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 講談社『現代ビジネス』の田村耕太郎さんによる取材記事・総集編(第一弾~第三弾) ― 偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 2012年06月14日

現代ビジネス(講談社)の田村耕太郎さんの私へのインタビュー記事:「偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ― ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32600 から三週にわたって分載された私の発言を修正補筆しながら、全文一覧できるようにしました。


「現在の高等教育での一番の問題点は、いまの大学教育も専門学校教育も、積み上げ型のカリキュラムになっていないということです」と芦田宏直氏は言う。

― 田村耕太郎:「積み上げ型」とはどういうことですか

「積み上げ型」というのは、一つの科目を履修させたら、その科目の履修成果に基づいて、次の科目を始めるということです。階段を一つ一つ上がっていくように科目が構成されているということ。

高校までの学習では、英語、数学、歴史、国語という同じ学年の科目同士では積み上がり科目構成ではありませんが、3学年を通観すれば、それぞれの科目で積み上がっている数学や英語のような科目もあります。

しかし、高等教育では、本来は、学年の内部でも、積み上がる必要があります。高等教育らしい〈専門〉教育を受けるための学校群なのですから。大学は4年間、専門学校は2年間も、『ジェネラルエデュケーション』(国語・算数・理科・社会・英語)を超えた専門教育を受けるにもかかわらず、実際は、縦(通年)にも横(学年)にも、ちょっと高級な程度の“ジェネラルエデュケーション”状態が蔓延しているということです。

これは(大学では特には)「教養課程」と「専門課程」の指定単位規制が「大綱化」施策(1991年)以降なくなって以来、急激に拡大した傾向です。(以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:なぜ、大学や専門学校では、「ちょっと高級な程度の“ジェネラルエデュケーション”」にとどまっているのでしょうか?

大学教育の場合は、教養主義的な科目単独主義が、専門学校の場合は、資格主義的な暗記教育、過去問教育が、『積み上げ型』科目編成=カリキュラム開発を阻害しているわけです。

理工系の大学では、まだまだ50単位程度(卒業に必要な124単位中)の必修単位が残っている大学がありますが、全国の大学の7割前後の人文系カリキュラムでは、必修単位が30単位あるかどうかにとどまっており、これでは、科目が積み上がらない。

私の現在の大学も、昨年まで32単位しかなかった必修科目をカリキュラム改編によって84単位にまで引き上げました。

そういう現状が多い理由は、リベラルアーツ型の専門教養主義による科目単独主義(講座制の名残もありますが)が元凶です。

そもそも選択科目が多いカリキュラムでは、受講が毎回リセットされていくので、高度能力の開発が出来ません。昔の哲学科などは、古代哲学、中世哲学、近代哲学、現代哲学で各一人ずつの教授が講座を構えており、全体を選択必修、あるいは必修で学ぶことになります。

しかし、たとえ必修であってもこの程度の“巡回”であれば、『西洋哲学入門』という啓蒙書をじっくり読んだ方がまだまともかもしれません。

工学部であっても、たとえばSE(あるいはアーキテクト)を目指したいと思って工学部に入っても、機械工学、材料工学、流体力学、システム工学などとならんで「ソフトウエア論」などがわずかにあるだけで、大学院に進学しても事情はそんなにかわりません。学部であれ、大学院であれ、やりたい勉強は自分でやれ、というのが大学教育の基本思想だからです(笑)。

だから、これらの科目がすべて必修科目であっても、積み上がらないのです。哲学にしても工学にしても、概論講座のオンパレードということになります。

専門学校では、学校教育法の一条校でない分、学校としての社会的信頼性を国交省、厚労省、経産省の資格プレゼンスで保持しています。

どうしても教育が形式的で平板になりやすい。専門学校がやっているのは職業教育ではなくて、遅れてきた受験教育に過ぎないわけです。結局、これも形を変えた概論教育にすぎない。能力が積み上がらないわけです。

大学進学率が20%台程度の時代の大学では、そういった概論講座を受講しても、それを滋養として自分の目指すべき専門性に特化していく能力を持っていたでしょうが、ここまで大衆化した大学生では、この種の概論講座は、「国語・算数・理科・社会」なみの一般教育にしか見えず、魅力的なものに見えないわけです。

そのうえ、最近は「リメディアル教育」も盛んになってきて、中学校・高校の復習授業を厚く用意する大学が出てきており、中学校・高校で勉強の苦手だった大学生たちは、ふたたびつまらない授業を受けることになります。

リメディアルな「基礎教育」と言っても、それがなぜ無効でつまらないのかというと、それを元にして積み上がる先の科目との連携など何も取れていないからです。

基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべきですが、4年生の専門ゼミの教授たちは、基礎教育課程にそもそも関心がないため(基礎教育に対する差別視も大きい)、“できない”学生達は、抽象的な「基礎」教育を大学に入ってまで再度強いられているだけなのです。(以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:そこまでわかっていて、なぜその状況を突破できないのですか。
結局、積み上げるということは、具体的な人材像を描く必要があります。たとえば熱力学とソフトウエア工学とを積み上げても「具体的な人材像」はイメージできません。

どちらかの講座(科目)を廃止するしかないのです。残った講座の時間数を倍にも三倍にも増やしていくしかないわけです。積み上げるというのはそういうことです。

そうなると、一つの科目(講座)に張り付いている教授を追い出すしかなくなります。しかしそんなことはできない。

本来のディプロマポリシーに基づくカリキュラム改編は教員人事問題に直結するわけですが人事問題であるが故に、積み上げ型のカリキュラムは作れないわけです。一大学において、不可欠な教員が足りない、不要な教員が過剰に存在している。それが今日の大学教員問題です。

大学に、人材像に基づくカリキュラムが不可能なのは教員人事問題と直結するからです。文科省は最近さかんにディプロマポリシー、カリキュラムポリシー、アドミッションポリシーの3Pを叫んでいますが、それは全国的なレベルで教員を再配置しないと無理な話です。地域間大学連携などはその気配を感じさせる文科省の一施策ですが、その意味さえ分からない教員が多い。(以上・芦田宏直)


― 最近のキャリア教育などもその延長でのことですか。

「キャリア教育がなんの役にも立たないことは明白。就職難の若者が昨今のキャリア教育で目を冷まさないのは、それが単なる説教や人生論にとどまっているからです。うさんくさいキャリアカウンセラーのおじさんやお姉さんの話と変わらない程度なら、目など冷ます方がおかしい。

大切なことは、その話を日々の専門教育をやっている先生が、日々の教えるべき知識や技術の付加価値として“就職や生涯賃金”の質を話すことです。コアカリキュラムの中でキャリア論を語ることが大切なのです。

いわゆる“キャリア教育”に力を入れれば入れるほどコアカリキュラム改善が遅れるという悪循環、つまり大学改革の悪循環がいまの若者の就職難の実態です。 (以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:就職難の若者の特徴ってどんなものがありますか

いわゆる低偏差値の学生というのは、家庭、地域、クラスメート、担任の先生といった近親者との比較の中でしか、自分の位置を計ることが出来ない子たちなわけです。

子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、対面人間関係(いわゆる〈親密圏〉)を超えるときです。

「対面人間関係(いわゆる〈親密圏〉)を超えるとき」というのは、昔なら、トイレに行くのが恐い=家の闇と光、トトロ的な森の神秘=村の境界などがそれに当たったのかもしれませんが、いまでは、高偏差値の学生達なら、全国区の受検勉強でそれを体験します。

喧嘩が一番強くても、クラスで一番を取っても、担任の先生に褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな対面評価では当てにならないということを実感的に体験するのが受験体験なわけです。

低偏差値の学生はその意味では高校を卒業しても“ヒューマン”な=対面人間関係的な基準しかもっていません。その範囲なら殴って勝てばいいだけです。

若いアルバイト店員を店先で観察したり、つついたりして(笑)、人材評価をするのが私の仕事の一つなのですが、大概(残念なことですが)、学歴差がそのまま仕事能力と相関している。“単純な”仕事でも学歴が高い方がまともにこなす。

この相関は、給料ももちろんだし、3年以内離職率も中卒では7割を超える。単に「国語・算数・理科・社会」のジェネラルエデュケーション(あるいはリベラルアーツ)の有無や格差がどう実務能力の格差と相関しているのか、いつも疑問に思っていましたが、たぶんそれは青年期の成長の最終段階で、対面関係を超えることが、現代では受験競争(および体育系クラブ活動における身体的な競争)くらいしかないからです。

AO入試とは、対面関係で大学に入学することなのですから、今の大学生はほとんど人間関係主義者なわけです。だからコミュニケーション論が流行る(笑)

高等教育は社会人になる最後の学校な訳ですから、対面人間関係を超えることができない学生たちのクラスの中に、社会人=職業人としての“偏差値”(殴っても勝てない基準)を、持ち込んでやるべきなのです。

いま、この専門科目でこの試験点数を取れるなら、この企業くらいには就職できる、取れないなら就職できないということの相関(レフェランス)が絶えず見えるように、科目と試験を構成する必要がある。そういったことを各科目シラバス、各科目のコマシラバスの中で明示できるようになれば、どんな学生であっても勉強するようになる。できない学生には、短い目標を丁寧に不断に刻んでやるしかない。(以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:社会人としての偏差値、企業の偏差値ってそんな簡単に見定められますか。

それはこう考えたのです。まずは、人間性とかコミュニケーション能力とか、なんだかわからないハイパーメリトクラシーに属する能力を評価する企業はまず目標としない。

たとえ大企業=有名企業で、就職を成就させた企業であっても、次年度からはそんな企業に学生を送り込まない。あくまでも、学生の専門能力を具体的に評価してくれた企業、実際に専門能力に期待している企業を優先するということです。

「人間性」とか「コミュニケーション能力」というのを期待する企業は、リベラルアーツ病にかかっている高偏差値大学待望型の(=社員教育に充分な時間をとれる)企業な訳です。単に素性の良い学生を欲しがっているだけのこと。こういった企業を出口接続に想定すると、学校側もカリキュラム開発を促進する動機を失ってしまうわけです。“素性”はほとんど“出自”と同じですから、〈学校教育〉を超えてしまうからです。

そもそも人間性を育てるカリキュラムなんて、宗教団体みたいなものだし、コミュニケーション能力を育てるカリキュラムも、「オレオレ詐欺」のコミュニケーション能力には負けてしまう。いずれも「ハイパー」な能力な訳ですから。

それに(余談ですが)、学校の先生というのは、もっとも人間性の怪しい、コミュニケーション能力のない、社会人基礎力もない人種でしょ。そもそもそんなカリキュラム作れるはずがない(笑)。

IT企業などは、まだ業界の歴史が浅い企業群ですから、その点でも学歴差別、学校歴差別の薄い業界です。大企業であっても、専門能力で勝負が出来る企業がたくさんある。専門性に定位すれば、企業偏差値は付けやすい。開発系-受託系だけでも技術的格差はあるし、それに対応して大学院学生を新卒の半分以上採用している企業も技術志向だと言える。

ここに学内の履修判定試験の偏差値順位を割り当てながら、学内の技術試験でどの程度の点数を取らせれば、どの程度の技術志向の企業に入れるのかを実績を踏まえながら年々修正を重ねていく。われわれの学校の教室の壁には上位学年の偏差値と就職内定企業とが張り出されていました。

後輩の学生達(いつも先輩たちと一緒になってアプリケーションを作り合っている学年交流のある後輩たちな訳ですが)は、先輩学生の顔が、同時に企業の顔に見えてくるわけです。まさにこれ以上ない目標設定な訳です。

専門学校さえ、「知識や試験点数がいいからと言って就職がいいということにはならない」と平然と言う教員がいる。リベラルアーツの大学や、国語・算数・理科・社会の点数なら、必ずしもそうはならないというのはわかりますが、職業教育を名告る専門学校は、試験点数が良いことが就職もよいというように、カリキュラムやシラバスや履修判定試験が構成されていなければならない。実務教育の成果を試験して、それが就職実績と相関しないというのはおかしいわけです。

専門学校関係者が「知識や試験点数がいいからと言って就職がいいということにはならない」というのは、したがって、彼らが資格教育しかやれていないからです。実務教育になっていない。その資格教育も過去問教育か暗記教育にとどまっているため、対面教育=トレーニング教育でしかない。だから試験点数と就職実績とが相関しない。

企業は学校関係者が思っているほど専門教育に無関心な訳ではない。ただ、「大学や専門学校が高度な専門教育なんてできないでしょ」と思っているわけです。

言い換えれば、「人間性」とか「コミュニケーション能力」とか「社会人基礎力」などというものが声高に叫ばれるのは、専門能力育成なんか元々無理なのだから、「せめて」これくらいはという期待が人間性とかコミュニケーション能力とか社会人基礎力への期待なわけです。私はそれを「せめても能力」と呼んできました。だから「せめて」というのは期待ではなくて、失望の結果な訳です。逆に言えば、高度な専門能力もった新卒者を実際に育成すれば、大企業であっても採用の門戸を開き始める。それが、われわれが証明したことだったわけです」。(以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:いわゆる「落ちこぼれ学生」というのはいないのですか? ずいぶん厳しい教育のように思えるのですが。

積み上げ型カリキュラムは、機械の歯車のように厳しいもののように聞こえますが、実は違うのです。

いわば、2単位や4単位の一科目(一テーマ)を100単位かけてじっくり取り組むカリキュラムなわけですから、学生が理解で躓くところなどは前もってシミュレーションされて充分なコマ(時間数)を配置できるわけです。

毎コマ毎に復習のコマをあてることさえ出来ます。だからこそだれでもが高い階段を上っていくことが出来るわけです。いわゆる動機重視型=学生希望型の選択科目主義(一科目完結型授業)の方が、はるかに放ったらかし、やりっ放しの授業な訳です。積み上げ型カリキュラムこそがリメディアル授業なんだということをみんなわかっていない。

結局、基礎学力の低い学生達を引き受けざるを得ない大学や専門学校は、学生達の入口(入学時)のハンディを、卒業時点では挽回していなければならない。

日本の一流大学の学生たちは、苛烈な受検勉強のストックを就職時に再度再現して就職しているに過ぎないのだから、その体験のない大学生たちは、入学後のカリキュラムや教育で追いつくチャンスがあるわけです。別に、東大や早稲田の4年間の教育(カリキュラムや教員)が彼らを育てているわけではない。

“下流大学”も専門学校も、しかし、この事態に際して「それなり教育」を施しているだけです。「それなりに伸びた」というものです。どんなにひどい大学やカリキュラムや教員の学校でも、一割や二割、優秀な学生は存在している、どんなにひどい学生でも、入学して2年も経てば、そして4年も経てば、「それなりに」成長して落ち着きはする。

しかし、この「それなり教育」がほとんど機能していないのは、20歳から24歳の失業率が9.1%、25歳から29歳の失業者が7.1%、大学新卒3年以内の離職率が40%近くになっている事からも明らかです。失業率、離職率の本質は若者問題なのです。

グローバル化によるアジア労働者への依存、非正規雇用の拡大、IT化による低位ジョブ職の縮小、新規採用枠内のアジアの一流大学学生雇用、上記による一流大学学生による中間就職域、下位就職域への“天下り現象”などによって、大卒層(一流、二流、それ以下)、短大卒層、専門学校卒層、高卒層などと平和に棲み分かれていた日本の労働市場は完全に解体しています。

「それなり教育」の卒業先などもはや存在していないのです。実際92年でピークを迎えた高卒求人件数の1,676,000件は、2003年で198,000件にまで縮小し、間近の2010年に再度198,000にまで落ち込みます。昨年でも200,000件前後で推移しています。

大学問題は少子化問題ばかりが声高に叫ばれますが、この時期と重なる18歳の減少は40%程度、高卒求人件数はそれに比べて90%も縮小している。企業の新卒人材への高度要求が高まり、偏差値の低い層の「それなり教育」が通用しない事態が生まれているのです。 (以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:これからの大学教育と職業教育との関係はどうなっていくのでしょうか

日本の職業教育は、いつも差別視されてきました。専門学校とは、仕事をしたい若者の行くところではなくて、「勉強の出来ない」若者の行くところでしかなかったです。

今では大学の方が就職率がよいし(構造的な傾向として専門学校の就職率は年々落ちてきています)、頭のいい学生も卒業したらみんな仕事をしている。にもかかわらず給料平均はその仕事の勉強をしていない大学生の方がはるかにいい。これはおかしいわけです。

問題は、「勉強できる、できない」に関わらず、高校卒業時点で、高度職業教育のできる学校(言い換えれば高偏差値学生でも満足できる職業教育の受け皿)を作ることです。いまの専門学校では無理です。文科省は昨年1月31日の中教審キャリア教育答申で、短大・専門学校をその受け皿としては外してしまいました。

簡単に言えば、早稲田や東大の学生に積み上げ型の職業教育を行うということです。この学生たちは地頭の良さだけで、社会人となり、中途半端な研修+先輩の背中+経験を積んで仕事を学んだだけのこと。一回も本格的な(=体系的な)職業教育を受けたことがないわけです。

リベラルアーツの軸としての大学は外せない(外すべきではない)と思いますが、一方で4年間の積み上がり型の高度専門教育を行う受け皿が必要なのです。高度職業教育が存在しないから、専門学校が資格学校にしかならない。大学なら一流大学から三流大学まで存在しますが、専門学校には一流の専門学校、三流の専門学校という格差自体が存在しない。その原因は一流の職業教育というものが存在しないからです。大学に一流と三流があるのは、大学のプレゼンスの象徴であって、大学の無力の象徴ではないのです。

そういった意味で、高度職業教育の柱を高等教育のもう一つの柱として打ち立てること、これを文科省は職業教育(文科省の言葉で言えば「キャリア教育」)の「グランドデザイン論」と呼んでいましたが、中教審の本答申の手前の作業部会で、早い内に消え去ってしまいました。「グランドデザイン」論とは、一言で言えば、差別されない職業教育を高等教育のもう一つの軸として作るということです。

しかし、その道は今回の答申では断念された。選択科目主義と専門教養主義によってあぐらをかいている大学教授たちの既得権の強い壁を打破できなかったわけです。そんな中教審特別部会の中で、資格主義教育に安住する専門学校の代表者(全専各連)に立場などあるはずがなかったわけです。(以上・芦田宏直)


― 田村耕太郎:労働市場のグローバル化については、どうお考えですか

この間、楽天の幹部と話していたら、面白い話しで一致点をみました。楽天は特にアジアの一流学生を新卒枠内で30%採用しているわけですが、それでも(語学問題以外に)問題はあるというのです。

私はそのときに「消費者偏差値が低いんだよね。アジアの学歴エリートであっても」と言いました。要するにスキルや学力はあるんだけども、そんな仕事要求や商品の品質への要求がなぜ必要なのかが彼らにはほんとうのところ実感としてわからないという問題です。

日本の若者の大半は勉強していないけれども(中曽根臨教審答申以来、勉強させていないけれども)、消費者としての水準、サービス水準への要求はどこの国も若者にも負けない。

要するに、勉強はしていないが、消費者水準の高さを日々体験している日本の若者に、教育を強化するのと、スキルや学力は高いが消費者水準が実感できないアジアの若者エリートにそれを教え込むのとでは、ほとんど同じ労力なのではないか、ということで、意気投合したわけです。

日本の若者(特に偏差値の低い学生達)は国内でほとんど相手にされなくなっていますが、そうではない、と私は思っています。アジアのエリート学生をどれくらい採用しても、別の問題が出てくるわけです。日本の若者は、放っておいても顧客志向のエリートなのです。そこに一番気付いていないのは、大学や専門学校の教育関係者たちです。若者の衰退は、ほとんど教育問題です。

中曽根臨教審答申以降、〈学校教育〉が生涯学習の一部だとされたことによって、「学生もお客様だ」という、学生消費者論、授業アンケート主義が蔓延しました。

そうやって学校管理者である校長・学長・理事会が児童生徒・学生の希望、親や地域の要求、企業の「ニーズ」などを第一優先で気にし始めたのも阻害要因です。学校教育が自分たちのリーダーシップをどんどん殺ぐ方向ですすんできたのがこの20年の教育史だったわけです。その分、教員も“指導者”ではなく、“サポーター”にまで成り下がった。カリキュラム開発や教材開発の契機も失われていったわけです。現在のキャリア教育もそうです。

文科省は「多様性と標準性との調和」とやっと最近言い始めました(「学士課程教育の構築に向けて」2008年12月24日)。標準性を「質の高い」とも言い始めています。これは中曽根臨教審路線=多様化・個性化路線の自己批判です。今後20年は、積み上げ型カリキュラムの教育・実績を展開する必要があります。(以上・芦田宏直)

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以下が講談社「現代ビジネス」に掲載された元記事です。

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法(その1)
― ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ! 2012年05月21日(月)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32600

偏差値30台、40台の学生を最強のIT戦士にする教育(その2)
― 受験で詰め込めなかった学生に詰め込んでこぼさせず社会に出す教育 2012年05月28日(月)
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32654

偏差値30台、40台の学生を最強のIT戦士にする教育(その3)
― ぬるま湯につかる大学教員による"それなり教育"の被害者である若者たちを、日本発の高度職業教育で救え! 2012年06月04日(月)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32699

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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