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 小学校の「学び合い」授業を参観して(1) 2011年02月25日

福島県の某市立小学校の「学び合い」教育の授業を2月23日終日見せていただいた。お昼休みの食事なし(笑)の教員との意見交換、終了後、再度約4時間の意見交換、計5時間の意見交換ができ、貴重な授業評価会だったと言える。この学校は上質な「学び合い」教育を行っている学校と聞いている。授業改善に前向きに公開的に取り組まれる校長先生、教員の方々のご協力に心から感謝したい。

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今回は、小学校3年生(算数・国語・理科)、5年生(社会・国語)が中心の参観。それぞれがすべて各担任の授業。重要なことからまとめておく。なお、以下のまとめは、すべて当日担当教員とのやりとりで議論した内容である(幾分かは補説しているが)。私の立場は、「良い授業」こそ批判すべきだし、伸ばすべきだというもの。2人の教員とも優れた教員だったと思う。

1)この授業全体を通観して思う最大の問題は、レフェランス(とりあえず「基準値」と訳しておこう)というものが不在だということ。致命的な問題だと思う。

2)生徒の進度のみならず理解度も授業内でばらばらなため(それなりの進度・理解度の集合はあるが)、〈より進んでいる〉、〈より遅れている〉という相対指標しかない。

3)しかもこの進度や理解度は、隣の子供より〈進んでいる、遅れている〉か、教科書の単元内の進行がより〈進んでいる、遅れている〉か、単元の内外の業者テスト(ほんの一部オリジナルテキスト)の練習問題の消化率がより〈進んでいる、遅れている〉か、それともこの三つの複合的な状態でより〈進んでいる、遅れている〉かのいずれかである。

4)そして、この相対的な進行の原理は、いい意味でも悪い意味でもすべて子供は「それぞれが違う」という「子供の個性」「子供の可能性」論に直結している。

5)しかもこの「学び合い」での「子供の個性」「子供の可能性」は「子供はそれぞれ違う」という意味での個々人の可能性でしかない。

6)「それぞれ違う」と言いながら、「学びの共同体」(佐藤学)のような個人主義は取らず、コミュニケーションが「子供たちの能力」を引き出すと言うが、進行の差は依然として「(子供は)それぞれ違う」論になる。〈個人〉が最初にあるか(佐藤学)、後から出てくるか(西川純)の違いしかない。

7)しかし、「子供の可能性」は何も学びのあれこれのサークルの中にすべて顕現しているわけではない。パーソナリティなら少数のサンプリングで顕現するかもしれないが、〈学力〉ということになるとそれはむずかしい。

8)小学校3年生、小学校5年生の(私学中学受験を意識した)進学校を含む全国水準はどのようなものかを意識しない「子供の可能性」など存在するわけがない。あれこれのNPOの夏の野外合宿ならいざ知らず、学力(今回は鶴亀算)が問題になっているのだから。

9)同じ「鶴亀算」をやらせても、同じ学年の、別のクラス、別の学校、別の地域の学校では、この難しい問題を短時間で単独で解ける子供がいる、あるいは逆にこんな簡単な鶴亀算さえできない生徒がいる、その中でこのわがクラスの生徒たちがどう〈より進んでいる、より遅れている〉のか。

10)それが、とりあえずのレフェランスだ。「学び合い」教育のレフェランスは、“全国試験”では「平均より上」どまり。しかもこの「全国試験」には中の上以上の進学校は参加していない。

11)しかも、“寝ている子はいない”、“全員参加”の「学び合い」がモットーだから、(何度も言うように)「平均」は上がるに決まっている(この「学び合い」関係者はいつも「平均点」を争っている)。10点の生徒が20点になれば、「2倍も」成績が伸びたことになるが、100点の生徒は100点のままだ。80点の生徒も2倍伸ばすわけにもいかない。

12)もともと“落ちこぼれ”(言い換えれば“授業への不参加生徒”)が出るのは、教員が基準値(理解のレフェランス)を前面化するからだ。1対n個(一人の教員が生徒全員に対峙するという授業形式)の授業というのは、レフェレンスが存在するからこそ落ちこぼれも存在する。

13-1)しかし「学び合い」では、“落ちこぼれ”は見かけ上存在しない。一授業内で教員が採点するということはほとんどない。回答を教員が読み上げて生徒が自主採点するか、生徒同士で採点制御を行うかどちらかだ。何がどうできなかったかを理解する場面はすべて生徒の「学び合い」の中にある。

13-2)100点満点という参照性もないどころか、そもそも何点だったかという参照性さえない。問題(課題)ばかりに取り組んでいる割には、点数のレフェランスがない。少なくとも私の見た授業のすべてはそうだった。

13-3)あくまでも、レフェランスは、隣の=周りの子〈より進んでいる、より遅れている〉かに留まる。レフェランスがこのように個人的に相対化されているために、“落ちこぼれ”など存在するわけがない。人間は個人的に見ればみんな“ちょぼちょぼ”なのだから。それは心理主義(パーソナリティ主義)の原則的な思想だ。

14)その“ちょぼちょぼ”論をフルに発揮するのが社会体育論的な活動(お兄さん・お姉さんファシリテータによる夏の野外学習)である。私は「学び合い」の授業を見続けている間、これは少しばかりは知的なネタを題材にした「社会体育」でしかないと思い続けていた(予想通りのことだが)。

15)5年生の授業では、「ファシリテータは誰にする?」と生徒自身が盛んに口にしていた。この「学び合い」教育が、「教育」「指導」「教える」「教えられる」という言葉を嫌うのは、teacherでもinstructorでもtrainerでもない、この「ファシリテータ」に徹しているからである。

16-1)「ファシリテータ」がteacher、instructor、trainerと区別されるのは、まさにレフェランスの有無だ。

16-2)teacher、instructor、trainerの内部でもteacher、instructor、trainerの順にレフェランス度(ここでは“専門性”と理解すればわかりやすい)は下がる。それは個人化度(心理主義化度=満足評価度)の順位と考えても良い。

17)この教育が〈練習問題〉を必要とするのは、野外演習にいろいろな仕掛けがあったり、ワークショップにいろいろなグッズがあるのと類比的である。これがないと授業時間の「間がもたない」。だから採点もレフェランスに基づくものではない。同意(納得と承認)が重要なだけである。

18)事実、生徒の採点や記述のまとめ活動を管理するプロセスは皆無。かといって生徒の「学び合い」がそれを肩代わりしているわけではない。それは個人的に任意な活動に過ぎない。

19-1)この日もホワイトボードを使った合議(一つのテーマを巡って意見をとりまとめ、より質の高い意見を再形成するという)を何度も見たが、この合議結果が再度自分の取りまとめノートに反映されているかというとそうでもない。

19-2)反映過程がどうなるのか、と見ていると、それぞれが自分のノートに反映される前に消されてしまう(ホワイトボードの利点=欠点)。一部はそのノート作業が宿題になった授業もあったが(後の祭り)、いったいあの合議は何だったのか、という程度にそれは野外実習に限りなく似ている。

20)この授業には、したがって、間違いも正解もない。鶴亀算でわからなくて解けない生徒も(「わからない人は白いテーブルに集まれ」と先生に言われてクラスの6、7割の生徒がそこに集まって学び合っていたが)、そのテーブルの最終段階でもわかっていない生徒がたくさんいた。

21-1)体積(大きさ)が同じ木や金属の教材を重量はかりで測って実験し、体積と重さとは必ず比例しないということを知る理科の実験でも、その市販教材の箱の中に貼ってある重さ表示を先読みして、それを予想ノートに書き込んでいる生徒が何人もいたが、誰(隣の生徒でさえ)も注意しない。

21-2)その上、なぜ体積が同じなのに重さが変わるのかという肝心な内容について言えば、さすがに「みんな集まって」というレフェランス授業になったが、これもまた中途半端。2時間続きの授業で、この結論がどうなったのか、また生徒がどう理解したのかは、私がじっくり見ていてもまったくわからなかった。

21-3)生徒たちは先生のそのレフェランストークの前後で重さが違う理由を色々と言い合っていたが、結論は出ていない。

22)しかし授業自体は「学び合い」の不定型な進行にもかかわらず、〈時間割〉に従って形式的=量的に終わる。特に復習やその日のレフェランスが示されるわけでもない。誰が何を学んだのかを生徒はもちろん教員さえ把握していない。だから復習のレフェランスも存在しない。

23)そもそも、体積と質量の問題をいったい何に基づいて理解すべきか、というレフェランスそのものが存在していない。教科書、参考書、サブテキスト、そういったものはこの一日の授業ではほとんど参照されない。教員のレフェレンス授業もすべて(流れ去り、消え去る)トークだ。

24)レフェレンス(参照項)として存在しているものは、ドリルノート(練習問題)への回答書き込みか、白紙の紙への自由な書き込みだけだ。教科書と先生、生徒同士の生トークと生ノートだけなのである。〈教科書〉から〈理解〉までの間に何も存在していない。

25)「学び合い」のやりとりの肝心の成果であるホワイトボードの内容は、まともに反映もされず、コピーもされずに消えてしまっている。これでは、今日の授業の復習はできない。

26)基本的に、この学び合い授業は、トークか、練習問題か、生徒の自作生ノートで出来上がっている。

27)すべてが基準点(レフェレンス)のない作業であって、これで“落ちこぼれ“など生まれるはずがない。野外実習に落ちこぼれがいないのと同じこと。いずれも個人的に相対的な進度があるだけであって、その進度差は、重要な問題ではない。その進度差において意欲的かどうかだけが重要なのだ。(まだまだ続く) →「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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