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 「学び合い」小学校教員からの反論がありました ― 謹んでご紹介します。 2011年02月26日

この「反論」は、小学校の「学び合い」授業を参観して(1)http://www.ashida.info/blog/2011/02/1_3.html#more という私の記事に対するものです(まだ書きかけのものですが)。私が直接授業を参観させていただいた先生からのもの。貴重です。

1)私は「学び合い」ではそもそも毎時ごとのレフェランス(「基準値」)というものはそれほど重要ではないと考えます(これは「なくてもよい」というわけではない)。そもそも毎時ごとに基準値を達成させようとするから、多くの児童や生徒がそこからこぼれて逃げていく。児童の進度のみならず理解度も授業内でばらばらなため、相対指標しかないと言われるが、そもそも毎時ごとに達成基準を設けて児童の到達度を細かく測っても、その合計が子どもの理解の深度や確かさにつながるわけではない。

【芦田】特に毎時的である必要はない、が、ではどんなスパンでレフェランスを設けるのか? それが長いスパンであればあるほど、取り返しが付かなくなる。そもそも取り返しが付くか、付かないかをどこで判断するのか? 見せていただいた「学び合い」授業内には一切その手がかりがない。相対的な進度を放置しているだけ。日々進んでいるという名目で。だから、各生徒が伸びる伸びないもすべて各生徒の問題になってしまう。伸びたら伸びた、伸びないなら伸びない。挙げ句の果てに「脳の発達の差」にまで還元してしまう。アホな話だ。この「学び合い」教育の本当のレフェランスは「脳の発達の差」であると言ってもよい。

2)進度や理解度はそれぞれに異なることは極めて当然であると考えるが、それを芦田氏のように「子どもの個性」とか「子どもの可能性」などとは考えてはいない。能力の差は歴然とあり、それは脳の発達には差があるということに基づく。学習に子どもの個性などは基本的には関係ない。

【芦田】「脳の発達には差がある」のはたしかだろうけども(笑)、そのこととクラスの授業内で点数に差があることとの相関を科学的に証明するのは無理(仮に証明できたとしても病的な場合だけ)。「差がある」と抽象的に言ってるだけのこと。えせ科学妄想的な差別発言。結局、この「学び合い」教育は家族主義的、地域主義的な差別思想でしかない。

 
3)そもそも「学び合い」では「子どもは能力はそれぞれ違う」という前提に立たなければ成立しない。コミュニケーションは子どもの「内在する自分」との対話を引き出すためのものであり、個性教育とかコミュニケーション教育というものとは異なる。「学び合い」は人とのコミュニケーションだと思われているが、実は自分との対話なのである。
 
【芦田】「子どもは能力はそれぞれ違う」というのは顔が違う、親が違う、地域が違う、という程度のこと。それがどうした。「内在する」って誰がどんな基準で判断してるの? 「内在」って何? これも妄想。


4)全国水準を意識した学びは「学び合い」にとっても非常に大切である。それを単に「お受験」とか、「詰め込み教育」などという言葉で馬鹿にする方が愚かだと思う。しかし、進学塾で講師をしてきた経験では、特進クラスの子どもの学びはとても「学び合い」的である。授業の中での会話も非常に多い。学年が進むにつれて無言になってくるのは周りが「ライバル」になってしまうから。

【芦田】意味不明。

 
5)芦田氏は<「学び合い」教育のレフェランスは、“全国試験”では「平均より上」どまり。しかもこの“全国試験”には中の上以上の進学校は参加していない。>いうが、これは公教育である限界だが、公的な教育の成果を計る最も母数の多いのは全校学力検査しかない。そもそも「塾」で能力を身につけていることと、公的な学校教育の成果を比べること自体がナンセンスである。

【芦田】「公的な教育」であっても将来の東大生は存在する。塾へ通わなくても名門進学する生徒は存在する。公的な教育こそ、多様性を保証しなくてはならない。「子どもの能力はそれぞれ違う」と言いながら、公立と私立との区別だけはなぜかたくなに集団的に区別する? なぜ、公立学校が私学よりも低いと決めつける? きわめてご都合主義。


6)「学び合い」が特徴的なのは、平均点の向上ではない。最低点の向上である。また上位の学力の伸びも大きい。

【芦田】根拠を示して欲しい。この言明は何も言っていないに等しい。そもそも上位の生徒から「不満の声がある」ということを当日のあなたとの意見交換で、私は聞いている。そもそも上位の伸びが大きいのなら、私学の連中や塾好きの連中と戦わせればいいじゃないか。

 
7)教員のレファレンスを前面に出した授業は“落ちこぼれ”が必ず存在する。しかも、その割合は学力に反比例し、学力の低い高等学校では授業そのものが成立しなくなるようなことも起きている。しかも、レファレンスをどのように示そうとも、その寝ている生徒を目覚めされることも、ましてや学びに没頭させる力などない。

【芦田】それはウソ。取組が悪いだけのこと。高校で寝ていた生徒も私の学校ではみんな授業参加していた。先生が真っ先に割り切ってるだけのこと。相対的な進度しかない「学び合い」では落ちこぼれが目立っていないだけのこと。試験をすればあなたのあの日の授業が成り立っていないのは明らか。(あの日の知見分としては)何も教えていないのだから。
 

8)「学び合い」が特徴的なのは、下位の子どもが予習復習をするようになることだ。つまり学習に腐らない。芦田氏の言うように、もしも相対化による「見えない落ちこぼれ」が大量にあるのなら、子どもの成績も、子どもの学習意欲も向上することなどない。

【芦田】意欲はどうでもいい。犯罪にだって「意欲」は存在するのだから。そもそも成績が上がったというのをどうやって示すのか? そもそもあなたの学校でも二人の教員しか学び合いをやっていない。なぜ明々白々な成果があるのに、しかも教員が「楽(らく)」(西川)できる授業法なのに、他の教員は取り組まないのか? それを説明して欲しい。

 
9)一斉授業では一授業内で教員が採点することが多いが小学校では、そのために長蛇の列を作り、後ろでは遊んでいる子どもがいる始末である。しかも、多くの教師は採点はすれども、それをフィードバックすることもなく「ただの成績の記録」に留まっている。児童生徒が「何がどうできなかったかを理解する」のは自らが間違いを直したいという態度とそれを直せる時間と場の確保である。「学び合い」ではその場と時間を授業の中に確保している。だから私は「何度でも」やり直せる手だてを取る。

【芦田】それは採点の仕方が悪いだけ。「学び合い」でも下手な学び合い授業があるのと同じように一斉採点でも取組の仕方の悪い採点があるだけのこと。「私は『何度でも』やり直せる手だてを取る」という言明が意味を持つのは、その生徒がどんなレフェランスに基づいて反復しているのかという基準(理解目標)があってのこと。正確な診断がない反復は単なる時間つぶしにすぎない。

 
10)「学び合い」のレフェランスは〈より進んでいる、より遅れている〉かに留まるわけではない。「やらせっぱなし」の「学び合い」ならばそうかもしれないが、実際には教師の働きかけは大きい。子どもの動きを計るのは進行度でななく、子どもの深度である。

【芦田】あの一日の授業でまともな「教師の働きかけ」は一切ない。断言してもいい。


11)「“ちょぼちょぼ”論」は授業を表面的にしかみていない証拠で、その授業で教師が何を見ているか、何をしているかに気がついていない。これは子どもの話からも分かる。子どもは教師を「誰でもいい(「学び合い」をしてくれる人なら)」とは言わない。教師の働きは自分たちの学びをより高度にするために必要だと言うし、子どもはその教師の専門性を求める。
 
【芦田】いえ、あなたは何もしてない。あんなずさんなレフェランスはない。体積の教材管理もできていなかった。


12)よく子どもに実践材料もさわらせないで、予想や見通しを立たせる授業をやっている。昔の私も。しかし、そんなものは「当てずっぽう」に過ぎず、箱の裏の重さの表を写す方が賢い。しかし、そんなものは写しても意味がないから、予想と結果の相関関係をたどったときに、上記の子どもは「予想は数字ではない」という指摘を受けて「予想の数値」を消しゴムで消して、結果との相関関係を戻せばいい。

【芦田】意味不明(笑)。

 
13)学習指導要領には「なぜ体積が同じなのに重さは異なるのか」という内容はない。指導要領には「体積が同じでも重さには違いがあるものが分かること」が目標であり、この学習のレファレンスである。ここは、授業の中盤で押さえてある。「なぜ違うのか」は、授業の遊びの部分であり、消え去ってもいい内容だ。でも「なぜだか理由を考える」というリテラシーは、これからの学習も必要である。何をしたかの知識は消えても、もう一段考えるというリテラシーは、子どもの学習の姿となって残っていく。「なぜ」も考える楽しさを知らずに知識だけを詰め込んでいき、簡単な計算が入ったとたん中学校での理科嫌いが炸裂するのは、この小さな部分をおろそかにしていから。中学校で授業をしていると可哀想なくらいこうした経験も能力が欠けていることが分かる。

【芦田】何を言ってんだか(笑)。


14)ホワイドボードは書きやすく消えやすい。消えやすいから子どもの内在する考えを引き出せる。ホワイドボードが不足していたときには「紙」と「鉛筆」で代用したが、明らかに子どもの考えを引き出す力は弱い。ホワイドボードは消えることを犠牲に、子どもの内在するものを簡単に引き出す力がある。またホワイドボードを次時まで消さないで残すこともあるが、大抵は子どもはその記録を消してもう一度再構成する。これは一見連続性がないように見えるが、前時に「出力」したことで、子どもは次のステップに移っている。例えば、ホワイドボードを写真に写してノートに貼らせても、そんなものは子どもは見返したりはしない。リファレンスという目線で見ると、せっかく書いたものを消すなんてまさにアホのように思われるが実はそうではない。

【芦田】そうではなくて、どうなのよ(笑)。消すという作業は、修正を重ねやすい、媒体の性格に拘束されずに思考を柔軟にしてよりブラッシュアップされた合意形成をしやすいという意味を持っている。しかし時間の区切りは当然存在する。最終決定の場面、つまりボード作業にも必ず終わりがある。この消えない合議の終わりに基づいて生徒たちは、再度自分のノートに向かう。私が、消える、と言ったのは「ステップ」を重ねた最後の場面の書き込みのこと。せっかく貴重な(暫定的であるにせよ)結論が出ているにもかかわらず、参照しようとする姿勢が弱い。一つの作業段階として行事になっている。ホワイトボードのいい面、悪い面がそのまま露呈する結果になっている。

 
15)どの授業にも意欲的かどうかだけが重要なはずなどなく、結果を求めない授業はない。結果とは、あくまでも学習指導要領に基づく内容を理解し、課題に向き合う姿である。

【芦田】「学習指導要領に基づく内容」なんて存在しない。「身近に見られる動物や植物を比較しながら調べ,見いだした問題を興味・関心をもって追究する活動を通して,生物を愛護する態度を育てるとともに,生物の成長のきまりや体のつくり,生物同士のかかわりについての見方や考え方を養う」と第三学年の理科の指導要領に真っ先に目標として書いてある。これはどこまでも手抜きできる内容だし、どこまでも高度なことを教えなくてはならない内容。教員次第。だから結果を「学習指導要領に基づく内容」と西川の言うようにあたかも一義的に確定できるように考えることはまったく無意味。ご都合主義的に指導要領に逃げてるだけ。


16)1対n個の問題と「学び合い」はニワトリが先か卵が先かのようなものである。現状の授業で、「授業に参加できていない」児童・生徒は何万人いるだろうか? それをきめ細かなリファレンスで参加させられるなら、「学び合い」などいらない。

【芦田】「ニワトリが先か卵が先かのようなもの」。後段との関係でこの比喩の意味がわからない。

 
17)「学び合い」は決して楽な授業ではない。非常に高度な見極めも必要とされるから。しかし「全員を参加させる」という授業の成立の壁は低い。学校の授業とはここから始まるべきなのであり、どんなにリファレンスと叫ぼうとも、児童も生徒も見向きもしなければ何にもならない。

【芦田】「ここから始まる」という授業で、それ以上進んだ授業を見たことがない。参加率の高い授業で、理解の進んでいない授業は捨てるほどある。その種の授業は管理主義(担任主義)の校長が喜ぶだけの授業。

 
18)私は、「ちょっと集まって」とそのつどクラス内の分散した生徒を一時的に集めることがある。これは次の課題に移行する、または課題のブレの修正や、分散している考えを整理するためであり、よく見れば分かるが一斉授業の場ではない。そしてリファレンスでもない。

【芦田】意味不明。「次の課題に移行する、または課題のブレの修正や、分散している考えを整理するため」の作業をレファレンス(あるいはレファレンス修正)と私は呼んでいる。しかしあの2分か3分しかない一時的な集合で「次の課題に移行する、または課題のブレの修正や、分散している考えを整理する」ことなどできるはずがない。事実できていない。

 
19)リファレンス主義の授業では、課題がぶれたまま最後まで教師の力業(悲惨な)で押し切る授業が多い。そして授業では児童や生徒の取り組み方など無視して、辻褄を合わせた「結果」のみを語る。

【芦田】「レフェランス主義」という言葉はありえない。レフェランスのない授業というのは存在しないのだから。違いがあるのは、レフェランスをどう咀嚼するのかの違いだけ。

 
20)芦田氏はこれを<思いつきのトークに留まっている>というが、最初から決められているなら最初に伝えて集めなどしない。45分間で刻々と変わる状況を見極めてのブレの修正や整理なのだ。

【芦田】そんなことはない、つるかめ算で体積・重さ問題でも、あなたが20年も毎年やってるなら、生徒たちがどこで躓くかは明々白々。その種のレフェランスはすべての分野である程度のモデル化はできる。「思いつき」というのはモデル化志向がないということだ。生徒「それぞれ違う」とか「脳の発達が違う」という個人主義的な一般論にすり替えるのは、教材開発に向かおうとしない怠惰でしかない。そもそも私がそれを指摘したら、あなたは全教科でそんなモデル化作業をする「時間がない」と言った、女教師も家庭があるため早く帰ってしまうとも言った。であれば、必要性は感じているということだ。毎日、毎期、毎年少しずつ進めればいいではないか。そもそも「時間がない」と言う教員に時間を与えて、躓きモデル化をやった教員など、私の経験では1人もいない。それに気付いている教員は時間が無くても必ずモデル化を進めている。本来の意味でできない生徒を救うには、トークだけでは無理。ましてノートを取る机もない地べた授業では無理。


21)小学校の下学年が椅子に背筋を伸ばして座る姿は極東型の典型的な学習スタイル。なぜ児童は床で学びを展開するかというと、それが子どもの「高さ」なのだ。子どもを集めるときには床や低テーブルや畳、カーペットなどが適しているのはこのためだ。子どもの一面しか見ていないとこうした姿が気持ち悪く写る。

【芦田】アホか。ノートを取れないと言ってるのよ。図書室には床座りでもそれ用の机があったが、教室では畳の敷いてある一角だけ。これでは勉強はできない。

 
22)1対n個での学習も、評価もこれまで何十年もシステム化され、提言され、指導されたが結局、それは一部の上位の児童や生徒にしか通じてはいない。そのシステム化の影で多くの児童生徒が「参加さえできない」という状況に陥っている。どんなに優秀な児童生徒が日本を発展させようと努力しようとも、学ぶということから逃げだし、諦め、苦しんでいる多くの子どもがいる限り日本の社会は決して明るくはならないだろう。

【芦田】そんなことないよ。1対n個での学習の「評価もこれまで何十年もシステム化され」たって、いつどんなものが? 私は、レフェランスを意識したシステムなどかつて一度も存在したことはないと思っている。そもそもあなた自身の学校さえ、学び合いは二人の教員がやってるだけ。他の教員は「学ぶということから逃げだし、諦め、苦しんでいる多くの子ども」を無視してるとでも言うつもりなのかな。そもそもクラス内があんなに仲が良くては、1人の生徒も引きこもれないよね。なんで友達と仲良しじゃなくちゃいけないのよ。パーソナリティとして言えば、もっといろんな子供がいてもいいと思うよ。でもあなたたちのクラスには芦田愛菜みたいな、大人の目と友達の目をいつも気にしている子供しかいない。小学校3年生でなんで営業マンみたいな子供を作るのよ。「それぞれの能力がある」といいながら、仲良しでなくてはならない、協調的であることということだけは疑わない。そんなバカなことはありえない。はるかに、中の下としての均質なクラスが出来上がっている。もっと子供は色々いていい。それが日本を「明るく」する。明るい子供たちだけが「明るく」するわけではない。このクラスマネジメントは、あなたたちが教員としてやりやすくなっているだけ。教員〈生活〉のためだけのクラスだと思うよ。それをレフェランスがない、と私は言っている。

 
23)現状の「学び合い」が完璧だとは私も考えてはいない。でもそれは芦田氏の言う評価を取り込むことによってさらに洗練されていくことでしょう。「学び合い」の実践者はこれらを取り込んでいきましょう。よい機会を与えてくださった芦田先生に感謝です。 
 
【芦田】これは、したがってレトリック。私の言うことを何一つわかっていない。→「にほんブログ村」

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感想欄

20)に対する芦田氏のコメントに賛同します。

 事実、私が知る個人塾の先生はそれができる方です。
 以下引用文と同様の話をご本人から聞いた事があります。

 塾の先生でも、躓き原因がわからず難解な問題を目的無く
 反復練習させ、揚げ句の果てには、生徒は不合格。
 先生は悪くなく、生徒が不出来と言う詐欺師の捨てぜりふ。

 もっと勉強して欲しいものです!
 

(引用)>あなたが20年も毎年やってるなら、生徒たちがどこで躓くかは明々白々。その種のレフェランスはすべての分野である程度のモデル化はできる。「思いつき」というのはモデル化志向がないということだ。生徒「それぞれ違う」とか「脳の発達が違う」という個人主義的な一般論にすり替えるのは、教材開発に向かおうとしない怠惰でしかない。そもそも私がそれを指摘したら、あなたは全教科でそんなモデル化作業をする「時間がない」と言った、女教師も家庭があるため早く帰ってしまうとも言った。であれば、必要性は感じているということだ。毎日、毎期、毎年少しずつ進めればいいではないか。そもそも「時間がない」と言う教員に時間を与えて、躓きモデル化をやった教員など、私の経験では1人もいない。それに気付いている教員は時間が無くても必ずモデル化を進めている。本来の意味でできない生徒を救うには、トークだけでは無理。ましてノートを取る机もない地べた授業では無理。

投稿者 継栄システム研究所 : 2011年03月17日 23:45

某大学教育学部の3年です。

小学校教諭養成課程にいれば、学習指導要領に則った学び合いを大切にする授業展開をどうしていくか考えていく講義が多いです。

あまり、各教科の専門性を高めるような場はなく、各自で学んでいかなくてはならない状態なのかと捉えています。

正直、情けないですが小学校の教師を目指している私は何が良い学びで良い授業なのか判断する力はまだ全くありません。

学級のあるべき姿とはどんなものなのでしょうか。

投稿者 大学3年(教育学部) : 2012年03月05日 10:26
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