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 「マージナル大学に対して遠くとも確固たる目標をつきつける芦田氏の論考」― 『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』書評 2013年10月01日

 芦田宏直氏の論考がついに書籍になった。様々な理由から私は芦田先生のブログや講演の書籍を待ち望んでいた。著者の論考は、大雑把に言うと、「学生に向けられた言葉」「大学関係者に向けられた言葉」「社会人全体に向けられた言葉」「機能主義批判」の4つに分けられる。本書はそれらをすべて盛り込んだ内容になっている。哲学的な難解な文体が後半になればなるほど濃厚になってくるが、その合間合間にも、哲学の門外漢にとってもはっとさせられる箇所がたくさんある。特に、学生や大学関係者、そして職場で若い人を育てる立場にある人達に読んでもらいたい。特に、「大学全入時代の学生を人材として育てる(17頁)」という困難な課題に立ち向かおうとしている大学教員にとっては、必読である。

 私は2008年から20012年までとある大学で法学部長を務めたことがある。2010年だっただろうか、当時の私が調子よく学生に体験学習を行うことの大切さについてツイートしていたところ、何の前触れもなく「突如として」本書の著者である芦田氏のリツートが飛び込んできた。

「こんな教員が増えているから大学がだめになっている」

 この言葉は私にとってかなりショックだった。思わず、「変ないちゃもんをつけるおっさんが現れた」とブロックした。しかしどうも気になる。本人のプロフィールを見ると、専門分野はドイツ哲学・現代思想だという。ああ、昔ながらの頭の硬い変人なのかとおもったが、どうも気になり、芦田氏のブログを読みだした。

 しばらく読んでいくと、この人は単なるいちゃもんをつけている人ではないことに気づいた。哲学→専門学校の校長先生→大学教授→大学の副学長&様々な専門学校の理事、という不思議な経歴と、硬軟取り混ぜたブログの記事、そしてツイッターの乱暴な語り口が相まって、すぐには芦田氏の人となりを理解しづらいのだが、よくよく読んでいくと、現在の大学の状況と課題をあらゆる面から鋭くついている。たとえば、本書の第七章に収録されている「<シラバス>はなぜ機能しないのかーー大綱化運動の経緯と顛末」はその一つである。私は、現在の大学が置かれた状況を説明し、問題をえぐり出すものとして、これほど説得的な論考は他に見当たらないと思った。八〇年代後半の中曽根臨教審路線とともに浮上した個性教育・自主性教育路線と、少子化による大学全入の動き、そして「特色化」による大学の教育力の低下、ハイパー・メリトクラシー教育の前面化等々が相まって、現在の大学の深刻な状況が生まれていることを見事に説明していた。

 こうして、私は芦田氏のブロックを解除しただけでなく、芦田氏の発言を注意深く追うことにした。他方、芦田氏は私に目をつけたのか(笑)、私の発言に対して、たびたび鋭いリツートを送ってくれるようになった。その中で、大学の教育目標は学生の現状を追認した「とりあえず」なものであってはならないこと、偏差値の低い大学ほど教育力の高さでもって学生の「階層移動」を実現させなければいけないこと、知識を積み上げるためのカリキュラムとそれを実現するためのコマシラバスおよび授業ごとの丹念な形成的評価が必要であること等々、私自身が「組織的な」教育改革を行ううえで、まさに必要としていた考え方を丁寧に教えていただいたのだ。

 著者は、大学とは「一生続けていける知識や技術の深みに出会えるところ(122頁)」であり、「若い奴らの自尊心を破壊するところ(真の専門性の気高さを感じさせるところ)(123頁)」であるべきだという。「どんな大学であっても」教員の専門性こそが学生を救うことになるというわけだ。これらの考え方は、第七章の「学校教育の意味とはなにか」に収録されている。(マージナル大学やFランク大学を含めた)大学の社会的意義をここまで純粋で本質的な考え方をもとに議論している人は少ない。「<学校教育>の<教員>とは、その意味で社会的な<親>である(212頁)」という一見、大学教員に対する挑発的な言葉も、我々は「第二の親」として学生を引き受けるべきだという、(多くの教員が忘れかけている)学校本来の役割を改めて問うているのだ。はたして、我々の卒業生は、卒業後、我々の大学を「母校」と呼んでくれるだろうか。それは我々の教育内容とその成果にかかっている。

 その後、私自身、著者の考え方に影響を受けつつ、学部教育改革、特に専門課程の教育改革を進めた。それは2014年度から導入される新カリキュラムにつながった。新カリキュラムでは、専門科目を半減し、自由履修をなるべく少くして、否応なしに専門科目を段階的に学ぶしかないカリキュラム、すなわち「積み上げ型カリキュラム」に近づいた。また、初年次の専門導入科目(入門科目)は単位数を半期で4単位とし、インプットに加えて知識の理解・定着を十分にとるための時間数を確保した。要するに、入学時の偏差値を乗り越え、卒業時には上位の大学を上回る学力を持たせられる教育の仕組みを目指したのである。

 付言すると、近年、多くの大学で課題とされているアクティブ・ラーニングについても、著者の指摘を十分検討すべきだと思う。多くの場合、こうした授業は、著者が問題視する自己表現的、意欲主義に陥ってしまいがちである。それを乗り越えるためには、専門知識を正面からいかに取り扱うかにかかっている。アクティブ・ラーニングを(手法として)導入するにしても、インプットをいかに多くするか、また学生をいかにインプットに向かわせるかがポイントとなるだろう。コミュニケーション能力や意欲は、確かに「生きる力」の一つなのかもしれないが、それは授業で教員が教えられるものではない。もちろん、それらの能力は、授業でのディスカッション等の副産物として身につくであろうし、自己評価の対象ともなりえるだろうが、教員による直接評価は無理である。ましてや、こうした自己評価を成績評価に組み込むことはすべきでない。

 また、私自身が学生に対して伝える言葉も、かなり著者の影響を受けるようになった。本書の第一章から第三章にかけて収録されている専門学校時代の卒業式・入学式の式辞は、多くの学生にぜひ知ってもらいたい。「単純な仕事は決して単純ではありません。そう思える人だけが、次の水準の仕事を『与えられる』ことになります(43頁)」といった言葉に代表される芦田氏の考え方を、学生に対して参考文献として示せるようになったことは、私にとってうれしいことだ(笑)。

 なお、哲学にほとんど踏み込んだことがない私にとって、本書全体を評することはできない。正直に言えば、機能主義批判にいたっては、何が問題なのかさっぱり分からない(笑) ただ、「人はどのように成長・変化していくのか」とか「人は何を目指して成長・変化するのか」といった問題に対して機能主義・実証主義が何も説明できない(説明から除外する)ことと、哲学と教育が結びついた著者の問題意識とは、関係があるのかもしれない。たとえば、「仕事のやり方を変える、変わる」という一つをとっても、人は目的をもって新しいことに踏み出していくわけで、そうした人間の意志のいとなみを排除する機能主義は、教育や人材育成という仕事に携わる以上、著者にとって乗り越えるべき考え方なのではないかと、思う。

 「できない学生」ほど大学に行くべきだ(377頁)。著者のこの言葉に見合う大学はどれほど存在しているだろうか。現実は悲惨な状況かもしれないが、大学教員としては、少しずつそのような大学に近づけるよう、努力すべきだと思う。いや、「努力してはいけない」のであって(笑)、その目標を達成するために、我々は大学のあり方、授業のやり方を「変えなくてはならない」のだ。芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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