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 ミクシィ(MIXI)の時代 ― インターネット時代における主体の再生 2006年10月09日

最近、ミクシィ(MIXI)http://ja.wikipedia.org/wiki/MIXI に関心を持っている。私も今年の1月に学生から紹介されて加入したが、ほとんど使ってはいなかった。子供だましのようなものだと思っていたからである。ブログの方が大人、というわけのわからない“差別”をしていた。だから、ブログの記事に自動的にリンクを張るように設定し(ミクシィの設定でそれができる)、特にミクシィ用の記事は書いていなかった。

ミクシィ(MIXI)の全会員は今月ついに600万人を超えた。これは、真言宗・浄土宗・浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、立正佼正会の500万~600万人に並び、後少しで連合の700万人、創価学会の800万人を超える。私の学校の学生達もほとんどが加入している。

そんな中、昨年文科省の委託事業(今年も続いているが)で一緒に仕事をした私の友人、鶴野充茂さん(http://www.beanstar.net/corp/exec.htm)が、『SNS的仕事術』(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797336013/249-0397331-2452329?v=glance&n=465392&tagActionCode=kohoman-22)という本をソフトバンク新書から最近出版し、それを手渡しで献本していただき、すぐ読ませていただいたのが、ミクシィ(MIXI)にまじめな関心を持ったきっかけだった。

ミクシィ(MIXI)は、一つの世界史的段階を形成しているというのが、ここ数週間使用した私の実感。大げさではない。

1960年代にテッドネルソンが「ハイパーテキスト」(http://www.ashida.info/blog/2002/08/hamaenco_1_22.html)を言いだし、30年経った95年以降インターネット(Windows95)でそれが爆発的に拡大したが、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、次世代の“ハイパーリンク”だと言える。最近の「WEB2.0」(http://e-words.jp/w/Web2022E0.html)というのもその事態を受けているのだろう。

「ハイパーリンク」時代は、一個人が世界大の情報に向かってすべての情報と均質的に向かい合わなければならなかった。たしかにどんな情報でも手に入れることが出来るが、それを有意義に使うことが出来ない。評価ができない。すべての情報が一個人に直接向かい合っている状態。これが「ハイパーリンク」時代だ。個人はたしかにテッドネルソンふうに〈自由〉だが、その分、自分の実在性を感じることが出来ない。情報は多いが、その分、集約点(レファレンス)を持てない。

したがって、そこでの個人は軽薄な(軽くて、薄い)個人にならざるをえない。匿名化するということだ。情報評価がまともに出来ない個人が匿名的に世界大の情報流通の場に登場する。「2ちゃんねる」(http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B#.E6.A6.82.E8.A6.81)はそのあだ花のようなものだ。

一方で、そういった匿名的個人を嫌う西和彦の「1ch.tv」(http://ja.wikipedia.org/wiki/1ch.tv)も発生したが、もはやそのような中途半端な主体性(と“責任”)では、軽薄化する個人のパワーを止めることはできなかったと言える。

したがって、重要なことは、そういった匿名的な個人のパワー ― それは世界大の情報量が等価に個人に訪れることの隠喩でしかなかったわけだが ― にあらがう主体性(有為な個人の再生)を打ち立てることだった。

ミクシィ(MIXI)社長の笠原健治(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%81%A5%E6%B2%BB)はミクシィ(MIXI)が上場したとき(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060915-00000000-fsi-bus_all)、名前のある個人がインターネット上で流通する必要があると思った、と言う。

ミクシィ(MIXI)は、その意味では「2ちゃんねる」以降の個人の再生、インターネット時代に於ける個人の再生を目指していたのである。情報の集約点をそのつど見出すという点では、その動きはまさに「セマンティックWEB」(http://www.scollabo.com/banban/term/semantic.html)と呼ばれうるものだった。

セマンティック(=意味論的)なWEBとは、何か。情報上のメタレベルを訴求することの出来るネットワーク(=インターネット)の体制だ。情報上のメタレベルとは何か、特に究極のメタレベルは何か。それこそがミクシィ(MIXI)の中で日常的に生成=再生しつつある〈主体〉=〈個人〉だ。

たとえば、どのようにそれが再生されるのか、見てみよう。

ミクシィ(MIXI)の会員は、一人の既存の会員が、他の個人のメールアドレスに紹介メール(「友人を紹介する」という機能を使って)を出すだけで会員になれる。

会員は「自己紹介」記事を書くが(仕事、年齢、住所、趣味など色々と指標はあるが)、任意に項目を飛ばしてもよいし、適当に嘘を書いてもよい。ただしあまり嘘を書くとのちのちの自己表現に気を使うことになるし、検索などで、必要としているネットワークに入れない不都合などが生じる。適度なリアリティが「自己紹介」に求められている。これがミクシィ(MIXI)の特長だ。ミクシィ(MIXI)では、〈情報〉に接すれば接するほど自己が強化されるような構造が存在している。技術的にはXML=XHTMLやRSS/Atom Feedの展望する世界だ。

ホームページのブログ化が意味することは、動的に生成するホームページが多くなったことだ。それもあって、インターネット情報がRSS(http://ja.wikipedia.org/wiki/RSS)の網の中で組み込み直されるという事態が起こった。この流れにうまく乗ったのがミクシィ(MIXI)だ。

一人の会員が日記を書くと、「新着日記」という形で全会員にリアルタイムで開示される。その記事の中身を通じて、他の会員(他の個人)と関係をもつことができる。すべての中身はフルテキスト検索できるようになっている。また検索化しないまでも、関心のある〈作者〉が何を書いたのかのすべての情報はRSS化されておりすぐにわかる。

また一人の会員が音楽を聴くと(ミクシィ(MIXI)を使っているパソコンのiTunesで音楽を聴いた場合に限られるが)、「最近この曲を聴いた人」に自動登録され、曲の感想を共有できる。こんな曲、誰も聞かないだろうな、と思っていても500万人も会員がいれば、どこかで誰かが聞いている。それが実在性の唯一の根拠である〈時間〉を通じて共有される。

ミクシィ(MIXI)では、すべて仮想的に振る舞うことも出来るが、RSSを媒介とした時間の共有(時間とは共有そのものだが)がその仮装に限界を与えている(ミクシィ(MIXI)では時間だけは操作ができないようになっている)。かつて「自己とは時間だ」と言った哲学者がいたが、その通りの事態だ。

たった今しがた同じ曲を聴いていた人がいる、と思うだけで、友達になりたくもなる。感想を語り合いたくなる。それは日記を書いた場合でも同じことが言える。日記も音楽も、そのそれぞれについて自由に「コメント」を書き込むことが出来るから、そこでコミュニティが形成されることになる。「ミュージック」項目では、当人がどんな曲をよく聞いているか、自動ランキング機能がついているために、ますます実在性を裏打ちすることになる。

ちなみに私の「ミュージック」欄の「最近のプレイリスト」には今、以下のような表示が出ているが、これは全会員にリアルタイムで開示されている。「全会員」とこともなげに書いたが、は現在600万人もいるが。

Emmanuel, God With Us / Amy Grant 2006年10月08日 03:46
もうひとりの君を残して / 久保田利伸 2006年10月08日 03:42
永遠の嘘をついてくれ / 吉田拓郎 2006年10月08日 03:38
まちぶせ / 三木聖子 2006年10月08日 03:33
Both Sides Now(青春の光と影) / ジュディ・コリンズ 2006年10月04日 23:01

また私の「アーティスト」10位ランキングでは以下のものが記録されている。アーティスト名の直後にある数字はその「アーティスト」の曲を聞いた回数を意味している。

1.Johann Sebastian Bach 47
2.Christopher Hogwood, Academy of Ancient Music/Jaap Schröder, Christopher Hirons 18
3.Jean-Pierre Rampal - Trevor Pinnock - Roland Pidoux 15
4.近藤名奈 14
5.Trevor Pinnock and the English 9
5.Trevor Pinnock, Kenneth Gilbert, The English Concert 9
6.Brenda Russell 6
6.Amy Grant 6
7.Backstreet Boys 4
7.竹内まりや 4

同時に「楽曲」別10位ランキングも記録され公開されている。楽曲名の直後にある数字はその曲を聞いた回数を意味している。

1. Night Train To Leningrad / Brenda Russell 4
1. 悲しい友達 / 近藤名奈  4
2. Alla Turca (Allegretto) / Mitsuko Uchida 3
2. Allegro / Jean-Pierre Rampal - Trevor Pinnock - Roland Pidoux 3
2. Concerto in D minor BWV 1052: / Trevor Pinnock and the English 3
2. Concerto in E Major BWV 1053: / Trevor Pinnock and the English 3
2. Concerto in D Major BWV 1054: / Trevor Pinnock and the English 3
3. Andante / Jean-Pierre Rampal - Trevor Pinnock - Roland Pidoux 2
3. Concerto for 2 violins in d minor II. Largo ma non tanto / Christopher Hogwood, Academy of Ancient Music/Jaap Schröder, Christopher Hirons 2
3. Emmanuel, God With Us / Amy Grant 2

「最近のプレイリスト」であれ、「アーティスト」名であれ、「楽曲」名であれこれらのすべての項目はハイパーリンク項目になっており、それらをクリックすると、その曲やアーティストの音楽を近い時間に楽しんでいる会員のデータにたどり着けるようになっている。感想を語り合うことが出来るダイナミックな記録なのである。

同じように「おすすめレビュー」では、「和書、洋書、雑誌、CDポピュラー、CDクラッシック、DVD,劇場映画、ゲーム、ソフトウエア、エレクトロニクス、キッチン、おもちゃ&ホビー、その他」の分類に応じて、「レビュー」を書くことが出来る。これらの“分類”は大変不自然なもので、たとえば、「携帯電話」のレビューを書こうと思っても、どの分類にも属さないために書けない。携帯電話の付属品なら出てくるが。

というのも、この分類はアマゾン(http://www.amazon.co.jp/)の分類だからである(どこかで見たことのある分類だと思っていたら、そうだった)。その分、レビューされたものは、すぐにでもそのままアマゾンのサイトに飛んでワンクリックで買うことが出来る。この体制はどこかでもっと提携先を作って、修正=拡大されるべきだ。

しかし、同じものに関心を持つ者との交流がそのレビュー記事を通じて可能になる。ブログで、私が「ザウルス」のことをいくら熱く語っても、関心を持たない者にとっては、通り過ぎるだけのことになるが、ミクシィ(MIXI)で同じことをすればそれなりの反応が出てくることになる。

ニフティの昔の「フォーラム」や「2ちゃんねる」とそれが違うのは、ミクシィ(MIXI)では、作者の経歴(と友達群)が“実在”しているということだ。しかもその書き込みは「マイミク」のすべての人たちが常時“監視”している。したがって過激で無責任な発言は、「フォーラム」や「2ちゃんねる」に比べてはるかに少ない。ミクシィ(MIXI)の「語る主体」には、ある種の重さが存在しているのである。

もちろん、こういった「主体」を“演じる”ことは出来るが、人間は、(悲しいかな)自分の能力や可能性の中でしかウソをつくことができない。そもそも“演じる”ことと無縁な“主体”などというものがあっただろうか。

さて、ミクシィ(MIXI)にはさらに「コミュニティ」という機能もある。たとえば、「東京ラブストーリー」という大ヒットしたテレビドラマについて語り合っている「コミュニティ」が存在している。1844人(2006年10月9日現在)もいる。こういったコミュニティは、検索ですぐにみつけることができる。

私が現在入っているコミュニティは以下の27個。括弧内は2006年10月9日現在の当該コミュニティ会員数。この人数を見ているだけでも充分なマーケティングになる。

Nancy, Jean-Luc(107人)

東京都市計画(174人)

J.S.BACH(934人)

宇野弘蔵(94人)

近藤名奈(94人)

Judy Collins(22人)

使えるオンライン辞書/用語集(1067人)

多発性硬化症(MS)(300人)

Amy Grant / エイミー・グラント(74人)

稲穂キッカーズ(73人)

Paul Ambroise Valery(198人)

花田清輝(86人)

Friedrich Hoelderlin(139人)

モーリス・ブランショ(371人)

東京ラブストーリー(1844人)

フォークナー(168人)

ニューヨーク最新情報(2446人)

ルイ・アルチュセール(224人)

ソフィーの選択(26人)

ボストン(1747人)

家電・電化製品(1188人)

GR DIGITAL(2222人)

Luis Barragan(3344人)

暮しの手帖社(1019人)

DESIGN IT w/LOVE for community(169人)

シモーヌ・ヴェイユ(347人)

ヴァルター・ベンヤミン(1297人)

現在、私は、以上27個の「コミュニティ」に入っているが、ここで何か記事が書かれるとミクシィ(MIXI)のマイ「ホーム」ページに必ずリアルタイムで表示されることになる。加入も脱会も瞬時にできるし、自らが新しい「コミュニティ」を開設することも出来る。仕事などで、会社を横断するプロジェクトを立てる場合もミクシィ(MIXI)の「コミュニティ」機能を使えば簡単。あらかじめメンバーを決めた非公開「コミュニティ」を開設することも出来るから、どんな用途にも使える。会社利用は、私の見たところ日々爆発的に進んでいる。自他の顧客(あるいは顧客の変化)を拡大的に共有することができるからだ。もはやミクシィ(MIXI)はグループウエアの概念さえも超えている。グループウエアはもう古い。

「日記」、「ミュージック」、「レビュー」、「コミュニティ」のすべての記事や情報は自動的にRSS化され、情報の変化や更新が自らの「ホーム」画面を見ているだけで管理できる。ブログでは、自己中心的な変化だけが拡大されるが、ミクシィ(MIXI)では世界の変化と共に自己を変貌させることができる。

「日記」、「ミュージック」、「レビュー」、「コミュニティ」などを通じて自分の性向や他人の性向が見えてくれば、そこでお互いを“友達”として認め合う関係が出来てくる。これをミクシィ(MIXI)では「マイミクシィ」、略して「マイミク」と呼ぶ。自分のミクシィ「ホーム」ページにはこの「マイミク」が網羅されて表示されることになる。10人程度の人から何百人も「マイミク」を有している人までさまざまだ(1000人まで可能)。実際の顔写真をその窓に貼っている人もいれば、ペットの愛犬を代用している人もいる。いくつもの“表情“がマイミクシィ「ホーム」ページに現れることになる。時が経てば経つほど「日記」、「ミュージック」、「レビュー」、「コミュニティ」の形成を通じて「マイミク」は増えていくだろうから、そうやって個人の実在性も強固になってくる。

しかも、この「マイミク」は会員全体に自己紹介的な各“表情”を通じて絶えず開示されているから、「友達の友達は皆友達だ」式に自分を拡大することが出来る。『東京ラブストーリー』が好きな人なら、そのみんなと友達になりたい、というふうに。1844人と一挙に友達になれる可能性が広がる。そのコミュニティ会員の各“表情”を検討しながら、趣味が合いそうな人に向かって「マイミク」になってください、と会員メールを送る。相手から「承認」されると、新たに「マイミク」が増えるというように「マイミク」は増えていく、という次第だ。

その人を“信じるか“、“信じないか”、“つき合うか”、“つき合わないか”は、その“人”の「マイミク」「コミュニティ」などを一覧すれば大概が見えてくる。そのように〈情報〉の人格化=〈情報)のセマンティックなアプローチが可能になっている。

たとえば、私は、MAXの「Give me a Shake」(http://avexnet.jp/item/maxxx/disc/product/AVDD-20178.html)という曲が今でも大変好きなので、それをミクシィ(MIXI)で検索したら高知在住の女子学生(20歳)が同じように好きだ、という「自己紹介」記事を書いていた。なんとなくうれしくなって、彼女と“友達(「マイミク」)”になろうとメールを送ったら「マイミク申請して頂きありがとうございます。『GIVE ME A SHAKEが好きだから』という理由で申請して頂いたようですが、確かに昔好きで、思い出の曲ではありますが、特にMAXが好きだとか、今も欠かさずこの曲を聴いているというわけではないんです。もしそれでもよければ喜んで登録させていただきます」という返事がきて、“友達”になった。文面からして無理矢理の感じがしないわけでもないが、こんなこともできる。その後少し経ったあと彼女の「自己紹介」文を見たら「GIVE ME A SHAKE」という言葉が消えていた! ショック! 悪いことをしてしまったと思ったが、私の「GIVE ME A SHAKE」への思い自体は純真なものだ。でも、ひょっとしたら「マイミク」から私は外されたかもしれない、と一瞬心配したが、私の例の顔写真は残っていた。一安心。

しかし、そういった積極的なメールを送らなくても、会員同士のホームページ閲覧では「足あと」という閲覧痕跡が残るようになっており、会員ページを見るだけでも“交流”が生じる機能がある(要するに検索を検索しているわけだ、Google的に)。ここを逆に辿って、見られた方から、「マイミク」になって下さい、と逆メールを仕掛けることも出来る。そうやって何重にも交流の束を重ねていくことが出来る。情報のフィードバック制御(=RSS)が可能になっている。それがミクシィ(MIXI)だ。

「2ちゃんねる」では、書き込む主体は、書き込む毎に別の主体(=軽くて薄い、軽薄な主体)でありえたが、ミクシィ(MIXI)では基本的には、同じ主体が日々主体形成を行うようにして個人を拡大していく。そこが、違う。世界の変化と共に自分も変化していく。世界の受容の仕方をなぞるようにして自分を受容することが可能になっている。

ブログでは、ミクシィ(MIXI)と同じように、決して軽くはない主体が存在しているが、その主体は一人で世界と向かい合っており、依然として孤独だ。「トラックバック」という機能、評価を組織化する機能が存在しているが、ミクシィ(MIXI)に較べるとはるかに形式的だ。

ミクシィ(MIXI)は、日々膨大化するインターネット情報に対して、同じように自己を拡大する仕方でそれに対峙する方法を具体化しているのである。「ニフティフォーラム」でも「2ちゃんねる」でも「1ch.tv」でも「ブログ」でもない、新しいインターネットコミュニティ(新しいハイパーリンク)のあり方が出現している。情報が村落化しつつある。「グローバルビレッジ」とでも言えるように。

ここに注目しない手はない。

※なお、私のミクシィネームは「ジャイアン」。教員と学生とが満場一致でそう決めた。私は、「ジャイアン」をその時にはまったく知らなかった。今でもよくわからない。わがままな奴らしい。まあいいか。

(Version 7.0)


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感想欄

ご無沙汰しております。

わたくしは伊藤という苗字でかつて(大学院時代の)芦田さんと少し交流させてもらったことのある者です。

当時は芦田さんの毒気の強さ、と恋愛論の頑固さが嫌いというか苦手でした。

し、しかし年齢を重ねるとともに芦田さんの面白さが分かる気がしてきます。

『芦田の毎日』はどうも一般常識にくらべてひねりがありすぎて、御著書『書物の時間』同様、わからないところが多すぎます。

でもいつか教養を積んで一字一句理解したいと思っています。

今回のミクシィの、この記事もさすがにひねってますね。

再度熟読の上、感想を書き込みさせていただきたく思います。

投稿者 「伊藤」 : 2006年10月09日 18:32

「伊藤」様

「伊藤」様、思い出せそうで、思い出せません。当時の連中に問い合わせてみます。

そうですか。わかりづらいですか。特に意識的にひねっているつもりではないのですが、納得のいく仕事(社会的にも、思想的にも)をしている人が少ない、と嘆いているだけです。

でも、時間がかかってわかってもらえそうだ、というのはありがたいですね。その時はわかった気になっていても、あとで考えたら、騙された、というのよりは、はるかにうれしい。しかも数十年経っている。「恋愛論の頑固さ」も未だに衰えていませんよ。そんなこんなで、ありがたいことです。
 
しかし、わかりやすい、ということは、どんなときにでも大切なことですから、心がけているつもりです(いつでも心がけていますよ)。斜め読みを絶対させない、という気概はいつでも持って書いていますが。

かつての知人が、こうやってブログに訪れてくれるのは大変ありがたいことです。また学校にでも来てください。お逢いしたいですね。

投稿者 ashida : 2006年10月09日 18:44

芦田様

ご丁重なお返事をいただきまして、誠に痛み入ります。
しかし、私は伊藤「様」と呼んでいただくような者でもないのですが・・・・・・。

おそらく芦田さんが新しく本を出版されたとしても私はどうにも恐れ多いような、その他の理由で手紙を差し上げる、などということはありえないと思います。

必ずしも私的な場とは言えない「芦田の毎日」という場所でまるで手紙を差し上げるかのような文面で書き込みさせていただきましたが、そういう公と私が同時にあるような場所としてブログが存在しているという面もあるのではないか、許されるのではなかろうかと考えて、ああいうなれなれしいといわれても仕方ないような書き方をしました。

それにしても専門学校の校長先生とは意外なことです。
先生の恋愛論のエピソードのひとつは私を震撼させ、その話を私が他の者にするとその者もまた世界を凍らせるような言葉を聞いてしまったという顔をするという恐ろしいものでした。その恋愛論がなお健在とは恐ろしい気がします。

私自身はちょうど先週にミクシィをはじめたところというタイミングもあったのですが、実は「IT」はあまり縁がないのです。

ただ「IT」環境がこれまでならば、おそらくなかったような交友の途絶えていたような人と人を結ぶということ、しかもその人の思考、核心に出会えるということに素直に感動して書き込みをしました。

先生のミクシィ論の核心は最後の3段落ですが、先生のまさに先生であるがゆえんの修辞を俗に言い直せば「メディア環境」ということでよいのでしょうか。

パソコンの世界における相互性の登場、それに対応する主体形成、相互性が言われながら、実は独り言、情報の一方通行であったパソコンの世界において情報に主体が相互的に関わりつつ形成することができる、あるいは主体、人間自身が情報でありうる「最初の」または「あたらしい」仕組みという評価と読んでよいのでしょうか。少しだけ私のミクシィの感想を書かせてください。

ミクシィでも当然演じられてるキャラクターは多いそう(よう)ですが、それでもいかにもその人らしい「日記」を書く表現者や、評論的な文章ではキャラクターを偽ることができないので、真摯な表現にかかわることができるという点で、「同じ主体」の自己形成が行われることが感じられます。

ただ他の媒体例えば本だと多くの場合本名、ないしはもっともらしい普通の名前を著者が持って出版されます。
でもミクシィは基本的にパソコンコミュニケーションにおいては支配的な可愛らしげな、かっこの良い、なにか自己主張を込めたとても人の姓名とはちがった「ハンドルネーム」が使われます。

もともとハンドルネームそれを遡ればニックネームというものはあくまでも親密な者同士の、そのサークルの外から見れば排他的ともいいうる自己完結性をもった関係で用いられることが通常と思います。

そうであればそれはいくら広がっても、あるサークル、村の拡大であって、けっして普遍的な人をつなぐ言葉は持ち得ないのではないか、という気がします。(この最後の文章は今のところどうしても言いたいことがうまく表現できませんので、これでお許しいただきたいと思います。)

ちょうど『芦田の毎日』が心を動かすのはやはり「芦田宏直」というご本名で書かれてるからであって、もし「ピンキーの毎日」だったらやっぱり感じ方がちがうのではないかと思うのです(ここで本名を名のらない私が言うのも矛盾なのですが)。

長々と恐縮です。

追伸  おそらく管理人の方が最初の私の書き込みに(大学院時代の)交流のあった者と分かりやすく修正なさったのだと思うのですが、それは芦田さんが32、3歳(オーバードクターの頃)でいらっしゃったころだと思います。

ふりかえれば芦田さんの言葉は印象的なものが多いですね。

「外国語ができることがえらいんじゃないよ。そんなこと言ってたら勉強できないよ。おれなんかどんな翻訳者よりデリダを分かってるよ。吉本(隆明)じゃないけど、馬鹿な学者は翻訳だけやってればいいんであって(それだけでも逆に立派なことであって)、翻訳もしないで自分のくだらない私見をだらだらと述べるのは許せないよ。語学ができることと思想とは別だよ」。

『芦田の毎日』の読者の皆さんに若い時代の芦田さんを紹介したい気持ちになりました。


投稿者 伊藤 : 2006年10月10日 14:02

ミクシィ(MIXI)、お誘いいただいてありがとうございました。いい機会を与えていただいて感謝しております。mixiにはこれまで3度ほど誘われたことがあるのですが、怠惰ゆえに見送っていまして、今回が初登録になります。

 芦田さんのmixi論、興味深く拝見しました。mixiが、言われるように「インターネット時代における主体の再生」につながるものなのかどうか、上記のような事情で初めて使うのでよくわかりません。ただ、ハイパーテキストというインターネットの根底をなす技術では個人が実在性を実感できず、そうした状態に抗する主体の再生を企てなければならない、という問題の立て方には基本的に共感を覚えます。

 問題意識が重なっているかどうかわかりませんが、次のようなことを考えることがあります。インターネットの思想家アラン・ケイに「アトラス」という概念がありました。それは、全世界の書物がすべてハイパーテキスト化されリンクしあっているという理想の図書館、テキストのユートピアといったような構想です。しかしこの発想は、まあそもそも諸言語間の共訳不可能性ということを考えただけでもおよそムリなものなわけですが、もしそれが仮に実現されたとしても、大して面白いことにならないだろうな、と思うわけです。

 それに対して、例えば知り合いの家に上がりこんで本棚を覗いてみる。そんなとき、棚にどんな風に本が並んでいるかを見ていると、その人の「魂」のようなものを感じることがあります。ラカンの本の隣に正岡子規が並んでたり、西田幾多郎の隣に片岡義男の恋愛小説が並んでたり、「普通はこんな並べ方ありえねえだろ!」というようなとき、それが「魂」なのか「主体性」なのかわかりませんが、そんなものが見えてくる。

すべての書物が等価につながりあっているハイパーテキストでは生じ得ない、つながり方の「偏差」のようなものが、「主体」を生産するのではないか。それが大切なんじゃないか、と。

 よくわからんことを書きました。いろいろご教示いただければ幸いです。

 ミクシィ(MIXI)論の先のコメントに、伊藤さんという方が、若いとき芦田さんに教わった印象深い言葉を書かれていましたね。

私にも、ひとつだけ覚えている芦田さんの大切な言葉があります。

それは「何かひとつのことを知ると、必ずその知識の影に隠されて見えなくなるものがある。知とはそういうものなんだ」という言葉です。

ご本人は忘れておられるでしょうが、これまでの人生で何度も思い返した貴重な教えでした。

投稿者 早稲田の後輩より : 2006年10月15日 17:14

「後輩」様

「すべての書物が等価につながりあっているハイパーテキストでは生じ得ない、つながり方の『偏差』のようなものが、『主体』を生産するのではないか」。

いいですね。私が言いたかったことはそういうことです。あなたのいう「偏差」は帰趨(レファランス)を持つからこそ生じるような差異です。これはしたがって、ソシュールがいったような意味での「差異」ではありません。記号論的な差異ではなく、意味論的な差異です。

もう少し、お互いじっくり考えましょう。

※なお、ミクシィ(MIXI)に入りたい方は、私にメールアドレスを送って下さい。すぐに招待メールをお送りいたします。

投稿者 ashida : 2006年10月15日 20:08
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