだけなのです。


【質問8】職員には「そうは言ったって、卒業させないとだめなんでしょ?」「退学はさせちゃだめなんでしょ」という考えを持つような人もいます。退学云々ではなく、試験カリキュラムに意識を持たせ、向上させる手法はないでしょうか? 芦田先生の学校体験でそのような教職員に会われたときはどのように話されていたでしょうか?

そういう教員や学科長に出会ったときは、まずはそれでは、最初から教育の埒外(らちがい)だという学生を年初(5月末くらい)に示せと言いました。この場合の「最初から教育の埒外」というのは、だれが(どんな専門教育の専門家が)どんなに工夫し、時間をかけても難しい、一生付き添っても無理だという「埒外」のことです。

私の経験ではそういった学生は1割もいません。AO入学だらけの学校であってもです。私はその場合、その突き出された“埒外学生”と必ず面接していましたが、面接するとさらにその半分になります。たった1割未満の学生のために、追再試やテスト対策をやるのはバカなことです。2割、3割いたとしてもバカなことです。

次の段階では、では、残りの学生は、かならず40点分布の落伍者なしの教育をやるということでいいのですね、と期首に確認します。教員や学科長は、学期がすすむにつれて、埒外学生の数を増やしていくからです(就職率で言えば、「就職希望者」の分母を減らして就職率を上げていくのと似た作業です)。それは授業の進行につれて、授業の不備が拡大しているだけのことです。

要するに、「埒外学生」を何割いるとみなすのかは、個々の教員、個々の科、個々の学校の教育力と相関しています。大切なことは「埒外学生」を教員個人の判断に任せず組織的に共有するということです。

●番外編:「埒外」学生の減らし方
1)予復習の課題(実習であれ、講義であれ」を、たとえやってこないと予想が付いても必ず配布する。実習の予復習という意味で言えば、授業で行うことのビデオくらいはあるはず。なければYouTubeにでもあるはず。ネット検索すれば、学校にあるものよりも優れたものある。見ておくとの見ておかないのとでは大違い。そのビデオに間違いがあるのだとしたら、そのビデオはさらによい教材。どこがダメなのかから授業をはじめることが出来る。

2)予復習をやってこさせるには、必ず授業の最初で学生に見た簡単なレポートを提出させるとか、レポートが書けないときには、四択で感想を表現できるようなレポート書式を作っておくとかの処理をする。もちろん口頭で何人かに喋らせてもいい。「どこが難しいと思ったか」などと教員が質問しながら。

3)さらにやってこないときには、学生をグループ化して、グループ単位でビデオを見る指導を行う。グループ単位で感想を言い合わせる体制を取る。

4)それでもやらないときには、毎日翌日の実習課題の予告授業(30分くらい)を時間割りの最後に組み込むなどの手がある。翌日の授業の予告授業を必ず前日の時間割りに組み込むという方法。これはかなり授業が(上位学生対策としても下位学生対策としても)安定するが、時間割り負担、教場負担、教員負担が大きいかもしれない。しかしやる価値は充分ある。

一般に、「落としたらどうしよう」という教員は、授業時間の中では「埒外学生」をさばけないと考えています。そんなことは当たり前です。もう一つの思い込みは、教員一人ではクラス学生全体をマネージングできないという心配。それも当たり前です。まったく正しい。

前者の問題は、だからこそ「再現性の高い」(=予復習する気が起こる)授業を行うことで解決するということです。言いかえれば、一コマの授業の度に、参照できる教材、テキストをこまめに指示すること。指示できるように用意しておくことです。

実習教場の準備ばかりをすることが授業準備ではない。学生格差が大きく拡大していくのは、90分の授業を、学生が学び損ない、あるいは教員が教え損なったらもう取り返しが付かないという状態が放置されているからです。それを一つずつ解消していくだけでも授業の安定度はかなり変わってくる。簡単な板書とトークとあとは生の手作業だけでは落ちこぼれが出るのは当たり前。


【質問9】質問です。私は教養授業を担当していますが、職業教育におけるこのような教養授業も、他の科目と同様に試験を行えばいいのでしょうか。講義授業なので完全に知識を問う問題になってしまい、いわゆる勉強が得意ではない学生にとっては難しいと思っています。
「勉強が得意ではない学生」は、勉強が得意な先生に出会ったことがないことの結果です。学生は先生次第というのが教育の鉄則です。そう思えない教員ならば、教育に向いていないと判断した方がいい。特に講義授業というのは、実習のように、手作業で紛れることがないから、先生(の専門性)に依存する率が高いと考えた方がいい。


【質問10】どうしてもついてこれない学生は、最終的に切り捨てる事になるのでしょうか?

この質問については、ここまでの回答で全て答えました。


【質問11】教員が、学生の学習状況を把握して、フォローも含めて対応するためには、教員一人当たりの学生数は何人位が適切でしょうか?

まずは原則を言います。よい教員とは、同じ目標を、より短い時間で、より多くの学生に教えることのできる教員のことを言います。

だから「適切」な人数は、教員によって違います。小人数教育が最も(学校教育的な)教育力が高いというのなら、僻地や離島の小学校の児童生徒はみんな東大に入学していることになります。

重要なことは、教員が人数に応じてどんな授業デザイン(授業の組み立て、教材の組み立て、参照テキストの組み立て、予復習指示の組み立て、学生予復習グループウエアの組み立て)を描くことが出来るのかということです。

まずそのデザイン力が重要。これができない教員は、小人数でも失敗します。週コマ持ち数=担当科目数を半減させても失敗します。

私は以前の学校で週の持ちコマ数(90分授業=一コマ)を4コマにわざと減らして、授業密度を上げさせる実験を1年間やったことがありますが、出席率、退学率、履修率(各科目の60点以上合格率)、いずれも上がりませんでした。授業デザイン力のない教員、再現性の高い授業をイメージ出来ない教員に、時間を与えても何もしないのです。

やる教員は「忙しくても」やります。そういう教員に時間を与えることが重要なのです。しかし、現在の専門学校や大学の試験体制ではそれがまったく見えません。だからみんな「忙しい」。「忙しい」割に教育力が上がらない、「忙しい」ために教育力が上がらない。そういった悪循環に陥っているのです。

結局、より学生をたくさんもてるかどうかは、前の質問(8番の質問)でも書いたように、「再現」性の高い状態で授業を行えるかどうかに関わっています。実習授業は、実習設備という物理もの、ナマものが多いので、再現性が低くなる分、学生人数にも限界があると思いますが、それでも設備やナマトーク、杜撰な板書、杜撰なテキストのままでは、5人が10人に(10人が20人に、20人が40人に)なるだけで無理、ということになります。

実習であれば、手作業をさせる前の学生の頭にどれだけのその作業に関わる情報がインプットされているのかが、教員が負担できる学生数を決めること(の一つ)になります。またその情報のインプットのための企画力・展開力(それにかける時間負担)は、その教員の専門性・教育力に相関しています。

手作業実習の教員は、慣れさせることばかりに集中する教員が多い。いわゆる時間と教員数に頼る教員です。しかし教育的な課題としては、実習にしても講義にしても、いかにして学生のつまずきを減らしていくか、10回を(10時間で)教えないとできないことを次回では5回で(5時間で)身に付けさせることはできないかを問い続けることです。

5回で(5時間で)教えられるようになるということは、その教員は倍の数の学生を教えられるノウハウを身に付けたことと同じです。授業計画や教材体系はそのノウハウの更新にそって毎年更新されるべきものなのです。学生の成長の前に教員が成長しなければ、ここは変動しません。訓練校や自動車教習所の教員に成り下がってしまうわけです。

教材体系とは、学生の躓きのシミュレーションを組み込んだもののことです。「そうやったら失敗する」ということを先行的に組み込んで、その場合にはこうすればうまくいくという処方箋を提示してあるものが〈教材〉です。

1つの実習授業の中に、教えれば解決する部分(前知識があれば対処できる部分)、知識ではカバーできない実作業で会得する部分はなんなのかを精査することです。大概の実習授業では、この問題が混在していて、非能率なことをやっています。最後は「できればOK」「とりあえずOK」というような。

しかしいずれにしても授業時間内で修得できる純粋実習要素などというものは皆無なわけです。そのときに再現性教材体系はどうあるべきなのかが、高等教育の実習授業に問われていることです。→「にほんブログ村」

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