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 番号 日付  題名 投稿者 返信数  読出数
71 11/8(金)
08:54:44
 校長の仕事  メール送信 芦田宏直  11284 

 
毎日1時限目の授業をすべて見て回る(場合によっては後席で参観します)、という私なりの校長の仕事があります。「授業評価」と呼んでいますが、学校の教育活動の生命線のひとつです。こういったことを本格的にやっている学校は、わが学園だけです。見るだけでは意味がないので、当然教科担当者や科長と問題点を確認しあって、日々、授業改善をはかっています(私のその日のコメントは学内のノーツの掲示板に必ずUPするようにしています)。以下は、昨日のそのコメントです。こんなにも忙しいため、「芦田の毎日」はときどき日にちが空いたりするときがあります。


●何故授業がつまらないのか

「TCP/IPとは、インターネット上の事実上標準(デファクトスタンダード)のプロトコル」なんてことを言われただけで、誰が何をわかるというのだろう。そもそも「TCP」とは何か、「IP」とは何か、なぜ「TCP/IP」なのか、「事実上標準」とは何か、なぜそこにだけ括弧をつけて、「デファクトスタンダード」とカタカナで表記されているのか、「プロトコル」とは何か、そもそも何語で、なぜ、その事態を「プロトコル」というのか(なぜ「プロトコル」なんていう言葉が使われるようになったのか)。そういったことに何も言及されずに「TCP/IPとは、インターネット上の事実上標準(デファクトスタンダード)のプロトコル」でというふうに、説明がすんでしまう。こんなにくだらない授業はない。

 上の、どの用語もそれだけで長い話ができるし、またそれだけをきちんと理解しただけでもたいしたものだ。みんなわかったような気になって使っているこれらの言葉にも長い歴史がある。そのイミでは、言葉の意味を理解するというのは、言葉の歴史を学ぶということとほとんど同義だ。問題は定義や意味そのものではなく、歴史(生成の起源)を語ることだ。学校というところは、たとえ実務の専門学校であっても、その意味での〈歴史〉を学ばせなければイミがない。それはインテリア科や建築科や自動車整備科が「インテリアの歴史」「建築の歴史」「自動車の歴史」と言う場合の歴史とは何の関係もない。歴史とは無意識に過ごしているものに足を止める(踏みとどまる)ということだ。不意打ちや驚異のない歴史(ありきたりの歴史)など歴史ではない。この授業には不意打ちも驚異もない。手垢にまみれた"説明"の連続だ。

 そう言えば、むかし社会学の授業を受けていて「家族とは社会の最小単位です」という「説明」を受けたことがあった。「社会」とは何かについて、誰も簡単には説明できていないのに、その「社会」を自明なように使って、場合によってはもっとややこしい「家族」の"定義"をする、その教授の無神経さにあきれたことがあったが、この「TCP/IP」の説明も同じように無味乾燥な"説明"に終始している。

 なぜ、こんなことになるのだろう。多分、この教員は「コミュニケーション」(の道具)としてしか言葉を理解してこなかったのだと思う。実務の現場では、意味が通じればそれで済む(ジャイアンツの新庄の英語のようなものだ)。実務の現場では、わかっていなくても動ける方が、わかっていても動けないよりも重宝する場面が多い。だから、徐々に(言葉に)立ち止まらなくなる。別の言い方をすれば、学ぶことに意志が介在していない。実務の現場では、課題は不可避に、また日常的に押し寄せてくる。だから、その場にいるだけでも勉強になる。立ち止まらないこと(立ち止まれないこと)が、実務の現場に緊張感を強いている。これが経験から学ぶということだ。だから、経験や実務から学ぶというのは、非歴史的に学ぶというのとほとんど同じだ。そして非歴史的に学ぶというのは、言葉を大切にしないというのと同じことだ。歴史は言葉(起源の言葉)の中にしか存在しない。

 しかし教室や学校は行動の場所ではない。むろん実務の現場でもない。たしかに実際に整備ができることは重要だろうが、行動として(だけ)の整備ならば、何も学校へ来て(高いお金を出して)学ぶことはない。

 学校は、非日常的で、歴史的な場所でなければならない。分かりきったように使われている言葉や分かりきったように行っている行動を内省する場所でなければならない。それが学校の有している生産性だ。若い学生の一生に影響を及ぼす教育があるとすれば、先端を教えることにあるのではなく(教えられる先端とはもはや先端ではないのだから)、内省するきっかけをつかませることでしかない。

 それは専門学校であれ、大学であれ、共通する課題である。「家族とは社会の最小単位です」などという社会学者(大学の先生)は、単に私語をしているにすぎない。つまり教授生活の実務と日常を露呈させているだけであって、〈先生〉ではない。

 この間、わが学園の教務会議で面白い話があった。自動車系カリキュラムリーダーから、来期は〈制御〉をテーマにして自動車系カリキュラムを構築したいという提案があった。しかしその提案者の〈制御〉の話を聞いていると私が勉強した制御理論と食い違いが多い。"装置"の話しか出てこない。面白くもない。先のTCP/IPの説明と同じくらいに生気のない"説明"が続いた。我慢ならずに、人間も社会もひまわりも化粧品も〈制御〉システムだ、と私が言うとそれは哲学的だ(この程度で哲学的だと言われたくはないが)と言って笑われてしまった。そんなことはない。ウイナー自身がそう言っているし、それが〈制御〉という概念が画期的な所以だ(もちろんサイバネティクス自体は、〈目的〉という概念が最後まで外在的なままにとどまり破綻したが、最近はそのあだ花のオートポイエーシス理論に継承されている)。ところが、ウイナーさえも誰も読んでいない(岩波の『サイバネティクス』、みすず書房の『人間機械論(原題はThe Human Use of Human Beings)の代表的二著が翻訳で出ているが、どちらもサイテーの翻訳だ)。文学部の私でさえも、この二著に加えて、ベルタランフィの『一般システム理論』(みすず書房)くらいは独力で(大学1年の夏休みに)読んでいる。この三著を読めば、制御理論の革命性(と限界)は誰にでもわかる。

 しかし工学部出身の人間がその会議には何人もいるのに、誰一人、ウイナーもベルタランフィも読んでいない。たぶんわが先生たちは教科書(マニュアル)しか読んだことがないのだ。あるいは教科書しか教えない先生(「家族とは社会の最小単位です」としか言えないような教授たち)にしか出会えなかったのかもしれない。

 教科書というのは学生が勉強するものであって、教員が勉強するものではない。教員は教科書を書く方であって、使う方ではない。しかし実務ではみんな教科書(マニュアル)で学ぶ ― 仮に原典を読んでも専門私語(中途半端な大学教授のように)でしか話さない。そのクセが専門学校の先生たちから抜けない。だから生気のない"説明"が続く。場合によっては、教科書を見ながらの板書や棒読みさえも多い。なぜ、そうなるのか。それは彼らが無知なのではなくて、実体の方が言葉よりも重い、と考えているからである。学ぶことの経験主義が露呈しているのである。だから「制御」と聞くと、すぐに「装置」の話になってしまう。

 何度も言うが、学校は経験の場所ではない。経験という意味では、学校は遥かに実務現場から外れている。だから教育が経験を追い求めると必ず挫折する。成功したとしても矮小化された経験の再現にすぎない。それに経験は別の経験に追い越される。追い越されるものを学ばせるというのも、学校の敗北にすぎない。

 学校は、人工的な仕方で経験を再構成しなければならない。再構成するには、経験の中に潜んでいる歴史(単なる私語にすぎない専門用語や"定義"や"装置"に至る前の起源)を露呈させなければならない。この露呈の作業それ自体は経験的には不可能だ。歴史(起源)それ自体が経験を構成しているものだからだ。カリキュラムというのは、従って経験の再現ではなくて、経験の歴史の再現、従って人工的、意識的、非日常的なものの再現なのである。自然な勉強、強いられた(不可避な)勉強、要するに社会人(実務者)の勉強は勉強(インテリジェンスによるもの)ではない。自由な空間と時間の中で意識的に得られるものこそが、〈カリキュラム〉、〈教育〉というものだ。

 通常、大学を出て、営業、企画、総務、経理などに配属され、何年も勤めた(そして実績を出してきた)人間をその道の専門家とは呼ばない。なぜか。それは経験的な上昇性をただなぞっただけの学習を経たにすぎないからである。そんな学習は犬でもネズミでも可能なことだ。どんな人間でも〈そこ〉に放り込まれれば、それなりに成長する、そういった成長性でしかないからだ。それなりの成長を〈成長〉とは呼ばない。人間にもし成長というものがあるとすれば、それは超越のことだろう。植物も成長するが、超越はしない。だから自然成長性(“実務成長性”)と関係のない学習の場を〈教育〉と呼ばねばならない。

 その意味で今日の授業は、〈歴史〉と〈自由〉を感じさせない、つまらない授業だった。しかもこの非常勤の先生は情報教育では「有名」な先生らしい。たぶん教育が実務になっているのだ。つまらないことだ。この授業で「TCP/IP」や「プロトコル」がわかった学生が何人いるのだろう。わが教員のみなさん、一つのセンテンスで"定義"が必要な語句が二つ以上も存在する説明はすべて嘘だと思うくらいの覚悟で授業をしましょう。


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