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 【第三版】専門学校「一条校化」議論はなんのために?― 専門学校こそが「職業教育」をダメにしてきたのではないか(進学率を言い訳にすべきではない) 2009年08月03日

専修学校の「一条校化」議論が騒がしい。特に専修学校「専門課程」=「専門学校」の「一条校化」における「高等教育」化議論が騒がしい。

「専門学校」教育は「実業教育」「職業教育」と言われつつも、専修学校の枠内に留まっていた。いわゆる「学校教育法」第一章「総則」「第1条 この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする」という「学校」概念の外に置かれていた。専門学校は「一条校」ではなかったのである。

「専門学校」は厳密に言えば「学校」ではない。

文部科学省の言う「学校」あるいは「学校教育制度」とは、その中核においては「初等教育=小学校、「中等教育」=中学校+高等学校、「高等教育」=大学、短大、高等専門学校の三分類からなる「学校」体系のことである。

この「学校」体系の中に、専修学校制度自体が存在していない。管轄部局も高等教育局のような「学校」部局ではなく、生涯学習局になっている。

全国専修学校各種学校総連合会が平成18年にまとめた「『新しい専門学校制度の在り方(専門学校の将来像)』について」の中にこんな記述がある(この全専各連のレポートは大変良くまとまった良いレポートだが、ただ一つ、「新専門学校の教員資格のうち実務又は業務実績については、職業教育の中核的な役割を担う専門学校での実務又は業務経験を含める必要がある」という認識は議論が出るだろう)。

「(ここ数年、実質的には大学とほぼ同じ扱いを受けるようになってはきたが:芦田註)しかしながら、専門学校は、その教育制度の成り立ちや定義、また、他の学校種に比してより柔軟かつ多様な教育機関のため、高等教育機関としての位置づけが必ずしも明確ではない」。

「高等教育機関としての位置づけが必ずしも明確ではない」。この認識が決定的に重要。

専修学校には、「一般課程」、「高等課程」、「専門課程」と入学資格の異なる「教育」機関が存在しており、生涯学習から疑似学校教育までの幅広い領域にまで広がった「学校」群の集合体になっている。

中卒者を主とした対象とする「高等課程」学校と高卒者を主とした対象とする「専門課程」学校(=専門学校)との間の設置基準で言えば、高校(後期中等教育)と大学(高等教育)との間にあるほどの大きな差異はない。校舎要件、設備も教員資格もほとんど変わらない。

差異がないどころか、議員立法で出来上がったという出自のためか「学校」らしい設置基準が存在していない。高等教育に比される専門学校ではあるが、中等教育(中学、高校)の設置基準に比べてもはるかに貧弱な「学校」でしかない。

入学資格の異なる「学校」群が存在しているものを一括して「専修学校」と呼んでいるために、政策的な振興策が加速しない。「学校教育」的な体裁を取りながらも「生涯学習局」が管轄部局であるために、「高等教育機関としての位置づけが必ずしも明確ではない」。

専修学校の施策に関わる法律ではほとんどの場合、その教育対象は「生徒」と呼ばれている。専門課程の施策に関わる場合でも「生徒」と呼ばれている。そして実際専門学校関係者(経営者+教員+職員)でも、自らの「学生」達を「生徒」と呼ぶ人が多い。これもまた「専門学校」が専修学校の枠内に留まっていること、中等課程と一緒の学校群に入っていることの体質なのである。

つまり専門学校の「学生」は高校以下の「生徒」にすぎないというものだ。

その意味でも、「実務教育」職業教育」を長い間標榜してきた「専修学校」群ではあったが、「学校教育」の王道から外れた地位を余儀なくされてきたと言える。その分、「実務教育」職業教育」「キャリア教育」は、「学校教育」からはじかれてきたと言ってもよい。

つまり「実務教育」「職業教育」は、大学へ進学しない(できない)者のための疑似「学校」教育の位置づけしか与えられてこなかった。「学校教育」的には「実務教育」「職業教育」は地位の低い教育と見なされてきたのである。

これは何も外部からの見解なのではない。専門学校の経営者のほとんどは、専門学校を「社会福祉教育」だと思い込んでいる。「社会福祉」という意味は、単に『頭が悪い』だけではなくマナーや社会常識のない「生徒」を、(とりあえず)一人前の社会人にするというものだ。私はつい最近この言葉を東京の専門学校経営者から聞いたばかりだ。

しかしこの認識は専門学校経営の普遍現象に近い。この考えで行けば、「大学全入時代」とは大学自体も「社会福祉」学校になるということである。

こういった経営者の学校は大概の場合、ディシプリン(discipline)のない実習(=技能実習)をだらだらと続けて2年間の学費(年度単位であれば大学と変わらない)を取り続けてきたわけだ。資格教育も言わば、過去問、例題主義のトレーニング授業に過ぎない。その意味では資格教育もディシプリン(discipline)のない実習主義の亜種である。

※disciplineのラテン語語源は、dis-cipline、つまり「分けて-取る」「聞き-分ける」という意味です。ついでに言うと、同系のprincipleの場合は、「最初に-取るもの」ですから「原則」「原理」という意味になるわけです。
昨年の中央教育審議会答申「学士課程の改善に向けて」+「キャリア教育・職業教育特別部会審議過程の議事録から拝借しています(一部私の見解と異なる委員もいますが)。
その答申では「学際的な教育活動について、関連する学問の知識体系(ディシプリン)に関する基礎教育が必ずし充分になされていない」という重要な指摘がなされています。
この場合の「学際(的な)」というのは、「inter-discipline」というものです。たとえば、みんなで「人力飛行機」を作ろう、などというプロジェクト型の教育を行う場合(専門学校の実習授業はほとんどの場合、inter-disciplineな授業です)、空力学、材料学、動力学などの各学科(discipline)の集大成(inter-discipline)です。※学科のことをdisciplineとも言います。
ところが、実際は各学科(知識体系)のdisciplineを忘れて、ままごとのような人力飛行機遊びをやっている。「関連する学問の知識体系(ディシプリン)に関する基礎教育が必ずし充分になされていない」わけです。専門学校の実習はほとんどの場合(すべて)、disciplineなき実習授業です。つまり経験主義的な技能主義なわけです。

ディシプリン(discipline)のない経験主義的な実習を経た学生は、大概の場合退職して別の仕事に就く場合が多い。年収が結婚を前にしても300万円を超えないからである。

したがって中等教育と変わらない実習実績しか出せない専門学校の分野の卒業生は、(自力で)起業するしかなくなる。専門学校にはその種の職業教育に留まる分野もまだ数多くある。

挙げ句の果てに、カリキュラムの中に「起業」講座を開講する学校まで出てくる。それは、教育が「高度」であることの証ではなく、実習授業が(技能実習に留まり)高度化できないということを吐露しているだけのこと。マナー教育もコミュニケーション教育も同じ類の徒花だ。

専門学校が専修学校の枠内に留まりつづけたのは、この種の「社会福祉」型教育を「実務教育」「職業教育」と呼んできた関係者の怠慢とも関係している。

しかし専門学校「社会福祉」教育論は正しいのだろうか?

百歩譲って「社会福祉」教育だとしても、専門学校の退学者は、吉本圭一(九州大学)が指摘したように、大学、短大に比べても、はるかに高い。1985年~2000年までの5年置きの平均値で言えば、専門学校の中退率15%に対して、短大は5%、大学は7%の中退率に留まっている。専門学校は「社会福祉」学校にさえなっていないと言える。就職先も70%の学生しか関連分野に就職させていない。これでどう「社会福祉」教育と言えるのか。「百歩譲っても」そうは言えない。

この専門学校教育=「社会福祉」教育論にはもう一つの主張がある。

大学、短大、専門学校を併せて平成20年度では高等教育進学率が76.8%の時代に入ってきた。80%近くもの学生が高等教育を受けるということは、もはや、「高度な」学校教育を受けるということ、高収入を保証したり、社会のリーダーを作ることとは直ちに同じ事を意味しはしない(と「社会福祉」論者は考える)。

大学を出ても専門学校を出ても年収300万円以下の就職に留まるのは当たり前というものだ。

大学全入時代というのは、かつての専門学校就職が「中間層」の労働者を作り出し続けたのと同じように、大学生が自ら「中間層」を分割的に担うようになっただけのこと。依然として専門学校教育は(それに最近の大学の一部も)「社会福祉」教育だというもの。

平たくいえば、出来の悪い学生達を引き受けて、出来の悪い卒業生を出すことは、「高等教育」であろうがなかろうが、80%の進学率なら当たり前でしょという居直りが、この社会福祉論の根底にある。

これも間違っている。この議論は、大学全入時代が少子化(グローバル化の中での少子化)とともに登場したということを忘れている。

1970年の20代(20歳~29歳)の労働力人口の全人口割合は18%(19,875,834/104,665,171)あったが、2005年(間近の国勢調査)では12%(15,630,647/127,767,994)にまで33%落ちている。実数で言えば、20代の若年労働者は424万人減少(実数でも22%の減少)。

総人口比で33%もの20歳代人口が減少しているということは、心理的に言えば、33%も日本の若い世代が担う労働生産性、労働パワーへの期待度が上がっているということだ。それに応じて学校教育の中身も変わらなければならない。それが昨今の「キャリア教育」の課題である。

その上、90年代の初頭からの外国人労働者の流入は目を見張るものがある。1994年には9.4万人しかいなかった直接雇用の外国人が、2008年では32.3万人に増えている。3.4倍も増えている。派遣・請負の外国人労働者は同じく3.6万人から16.3万人に増えている。こちらは4.5倍に増えている。間近の2008年では両者合わせて、48.6万人。

専門学校の2008年の入学者は25万人だから、入学者の2倍の外国人労働者が日本で働いているということだ。専門学校の入学生=卒業生は、この外国人労働者が増えるようにしては決して増えないだろう。むしろ「中間層」などと言う限り、外国人労働者の流入の拡大と専門学校の入学者数との減少とは相関していると考えた方がいい(情けないことだが)。

また少し古いデータだが、2006年の合法外国人就労者は専門的・技術的分野で18万人。10年前の1996年では10万人だから、10年間で倍近く増えている。技能実習生などの特定活動者は、2006年で9.5万人。これも10年前の1996年では1万人足らずだったという点で、10倍近くの伸びを示している。資格外活動(留学生等のアルバイトなど)は同じく3万人(1996年)から11万人(2006年)。いずれも急激に伸びている。

「技能実習生」の業種で言えば(2008年の場合)、一番多いのは機械・金属業界の15,907人、服飾業界の14,868人、食品調理の6,791人、建設の5,275人、農業の4,045人、漁業の318人である。これらは、専門学校の古典的な分野(つまり衰退している分野)と重なっている。

その上「技能実習移行者」(厚労省)は2004年の20,822名から2007年の53,999名(中国人が8割を占めている)。3年間で259%も伸びていることから、この衰退は加速するに違いない。

さて、この外国人労働者と大学全入時代の専門学校の「中間層」労働者とはどんな位置づけになるのか? 「社会福祉」教育で、この拡大する外国人労働者に日本の若者は勝てるのか? 学校すらまともに卒業させられない専門学校でどうやって外国人労働者と「共存」できるのか。

「中間層」というのは私の言葉ではない。「社会福祉」教育論をぶった東京の専門学校経営者の言葉である。しかし、「中間層」なんて存在しない。年収400万円以下が全勤労者の40%も占める段階では、「中間層」はもはや解体している。この状況は製造業の海外進出と外国人「技能労働者」の流入がもたらしたものだ。

専門学校「社会福祉」教育論の最大の錯誤は、大学全入時代の「職業教育」を進学「率」でしか考えないことだ。高齢化とグローバル化によって、青年層の担う意味が変化してきている事に目を閉ざしている。

この事態に対応するためには、たとえ大学進学率が100%になっても「高度教育」が必要になるという認識がなければならない。若者に対する期待が20年前、30年前よりはるかに高まっているのである。同時に、若者への教育の期待がはるかに高まっているということだ。それは進学「率」とは何の関係もない。

この問題があえて「進学率」と関係すると言えば、先進消費主義国日本では、どんなに単純に見える仕事でもそれをこなすには高度な知識や技術が必要になるということだ。「専修学校」の技能実習卒業生のみならず、専修学校の先生よりも賢い「消費者」がたくさん存在しているというのが、大学進学率50%を超える「ユニバーサルアクセス」時代のマーケットなのだから。

言い代えれば、中卒や高卒の職場経験主義(技能主義)と外国人技能労働者を超える「学校」教育(=「学校」教育=「高等教育」としての職業教育)がどう可能なのか? これが「一条校」新専門学校に問われている課題である。もちろん従来の専門学校が「社会福祉」教育であるのなら、この問いに答えることはできない。

結局のところ、中卒や高卒の就労者と専門学校卒の就労者、あるいは大学卒の就労者との違いは、「お勉強ができる」かどうかの違いでしかなかったというのが、「社会福祉」論の暗黙の前提なのである。

つまり「国語、算数、理科、社会、英語」の基礎教養教育(初等中等教育)、専門教養教育(高等教育)の「偏差値」教育体系を「職業教育」の名を借りて再度肯定したに過ぎなかったのが、「社会福祉」専門学校の実体だった。専門学校経営者達は、再度自らの学生(生徒?)を「職業教育」の名を借りて差別したのである。つまり「できない」子どもには「職業教育」を、というものだ。

今回の高等教育の「グランドデザイン」としての「職業教育」=「キャリア教育」という課題は、基礎=専門教養主義と対等な立場での職業教育をどう形成するか、というものである。簡単に言えば、「頭のいい人が仕事ができるとは限らない」という普遍的な経験則を、教育体系のもう一つの軸としてどう形成するのかが問われている。

「高大連携」が声高に叫ばれているが、このことの本来の意味は、「キャリア教育」を軸とした学生選抜を考えろということでしかない。「アドミッションポリシー」の反対語は偏差値選抜ということなのだから。

そのときに、長い間「職業教育」「実務教育」を標榜してきた「専門学校」が、「社会福祉」教育でしかないというのは、何とも情けない教育ではないか。

「専門学校」教育や専門学校経営が規制の緩い専修学校制度のなかで教育の実質化を図ってこなかった徒花がこの「社会福祉」教育論だ。まさに「高等教育機関としての位置づけが必ずしも明確ではない」ゆえの専門学校現象だったのである。

「一条校化」の最後の問題は、教員問題だ。「福祉教育」論が見逃しているのは、「できない」学生(生徒?)の現状を嘆いて、自らの教員問題を隠蔽することだ。

「三流」の大学でも「三流」の高校でも、「教員」は一流-二流-三流学校間を移動している。国家的な教員資格(「学校教育制度」の中での)というのは、たとえ学生や生徒が(百歩譲って)「三流」でも教員は一定の条件を備えているというものだ。「教員資格」は、学生や生徒が望みさえすれば高度教育を受けることができるということの担保なのである。

言い代えれば、どんな「三流の」大学や「三流の」高校にも、「一流の」教員が少なからず存在している。それが「学校教育制度」の中の「教員」というものだ。

ところが専修学校にこの種の「移動」はない。だから専門学校で「優秀な」学生というのは、教員や教育やカリキュラムや学校体制の成果ではなくて、もともと「頭がいい」学生だったという場合が多い。教員採用自体が「福祉」型なのである。キャリアパスを描けない卒業生教員を数多く採用しておきながら、「できない学生」を嘆くというのは本末転倒した事態。「社会福祉」論自体が三流の「社会福祉」論なのである。

こういった専門学校経営者を「職業教育」や「実務教育」から追い出すことこそが、今回の専修学校「一条校化」課題だ。「職業教育」や「実務教育」を「高等教育」に位置づけるという課題は、高齢化とグローバル化の中で日本の若者の労働生産性を高める課題に繋がっている。

2006年の教育基本法の改正で、「職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」という一文が加えられたのは、基礎教養主義、専門教養主義に基づいた既存の偏差値序列とは別に「職業教育」や「実務教育」に基づいたもう一つの教育体系を作るという課題が「学校教育」に課せられたということである。

こんな大きなチャンスを与えられているのに、未だに大半の専門学校関係者は「社会福祉教育」を自認している。社会的背任としか言いようがない。→「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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