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 本日のテレビ出演(フジテレビ「新報道2001」)において、私の言いたかったこと― 「小保方問題」と「コピペ問題」について(増補版) 2014年04月20日

●「小保方問題」について

1)「小保方問題」ですが、これについては、まずは「ありえないこと」の発見を彼女は「ある」と下手な仕方であっても叫んだのだから(つまり、コピー疑惑以前に、明らかにみんなの疑惑を生む主張をしたのだから)、ちまたの科学者たちが、「ミューズ細胞」「OCT4」発光の勘違い説などでいまさら騒ぐのはおかしいということ。それほど(勘違いさえわからないほど)に理研や小保方さんや共同執筆者たちの質が低いというのなら、話は別だが。これらの事態は、いずれにしても論文発表以前の話だ、と私は理解している。

2)もっともおかしいのが、「理研の(再)調査」。いま小保方さんの発見に寄せられている根本の疑惑(STAP細胞の生成の有無)について、まず「そんなこと本当にあるの?」と真っ先に疑惑を持ったのは、理研の当該内外関係者(小保方さんのグループ研究者も含めた)に決まっている。そもそもそれが研究者「である」ことの意味だから。

3)そもそも、STAP細胞現象については、バカンティを含めてかなり前から(2008年前後?)議論があり、初めての「勘違い」ではないはず。ここまでの月日自体が、いまさらのようなちまたの研究者の「勘違い」疑惑に耐えてきた研究であったに違いない。

4)普通に考えて、理研の当該関係者たちが、この世紀の大発見(とそれにつきまとうエセ現象検討)にかかわっていないはずがない。

5)分担執筆だから小保方自身の研究内実を知らない、というのもありえない。そもそもが、「STAP細胞あり」という主テーマなしにありえない論文デザインなのだから、まともな研究者(勘違い現象の歴史も知っているまともな研究者)なら、「STAP細胞あり」の真偽も確かめずに、「分担執筆者」や「アドバイザー」になるはずがない。笹井さんが最後の論文体裁の指導にのみ関わったなどということがあるはずがない(まして小保方さんに「騙された」なんて)。自分の狭い専門分野を超えた指導ならそういうことはあるかもしれないが、これは分野を超える(分野を横断する)再生細胞の大発見(あり得るはずがない大発見)なのだから。

6)小保方会見で、小保方さんが返答に一番詰まったのは、「STAP細胞あり」の証拠は?という質問ではなくて、①理研に「裏切られたという気持ちはないのか」 ②先輩から「掲載の方法」について指導を受けているのかという問いだった。前者は約15秒以上も沈黙が続き、そのような気持ちは持つ「べきではない」と思うと答え、後者については「少なくともですが…」と言って沈黙した。「少なくともですが(私自身は)」指導を受けていたのだろう。これ以上話すと理研から陰に陽にの支援を受けたこれまでの研究にさらに傷が付くと思ったのだと思う。まともな沈黙だった。少なくとも理研の当事者たちも「ある」と認めたのに、いまさら「調査」はないだろうということだ。

7)いずれにしても、この論文は、月並みな発見の月並みな業績稼ぎの論文ではない。「月並み」ではないというのは、最初からエセ現象にまみれた、疑惑を呼ぶ“発見”であるということだ。それは、数年間にわたる、彼女たちのSTAP細胞研究過程そのものであって、後(論文発表後)になって初めて指摘されるような疑惑ではあり得ない。〈論文〉を書いたことのある者ならば、それくらいのことはすぐにでもわかることだ。

8)個人的な(科学者としての)論文マナーとして、小保方さんの「コピペ問題」を批判するのなら、論文全体の主テーマの妥当性や内容の真偽を確かめずに(論文の体裁以前に)、「分担執筆者」や「アドバイザー」に名を連ねることも同じように、「科学者」としての「倫理」や「マナー」に欠ける。後から、取り下げ要求を行うというのも、最初の“マナー”違反の所在を曖昧にする所作にすぎない。

9)「真偽を確かめずに」と書いたが、結局、この「小保方問題」はそこがまったくわからない。いったい、理研内部で、あるいは著者グループでなにがあったのか。その問いを、小保方「コピペ問題」騒ぎは覆い隠している。


●コピペ問題について(典拠文献に触れない問題について)

1)これについては以前に論じている→http://www.ashida.info/blog/2008/09/_nhk.html

2)コピペ問題が生じるのは、レポートにしても論文にしても、教員たちの間でまともにそれらを読まない現状があるからだ。一所懸命書いてもまともに読まれないくらいなら、(学生側からすれば)手抜きレポートがあってもいいということになる。これは倫理の問題ではなくて、教員が教員として「仕事をしていない」ことの問題にすぎない。※ただし、この問題は難しい。テキストの専門家である教授たちは、そうであるがゆえに逆に、自分が論文に使えないテキストに関心が全くないのだ。彼らは博士論文(査読)さえも、あと何頁とときおり数えながら、退屈極まりない仕草で読み続けている。一言で言えば、〈教育〉に関心がないのだが。

3)盗用を発見する、というアプリケーションが存在するが、これは、ますます教員たちがまともに論文評価に向かわない“装置”にすぎない。手抜きレポート・論文は、手抜き教員の結果にすぎない。このアプリケーションが各大学に普及するなら、教員たちはもっと何もしなくなる。

4)そもそも、学生や(指導を受ける)研究者が、手抜きコピペ論文を書くというのは、指導者の指導をなめている結果にすぎないか、指導がほとんどないことの結果にすぎない。それ自身教員に対しての(受講者側からの)教育評価にすぎない。日々(せめて週に一回の)論文作成の進捗や質にこだわる指導の中では、コピペなど起こるはずがない。

5)テキストコピーなどは、コピーの中では一番程度の低いコピーと言える(コンピュータでも発見できるのだから)。考え方(アイデア)のコピーはテキストなしに行われているから、本来のコピー盗用問題は、こちらにある。これさえ見抜けない教員がいるのだから、初級のテキストコピペ問題は擬似問題なのだ。特に、孫引きなどの場合は、テキストコピーで騒いでいる教員たちは、ほとんど見抜けない。

6)Aという著者の著作に、A1,A2,A3…と他の三著者のテキスト引用があって、(たとえば)A1のテキストを引用する場合(元のテキストを当たって、自ら検証する、訳し直すということも含めて)、これを「孫引き」と言う。この「コピペ」は、iThenticateのようなコピー発見器では“発見”できない。この場合、A著者の著作名を引きながら、A1を紹介するかどうか、つまり、「知ったのはA著者の著作においてだが」と断り書きをいれつつA1引用を行うかどうかに、特に明確な基準はない。二次引用者は、最初からそのA1テキストを知っていたかのように振る舞い、「その点についてAはこう言っている…」などと逆参照することなどもあり得る(「コピペ」中級)。そうやってA1,A2,A3…と「孫引き」「逆参照」を繰り返すと、一冊の文献を利用しただけで、何冊もの「参照文献数」を稼げることになる。最初のA文献(この場合には「一番重要な文献」)に触れないようにすれば、A1,A2,A3…参照は実体参照であるかのように見せかけることができる。触れたとしても、こっそり別の文脈で参照する場合もある。第一章でA1,A2,A3…を実体参照し、A参照は第四章で触れるというように。

7)全くのうろ覚えなのだが、かつて江藤淳は、批評とは誰も引用していないテキストを発見することだと言っていたことがある。鮮烈な言葉だった。その通りなのだが、それは、逆にほとんどの批評がそうなっていないことの裏返しの認識だったのである。この認識に拠れば、オリジナリティとは、無知の別名に他ならない。批評であっても研究であっても、新しいテキストの発見が伴わない解釈の斬新さなど存在しない。

8)自然科学のような実験データが存在しない人文系においては、自分の主張を裏付ける、あるいは自分の主張を啓発する「テキスト」の発見がすべてなのだが、そのもっとも重要な発見を、自力で発見できないことはよくあることだ。人文系にとって「主要な文献」とは、そういったA1,A2,A3…のテキストを蔵している文献だと言ってもよい。もっと言えば、そういった「孫引き」を誘発する文献こそが、「典拠文献」そのものである。しかし、A1,A2,A3…を引用する度に、「Aにお世話になりました」と言い続けると、「あなた結局一冊しか読んでないのね」と言われることになる。さてどうするのか。これは、「無断引用」ルールの外で起こっていることなのだ。

9)テキストの「コピー」でさえそうなのだから、アイデア(オリジナリティ)の「コピー」ということになるともっと複雑な問題を含むことになる。普通、アイデア(オリジナリティ)の「コピー」というのは、〈影響〉という言葉の中に埋もれてしまっているからだ。

10)しかし、本来のコピペ問題指導は、「そんな考え方はこちらにある、あちらにある」と、若い研究者たちに、研究史(世界史のデジャビュ)を辿らせることの中にしかない。「自分の意見を言うのは100年早い」というものである。何度書いても、「その解釈はすでにある」と指摘するのが、論文指導というものだ(※)。参照文献が「100冊あっても、読んでいるのは20冊」と指摘するのが論文指導。それは一冊の『存在と時間』論であっても、「あなた、『存在と時間』全部読んでないでしょ」と指摘するのと同じプロセスでのことである。そのプロセスの中にしか、テキストの諸々の箇所やその著者名を持ち出す意味はない。
※たとえば小保方論文で言えば、図像データの切り貼り偽造指摘にとどまらない、OCT4発光現象(たんなるマーカー現象)をSTAP細胞現象と取り違えたのではないか、という指導も含めて。もちろん私は、その程度の勘違いは、笹井「アドバイザー」や他の共同著者たちにとっては、自明の指導だったと思うが。

11)だからこそ、初見で論文審査する場合以外は、レポート、論文上の“犯罪(無断引用)”は、教員による教育の結果にすぎない。初見でさえ(諸々の市販の著作でさえ)、それを読む者は、影の著者(や研究史)を透かしてみるものだ。むしろ〈読む〉こととは、意識的、無意識的に書き手の影に隠れているテキストや著者を読み解くことでしかない。そういう読み手に出会わない限り(大学とか大学院というのはそういう読み手に出会う場所ではなかったのか)、若い研究者たちは、いつまでも安易な(マナーにまで矮小化された)「コピペ問題」に踊らされることになる。→「にほんブログ村」

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感想欄

初めてメール差し上げます。

埼玉在住のISと申します。

芦田先生を「新報道2001」で初めて拝見しました。先生の、小保方問題に対する見解に賛同致します。

お暇な時でも見て頂けましたら嬉しく思います。

私は論文不正の問題が浮上してから、理研をはじめ世の中の外野共が、問題の本質であるSTAP細胞の存在の可否よりも、コピペにばかり囚われている様が、大変異常だと思っている一人です。

先日のテレビでも 、科学ジャーナリストの方は一般論ばかりに執着されて、あの場にはふさわしくないゲストでした。

野村さんは、安全保障や歴史問題では比較的まともなことを言うコメンテータと思い好感を持っていましたが、先日の発言は、芦田先生の言う趣旨を理解せずに的はずれな反論ばかりで、正直がっかりしました。

世の意見を、擁護派と反対派に大きく2分した場合、擁護派は不正よりもSTAP細胞に期待するスタンスであり、反対派は論文不正にのみ囚われて、STAP細胞の可否が欠落した意見が殆どです。

論文不正を戒めながらも、STAP細胞について言及するならまだましなのですが、論文不正-->STAP否定の構図です。

この論法は、左翼の方たちの言動パターンに共通するも のと感じております。マイナス面ばかりを強調して、プラス面は無視すると言うバランスの欠如です。

今回の問題で、日本人が外交以外でも外圧に弱いことをさらけ出すことになったと思います。謝罪そのものは日本文化としていい面はあるのですが、事今回のように歴史を揺るがす大発見の可能性に係わる重大事項に対しても、一企業の不祥事の謝罪のような風体は如何なものかと思います。

理研は論文撤回を表明しておりますが、もし、他の機関ですでにSTAP細胞の再現実験に成功しており、理研が撤回するのをてぐすねひいて待っている可能性も無きにしもあらずと思っております。

小生は小保方さんに期待はしますが、全面的に信用しているわけではありません。95%は 間違いないと思いますが、稀代の詐欺師の可能性は否定できません。

しかし、STAP細胞は、仮に1万分の1の可能性でも国レベルで取り組む価値のある問題と思っております。

理研が小保方さん抜きに検証する方針ですが、多分失敗するでしょう。STAP細胞の製作は、多分小保方さんの職人的な感覚と感性が必要なのではないかと想像します。

理研の最善の策は、小保方さんに再度研究の場を与えてSTAP細胞の可否を明らかにすることと思います。上手く行けばおめでた、失敗しても基に戻るだけで、週刊誌に批判される程度のリスクで済みます。

しかし、小保方さんが他の研究施設で検証した場合、それこそ理研のリスクは絶大でしょう。最悪、中国か韓国に移って検証した りしたら、理研の存続に係わる事態になるでしょう。その上、ノーベルの名誉だけでなく、医療の経済効果を考えると国益を大きく損なう問題となります。

理研はそのようなリスクも想定した上での判断なのでしょうか。

日本の過度な謝罪文化にお灸を据える意味では、そのような展開を期待する気持ちも多少有ります。せいぜい古巣のハーバードくらいにして、中国、韓国は避けて欲しいですけど。

とにかく、世のほとんどの意見は、論文不正にのみ囚われて、問題の本質を見失っているとしか思えません。樹を見て森を見ない(この場合はその逆かな)、日本人の欠点かと思います。

個々の技術は優秀なのに、統合してシステム化する能力に劣るところがあると日頃感じております。

科学者にとって、最も大事な要件は、モラルよりも想像力と洞察力と思います。理研の首脳陣やコメント学者はそれに欠けているように思われます。

その点、ips細胞の中山先生は、インタビューに対して、慎重なコメントを述べておるようです。さすがと思っております。

私はエンジニアの端くれで文章が下手なので(エンジニアでも上手な人は沢山いますが)、先生のような理路整然とした文章ではなく、取り留めのない文章になりましたが、この機会を持って、最近の不満を述べさせて頂きました。

先生の意見に反論したプログ等が散見されますが、全て感情的な中傷だけで、暇だなーという思いです。

最初に論文コピペを見つけた11jigenさんなる者も、所詮他人のあら 捜しに喜びを感じるオタクと思っております。

根拠のない誹謗中傷を気にされずに、今後共、将来の日本を担う若い人材を育成することに尽力されることを願っております。

失礼致します。

埼玉県在住 SIより

投稿者 埼玉のS.I.より : 2014年04月25日 19:41

フジテレビ「新報道2001」を拝見しました。先生の発言は単純に当たり前のコトを言われているだけですが、巷に蔓延している「情緒的な小保方バッシング」のなか、よくぞ言って下さったと感激致しました。

STAP現象のネーチャー論文の写真が故意か過失かは別にして、小保方氏の博士論文の写真が誤って掲載されたのは事実のようですが、これをもって捏造と結論づけられるかは早計だと思います。

「捏造論者」の主張は「こんな大切な写真を間違える訳がないから意図的捏造のハズ」と断定していますが、視点を変えれば「意図的捏造をしようとする人間が、よっぽど間抜けな奴でない限り、捏造がばれるかもしれない発表済の写真の流用はしないのでは?」という考え方もできるのではないでしょうか?

この「視点を変えた発想」に多くの人が思い至らないのは、論文に掲載された写真に対して根本的な誤解があるからだと思います。

それは「STAP現象が本当に存在して、その現象を捉えた写真なら、専門化が見ればSTAP現象の存否を判断できるハズ」という誤解です。

論文の掲載写真なんかは単なる飾りであり、実際、ネーチャーの専門家は、論文の写真が全く関係ない流用写真であるにも関わらず、その間違いに気づかず論文をパスさせました。これはネーチャーの専門家が迂闊な訳ではなく、少し考えればわかる話ですが、STAP現象で生成された細胞だからといって、細胞自体にSTAPという文字が書いてあるのでもなければ、DNAの塩基配列が目視で確認できる訳でもないのだから、写真を見て真否を判定するのは不可能ということです。

それに気が付けば、捏造するための写真は幾らでも手に入るのだから、余程の間抜けで無い限り、ばれる恐れのある博士論文の写真という発表済みの写真を流用しないのでは?という考えにも一定の説得力があるコトがわかるハズです。

今回の捏造論も「発表済の写真を流用」したからばれた?のであって、未発表の適当な写真なら決してばれるコトはなかったのです。

つまり、写真の取り違えの件で「黒」か「白」かを論じても、真実は小保方氏本人しかわからない水掛け論に終始することになり、記者会見で明らかにすることなど、どだい無理な話なのです。

では、小保方氏が「黒」か「白」かを判別するのに大切なのは何か?と言えば、それは「小保方氏及び理研が、STAP現象が存在すると確信するに至った、一連の実験」が存在するか否かです。

仮に将来的にSTAP現象が否定されるにしても、発表の時点で「STAP現象が存在すると確信するに至る一連の実験」が確かに存在するならば、小保方氏が写真を捏造する必要性が無いというのは、一定の説得力があることになります。

では、「STAP現象が存在すると確信するに至る一連の実験」が存在したのか否か?なのですが、ここからが肝心でメディアとかで指摘するのを見たコトが無いのですが、そして先生が指摘されたのも正にこの点だと思うのですが、この点に関しての理研の態度は意味不明です。

理研は調査委員会なるもので「小保方氏は捏造」つまり「一連の実験の存在」を完全否定したのは、それは別に良いのだけれど、それなら「1年を掛けてSTAP現象の存否を再検証する」などというのは、全く無意味で金の無駄なハズ。だって小保方氏は捏造したと「断定した」のですから。

逆に言えば「1年を掛けてSTAP現象の存否を再検証する」というのは、小保方氏は研究者として未熟で、一連の実験は杜撰極まりなく、論文の執筆過程に大いに疑義があっても、理研の仲間としては「一連の実験の存在には一定の確信がある」から再検証をするということのハズ。

つまり「小保方氏が捏造でない可能性」を少しでも信じてるから再検証するのであろうコトを考えれば、現時点で「捏造」と断定するのは理研の自己矛盾だと思います。

余談ながら、小保方氏の博士論文でのコピペが問題になっているみたいですが、これも何が問題か意味不明です。小保方氏が「iPS細胞を発見しました」とか、他人の実績を自分のモノのように発表したなら問題ですが、論文の導入や背景説明は単なる事実の羅列であり、コピペしても問題無い。コピペ元に間違いがあった場合に、コピペ元に責任転嫁しない覚悟がありさえすれば、コピペは何の問題もない。

「ゆとり世代」批判が言われて久しいが、「コピペが問題だ」という非論的な発言を平気で垂れ流す学者が蔓延している問題は、「ゆとり世代」問題と比較にならないくらい致命的な問題だと思います。

投稿者 ジャムおじさん : 2014年04月29日 18:23
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