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 衆議院選挙で誰が当選するのかの見分け方教えます― 多数決(選挙)ほど残酷なものはない。 2009年08月27日

衆議院選挙も佳境に入ってきた。党派の優劣は今置くとして、誰が当選するのか、誰が当選しないのかの目安はどこにあるのか。教えましょう(苦笑)。

選挙最終盤(28日金曜日の夜から29日土曜日一日)においても、理性的に政策を訴えている候補者は必ず落選する。これが私の当落基準。

候補者は、選挙結果が出るまでは当選するか当選しないのかがわからない。「風を感じる」と言っても、「手応えがある」と言っても結局はわからない。それが選挙というもの。

「風を感じる」「手応えがある」と言いながら、何人もの候補者達がこれまで落選してきた。

今回、「逆風」と言われている自民党の候補者達も(そうは言っても)自分だけは(危ないながらも)何とかなるのではないかと思いならが選挙戦を戦っている。

投票用紙に「名前を書いてもらう」というのは、その意味で言えばいつでも一つの飛躍なのだ。候補者にとって、選挙運動と当落とは連続的な関係ではない。

選挙結果というのは、勝っても「やっぱり」、負けても「やっぱり」でしかない。候補者というのは、いつでも絶対自信があると同時にいつでも全く自信がない。だから「正しい」勝ち方なんて、そして「正しい」負け方なんて選挙にはない。

先の自民党が圧勝した衆議院選でも、小泉首相がその解散を打ったとき、自民党が勝つと考えていた関係者は1人もいなかった。

当落はいつでも偶然。当選した候補者達が、場合によっては常軌を逸した喜び方をするのも、努力が報われたことを喜んでいるのではなく、勝利という偶然を制したことを喜んでいるからだ。必然を受け入れるよりも偶然を受け入れる方が重いに決まっている。

「選挙は政策が大切」なんていう連中は、必ず落選する。その上、そういった連中は落選しても反省しない。公明党、共産党、社民党の議員達は落選しても反省しない。

たぶん今回もこの連中は「二大政党制の壁を打ち破れなかった」とかいって弁解するに違いない。要するにこの三党は、「国民政党」ではないわけだ。「政策」でしか戦えない政党なのである。「政策でしか」というのは、この場合、一つの限界を指している。選挙結果の「偶然」の重さを担えない政党だということだ。

「民意」というのは、あってないものだ。

戦後間もない座談会の中で若い丸山真男(http://ja.wikipedia.org/wiki/丸山眞男)は、「在るべき民意」(当為としての民意)と「在る民意」(存在としての民意)とを分けてマルクス主義にとっての民主主義の意味について言及していた(「唯物論と主体性」1948年)。

しかし民意をそのように二分すること自体が民意の否定に過ぎない。「国民の意志は選挙によって示されたが、それは支配者イデオロギー(今回の場合なら小選挙区制)の煽動の結果に過ぎない。それは『在るべき民意』ではない」というのがイデオロギー政党の常套句だが、このような『在るべき民意』を一旦認めてしまえば、左翼も右翼も真理も関係なくなんでもありの思想になってしまう。

「在る民意」(選挙結果)に敗北した全ての思想や組織が「在るべき民意」を訴えるだろうから、思想や組織をさばく基準はどこにもないことになる。『在るべき民意』とはぐるっと一周して「すべては民意」ということにしかならない。それが民意尊重=民主主義という言葉の本来の意味である。

だから民主主義ほど残酷なものはない。民主主義の「民意」には根拠(reason)はないのだ。

選挙運動とは、一つの空虚に向かう運動。当選する候補者は、選挙終盤で単純なことしか言わなくなる。最後には「お願いします」としか言わなくなる。ひたすら意味のないことを絶叫し始める。何を言っても何を言わなくても、やればやるほど票に結びつく確信からどんどん遠のくからだ。その遠離りは、逆に民意(の存在)に接近していることの証でもある。

大概の選挙民は、どんな候補者が来ても熱狂するし、冷めてもいる。「風」とは言うが、一方では上滑りの心配もしなくてはならない。どこに実体があるのかわからない。最初から相手にされていない候補者だけが、正々堂々と「政策」を訴え続けることができる。空虚な民意に届いていないからだ。この連中は選挙で負けても反省をしない連中。

選挙で負けて反省する候補者だけが選挙に当選できる。それが民主主義というもの。だから民主的に当選する候補者は一種の狂気なのである。

かつて横山ノック(http://ja.wikipedia.org/wiki/横山ノック)は、選挙期間中、ウグイス嬢にわいせつ行為を行って知事の座を降りてしまったが、私にはなんとなくその感じがわかる。そもそも選挙というのは、わいせつな行為なのだ。「民意」そのものがわいせつなのだから。候補者がわいせつでない保証はどこにもない。

政治家に「頭のいい」政治家はいない。「頭がいい」ことよりも難しいのは、バカになること、恥を知らないことなのだから。あんなに人に頭を下げたら、バカになるに決まっている。滅多にできることではない。心からそう思う。政治家は「こいつバカじゃないの?」と言われているうちが花なのです。それこそが健全な社会の証。「民主主義」というのはそういうものです。→「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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