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 「在る」民意と「在るべき」民意 ― アルケーと存在と主体性と(座談会「唯物論と主体性(1948年)」を読む) 2009年09月03日

前回08月27日の選挙論の記事で触れた丸山真男の議論、「在る」民意と「在るべき」民意の話(http://www.ashida.info/blog/2009/08/post_375.html#more)をもう少し教えて欲しいというメールが来ました。そんなことについて一々触れていたら身が持たないので(苦笑)、20年前に(1989年)私が法政大学の「哲学」講義の第一回目(4/24)で話した内容の一部を紹介しておきます。あとは、自分で勉強して下さい。私の35歳の時の講義の一部です(一部わかりやすく補っています)。聴講生は約400人。階段教室の大きな講義室でした。

第一回目(4/24)講義のタイトルは、「アルケーと存在と主体性と」(懐かしい!)。

文中、板書しながら話しているので、くどいところがあったり、前後がわかりづらいところもありますが(その箇所では一部「板書参照」と入れておきました)、なんとか読めると思います。またテープから、当時の熱心な学生が起こしてくれましたので話体のままになっていますが、ご寛恕下さい。

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(前略)

哲学が問う意味でのギリシャ語「アルケー」(始まり)というのは、それがなければどんな存在者も存在しないようなアルケーというのが問題なわけです。でそれをまさに、まさに新鮮な言葉なんですが、始まり(アルケー)というふうに、ギリシアのですね、前ソクラテス期の思想家が名付けたわけです。

でこのとき、その、つまり哲学はアルケーを問うんだというふうにアナクシマンドロスが言ったとされているわけですが、そのときの始まりというのは、まさに、先なるもの、それよりも先は絶対ないような先なるもの ― これはア・プリオリということですね ― 「先なるもの」としての始まりが、哲学にとって最も重要な問題だということですね。

えー、まあ、経済学とか物理学をされているかたは怒られているかもわかりませんが(笑)、えー哲学がですね、もし自分のプライオリティを ― というか優「先」性ですね ― 持っているとすれば、どんな始まりも、それが実は、本当の始まりから二、三歩進んだところで始まっているということを指摘することが重要なわけですね。

つまり、人々が、これこそ人間の前提(先なる第一歩)だろうと思っているようなものも、実はそれは、少し遅れていてですね、二、三歩われわれ(哲学)がつかんでいる始まりのほうが先なんだ ― まあ、そういう相対的な言い方をしたらおかしいのですが(笑) ― 、絶対的に先なるもの、というものをわれわれ(哲学)は問題にしているんだ、という意味での先なるものとしての始まりが、哲学という、何というんですかね、学問というわけじゃないんですが、哲学というものが、もっている使命というふうに言いましょうか、そういったものなんだ、というふうに私は思います。

で、もし“定義”をするとするならですね、まあ、通常定義といわれているものを信じる必要はまったくないんですが、アルケーを問う、アルケーを探究するというのが、哲学の最も基本的な意識だ、ということですね。そういうふうに考えればいいと思うわけです。

いい意味でも、悪い意味でも。で、この問題を巡ってですね、二千五百年間、およそ二千五百年ほどですね、われわれの先輩は考え続けてきている、ということです。

これは、そう単純な問題ではない問題が、たくさん含まれているわけです。つまり、ただ単に物理学のようにでね、〈もの〉を加速器でぶつけて極小まで分解して、小さくなればなるほど、いろんな違いが同じに見えてくる、というようなやりかたをすればですね、そういった世界の始まりと終わり、あるいは宇宙の果て、宇宙の広さと起源が見えてくるかというと、そうではないわけですね。そうではない。そうじゃないからこそ、諸々のアルケーを問う思考が哲学史のなかで出てきているわけだし、諸々の困難がこの絶対的に先なるものを問う思考のなかでですね、出てくるというふうに考えてもらえばいいと思います。

これは、そうするとですね、一体何の役に立つのかという問題が出てきます。ひとつ例を出したいと思います。

急に具体的な話をします(苦笑)。具体的というか、歴史的に具体的な話をします。戦後ですね、(板書参照)ちょっとここ、ちょうどここの段階で、これ〔絶対的に先なるものを問うことが一体何の役に立つのかという問題〕は言いっぱなしの状態にしておきます。でこれはあのー、ギリシアの思想家を取上げたときとかにも話をさせていただきましたが、このことを中心に私は話していくつもりですから、決して逃げるつもりでも何でもないんで、少し話を置いておいてください。

で、今日後半はですね、戦後の日本の思想というのが、どういう仕方で動いてきたかということを少しお話したいと思います。

でちょうどいい資料がありまして、一九四八年二月にですね、雑誌、岩波の『世界』という教養雑誌がありますが、そのなかで「唯物論と主体性」という座談会があったわけですね。で当時ですね、出席者は、錚々たるメンバーが出席しておりまして、まず東大の丸山真男です。この人は今も現役で活動してて、五、六年まえは『戦中と戦後のあいだ』という本が、あれはみすずでしたっけ、出まして、ベストセラーになっていますね。この人は一応、政治思想の専門家なんですが、政治思想専門の論考を書いた事は一度もないわけですね。でも、たいへん影響力の強い思想家です。この人は当時、三十四歳でした。

私が彼の著作で真剣に読めたのは、『日本政治思想史研究』『現代政治に於ける思想と行動』までですが、彼の本質は軟派ヘーゲル主義です。特に、『日本政治思想史研究』における荻生徂徠評価はあきらかにヘーゲル主義(しかも単純な)でした。私が丸山論をやるならそこから始めますが、今は置きます。

で、次は、これは、昨年の夏(1988年)亡くなりましたが清水幾太郎という人がいます。娘さんは、確か学習院か何かでスピノザを研究していますが、この人も戦後のリベラル左派といいますか、六十年安保のときに指導的な役割を果たした知識人ですね。このひとは当時は ― 今あげる人は、だいたいですね、ひとつくらいは論文を読んでおいて決して後悔しない人たちです ― 、この人は当時、四十一歳ですね。もっとも精力的な影響力の高い仕事をしている時期です。

あと、松村一人という、当時、四十三歳ですね。えー、この人は、もう生粋の、ばりばりのマルクス主義者で、毛沢東、特に中国共産党系の左派の論客ですね。この人も、左派の人にはたいへんなじみ深い人のひとりです。ヘーゲル論理学の注釈なんかを書いています(かなりデタラメですが)。

あとは真下信一。真下信一は当時四十二歳。えーこれは、(当時)日本共産党系の哲学者で、当時から、共産党の思想家のなかでもわりと良心的に実存哲学を解釈する思想家のひとりですね。彼は私と同郷です。

えー次は、林健太郎。林健太郎はご存じのように参議院議員か何かになっちゃってますが、当時三十五歳ですね。この人は東大の総長もされて、当時、東大の西洋史学の代表的な先生のひとりですね。林健太郎さん、今は自民党で参議院議員されていますね。

あと宮城音弥さん、宮城音弥というのは、この人もわりと哲学には造詣深いんですが、当時は社会学と、フロイト、フロイトの研究家、心理学の研究家として有名なかたで、その社会的な革命運動みたいなものをですね、フロイトの分析装置を使って議論していこうという立場をとられています。このかたも日本のですね、精神医学あるいは心理学の草分け的な存在です。

あと最後は、古在由重。これはもう代表的な日本共産党の「正統派」哲学者ですね。日本共産党の、いわゆるまあ公認マルクス主義を代表的する思想家ですね。日本共産党には、共産党の思想を代表する哲学者というのは何人もいますが、最近私マルクス主義と疎遠な関係になってまして(笑)、その辺りの人たちの動向は、ちょっと丸山真男くらいしか分りませんが、その総元締みたいな存在ですね、古在由重さんは。

したがって、古在さんが言うことはですね、だいたい日本共産党の哲学思想がですね、どの辺りのレベルにあるかということのある種の基準になるわけです。面白くも何ともないことしか言わない人ですが(苦笑)。

 えー、こうやって名前をあげたのはなぜかといいますと、この人たちというのはですね、丸山真男とか林健太郎はこの当時三十四、五ですが、戦後三年たった段階で、だいたい七十年代前半ぐらいまでの思想をですね、決定的に影響づけた、まあ七十年までですね、七十年代までの戦後思想を代表する日本の思想家なんです。

誰一人ですね、ローカルな思想家になった人はいないわけで、えー、みんなそれぞれ、清水幾太郎なんていうのは、かなりいろんな連中に影響を与えてきた、左派の論客で、途中でこの人は転向してしまって、保守イデオローグになりますが、まあそういう意味では東大の西部邁っていう、歴史学者っていうか社会学者がいまして、最近は「朝まで生テレビ」とかに出ていますが、最近東大辞めましたね。

東京外大の中沢新一という、私にはどう考えても大したことはないと思うんですが、中沢新一という若い研究者を東大の教員スタッフにしようとして問題を起こした人なんですが。

元は学生運動やっていてですね、左派の代表的な論客だったんですけれども、途中で保守イデオローグに転向していきますね。で、そういったことを、日本でいちはやく、根底的なところでやっちゃったのが、この人〔清水幾太郎〕ですね。清水幾太郎さんは、そういう意味では、西部さんなんかの先どり的な動き、つまり市民社会におけるマルクス主義のの思想的な成熟ということですが、そういうことを、すでにこの人はやっていたわけです。

で、この連中というのは、ちょうど僕の世代と、僕がものを考え始めるちょうど中間、僕はだいたい、昔はこういう人たちにわりとなじんでいた世代なわけですが、ちょうどこう変わっていくところですね(板書参照)。

だから、この私の講義を今ここで聴いているみなさんの世代は、この人たちはたぶん、みんな知らないと思うんですね、この思想家たちを。で、知らないと思うんですが、しかしあのー、決定的な影響を与えたという点ではですね、この人たちを無視して戦後思想は語れない。

さて、この「唯物論と主体性」という座談会、これ座談会なわけですが、座談会で一体何が話し合われたかといいますと、それはこの、アルケーを問うということは何の役にたつかという話と、私は結びつけたいわけですが、ここで問われているのはですね、要するに革命的な主体の形成の問題なんです。

つまり、世の中というのが〈存在している〉 ― 変な言い方ですが ― 、でその存在している世の中を変えたい。そうするとその今ある世の中とか社会を変える、あるいは自分自身でもいいんですが、自分自身を変えてしまう、ということは、どうやって可能なのだろうという問いがですね、まあこの革命って何も、社会主義革命というふうに考えないでもらいたいわけです、まあ考えてもらっても結構なんですが、今、世の中を変える、あるいはこの嫌で嫌でしょうがない自分を変える、そういった〈変える〉ということは、一体何を〈根拠〉にして行いうるものかという問題があるわけです。

で丸山真男というのはこの座談会で、まあお手元にお配りしているこの座談会の全文を読んでもらえば分りますが、この座談会ではですね、絶えず中心になって、このマルクス主義者の松村一人とか、あるいは真下信一、古在由重らに食ってかかっていくわけですね。

つまり、「階級的意識」というのが、社会がどんどんどんどん労働者階級が貧困化していって、革命が成就する、革命が間近になっていく。そうするとその革命を起こそうとする階級意識というのは、これは丸山が言うんですが、これはもともと「在る意識」なのか、それとも「在るべき意識」なのかというふうに、彼は問いを発するわけです。マルクス主義者の言う「階級的意識」は「在る意識」か、「在るべき意識」か、と。

つまり、階級意識というのは、人々がどんどんどんどん貧乏になっていく、そして貧乏になっていくと、貧乏に耐えられなくなって、自然発生するのか、つまり貧乏で在るということが、自然発生的に革命を起こす主体を形成するのか、それとも貧乏というのは、ただ単に貧乏でしかないんであって、「貧乏で在る」ということから、直接自然発生のようにして革命的な主体が生れるというのは、別の問題なのか。

そこにはやはり、まあ当時の言葉で言うと、「前衛党」というのが存在して、無知蒙昧な大衆を指導すべき階級、いや、組織というのが存在しているんですね。この組織が、その貧乏な人たちを指導して、革命的な主体を形成しなければ、革命的な主体はですね、自然発生のようにして存在しないんだ。つまり階級意識というのは、「在る意識」ではなくて、「在るべき意識」なんだ。これが、「前衛主義」として階級主体論です。「在る意識」と「在るべき意識」の問題は対立するわけですね。対立するわけです。

で、このことを巡ってですね、この非常に、日本を当時代表した思想家たちがですね、非常に混乱する意見を、それぞれ勝手に吐いていきます。

つまりこの問題はたいへん難しい。どういうことかと言うと、少しその議論を整理しましょう。

まず宮城音弥というのは、これは心理学としての、科学者としての立場からですね、発言していきます。少し読ませてもらいますと、「イデオロギーそのものを我々は客観的に科学的に処理することができる。革命を成就していくようなイデオロギー自身 ― これを「主体性」という言葉で呼んでおけば、その主体性そのものを我々はやはり客観的に分析し、科学的に処理していかなければならない。つまり主体的なものはある。しかし、どうしても客観的に処理できない主体性というものはない」というふうに、宮城音弥は科学者としての立場から発言します。

つまり、宮城音弥はですね、階級意識というのは「在る」意識なんだ。つまりこれは分析できる。つまり、たとえばロシア革命ならロシア革命というのを例にとって、その当時の、貧民層と下層労働者が立ち上がっていく経過というものを、科学的に分析できるんだ。そしたら同じような状況が与えられれば、必ず労働者階級はですね、同じような行動に出る。

つまりそういう意味で、階級意識というのはもともと「在る」意識であって、それは「在る」から科学的に分析するということは十分に可能なんだというのが宮城音弥の立場です。これは科学者の立場ですね。

同じようなことを宮城音弥はこの座談会で何度も繰り返しています。

「科学が世界観を生むかどうかは分らない」。つまり、宮城音弥は、科学というのは世界観を生みようがないというふうに考えています。「実践の方法として科学があると言えるのですから、世界観もどうしても科学に規定されてこなければならない」。さらに、「科学の方法と言うのは道具のようなものです。道具は使い誤るということもありましょう。だが使い方の如何にかかわらず、道具はやはり道具です」というふうに言っています。

「世界観」とここで宮城が言うのは、当時マルクス主義は「科学」なのか、「世界観」なのかという議論があったからです。「世界観」というのは言い代えればイデオロギーです。イデオロギーというのはいい意味でも悪い意味でも使いますが、この座談会の中でも「世界観」は両義性を持っています。いい意味では、世界観は科学の主体化です(とりあえずそう呼んでおきましょう)。悪い意味では、科学的な根拠に基づかない観念論ということです。宮城がここで毛嫌いしているのは、後者です。

つまり宮城音弥はですね、いくら科学的にある事柄を分析してもですね、同時にそれが主体の形成っていうふうに繋がるかどうかは、科学っていうのは判断できないというふうに考えるわけですね。そう考える。

むろん、宮城は、主体という概念を放棄しているのではなくて、逆に言うと、宮城は、科学的対象にならないような主体は考えるべきではないと考えているわけです。

これはもっと簡単に言うと、革命の問題でもなんでもなくて、たとえば煙草を吸う人がいる。煙草を吸うってことが科学的に大変悪いことだ。で科学者が分析していって、煙草を吸うということは体にどんなに悪いことかということを、とんどんどんどん科学的なデータを累積していって、煙草が悪い、こんなふうに悪いんだということを、もうスライドを見せていろんなことをやって、ゲロが出るほどいろんな嫌がらせをやって、科学的データをその煙草を吸っている奴の眼の前で見せつける。

そしたら、それはイコール煙草を吸わない主体を形成することになるのかという問題です。いいですか。世の中にはですね、たとえば煙草を吸うということが大変悪いということを知っていても煙草を吸い続ける人はいるわけですね。いるわけです。

でそれを、そういうことを解釈するときに、二つのやりかたがあります。ひとつは、こういうことです。それは科学主義の立場の人ですが、その人は本当に煙草が体に悪いということを、まあ、本当のところは知らないんだ。つまり、不徹底にしか知らないから、煙草を止めようとしないんだ、という言い方です。

結局のところやはり知らないんだということですね。「知ってるけれども止められない」というのは科学主義を否定しているのではなくて、結局「知っていない」というふうに解釈するのです。それが科学主義者の立場です。結局「無知に過ぎない」というふうに考える。

ところが反科学主義のほうに立つ人(=主体派)は、極限までそういった煙草を吸ってはいけないという知識を自分のなかに詰め込んでもらっても、そのことと、煙草を止めるということとは、全く別の問題だと考える。

つまりどうしても、まあ言ってみれば、科学的に処理できない自分というものが存在する。まあ、変な言い方をすると、非合理なものが残る。非合理な自分。つまり自分っていうのは、自分が自分を考えるということは、科学的な成分だけ自分というのがここに、自分というのがあるんじゃなくて、それはどんなに科学的なデータを重ねていっても、そこに解消できない自分というものが残るんだ、という問題がもう一方の問題ですね。もう一方の問題です。

 でこれは『唯物論と主体性』とはたいへん物騒な題がついていますが、ここで、えーどこですかね、何ページくらいの論文だったか忘れましたが、まあとにかく議論されていることはですね、この科学っていう問題と、主体っていう問題が、どう絡み合っているのか。つまり一方で科学的な分析っていうのが必要だ。そのなかで科学的社会主義、つまりマルクスではなくて、エンゲルスが主導した科学的社会主義っていうのが存在していて、それはあくまでも科学、科学的なものをなかに内包した革命理論なわけですね。

ところがそれじゃ、科学、それは科学に過ぎないのかというと、一方で階級的な主体が形成されていくと、そしてある資本主義の内的な必然性によって、必ず階級的な主体というのが形成されていって、社会主義革命が起こる、という問題が一方である。そうするとそれは単に科学の分析の問題ではなくて、主体の形成という問題にマルクス主義は関わっているわけですね。

 そうすると、マルクス主義が答えなくてはいけないのは、そういうふうに、まあたとえば煙草の例で出しますと、煙草を吸うのは体に悪いというひとつの科学的なデータと、そのデータを眼の前に見せつけられて、その見せつけられた人間が、その吸おうとしている煙草をやめるかやめないかという、非常に微妙な問題 ― それは「主体の問題」ということなんですが ― 、その問題なわけです。

それは革命理論を例に出すと、いま資本家階級はこんな悪いことをやっている。で、こんなふうにして労働者を搾取している。この労働者を搾取しているこんな悪い資本家を前にして、君は立ち上がらないのか、というふうにしてわれわれは学生のとき何度も言われたわけですが、それは立ち上がれない。

で、立ち上がりたいけれど立ち上がれない自分がいるみたいなところで、主体の問題というのは出てきたわけです。これが60年代の「全学連」以後の学生運動=全共闘運動の「自己否定」論です。この問題を解決できないまま赤軍派の「浅間山荘事件」が起こったわけです。

赤軍派の「浅間山荘事件」というのは、(程度の悪い)ロマン主義なわけです。「主体性」という議論はすべてそうです(このテーマは私のこの一年間の講義のずっと終盤で取り上げます)。黒田寛一の革命論に西田幾多郎(絶対矛盾的自己同一論)が介在するのも理由は同じです。

だからこれはもっと下世話に言うと、「理論と実践」問題というものになってきます。あいつは理屈ばっかり言って何にもやれない男だ。あるいは哲学っていうのは理屈の学だというふうに書かれたかたがいましたが(笑)、理屈と行動と言いましょうか、あいつは言葉はいっぱいいろんなことを言うけれども、何にもやらない奴だ。何にもやんない奴だ。

で、これは、実はここの問題なわけです。つまり、或る、或る理屈がある、でそれはそのとおりだ。そのとおりだけれども、何にもできない、っていうふうなところに、われわれはいくらでもぶち当たるわけですね。ぶち当たる。

で、そういった問題をですね、当時の優秀な理論家たちが集まってすったもんだやっているわけですね。だから、宮城音弥っていうのは、科学っていうのをいくらひねくりまわしても、主体っていうのはまた別の問題なんだ。つまり科学は単に道具に過ぎないんであって、その道具をどう利用するかなんてことは、科学をひねくりまわしても出てこないんだ、という立場を宮城音弥はとるわけです。

そうすると真下信一 ― これはマルクス主義者ですね ― 、真下信一はですね、次のように言います。

「宮城さんは、唯物史観はマルクスの方法論だと言う。マルクス主義は科学だと言われる。つまり、世界観ではない。宮城さんと僕との違いはそこなんだ。弁証法的唯物論は、すぐれた方法論でもある。しかし、本来、一つの世界観だと僕は思う。そうでないと実践という問題が出てこない。せいぜい、行為、技術、産業、それで事がすむ。そういうこと一切は、何のために、どういう目的でできたか。それの意味は何か。この問題に答えるのがマルキシズムだと思います」というふうに言っています。

つまり、この科学っていうのは確かに、原子爆弾というものを作る。で、原子爆弾を作るということ自体は、善でも悪でもない。つまりそれをどういう目的で使うかということが重要だ。そうすると、われわれがやるべきことは ― われわれって私(芦田)じゃなくて真下ですよ(苦笑) ― われわれがやるべきことは、ただ単に原子爆弾をどういうふうに作るかということをやるんじゃなくて、それは作った原子爆弾をどう利用するか、何のためにそれを存在させるかということまで絡めて考えなければ、思想の問題は出てこない。で、それを真下信一は「世界観」という言い方をしたんですね、いまね。

つまり、「世界観」というのは難しい言葉ですが、これはまあ生き様と思ってもらっていいんです。つまり、どう生きるかという生き様を含めて、科学の問題を考えないと、宮城さんのように ― 「宮城さんのように」というのは真下信一のセリフですよ(笑) ― 宮城さんのように科学なんていくらやったって、その、原子爆弾そのものを善でも悪でもないものとして創出することができる。

で、それは主体の問題としては絶対に生じない、というふうに言うわけですね。で、真下は、真下信一はそうではなくて、やはりわれわれが考えるべきことなのは、そういった科学的にできあがったものを、何の目的で存在させるか、どういうふうに利用すべきかということまで含めて考えなければ、思想の問題に答えられない、というふうに真下は考えるわけですね。真下は考える。

 で、これはなかなか解決しない問題、たいへんむつかしい問題で、もうちょっと話をしますとですね、古在由重はそのとき何と言うかといいますと、「科学的社会主義の特質は、人間の全面的解放の決定的条件が物質的条件だという点にある。解放の決定的条件も物質的なものだと認めるところに科学的社会主義の特徴がある」というふうに言います。

で、これは公認マルクス主義の基本的な見解ですね。で、これは何を古在由重は言っているのかというと、やはり、マルクス主義が科学的だと言われるゆえんはね、この主体というものの形成こそを科学的に考える、というふうに考えます。主体の形成という場面こそを、科学として考える。つまり、これは宮城音弥の科学主義とはちょっと違っているわけですね。

つまり宮城音弥は、主体と科学なんてもともと別のものだ。つまり科学というのをいくらいじったって、煙草を吸うのが体に悪いということがいくら真理であったって、そのことを教えるということと、教えてもらった人が煙草を吸うのをやめるということは全然別の問題だというふうに宮城は言います。

ところが公認マルクス主義の立場ではですね、そうではなくて、煙草をやめさせるところまでを、科学の問題として考えるわけです。つまり、どうして煙草をやめさせるかということは、科学的に、あるいはいまの古在の言い方でいうと物質的なもの ― 物質的なものということは科学ということです、科学の対象、自然の対象ということです ― 自然の感覚の対象物のようにしてですね、その、主体の形成というところまで科学で考えなきゃいけないんだ、というふうに考えるのが、古在の、あるいは当時の、いまでもそうですが、マルクス主義の主体性論ですね。主体性論なわけです。

古在の立場はまさに科学的主体性論なわけです。いまでもマルクス主義者たち(日本共産党)は、この科学的主体性論の立場に立っています。

で、逆に科学と切離して主体というものを考えるということは、ある意味で神秘的なものとして主体を考えていくことになりますから、つまり科学的な分析の対象にのぼらないものを主体として考えていくわけですから、それはまずいと。

つまり、ここ、ここともし完全に切れてしまったら(板書参照)、つまりマルクス主義は何を心配しているかというと、社会を分析するということと、その社会を分析して、この社会を変えなきゃいけないんだという気持ちになって、前衛党に集結していく人々の動きというものを、同時に科学の分析の対象にならなければ、社会が悪いといったからといって、その社会が、変革されるということには何もつながらない。必要条件にはなるにしたって、必要十分条件として主体というのがそこから必ず出てくるというわけではない、というのが官許マルクス主義の立場なわけですね。

これに対して、丸山真男さんは批判するわけです。たとえばですね、彼はこういうふうに言ってます。現にある人間というのが革命的な態度を持つという場合ですね、必ずある階級が貧乏になれば、その貧乏な階級はですね、金持ちの階級の連中に戦いを挑むはずだというのは、松村一人もそういうふうに言っているわけですけど、丸山真男はオプティミズムだと言っています。

「そういうオプティミズムに立てれば話は別です。不満そのものから自然発生的に、松村さんのいうように動いていくかどうか。ナチスも大衆の不満を足場にして権力をとったのです。不満をいだいている大衆があるからと言って、そう楽天的に考えられないのです」というふうに、当時丸山は言っています。

 で、これはたいへん重要な問題なんですね。で、これは民主主義の問題にもなってきます。

ちょっと時間がないので、来週の話のつながりとして言っておきますが、民主主義ってわれわれはあたりまえのようにして享受していますが、これはたいへん問題の多いシステムですね。で、若い丸山はそのときすでにそう指摘しているわけですが、これはほとんど無視されてしまった。

どういうことかといいますと、「アメリカ的な考えでは、現に人民が経験的に表明している意思が人民の意思だと解する。国会議員の選挙なら、選挙に表れた現実の結果が人民の意思だとされます。ところがこれは正確に人民の意思を表していないと批評する立場があります。これは、あらゆる逆条件が排除せられた場合に人民が到達するであろうようなそういう意思を想定しているものです」。

 これはどういうことかというと、たとえばいま、日本の野党は、リクルート問題とかで騒いでいますが、仮にこの情報化社会でですね、各家にイエス・ノーの反対を表明するスイッチがあるとします。でそれが国会のデジタル表示か何かの表示板か何かに出てきてですね、まあルソーが考えているような直接民主主義というのは、いまのメディア、メディア化された社会であれば、完全に実現されうるわけですね。

何も、後楽園のようなところに集まってですね、みんなが手をあげて誰か数えるということをしなくても、電話回線か何か使ってですね、あるいはもっといろんな衛星放送がいま打ちあがっているわけですから、いろんなしかたで、一億の人間の直接意思を問うことはできるわけ。

そうするとこの直接意思を問うていった場合にですね、たとえば安保条約にあなたは賛成しますか、あるいは竹下内閣をあなたは支持しますか、あるいはその、自民党内閣をあなたは支持しますか、みたいな非常に微妙な問題をですね、どんどんどんどんそのつど国民全員に聞いてですね、二十歳以上なら二十歳以上の人全員に聞いて、その全部どんなしかたであれ、国会のどこかに表示されていくことになるとします。つまり、代議員制度をなくしてしまう。いわゆる直接民主主義ですね。

でやった場合に、それじゃ野党が、「国民がいま反対している」とか、「もう国民はすでに分っているんだ」みたいな言いかたでいつもアジをやるわけですが、現在の状態でですね、たとえば安保条約を賛成するか反対するかってやった場合にですね、それは新聞の世論調査でも分っているように、安保条約反対は「国民の意志」ではない。少なくとも7割以上の国民が反対していない。そうじゃないですよね。

そうすると、その左翼がいまの民主主義はよくない、「民意が反映していない」とかいっていた問題はですね、いろんな場面で崩れてくる可能性がある。共産党が現在の民主主義は「本来の」民主主義ではないという場合の民主主義もそうです。

つまり、単純にですね、国民の民意を問うということが、野党が考えているような民主主義を実現するということと、実は同じ問題じゃないんじゃないかという問題が、その民主主義の問題として絶対に含まれてくるわけですね。

で、これは、それじゃ民主主義という場合の国「民」て何なんだという問題になってきます。

あるいは国民の「民意」っていうのは何なんだという問題になってきます。その時にですね、民意というのは、もともと直接民主主義というしかたで、「在る」民意なのか、それとも、ひとつの理想として、「在るべき」民意、つまり、いま現在は国民はそうは思ってないんだけれども、本当だったらそう思う「べき」だ、というそういう民意、そういった民意を、たとえば野党の議員たちは言っているのか。それとも、直接にあるというものとしての民意をいっているのか。

これはたいへんな問題なんです。これを、野党の人たちは、ある場合にはこちらに依存している。つまり、たとえばリクルートのように、もう九十パーセント以上が反対している。つまり、経験的な意味で、まさに経験的、直接的な意味で、九十パーセント以上の人が反対しているときには、これは直接的に決めてみよう、というふうにやるわけです。

で、そうではないけども、理念として、たとえば安保条約は解消すべきだとか、そういったように考えている場合は、国民に教育運動をしてですね、やっぱりみんな無知盲昧だ、みんな勉強してないんだ。だから、「在るべき」民意というのを想定して、そこにむかって世論を誘導していく、というふうなものとしての野党勢力というのはあるわけですね。

 そうすると、ある問題については「在る」民意を問題にして、あるときには「在るべき」民意を問題にしているという仕方で民主主義という問題はですね、非常にややこしい、あいまいな問題です。

悪く言えば、この経緯で語られる「民主主義」はご都合主義にすぎない。民主主義でも何でもない。

つまり民主主義というのは、実はここで民が主だという問題はですね、やはりここでも、「在る」国民、「在る」国民というのと、「在るべき」国民という二つの状態が必ず分裂してしまうわけです。分裂してしまう。

で、これはルソー以来の問題なんですが ― ルソーが「一般意志」と「普遍意志」とを分けざるを得なかった問題なんですが ― 直接民主主義という問題を考えたときにはですね、この問題が必ず浮上してくるわけですね。これは、来週、再来週にお話ししますギリシアの直接民主制というのが滅びていく中心的な問題なわけですね。

 この「在る」ということと、その場合「在る」というのは単に「在る」という問題ではなくて、「在るべき」問題なんだ、という問題との関わりあいです。

政治学的には、「代議制」というのは、この問題を回避する装置だということです。ただし、それは回避しているだけで解決しているわけではない。代議制というのは、民主的な前衛主義に過ぎない。依然として前衛主義なわけです。

すべての前衛主義の問題は自明です。自らの前衛意識それ自体は「どこから」生じたのかの説明が原理的に不能だからです。前衛意識自体は「在る」前衛意識なのか、「在るべき」前衛意識なのか。この問いに前衛主義者は答えることができません。

この問題を、それは形式的な問題ではなくて、弁証法的なダイナミズムなのだ、とか言ってごまかしてきたのが、左翼主義者達だったわけです。「弁証法的なダイナミズム」? 何を言ってんだか(苦笑)。幼稚だよね(笑)。困ったものです。

でそれはいま主体性論争で問題にしているその、科学、科学的なもの、つまりあるものをこれは「在る」ことですね、在るものを分析する科学の方法論ということと、在るべき、在るべきである、在るべきであるものを問題にする主体、一人の人間が、ただ単に知識を与えたからといってそのとおりにできない、どうしてもそこで躊躇してしまう自分がそこに存在している、というそういう問題、まあこれは現在の哲学では実存、実存の問題として浮かびあがってくるわけですが、そういう問題として、その対比として問題になっているということです。

古在が「科学的主体性」と教科書的に言うところを、真下は「実存」の問題というふうに言い代えるわけです。ただし、言い代えただけで、古在も真下も何一つ丸山の問いかけに応えていない。

丸山の問いかけも、論理的に突き詰めて、丸山、宮城、古在、真下、松下たちをいじめているだけで、彼らと同じフレームの中で考えている。何が問題なのか? 結局「アルケー(始まり)」の問題に彼らの思考が届いていないのです。

この1年間の私の講義のタイトルは「哲学」講義となっておりますが、「哲学」とは、この座談会で支配している無思考(全く考えられていないこと)に届く思考を意味しています。今日はその皮切りの話をさせていただきました。

あらぁー、時間が来てしまいました(苦笑)。この続きは来週にしましょう。→「にほんブログ村」

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感想欄

「丸山の問いかけも、・・・丸山・・・をいじめているだけで」、

眞男←「まお」と読む大学生が多いそうです。

「近代日本思想史における国家理性の問題」を読みました。

故・藤原弘達先生を思い出しました。

投稿者 眞男です。 : 2009年09月13日 20:43
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