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 返信: コミュニケーションとは何か? ― 聞き手に回るのは卑怯 2005年01月19日

たとえば、学校のような教育組織で言えば、学生(在校生)の評判は決定的だ。マーケットの学校への評判は、場合によっては営業力や広報力などの大小が評判の真偽決定を(特に短期的には)複雑なものにしている場合があるが、在校生が「この学校はよくない」「この先生はよくない」などと言われて(思われて)しまったらもうおしまい。これには言い訳が効かない(ちなみに、我が学校の「学生満足度調査」最新版の問い「この学校へ来てよかったと思いますか」というアンケートには82.0%の在校生が「来てよかったと思う」と答えてくれている。私が校長になった年の満足度数値は60.1%、以来3年間で82.0%になった)。

ところがそうではない場合も多々ある。通常、「この先生はよくない」などと一斉に学生が思うことなどあり得ない。人間の評価はそう単純ではない。学生の間でも、そんな話は個別には花が咲くが、「でも俺は悪くないと思うよ」と言う学生がいたり、「普通じゃないの」と言う学生もいたり、まちまちである場合も多い。そういった学生間の印象や評価が一変する要素は、その先生の別の同僚が、「やっぱりね、あの先生問題が多いんだよ」などと言い始めるときだ。

通常、教員側が学生の教員批判を聞いたときには、「でもね…」と言いながらその先生をフォローするものだが(批判は教員側内部で先鋭化すればいい)、学生と一緒になって「だよね」なんて言うと、もう取り返しが付かない。こういった「だよね」は、決して建設的な教員批判には繋がらない。それを聞いた先生が個人的に思っている他の同僚の教員評価を吐露しただけのことであって、それは、あおり行為というものである。学生の声を使って、あるいは学生の声を利用して、自分の意見を拡大しているだけなのである。その結果採取される「学生アンケート」は単に教員間の対立が“学生の意見”として反映しただけのアンケートになる。こんなアンケートは何度やっても役に立たない。

どんなことであっても聞き手側に回れば批判の対象にならないため、いつもその立場に回りたがる人種がいる。人事部なんて言うのは特にそうだし、“学生派”の先生にもそういう人種がいる。そういった人種の口癖は、「みんな言ってるよ」。

自分の意見を単独で担えない人種の、貧相な多数派工作だ。こういった人たちにとって、データは貧相な自分の思想や無研鑽の逆投影にすぎない。自分の言葉だけで語ると貧相きわまりない思想や洞察を、多数派工作して粉飾しているだけなのである。

たとえば、私は毎朝、学生たちを学校の入り口で迎え「おはよう」と挨拶している。けれども、何度挨拶しても挨拶してくれない学生がいる。毎日その子(たち)と会うのが楽しみで、挨拶の角度を変えたり(深々とあいさつしたり)、声の出し方、タイミングを変えたりしてなんとか挨拶させようと試みているが、一部の子は全く反応してくれない。これを最近の子はしつけが足りない、などと思ってはいけない。この子たちのほとんどは、自分が学んでいる科の教員(や科長)が校長方針や学園の教員方針に反対していることを肌で感じている子たちなのである。だから私とろくに話したこともないのに、私の顔を見るといつも顔がゆがんでいる。私のことを特定の教員や科長が嫌うようにして嫌っている。年々そういった学生は減ってきているが(減ってくれないと困る)、それでも「人皆たむろあり」(聖徳太子)、みんながにこやかな顔ができる組織などこの地上にはない。

逆に言えば、校門で毎朝「あいさつ」をするだけで学校の変化が正確につかめる。どの科の学生が「あいさつ」ができるか。それは、マナー教育や家庭のしつけの成果ではない(我が学園は強制で「あいさつ」などさせる気は毛頭ない)。校門のあいさつは私が見えないところでの各科の教育“成果(=反成果)”が一番見える瞬間なのである。まるでもみじや金魚にあいさつするように(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=410)、絶望的なあいさつを深々とし続けるときもある。朝から、私は笑いながらも緊張している。これも琴線に触れるコミュニケーションなのだ。

大切なことは、何が本当に自分の外部なのか、ということだ。どんな数値やデータを前にしても普通は自分の意見を再肯定するためにしかその情報が見えない。そういった情報をあてにするときというのは、自分の洞察や企画や言葉が衰退しているときなのだ。私は学校の校長だが、その意味では学生の声を聞くことが一番難しい。

いつも校門に立ったり、1日1回は授業をすべて見て回っているが、学生たちが何を思っているのかを把握するのが一番難しい(教員が何を思っているのかはそれに比べればはるかに理解しやすい)。満足度82%だからといって、他の18%が何なのかはすぐにはわからない。また82%の内実などもっとわからない。ひょっとしたら、学生の人となりが立派で(私より大人で)、まあ「満足」としてあげよう、と私を許してくれているのかもしれない。肯定的な意見はその意味で特定することが難しい。

私の倫理と方法は、したがって自分の内部を徹底的に晒すことでしかない。外部は結局のところわからない。だから、授業批判も教員批判も、私はその授業や教員について他人=世間にも言うことしかその教員の前で言わない(「校長の仕事」シリーズhttp://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=71を参照のこと)。批判はいつでも公共的でなくてはならない。公共的ということは、批判=評価もまた他人の批判に晒されるということだ。

個人的に呼びつけて注意をする、ということは私にはできない。私のその注意や指導が正しいかどうかがそれでは誰にもわからないからだ。それは一見部下に向けて親切かに見えるが、実は最も残酷な指導であって、自分の指導の内実(の成否)を棚に上げていることでしかない。

特に教育のような成否の見分けが付きづらい組織管理の時には、指導自体、評価自体が幾重にも評価される体制を取っていかないと直ちに自家中毒に陥ってしまう。それを防ぐためには、自分が今何を考えているのかを徹底して明らかにしておかねばならない。それができない組織は、いつまでたっても沈黙したマーケットに向かい合うことができない。

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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