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 『異文化理解と外国語教育−−大学における教養主義教育はどこに行く?』  ― 内田樹さん、西山教行さんとパネルディスカッション 2011年01月30日

来る3月25日、精力的に活躍されている内田樹(神戸女学院大学)さん、西山教行さん(京都大学)のお二人と、表記のテーマの元20分ずつのレジュメ発表とその後のパネルディスカッションのある催しに発表者+パネラーとして参加することになりました。楽しみです。

概要は以下の通り。

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『異文化理解と外国語教育−−大学における教養主義教育はどこに行く?』 (L’enseignement des langues étrangères et l’interculturel)

主催:関西フランス語教育研究会(ランコントル)
日時:3月25日(金曜日) 16:00~18:00
場処:大阪梅田(大阪日仏センターアリアリンスフランセーズ in 阪急産業南森町ビル8F 9F)

 多文化社会の広がり、深化が地球規模で起きている今日の状況下にあって、逆説的に、まさに異文化理解の基礎となるべき教養主義教育の主要な一端をになっていた外国語教育が、大学において壊滅の危機に瀕しようとしている。

 「役に立つ語学」「コミュニケーション力の育成」「キャリア教育」という「美しい言葉」、さらには「人間基礎力の育成」などというきわめて曖昧模糊とした言葉が、昨今、大学教育の主要な教育目標に掲げられるにいたって、「大学はどこに行く?」という問いが、現在、「大学は出たけれど…」という台詞以上に切実な事柄となっているといえるだろう。

 文科省の大綱化(1991)以降、徐々に進んでいた大学教育の自滅は、まず大綱化を各大学が独自に特色を出すべきであるというメーセージとして理解せずに、科目の選択を「学生の自主性」にゆだね、卒業時を見据えたカリキュラム作成、シラバス作成を大学みずからの責任において行うことを放棄した結果、起きたと考えられる。言語政策を持たないことによる優柔不断さは、肯定されるべきなのだろうか?

 言語観の問題として考えてみよう。言語を「コミュニケーションツール」としてとらえることは、言語の一面を語っているにすぎない。言語の「表現性」を見ずに、言語をそのように狭隘化することは、言語の多面性に敏感であるべき語学教師がまず第一に避けるべき事柄であろう。

 「異文化の理解」は「アングロ・サクソンの多文化主義」的な考え方によれば、今や「世界共通語」となっている英語(国際英語)で十分であるということになる。他方「フランスの普遍主義」的な考え方によれば、あるいはヨーロッパの「複文化・複言語主義」的な考え方によれば、「対象文化」の理解には「対象言語」の習得が不可欠ということになる。「言語と文化は一体か?」という古くて新しい問題がここでも再提起されているといえる。
 大学における(さらには高校における)語学教師は、どのような言語観、言語教育政策論などをもって(あるいはむしろ特定のものを持たない方がいいのか)、壊滅の危機に瀕しようとしている外国語教育の再興を目指していけばよいのか。

 言語政策専門の西山教行先生、FD・哲学専門の芦田宏直先生、現代思想・武道専門の内田樹先生のご意見を聞きながら、議論を深めていきたい。→「にほんブログ村」

(Version 1.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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