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 三ヶ月後の2016年年賀状公開(笑) 2016年03月24日

明けましておめでとうございます。


歳を取ると年月の流れが速くなると言いますが、それはたぶん何をするにしても「最後の…」ということを意識するようになるからでしょう。若いときには何度も失敗が許されたのかもしれませんが、さすがに“失敗”が許されない年になりました。溜(ため)の効かない年になったのかもしれません。そもそも歳を取るということはそれ自体が〈溜〉だからだ、ということでしょう。

若いときには無知が行動力の源でしたが、何に付けても即断できるストックのあることが大人への社会的な期待でもあります。ストックに基づいた即断をこそ〈分別〉と呼び、それは始まりにして終わりを見据えることとほとんど同義です。時の流れを終わりにおいてみる(向こう側からみる)、ということを〈分別〉と言うのかもしれません。

そしてたぶん、その本質は、終わりの時を待てることです。若いときほど待てないのです。〈待つ〉には〈溜〉が必要だからです。終わりを“知る”溜が必要だからです。

深い絶望や失望を乗り越えるときには、どんな知恵や認識、友情に厚いアドバイスにも先だって、時間という機縁が届く必要があります。結果が分かっていることとそれを受け入れる事との間には千里の径庭があるのです。〈それ〉を〈待つ〉前に言いたくなる、説明したくなるようにして努力や知性が存在していますが、そんなものをいくら重ねても〈それ〉=〈時間〉はやって来ない。

従って、〈溜(ため)〉とは、老いぼれの観望や諦念の溜ではなくて、耐忍の〈溜(ため)〉です。ドイツ語には、日本語の「耐忍」を意味する言葉でAustrag(アオストラーク)という言葉があります。ハイデガーが後期になって好んで使った言葉です。

Austragは「耐忍」と同時に、「胎児を臨月まで持ちこたえる」という意味もあります。Aus-trag、外-運び(あるいは外-持ち)という意味です。まさに終わり(胎児)を生みだすことのための待つ耐忍なのです。

逆に、人が努力や知性を積んでいくのは、黙することの技法(本体の知性)を得るため。優勝したときにのみ人前での苦労話が許されるスポーツ選手のように。老いることの本質(“溜”の本質)は、結果論(昨今のコミュニケーション=OUTPUT主義)で騒ぐことにあるのではなく、待つことの沈黙を汲み取ることにあると思います。

“老いる”ことの本質、言わば熟成とでも言えるものは、その意味でほとんどマザーシップと同義です。誰に対しても優しい親父になりたいと思う今日この頃です。→「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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