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 学歴社会とは何か? ― 私立中学受験は是か非か 2006年03月04日

春は、新入生、卒業生の季節。また進学・卒業で人生が大きく変わる節目。昨日も私立中学受験に失敗して悩んでいるご夫婦の相談に乗っていたが(人の悩み事の相談に乗っているほどわたしに悩みがないわけではないが)、そうこうするうちに、今から3年前に私立中学進学反対の長いレポートをしたためたのを思い出した。わたしの家内は、このレポートを書き終えた1ヶ月後に発病するから(このときにはまだ元気な様子で登場する)、その意味でもなつかしいレポートだ(http://www.ashida.info/blog/2003/03/hamaenco_3_24.html)。今でももちろんその時の考えに変わりはない(当時に比べて“格差社会論”は大流行中だが)。子供たちの進路に悩む保護者の方々に、謹んで(確信を持って)捧げます。


●私立中学か、公立中学か ― 新中学生の進路に悩む親たちへ 2003年02月09日
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_1.html

昨日は、住宅の現地説明会(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=100)の後、知人の娘が名門私立中学校(中高一貫教育の女子中学)の入学試験に合格したというので、そのお祝いのための食事会に招待した。烏山の『広味坊』(http://gourmet.yahoo.co.jp/gourmet/restaurant/Kanto/Tokyo/guide/0301/P018331.html)。ここは『料理の鉄人』にも出た有名な店だが、今では「ビーフチャーシュー麺」しかうまいものはない。

私は、子供を中学校で私立に入学させるのは反対だ。まして幼稚園や小学校で私立学校に入れさせるのにはもっと反対だ。私の考えでは、日本の中学生までは、どんなに“不良”であってもたかが知れている。小さいときから、色々な人間がいることを体験させておいた方がいい。悪いこともいいことも含めて、それを概念としてではなく、人間の多様として体験しておいた方がいい。中学までは家庭がしっかりしていれば、不良になっても、勉強ができなくても取り戻せる。単に取り戻せるだけではなく、積極的に(自発的に)経験させた方がいい。

中学までは自分の子供の、友達との付き合い方に直接的に親が介入してはいけない。すべては、大人になるための(自発的な、その意味では不可避な)子供の学ぶ過程だ。ここを親が勝手に隔離してしまうと、大人になっても隔離した環境でしか仕事ができない、子供のような大人にしかならない。小学校や中学校から私立学校に通っていた社会人で、まともな仕事のできる〈大人〉に、私は出会ったことがない。この人たちは、“概念”でしか、多様な人間を語れない。だから仕事の幅や深さにも限界がある。小さな時から、人間との付き合い方が或る階級の内部でしか動いてこなかったからだ。

 しかし中学校までは、本当の階級は存在していない。それが、日本の階級のあり方だ。日本の公立中学校には、まだなおトップの階級からそうでない階級まで多くの豊富な体験のできる家族が反映している。ここを通過するかどうかは、子供が成長する過程では大きなポイントだ。

 大人になると「社会人」とは言っても、実は非常に小さなサークルの中で動くにすぎない。それは中小企業や大企業という差異にとどまらず、業種や部署の違いによる差異も含めて、出会う人間も起こる出来事も、小さな、同種の経験の繰り返しにすぎないことも多い。「国際的」ビジネスマンで、世界を飛び回るビジネスマンであっても、それもまたそういった小さな経験にすぎない。時間自体を倍にでもできない限り、この種の世界はひろげることができない。「社会人」は、その意味では非社会的(階級的)である。

 だからこそ、子供時代は大切だ。子供の時代にこそ、人の人生の何倍もの時間を累積させた〈社会〉や〈世界〉(つまり〈歴史〉)は存在している。このときにしか(いい意味でも悪い意味でも)出会えない人間たちがいる。そういった出会いや経験の資産が、社会人になったときに、その小さな〈世界〉を〈変える〉力に結びついていく。会社の組織論や常識を疑う力をはぐくむ。“公立”中学校の本来の社会性は、革命的なものである。パブリックという言葉の意味(の一つ)は、社会的ということと同義なのだから。

 私立中学を出た人たちは、新しいことを言ってもしても少しも新しくはない。新刊本を読むことによってしか、そしてまた、“概念”でしか〈新しい〉ものや〈他者〉がわからないからである。少数の(小種類の)人間の行動しか〈知らない〉からだ。

 その意味で、中学校から、ことさらに私立学校に、ましてや女子中学校に入れる意味はない。むしろそれは害悪。人間は放っておいても階級的だ。“社会人”はもっと階級的だ。そんな事実を前にして、ことさらに中学生時代を階級的にする必要はない。そんな子供たちは、自分の階級さえ守れないかも知れない。子育てはもっとドラマティックだし、人間の人生もさらにもっとドラマティックだ。

 そんなことを熱っぽく語ったものだから、お祝いの会ではなくなったような気がして、恐縮、恐縮。でも、まだ入学する必要はありませんよ、Hさん。入学金くらい、自分の娘の人生全体を考えれば、大したことはありません。

●続編(1) 2003年2月13日
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_2.html

学校選択の最大の悲劇は、学校を選ぶことで何かを選んだと勘違いすることです。確かに私立学校の方がはるかに先生は優れていますが、子供にとっては最高の先生は〈親〉です。〈親〉が変わらない限り、何も選んだりすることはできません。最高の選択は、親を変えることです。しかし変えられないものを〈親〉といいます。子供の階級を、学校を選択することによって選択できると思うことこそ、幻想です。学校にそんな力はありません。重要なことは、親が自分の子供を信じられるかどうか、自分の子供に何を伝えられ得るかだけです。

学校や友人や地域を選ぶことによって、子供の教育が可能だと思うこと、それを“成り上がり根性”と呼ぶのです。最大のNobilityとは何か。それは、どんな学校や友人や地域の中にあっても、自分の子供を最後まで愛すること、親が誰(学校や友人や地域)にも負けない子供への愛を信じることです。私立中学校へ子供を通わせるというのは、卑屈なNobilityにすぎません。結局のところ、自分の子供の力、自分が子供を育てたことの意味をわかってはいないのです。

 親の学歴や分別や配慮が問題ではなく、子供を信じる力、子供への愛情が子供を育てるのだということを、もう一度原点に戻って考えるべきです。この場合の愛情の有無というのは、能力(愛情の能力)の問題ではありません。そういった能力がないから私立中学へ入れて、ある種の“安心”を買うという問題ではもとからないのです(そもそも愛情の有無は〈能力〉の問題ではない)。

そんな安心こそが幻想だと言っているのです。そもそも「公立中学校の教科書は薄いから」なんていう心配を本気でするのなら、東大に合格するためには、どんな学校の教科書も薄いというべきです。どんな学校の教科書であっても、教科書では入学できない大学を“一流”大学というのです。また、私が大学院で席を同じうした「英語の発音がきれい」(留学体験すら豊富な)女子学院や桜蔭中学出身の女子学生たちは、T.S.エリオットのエッセイすら(あんなに簡単な英語ですら)まともに訳せませんでした。学校が教えることなどたかが知れているのです。どんな場合でも、学校が子供を進学させるのではなくて、子供が“進学”するのです。

 私学への“進学”や“安心”がうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。公立中学へ入れてうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。それは、現実的にも理論的にも全く等価です。育つものは育つし、育たないものは育たない。それだけのことです。それだけのことにすぎないのに、学校選択を“安心”だと思うその傾向が卑屈だと言っているのです。親が基本的にコンプレックスを持っているのです。だから、自分の子供への関わり方も否定的にしか関われない。子供のことを結果信じることができない。“評判”や“知見”でしか、自分や自分の家族を評価できない。だから、「いい学校」へ入れても、それを「いい」と思う親のそばにいること自体が子供への害悪です。子供の本当の能力が見えていないのです。

 親が最高の先生であり得るのは、“評判”や“知見”以前に子供を裁くこと(あるいは許すこと)ができるからです。それが、最大の〈教育〉です。それが親の最大の責務であって、学校を選択することなどどうでもいいことです。親が社会的でないこと、それが親の子供に対する最大の教育なのです。家庭は(くだらぬ社会学が言うように)「社会の基本単位」ではありません。家庭はもともと反社会的なものです。それを私は、「子供を信じること」(親であることを信じること)と言ったのです。そうやって自分すら信じることができない子供を誰が育ててくれるというのですか。卑屈なNobilityの集団。それが東京の私立中学校というものです。それは結局のところ、家族の力を信じていない者たちの集団なのです。

●続編(2)2003年2月16日
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_3.html

学校を選べば、階級が選べるという考えは、学歴社会の思想だ。学歴社会の思想とは、しかし無階級の思想である。そもそも、偏差値やマークシート試験、その元基である○×試験などは、階級を隠すための装置だった。どんなに貧乏でどんなに無階級(“下級”階級)の人間でも、点数さえ取れば、官僚にもなれるし博士にも大臣にもなれるというのが学歴社会というものだった。

国語・算数・理科・社会・英語が主要5科とされたのは、その他の科目である音楽や美術や体育には、(「主要5科目」に比べて相対的に)家庭環境や遺伝要素が強かったからだ。前者の主要科目は一夜漬けの努力が効く科目だったが、後者の科目は努力の効かない科目だったのである。「主要」か、そうでないかは、個人的な努力(親の“能力”からは相対的に自立した努力)が効くかどうかの指標だったと言える。「主要」科目とは他の科目への差別だといった発言が昔から多いが、むしろ差別的な科目は、「音楽」や「美術」や「体育」の方である。こんな“科目”は半分以上は親の能力(=家庭環境)に属している。その意味では、「主要」科目による学歴選抜はもっとも民主的な選抜装置だったのである。 

たとえば、○×試験の正反対は、記述試験と面接試験である。これは、親や家庭環境を問う試験であるといってよい。まともな試験官であれば、記述式の文体や文字の形を見れば、国語能力以上に当人の性格や人格をかぎ分けることができる。面接試験となれば、もっとそうである。こういった試験は、知的な(「主要5科」的な)能力を問うているのではない。その生徒や学生の所属する家族や階級を問いただしているのである。

日本の私立幼稚園、私立小学校、私立中学校などに見られるこういった選抜試験は、その意味で(その本質において)階級選抜なのであって、学力選抜なのではない。本人よりも親が緊張する試験なのである。日常は成金スタイルで着飾っているブレスレットや指輪を地味なものに変えるのも、この試験にありがちなことである。学力試験は合格点を取っているのに、親が“お下品”ということで不合格になる場合も多い。

 そういったことに比べれば、○×選抜は、はるかに本人自体の能力を問う試験だったと言える。「個人として尊重される」という日本国憲法13条の精神(http://www5.ocn.ne.jp/~sekaihe/kenpounokihongenri.html)に○×試験はかなったものなのである。日本のくずれ左翼教育学者たち(日本の教育学者のほとんどは、そして岩波書店の著作や朝日新聞に登場する教育学者のすべてはくずれ左翼です)は、○×試験の“非人間性”をことあるごとに批判し続けてきたが、それはむしろ逆で、人間=近代的個人であるとすれば、○×試験ほど近代的な選抜方式はなかったのである。

 日本の高度成長を支えた理由の一つは、日本の一流企業(や官僚組織)に、○×選抜のおかげで多くの階級がなだれ込んだからだ。アメリカが人種のるつぼだとすれば、日本の一流企業(や官僚組織)は多階級のるつぼだった。○×選抜のおかげで、日本の一流企業(や官僚組織)は日本の“総力”を結集できたと言える。それが日本経済の活性化の要因の一つだった。

 東大の村上泰亮が「新中間大衆の時代」(1984)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01440188&volno=0000と呼んだのも、この事態だ。私の論脈で言わせれば、「新中間大衆」とは○×試験によって形成されたということ。その後(最近)、京大の橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波書店、1998)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01595374&volno=0000、東大の佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01890101&volno=0000などが、村上の言う「新中間大衆」は80年代以降崩壊しつつあるという論陣を張り始めているが、それは(大阪大学の大竹文雄が言うようにhttp://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/booklet.htm)日本の超高齢化と超高学歴化を無視しているだけのことである。依然として、○×試験の「新中間層」化は機能している。

 私が言いたいことは、この「新中間層」の逆説だ。彼らは学歴を買うことで階級を買うことができると思っている。しかしそれこそが幻想にすぎない。学歴と階級とは何の関係もない。天皇家でさえ偏差値の低い学習院大学にすぎない。ダイアナでさえも大学は出ていない。彼ら(彼女ら)は、自分自身がブランドなのである。学歴を上位階級の指標だと思うのは、新中間層の幻想にすぎない。

特に東京の「新中間」層は、お金があり、高学歴で、つき合うデパートが三越・高島屋であれば、高階級だと思っている。全体が成金な街、それが(ウルトラモダンとしての)東京だ。それは階級とは何の関係もない。単に新中間層が膨張しているだけだ。それを〈近代〉と言う。そもそも(単なる軍人階級にすぎない)武家階級が公家階級と分離して拡張した室町・鎌倉以降(そして徳川以降はもちろんのこと)、日本のウルトラ「新中間層」は膨張し始めていたのだとも言える。

 私の田舎である京都には、高学歴でなくても、貧乏でも、私立中学校に行かなくてもNobleな人はいくらでもいる。たとえば冷泉家(http://www.nbz.or.jp/jp/kikakuten/200109/200109gaiyou.html)の末裔が京都にはいくらでもいるが、その人たちは食事を一緒にしただけで、ただものではないことがすぐにわかる。一切音を立てないで食事ができる、音を立てても不快ではない衣擦れのような音がする。しかも背筋が伸びた姿勢がまたにくい。その人たちに向かって学歴や年収を勘ぐるのが恥ずかしいほどに美しい。

キリスト教のシスターたちは平気で人前で鼻をかむが、冷泉家の人たちは鼻をかむときにさえ気品がある。どこからともなく鼻紙が出てきて、何事もなかったかのようにどこへともなく鼻紙が終われる ― それは『斜陽』の「かず子」の母の食事の所作を「ひらり」「燕のように」と形容した太宰の心境に近い(後に三島由紀夫にあれは貴族的ではないと批判されたとしても)。

こういったものは何らかのマナーなのではなくて、別の自然なのである。「マナー」は「新中間層」が(私立中学校へ入れて)学ぼうと思えば学べるが、こういった人たちの自然は学べない。私の息子を東大に入れるよりは、この食事の自然な、そして日常的な所作を教える方がはるかに難しい。一流バレリーナの衣服の身につけ方がどんな一流モデルのそれからも一線を画しているように、食事マナーも本当のところ学べないものの一つなのである。そもそも教えたり、選択できないものを〈階級〉というのだから、それは当たり前のことなのだ。学歴や年収(ごとき)で変化するものを階級とは言わない。もちろんそんなことはくだらないことだとも言えるが(実際まったくくだらないことだが)、名門私立中学校へ自分の娘を入れようとする新中間層の卑屈に比べれば、はるかに価値あることだ。

 冷泉家を超えて言うとすれば、本当のNobilityとは、従って〈自立〉ということだ。そういったNobilityは、たしかに〈世間〉とはつき合わない。学歴や年収は世間そのものだ。変化しないということの最大の意味は保守性を意味するのではなく、“歴史”や“社会性”を超えることを意味している。それは家族というものの意味でもある。そして「新中間層」が解体させつつあるのは、この家族性というものだ。もともと「新中間層」の私学狙いは、私学の精神自体に反しているのである。

 名門私立中学校の価値は、実は、家族(親)が子供を自由に育てる権利に属している。公立中学校は、むしろ子供は(家族の子供なのではなくて)社会の子供だという立場に立っている。したがって、家系(親の養育権)を守ろうとする親ほど私立中学校へ入れようとする(そのように東大の苅谷剛彦は『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1999)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00030269&volno=0000 でアメリカの社会哲学者フィッシュキンの論文(Liberty & Equal opportunity,1987を借用して述べていた)。これは、一見正しいことのように見える。しかし「新中間層」がここまで膨張するとほとんどこの区分は意味をなさない。むしろ私立中学校は、卑しい新階級(幻想階級)の集まりなのである。90%以上が自らを「中間層(の上)」と見なす日本社会では私立も公立もとうの昔に解体してしまっている。そういったことを一番よく心得ているのは、旧華族だ。たぶん私立中学校の面接官に、冷泉家の子孫をあてがえば、誰ひとりとして合格する家族などいないだろう。

 学歴のみならず、階級さえももはや「世間」や「ブーム」になっているのである。家族が超歴史的、超社会的であるのは、階級さえも「世間」になっている、この事態に対してのことなのである。この時代(ウルトラ民主主義の日本)において、子供を私学に入れるというのは、家族の中に「世間」が侵入している証にすぎない。それは「家族の自立」(フィッシュキン)を意味するのではなくて、逆に家族の解体を意味している。私立中学校は「新中間層」ファミリーの個人主義の中に埋没しているのである。

 こういったときには、学校を選択したことぐらいでは、あるいは名門私立中学へ入れたくらいでは子供を養育したことにはならない。ただ単に「世間」に従って受験勉強をさせただけのことなのだから。親が社会的なものから自立していなければ、子供も自立しない。大人を小さくしたような子供にしかならない。「分別」をもった子供を作ってもしようがないではないか。親が本気で子供を育てようと思ったら、どんな社会的なノイズからも自由でなくてはならない。そもそも自由「である」のが家族なのだから。

 冷泉家も貴族も『斜陽』の和子の母のように滅びるだろう。しかしだからといって、家族は滅びはしない。貴族が存在するからNobilityがあるのではなく、家族があるからNobilityが存在する。家族は「世間」に媚びないNobilityの起源だからだ。階級さえも超えているもの、それが家族のNobilityなのである。

 Hさんの新中学生の娘へ。

「世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかってきました。あなたは、ご存じないのでしょう。だからいつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです」(『斜陽』http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00778723&volno=0000)。


●続編(3)2003年2月17日
http://www.ashida.info/blog/2003/02/hamaenco_3_4.html

今日は、私の家内が電車の中で(折良く)実際に聞いた話の報告です。できるだけ忠実にまとめてみました。今、都内の電車やホテルは受験生にあふれています。今日、家内が出会った風景もその風景の一つです。

 一人の母親が知人の女性と今日の昼の山手線で話していた。その母親は、息子が私立高校を受験して、第一志望は失敗し、第二志望に合格。たった今、その二次志望の私立高校に入学金を払ってきたばかり。

 「都立高校なんてひどいものだし、遊んじゃうし、私立の二次志望に受かっただけでもありがたいと思わなきゃ。しようがないわよね。そうよね」と知人に相づちを求める。「そうよ、そうよ、別に悪い学校じゃないし」と隣の婦人は冷静。「その日は、(第一志望の私立高校の)受験に行くときから、不安がって、自信がなさそうだったし」「そしたら、案の定、『調子が悪かった』『ダメかも知れない』なんて言って、帰ってきたのよ。この子って本番に弱いタイプなんだ、と思ったりして」「でもね、これでいいよね。都立高校に行くよりはましよね」「私ができることと言えば、入学金を出すくらいのことしかないし」「やれるだけことはやったからいいんじゃない、って息子に言ったのよ」などと、隣の友人にひたすら相づちを求める様子。諦めきれない。息子の受験を悔いており、友人にひたすら慰めてほしいという感じが誰にでもわかるようだった。

 ところが、その話は昼間の山手線、まわりのみんなに何気なく聞こえていた。斜め前に立っていた(その二人の母親たちに背を向けて立っていた)中高生ふうの男の子が、突然、「てめえ、うるせぇんだよ」とくるっと母親たちの方を振り向いた。「(息子に)なにしてやったって言うんだよ」「(息子のことを)真剣に考えてたのかよ」「金出しゃいいってもんじゃないだよ」「(これからの)3年間どうしろっていうんだよ」「誰が落ちると思って受けるんだよ。そんなことあるわけないだろ。わかってねぇんだよ、結局」と、捨てぜりふを一気にはき続けた。

母親たちはその少年が“切れた”と思って、席を立って逃げようとした。まわりのサラリーマンふうの大人の人が、「君、やめな」と手を男の子の肩に当てて、少年の動きを止めようとした。近くにいた私の家内は、そのとき「大丈夫みたいですよ」と少年の顔を見ながら、そのサラリーマンに合図を送った。サラリーマンもその意味をよくわかっていた。少年は「大丈夫みたいですよ」と言った家内の顔を「おまえ(たち)も聞いていたのかよ」という感じで悲しそうな顔をしていた。そうこうするうちに二人の母親たちは、他の車両に移っていた。まるで、“都立”の“不良少年”の災難にあったかのようにして。

 私の家内の観察では、その子もまた、高校受験生のように見えたらしい。同じように不本意な高校の入学手続きの帰りであったようにも見えたらしい。

 要するに、(新中間層が肥大化した)東京において私立受験をさせる母親のほとんどが、こういった子供との距離の中で子供を育てているのである。こんなものを子育てとは言わない。子育ての放棄にすぎない。家族にまで「世間」が侵入している事態に子供たちは息切れしているのである。なぜ母親たちは、子供に直接に向かわないのか。なぜ自分の子供に直接に向かわないで、勝手に自分の子供のことを嘆いているのか。「わかってねぇんだよ、結局」。この少年の家族に幸あれ。この少年の怒りのNobilityに幸あれ。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

公立中学のいろいろな人たちと付き合うのが大事というところまで、共感しました。

私立中学がだめ、家族のnobilityが学歴そのものより大事。ごめんなさい。なんとなくしか理解できません。

自分の言葉で考えると、個人の人生において、社会で生きていくためには何が必要か学ぶべきところが、学校なんだと思います。

そういう次元で言えば、今の日本の社会で、私立に行き、、高学歴を得れば、経済力もついてくるという考えは、単純だし、自然な考えだと思います。ですが、それだけのために、高学歴を得るというのは、人の人生への偏狭な見方ではあると思います。

学んで学んで世のため、人のためにつくせる人格を作り上げるというのは、俗な言葉かもしれませんが、とても大事だと思います。

投稿者 ruerino : 2008年02月24日 16:46

>まして幼稚園や小学校で私立学校に入れさせるのにはもっと反対だ。

仙台では公立幼稚園が一つしかありません。こういう場合は私立でもいいんでしょうか?

そちらの地域では公立がいっぱいあるんでしょうか?

投稿者 m : 2008年10月12日 00:47

>mさん

幼稚園なんて入れる必要なんかないですよ。働くお母さんの姿を見せることの方がよほど大切です。

有閑マダムを見て、どうやって子供が育つというのですか。保育園で充分です。

私の息子は(大した息子ではありませんが)、生後2ヶ月から小学校へ入るまで保育園、小学校4年生まで学報保育でした。

それでも特に他人様と比べて劣っているとは思えません(私からすればまだまだ問題の多い息子ですが)。

幼稚園に入れるくらい余裕があるのなら、もっと別のことにその余裕を使うべきです。

投稿者 ashida : 2008年10月12日 00:55

幼稚園でなくて保育園ならいいのですね。

>働くお母さんの姿を見せることの方がよほど大切です。
>有閑マダムを見て、どうやって子供が育つというのですか。

この部分がちょっと分かりませんでした。
幼稚園と関係があるのでしょうか?

あと、私立中学には公立中学の代替という側面もあります。

私の受験においては、公立中学への入学が不可能なので、私立中学を選ばざるをえないという事情があります。

文脈からすると、批判されている中学は一部のエリート校である様にも思いますが、そうでない学校には必要性はあると感じています。

投稿者 m : 2008年10月14日 02:21
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