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 老兵は消え去るのみ ― 息子の太郎が我が家を巣立つ(3枚の写真付き) 2008年03月30日

息子の太郎が、4月1日から社会人。これで私(たち)の子育ても終わった。

生まれたのが1985年7月26日(獅子座のB型)。獅子座(私)と射手座(家内)との相性を合わせるには、獅子座(か牡羊座か射手座)しかないということで超計画的に獅子座生まれを狙ったが、7月の上旬に生まれそうになって(もっとも相性の悪い蟹座になったら大変!)、「今、生まれたら大切にされないよ」とお腹をさすりながら言い聞かせたのがついこの間のよう。見事にその脅しが効いて、7月の下旬まで何とかもった。そうやって生まれてきたのが「太郎」。

命名の趣旨は、どこにでもあるようであまりない名前(かつ名前らしい名前)を目指した。その当時、私が主宰していた哲学の研究会で名称検討会を開いた。私は「類(るい)」を最初考えていたが、どうも“すわり”が悪い。それに語源を考えると余り良い漢字ではない。私自身はドイツ語のGATTUNG(マルクスの『経済学・哲学草稿』に出てくるあのGATTUNG)を意識して「類」と付けようとしていたが、その場の“委員”から反対にあってあきらめた。

そもそも名前に凝るのは偏差値の低い親たちらしい。当時、ある社会学者が女子の名前で名前の下に「子」が付かない女子は進学率がよくないとかわけのわからない報告を詳細なデータととも報告していたので、凝るのはやめた。そこで決まったのが「太郎」。

ついでにこの名前なら、全国の銀行の預金通帳は彼のもの。曰く「住友太郎」、「みずほ太郎」というようにお金に困らない人生を、という願いもこもっている(笑)。

家内と私の子育ての暗黙の原則の一つは、高校を卒業するまでは子供を家で一人きりにしないこと。留守番をさせないということだった。私は、息子の太郎を生後2ヶ月から小学校へ入るまで5年以上毎日保育園に迎えに行ったし、家内は20年以上勤務している会社を病に倒れて退職するまで毎日定時に(就業規則に沿って)帰宅している(勤務先のみなさん、ゴメンナサイ)。

「芦田さんに仕事を頼もうと思ったら、5時までがリミット。6時には(必ず)もういない」という不文律が20年続いてきた。会社を出てからも乗り換えのホームを走り続けての20年だった。そうやって、今頃難病になったのかも知れない。

 昔、『台風クラブ』という相米慎二の名作映画の中で「かえりました、お帰りなさい」と独り言を言い続ける中学生の登場人物がいたが、なんとも印象的なせりふだった。今でも頭の中にこびり付いている。若い世代の狂気なくらいの孤独をこんなに上手にえぐった映画はない。

 ひとりもいない家に帰ることのさびしさはいったいどこから来るのだろう。わが息子も、(われわれが少し遅れて)帰ると玄関や廊下はもちろんいつもすべての部屋の電気を(その部屋に居もしないのに)付けっ放しにしている。「何してるのよ、もったいない」と私が家内に言うと「太郎はいつもこうなのよ」と注意する様子もない。別に特に淋しい家ではないのだが(おそらく普通にはその逆の家族にしかみえない)、なんとなくその感じはわからないわけではない。

 息子・太郎のことで言えば、彼にはさびしさの原・痕跡(Urspur)とでも呼ぶべきがあって、生後2ヶ月で預けた私立の保育園から数ヶ月後に公立の保育園に転園した瞬間1週間泣き続けて、急遽再度元の私立の保育園に戻したことがあった。太郎は、その保育園の沖縄出身の保母さん(「我那覇(ガナハ)」という沖縄そのもののような名前の優しい保母さんだった)によく懐いていたのである。それ以来、寝るときにタオルを離さない(我が家ではそれを「牛乳のタオル」と呼んでいる)。

 我那覇先生に預かってもらっていた時に牛乳がこぼれたときに拭くタオル(首周りにかけるタオル)を転園した保育園でも使っており、泣き続けながらそのタオルを離さなかったといういわく付きの薄青色のタオル。それが「牛乳のタオル」である。18年近くになるそのタオルが今では(今でも)ボロボロに断片化して、その一部しか残っていないが、それでも自室のベッドの枕付近に置いてある。

時々家内がからかうようにして「捨てようか」と声をかけるが、「いいよ(すてなくてもいいよ)」とさりげなく(低い声で)かわしている。そのさりげなさに妙にリアリティがあるものだから、勝手に捨てるわけにもいかない。たぶん我那覇先生からの別離は、母胎からの別離の第二の別離であったほどのショックだったのだろう。

 母親からの卒業式は、むずかしい。高校の卒業の最後の年に母親が倒れた。わずかばかりに残っている「牛乳のタオル」(のきれぎれの断片)は、今、太郎の心の中でどうなっているのだろうか。私は子育てに内容的に関わろうとは思わないが(現に小さいときから息子に話すこと、教えること、怒ることなどほとんどない)、こういった原・痕跡(Urspur)には関心がある。

お腹が空いていても私が帰るのを待って食事を取ろうとする息子の気持ちは、いわば男のマザーシップのようなものだ。会社を出てからも乗り換えのホームを走り続けての家内の20年は、決して無駄ではなかったように思う。

太郎と私の最大の思い出は、乳幼児から小学校へはいるまで、通った上祖師谷保育園の6年間。6年間毎日私が迎えに行った(家内は朝の預け役)。私の30代は自宅の籠もりっきりの研究生活。ちょうど子供の迎え役には適していた。

運動会.jpg
※上祖師谷保育園運動会での太郎。運動会が好きだった。最後まで(私と違って)体育会系。

最初の1年くらいはベビーカーを押すだけの退屈きわまりないお迎えだったが、少しくらい歩けるようになってからは、烏山の「京王書房」へ行くのが日課。5時過ぎから、家内が帰ってくる7時前まで、「京王書房」で過ごす。自転車に子供用のイスを付けるのが嫌いで、私の前に彼を立たせた。自転車の足下に伸びる前後を繋げるフレーム用の1本パイプに足を置かせて立たせた。この姿を烏山駅前商店街の人たちは6年間見続けていたことになる。「京王書房」では常連中の常連だった。

まだ体の柔らかい2歳位の時からそうさせていたので、彼の足首は今も曲がっている(苦笑)。中学校の頃、「太郎の足曲がってない?」と家内に聞いたら、「あなたが自転車に無理な形で立たせていたからよ」と怒られたことがあった(その時はじめて気付いた)。

京王書房では彼の背丈だとちょうど横置き(平置き)の新刊書の高さが、ちょっとした机代わりになる。私と彼とは見る本が違うので(当然だが)、書店に入った途端、右(私)と左(太郎)とに分かれる。

さすがに1時間以上経つと、太郎が堪えきれずに、私の方に来る。「もう帰ろう…」という感じか。そんな夕方を6年間繰り返していた。この習慣のために、太郎の足が曲がっただけでなく、目も悪くなってしまった。2歳前後の子供には書店の照明は暗すぎる。平置きの本の高さが低いためにもっとも照度が暗い箇所で本を読んでいたことになる。今から気付いても遅いが…。視力は一気に0.1まで落ちてしまった(苦笑)。

どうでもいいことでもう一つ思い出すことがある。小学生の低学年の時に東京に大雪が降ってマンションの共用駐車場に30センチくらい一面雪。轍も何一つ付いていない(大雪でクルマが出せない)。厚い雪の絨毯が敷かれたようになっていた。私はなぜか太郎を連れてクルマが心配で駐車場の入り口まで来ていた。

ふかふかに積もった雪の地面で私はなぜか「太郎、見てろ」と言って、大の字に手を広げてゆっくりと倒れた。30センチ近くもあるからそうやって倒れても全く痛くない。気持ちがいい。きれいに人文字の跡が付いた。東京生まれの太郎にはそんな遊びは思いもつかなかったらしく、異常に興奮。うれしそうな顔をしてところかまわずバタバタと人文字を親子で付けまくった。「ゆっくりと倒れるのが楽しいんだよ」と指導したのだが、キャッ、キャッと興奮して倒れまくっていた。親が無意味なことをすると子供は異常に興奮する。子供と遊んだりしたことがほとんどない私の唯一の太郎との時間だった。今でも良く覚えている。

太郎は小学校のころは野球が大好きで、小さいころからいつも家内相手にボールを思い切り投げ込んでいたらしい。いつしか家内にも飽きたらず、友達を巻き込んでいった。『遠い空の向こうに』という父子映画の名作があるが、そこでの息子と父親との絆は「キャッチボール」。誰にでも思い出があるかもしれない。私もまた小学校時代は野球が好きだったが、しかし、息子とのキャッチボールについて気付いたときにはもう遅かった。そんなもの意識してやるものでもない。30代の私は土日でもほとんど自宅にこもっていたから、ほとんどは家内が育てたようなものだ。雪面の人文字作り以外は。

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大学・政治経済学部ゼミの指導教授、古賀 勝次郎(ハイエク研究の第一人者)とゼミ最後の写真。

もう一つ、太郎子育てには事件がある。都立戸山高校時代に高田馬場から戸山高校まで5分足らずの距離なのに道端に置いてあった自転車を失敬して友達と二人乗り。何日かその自転車を通学に使っていたらしい。日曜日のクラブ活動の帰り道二人乗りしていたところを警察官に補導された。

その日は日曜日の夜八時頃。太郎の帰りが遅いよね、と言っていた矢先のことだった。突然、自宅に電話。「芦田太郎君のお父さんですか」「そうですが」「戸塚署ですが、太郎さんを預かっています。至急来て頂けますか」「わかりました」。電話を切った後、「何がわかりましただよ」と大騒ぎ。日曜日の夜、明日の準備をしてしずかに1日を終えようとしているのに、胸騒ぎの夜が始まった。

家内も私もクルマの中で無口。「なんて言うの? お父さん、余り怒らないで」「…」。

戸塚署に着いたら、まず担当官が「捨ててあった自転車をちょっと使っていたみたいですね。盗難届は出てはいませんが…」。「そうですか」「学校ではまじめなリーダー格の生徒みたいですね。みんなの人望も厚い。学校には連絡しません。ここで済ませますからご家族の方でよろしくお願いします。お父さんの仕事は?と聞いても『わからない』と答えないんですよ(笑)」「わかりました。ご配慮ありがとうございます」。警察はもう息子のことを調べている!と驚いたが、そんな場合ではない。

しばらくして太郎が私たちのところへ連れて来られた。伏し目がち(そりゃそうだろう)。家内は太郎が起こしたことよりも、私と太郎がこれからどうなるかの方に100%気を取られていた。

三人は黙って車に乗り込んだ。家内は「お腹空いてるんじゃないの?」と言うのが精一杯。クルマの中では以下のような会話が続いた(今でもはっきり覚えている)。

私は最初にこう訊いた。「あなたが他人の自転車を無断で使っていたことを友達(サッカー部の連中)は知っていたの?」「知ってた」

「その友達、なんて言ってた?」「別に、何も言わない」

「何も言わない、ってどう思う?」

「どうって?」

「何も言わない、って、あなたを許していることだと思う?」

「そうは思わないけど…」

「あなた、友達が許せないこと、自分のマナーとは異なることをしているときに、いちいち注意する?」

「場合による」

「その『場合』って、ひどいことをしてる場合だけではないでしょう。悪いことの順位があって、よほどひどいときには注意する、ということではないと思うよ」

「どういうこと?」

「悪いことに順位なんかないのよ。悪いことなんて本当はどうでもよくて、こいつ俺とは違うな、と思われたらもう終わりなのよ。何も言わない友達は、『こいつ何だよ』とあなたにすでにケリを付けているのよ。あなたが自転車泥棒して無期懲役になろうが死刑になろうが、もう友達はケリを付けているのよ。そういった“ケリ”は、法律の罪よりもはるかに重いのよ。あなただって、そういった“ケリ”を周りの友達に付けるときがあるでしょ。『こいつこんな奴なんだ』っていうふうに。ない?」

「ある…」

「でしょ。あなたが他人の自転車乗るのを見ていて、『こいつこういう奴だったんだ、バカじゃない』と思っているのよ、みんな。それがみんなの沈黙の意味よ。わかる?」

「わかる…」

「注意や法律よりも先に決まっていることはいくらでもあるのよ。そちらの方が人間にとってはるかに重い。その重さのためにみんなあなたに何も言わないのよ。あなたは友達の期待と信頼をことごとく裏切っている。あなたと二人乗りで自転車に乗った友達さえ、そう思っているのよ。そういうことわかる?」

「わかる…」

「バカなことをしたね…」

こんな感じで沈黙が続き、あっという間に家に着いた。それ以後、この話は一切しなくなったが、後で家内が聞いた話によると次の日に太郎はサッカー部の連中に「ごめんな、ごめんな」と謝って回っていたらしい(苦笑)。友達達も面食らったでしょう、何をしてるのか、我がバカ息子は。そんなこと謝ってもしようがないのに。まあ、誤らないと気が済まない、感じだったのかも知れない。私の道徳哲学原論、私的講義のチャンスだった。

子育てには自分が気付く範囲内でもいくつかの曲がり角があるが、本当は毎日のやりとりが決定的なような気がする。何がどこでどう作用しているのかわからない。

ブログ大賞.jpg
※最近Japan Blog Award 2008の「ジャーナリズム部門」で優勝。息子に先立たれて腹が立つ。

小学校の時に太郎が家に友達を数人連れてきていて、偉そうにしながら完全に仕切っている。家内に「太郎は何であんなに偉そうに仕切っているの?」と聞いたら、「あなたが(電話口でもお客様にでも)いつもそうしているからよ」と言われて冷や汗が出たことがあったが、結局、何を注意しても自分のことを棚に上げて子育てを語ることにはほとんど意味がない。息子・太郎には私(たち)の痕跡が数々潜んでいるのだろうが、それを乗り越えていくのも子供の仕事。もう4月からは、何をするのも彼自身の責任。

昨週は大学の卒業式だった。高校の卒業式も大学の入学式・卒業式も家内は難病にかかり入院中。大学受験の1年間もほとんどは病院。しかし家内の思いはすでに充分に息子・太郎の中に伝わっていたのだろう。何とか就職活動も乗り切ったし(http://www.ashida.info/blog/2007/07/post_213.html)、在学中、サッカーでも大学日本一のチームのマネジメントに成功した。家内は発病した高校2年のときにすでに息子から卒業していたと言うべきか。

「老兵は消え去るのみ」と言うが、人間は〈作る〉ときよりも離れるとき、引くときの方がはるかに難しい。子育てでさえ、五里霧中だったのに、親として引退する作法などもっと難しいと言うべきだろう。それは死ぬときも同じで、生まれることに受け入れも何もないが、死は受け入れの過程を必ず伴う。別れにこそ、儀式が必要なのだ。

そんな儀式など何も必要としない息子が4月から社会人。太郎君、4月からはしっかり仕事をして次世代の新しい文化の創造者になって下さい。


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※これまでの太郎関連の代表的な記事

息子の帰省 ― 山田太一的な帰省か、なんと単純な息子であることか 2007年11月25日


息子の就職活動は、結局のところ私の自業自得だった。 2007年06月13日


総集編:子供に携帯電話を持たせてはいけない ― 家族と親の役割 2006年11月09日


学歴社会とは何か? ― 私立中学受験は是か非か 2006年03月04日


サンタクロースは、それでも存在する… 2005年12月25日


いつまで経っても家族は揃わない ― 10年ぶりに届いた手紙 2005年12月23日


絶対に貸さない。 2004年06月29日


予備校営業が突然家にやって来た ― リビングの家族の顛末 2003年03月08日


(Version 8.2)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

芦田さんへ。

>家内と私の子育ての暗黙の原則の一つは、高校を卒業するまでは子供を家で一人きりにしないこと。留守番をさせないということだった。

どういう理由でこの原則を作ったのですか?
教えてください。

投稿者 加藤 : 2009年12月20日 03:57

私も長いこと烏山に住んでいます。

残念なのですが、本日、2010年3月31日をもって京王書房が閉店します。

ちょっと思い出に浸ってこようと思います。

投稿者 烏山在住 : 2010年03月31日 06:23

9ヶ月の男の子を持つ母です。

ご子息の就職、おめでとうございます。
そして、子育てからのご卒業、おめでとうございます。

父親らしい愛情に満ち溢れた文章で、読んでいて涙しました。

雪の上の大の字、このダイナミックな遊び教育に関しては、母は父に勝てません(笑)。

また、「道徳哲学言論の私的講義」のくだりは、親として勉強になりました。

子どもが何かしてはいけないことをしたときこそ、大きな成長へのステップであり、自分対社会について考える大きなチャンス。叱るとは諭すことですね。心しておきたいと思いました。


投稿者 moko0621 : 2010年04月10日 10:27
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