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 【第2版】「これからの専門学校を考える」(ここまでのまとめ)― 100の現状認識と諸課題(どこが専門学校と大学との分岐点か) 2009年01月15日

「これからの専門学校を考える」研修会(http://www.invite.gr.jp/news/2008/20081006mr_ashida.html)、第一回、第二回総集編(=カリキュラム開発競争と履修管理が、大学との闘いの全て)。いよいよ来週(21日~22日)、この研修は最終回を迎えます。それに向けて「まとめ」補講をします。100項目の現状認識と改善諸課題を取り出しました(苦労しました)。

【目次】

●大学か、専門学校か― 「資格の専門学校」ではまともな就職は出来ない(1~12)
●学生数の変化と大学改革 ― 高等教育の転換点としての「大綱化」(1991年)(13~19)
●外部から見た「専門学校」― 「特長」のない専門学校教育(20~30)
●就職の特長をどう形成するのか ― 〈就職センター〉は諸悪の根源(31~47)
●教員組織をどう形成するのか ― 資格主義からの脱却か(専門学校)、講座主義からの脱却か(大学)(48~60)
●専門学校の進むべき道(1) ― カリキュラムのない専門学校は退場するしかない(61~77)
●専門学校の進むべき道(2) ― 履修判定の杜撰な学校にはカリキュラムは存在しえない(78~89)
●専門学校の進むべき道(3) ― カリキュラム教育の最終着地は就職成果。就職変化のない「教育改革」はあり得ない(90~100)

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●大学か、専門学校か― 「資格の専門学校」ではまともな就職は出来ない(1~12)

1)大学と専門学校との一番大きな違いは、一言で言えば、就職。これは就職率がいいとか悪いとかという問題ではない。医師や法律家になるために医学部や法学部に行くというわずかな部分を除いて、大学は学ぶことと就職とが結びついていない(大学の本来の就職率は大学院進学率でしかない)。専門学校は学ぶことと就職とが密接に結びついた学校(でなければならない)。

2)しかしこれは、専門学校教育が「職業教育」をやってきたということを直ちには意味しない。実際にはエントリーシートの段階ですら、「専門学校」というメニューのない会社が多い。現状では「一流企業」の総合職採用には専門学校は関門がまだまだ多い。

3)「大学生」が望みもしない、「一流企業」が期待してもいない就職を「就職率」という言い方でごまかしてきたのが、専門学校の「職業教育」だったと言える。研究者たちの間でも「就職有利説」はなりを潜め、「受け皿説」が優位に立っている(濱中淳子の研究など)。つまり専門学校選択は積極的な選択ではないということである。

4)なぜ、そうなったのか。平板化された資格教育とトレーニング的な技能実習に安住して、自らの教育目標を形成できなかったことが一番の原因。

5)厚労省、国交省、経産省系のできあいの資格主義は、結局のところ、専門学校の教務を企業動向から遠ざけることにしかならなかった。信頼に足る自立的な目標を形成できないため、官許的な公共性に頼らざるをえなかったのである。それは資格目標さえない専門学校の現状を見れば明らかなことだ。

6)その理由の最大の要因は、専門学校の教員問題。専門学校は専門学校卒であれば4年間の該当実務、大学卒であれば2年間の該当実務があれば、「教員」になれることになっている。教育訓練が全くない状態でも「教員」になれることになっている。また実務経験も2年、4年止まり。教育経験もない、実務経験もまともにない「教員」にどうやって「職業教育」をやれというのか。

7)そういった非一条校的な教員要件の甘さが、自立的な教育目標を形成できない、カリキュラム開発が出来ない理由になっていた。

8)そもそも「職業教育」と言ったり、職業教育「カリキュラム」と言うからには、その仕事のキャリアパスの全体がどういう仕方でか再現されていなければならない。キャリアパスの全体を再現する要件は専門学校卒後4年、大学卒後2年ではありえない。

9)あるいは「経験」豊富な「中途退職」組をいくら集めても「キャリアパスの全体」にはならない。「職業教育」の「教員」というのは、ある意味で矛盾した職務である。もし専門学校が「職業教育」機関として業界に対するリーダーシップを取るとすれば、その「教員」にはどんな能力や経験が必要なのか、このことに対する解答を専門学校関係者はいまだに見出せていない。

10) 結局、教員の社会的な公共性の不足を、非文部科学省的な厚労省、国交省、経産省の諸資格の公共性で補ってきたというのが専門学校教育の社会的な意味ではないか。

11) その分、専門学校は文部科学省の学歴ヒエラルキーから外れた「教育」機関だった。

12) しかし少子化による大学全入で大学自身が専門学校化せざるを得なくなってきた。偏差値の付かない大学が出現することによって、「学歴」ではなく、「教育の特長」が問われる時代になってきたのである。大学の専門学校化は専門学校にとってピンチであると共にチャンスでもある。


●学生数の変化と大学改革 ― 高等教育の転換点としての「大綱化」(1991年)(13~19)

13) 18才人口がピークを迎える1992年(2,049,471人)の1年前、大学設置基準が改正(=「大綱化」)され、そのキーワードは大学の「多様化と個性化」だった。大学全入時代を睨んだ高等教育の「ユニバーサル」段階(大学進学率50%超)への突入は、その後15年近くかかるが、ピーク時から40%近くも減少する18才人口(2008年)の前では、大学対専門学校よりは、(大綱化による)大学間格差の方がはるかに深刻であって、この格差の中では専門学校を特に排除する理由もなくなってきた。

14) 大学の「多様化と個性化」は、大綱化(=規制緩和)と「自己点検・評価」によって、不充分さはあるにしても「多様化と個性化」の経験を積んできた。92年2,049,471人の18才ピーク人口は、2008年では1,237,294人まで40%減少するが、大学自身は541,604人から607,159人へと12%逆に増加する。進学率で言えば、26.4%(92年)→49.1%(08年)と86%も増加している。

15) 専門学校は92年に364,687人いた進学者が08年には254,688人にまで減少している(30%減)。人口減ほどには減っていないが、大学が10%以上増加していることから見れば対照的な動きだ。短大は、その間70%(92年:254,676人→08年:77,339人)も進学者を減らすが、その分のほとんどは、専門学校へ流れたのではなくて4大に流れたのである。

16) そう言えるのは、ここ数年(17年度~20年度)の進学者の動きを見ればよい。17年度→20年度で18才入学者数も過年度入学者数も10%近く減少しているが、大学・短大進学者数は11.6%(18才入学者)、7.5%(過年度入学者)増加している。それに比して専門学校は27%減(18才入学者)、22%減(過年度入学者)。さらに大学を卒業して専門学校生へ入学する者は17年度→20年度比で21.5%減。逆に専門学校を卒業して大学へ入学する者は13.7%増。またフリータ・家事手伝いなどは17年度→20年度比で言えば、35%近くも減少しているにもかかわらず、専門学校の減少傾向は止まらない。これらの流動層はすべて大学進学増に繋がっていると見るのが自然。※15)+16)の内容については女子層の動きが大きな影響を与えているとする説(荒井一博の研究など)があるが、詳細は別項に譲る。

17) したがって、92年以降の大綱化=大学教育の「多様化と個性化」は、まず短期大学の中途半端な教養主義+マナー教育を飲み込み、次には専門学校自体の資格教育と実習技能教育にまで及びつつあるとひとまず結論できる。

18) この「多様化と個性化」包囲は、大学(4大)が教養主義+マナー教育+資格教育を拒否したのでなく、むしろそれらを積極的に受け入れた結果だと言える。それが全入時代に於ける大学の専門学校化という現象なのだから。短大マーケットを食い尽くした後は、専門学校マーケットの取り込みが大学の次の課題なのである。大学の格差拡大とはそういうことだ。

19) 91年の大綱化以降の大学の専門学校化の一例を挙げてみよう(※)。最近の産経新聞の記事だ。まずこの記事で驚かされるのが、平成4年度(大綱化の翌年)240名しかいなかった観光系学部・学科の全大学に於ける定員数が今年度には3900人にも増えているということだ。しかもこの傾向は拡大傾向にあると書かれている。にもかかわらず、この学部を出た学生は23%しか関連業界に就職させられていない。原因は経営関係の科目不足によるカリキュラム問題にあるという指摘で終わっている。

※「『観光系大学』看板倒れ 授業内容にギャップ 求む!マーケティング能力」産経新聞2009.1.10 01:22(http://sankei.jp.msn.com/life/education/090110/edc0901100123000-n1.htm

「観光立国」を目指し昨年10月に発足した観光庁が“旗振り役”として期待する「観光系大学」で、観光業界に就職する卒業生が2割にとどまっている。経営能力を期待する業界に対し、大学のカリキュラムは歴史や地理重視とギャップがあるのが要因。観光庁は「業界が求める人材を育てられていない」として、大学のモデルカリキュラム作りに乗り出した。

「観光系」としては昭和42年度に立教大学が 初めて観光学科を設置した。比較的新しい分野のため大学間の競争激化に伴い、ここ数年は学生集めの目玉として観光系の学部・学科を新設する大学が続出。平成4年度に240人だった観光系学部・学科の入学定員数は、20年度には3900人に増加。21年度は4000人を突破する見込みだ。一方、景気悪化の影響で苦戦を強いられている観光業界からは「経営が厳しい中で、一人でも専門性のある人材がほしい」という声が寄せられ、「人材ニーズはむしろ高まっている」(観光庁)。

しかし、国土交通省が平成16~18年度に観光系学部・学科を卒業した学生に行った進路調査では、旅行業が8%、宿泊業が7%、旅客鉄道業が5%。観光業界全体でも23%という寂しい結果だった。こうした背景について、観光庁観光資源課では「まだ新しい分野のため、企業が欲しがる人材像を、大学側がつかみきれていないため」と分析する。観光庁が観光関連企業を対象に「求める人材像」を調査したところ、管理職・リーダーとしての素質・適性 ▽どの部門にも対応できる基礎能力 ▽社会人としての常識・マナー-などの回答が多く、同課は「経営全般について学んでほしいというニーズが見られる」。

しかし、国内の観光系学科・学部のカリキュラムでは歴史、政治、地理などの社会科学系分野を重視する傾向にあり、経営に関しては軽く触れる程度。卒業生の約半分が観光業界に就職する米コーネル大学が、カリキュラムの66・7%を経営分野に割いているのとは対照的だ。大手ホテルチェーンで採用にかかわった経験がある琉球大学観光産業科学部の上地恵龍教授は「学生にはマーケティングを学んできてほしかったが、実際は違った」と振り返る。

ギャップを埋めようと観光庁は昨年11月、ワーキンググループを立ち上げ、今年度末をめどに、観光業界への就職につながるカリキュラム作りに着手した。業界が求める経営やマーケティング能力育成などを盛り込む予定だ。観光庁は「観光系大学が求められる人材を育てることで業界が活性化すれば」と話している(滝口亜希)。

20) この記事から学べることは、一つにはこういった職業教育(専門学校)に近い学部の定員増と学生数増である(※)。観光系の場合、91年の大綱化以降15倍以上に膨らんでいる。一方専門学校の観光系はどんどん数を減らしている。もう一つはカリキュラム意識である。「あの」大学でさえ業界「ニーズ」に対応したカリキュラム作りを意識しつつあるということである。

※観光系以外の他の系にも簡単に触れれば(平成18年度→平成20年度推移比率)、
スポーツ系を含めた保健分野 73,858→81,597(10%増)
家政分野 65,371→69,062(6%増)
児童保育分野 7,739→10,541(36%増)
ビジネス分野 9,777→13,628(39%増)
などほとんど専門学校的な職業分野で大学学生数は増加している(学生数値は文部科学省「学校基本調査」学部別学生数(18年度、20年度)より、芦田が関連学部を取り出し総計したもの)。91年以降、大学の学科名称は、専門学校顔負けの学科名デパートになっている。「社会学部」→「現代社会学部」。なんだいこれは? というようなものばかりだ。


●外部から見た「専門学校」― 「特長」のない専門学校教育(21~30)

21) 問題は、そういった大学教育の「多様化と個性化」=「職業教育化」に簡単に取って代わられる程度の内実しか専門学校にはないということだ。

22) 九州大学の吉本圭一は、専門学校の「一条校化」を議論する「専修学校の振興に関する検討会議 」の第3回会議(2007年12月21日)で「高等教育としての専門学校教育」という報告を行い、専門学校の、大学にはない「就職」主義(=就職指導熱心)と「教育」主義(=教育熱心)という二つの「特長」を俎上にあげる。彼がこの二つを上げるのは、それが、専門学校関係者自身が口を開く度に文部科学省や大学関係者に(一条校化に際して)訴求してきたことだからだ。

23) しかし、実際に調べてみると、そんな実態はないと吉本はこの会議で報告している。少し古いデータだが、1999年の学校基本調査では、専門学校生は70%の学生しか学んだ関連分野に就職していない。しかも中退率が15%(1958年~2000年までの5年置きの平均)もある中での70%である。これで就職指導に熱心な学校群と言えるのか、と吉本は言う。

24) 「教育熱心」という点でも、吉本は疑念を呈している。彼は「教育熱心」ということの指標を学生1人あたりの教員数と週あたりの担当持ちコマ数に求める。それによれば、常勤教員1人あたりの学生数は、専門学校は18.3人、短大は19.3人、大学は18.7人。余り大学と変わらない。また教員の週単位の授業時間数も専門学校は12.7時間、短大は8.4時間、大学は8.6時間。この限りでは短大や大学の教員の方がはるかに時間に余裕がある。

25) 「学校基本調査」で見る限り、専門学校が就職指導と教育指導で実績を上げているということは言えない、と吉本は言う。

26) こういった「数値」による判断がくだらないことは明らかかもしれない。しかしでは何をもって専門学校関係者は、就職活動と教育活動の熱心さを訴えるのか。自らが「得意だ」、そこにこそ「特長がある」という就職と教育についてどんな実績を専門学校は公開しているのか。

27) 先の会議の報告の元になった論文(「専門学校の発展と高等教育の多様化」2003年)の「注」で吉本はこんなことを洩らしている(どんな論文も本音は「注」に書いてある)。「文部科学省の『学校基本調査』にしても、専門学校の進路動向について、極めて簡便な印象的なデータしか収集しないのはどういう事情であるのか、理解しにくいところである」。

28) さらに吉本は、「各種学校」の校舎面積の設置基準とたった一坪(35坪と36坪)しか違わない事情についても「専修学校が議員立法で作られたため、他省庁へ政令づくりの相談に回っても自分たちに相談せずに勝手に作った法律だから、政令も勝手につくれなどとケチをつけられましてね」(『法制定10周年記念誌・専修学校のあゆみ』全国専修学校各種学校総連合会)との関係者の「述懐」をその論文で紹介している。要するに吉本は、自ら好んで「学校基本調査」の形式的な数値を扱ったのではなく、それくらいしか専門学校の中身を知るデータがないではないか、と言いたいのである。

※この吉本レポートのさらに詳しいコメントは→http://www.ashida.info/blog/2008/12/post_310.html 

29) 専門学校経営者からすれば、データの有る無しは、公的助成金の有無とからんでいると言うに違いない。しかしそれは、助成金がない分、専門学校には勝ち目がありませんと言っているのと同じ。大学全入時代となっては、もはやその言い訳は通用しない。

30) 大学全入時代に専門学校が生き残りを賭けるとすれば、高等教育の「多様化と個性化」の時代に、どんな教育の「特長」を打ち出せるか、ということでしかない。そしてこの「特長」はどんな留保もなしにそうでなければならない。弁解付きの「特長」などありえないからだ。


●就職の特長をどう形成するのか ― 〈就職センター〉は諸悪の根源(31~47)

31) 専門学校の就職指導が、専門学校関係者が思うほどには成功していない理由は、二つある。

32) 一つの理由は、「就職指導部」、あるいは「就職センター」の存在。中堅以上の専門学校は就職指導のための専門の部署を立ち上げている。これはほとんどの場合、大学の就職指導をまねているだけのこと。それ以外に理由はない。

33) 「就職指導部」、あるいは「就職センター」(以後「就職センター」で表記を統一する)の最大の問題は、教務指導と就職指導とが分離してしまうことである。学ぶことと就職先の一体性を確保できない大学が「就職センター」を形成している。

34) ところが〈就職センター〉には、企業情報(=求人情報)はとりあえず存在しているにしても、まともな教務情報(カリキュラム情報と学生成績=人材情報)は存在していない。「人材情報」がたとえあったとしてもそれを評価できる人間がそのポジションに付いているわけではない。また企業評価においても総務や人事担当者とのつながりが中心のため、〈斡旋〉程度の就職指導しかできていない。場合によっては「下流」企業の担当者と癒着している場合さえある。企業評価も出来ない、人材評価も出来ない、これが大学も含めた〈就職センター〉の存在である。

35) 「就職の専門学校」というのであれば、〈学ぶこと〉と〈就職する〉こととは一体でなければならない。学生の学びの一番近いところに存在している〈教務〉が中心になって就職指導がなされなければ、「就職の専門学校」にはならない。

36) なぜそうならなかったのか。〈カリキュラム〉が存在していないからである。

37) 〈企業〉と〈学生〉を結びつけるものは〈カリキュラム〉。学校にとっては〈カリキュラム〉が人材育成計画そのもの。これが、しっかりしていないと「就職の専門学校」とは言えない。しかし、現在のところ専門学校にはそんな〈カリキュラム〉は存在しない。理由は、専門学校は「就職の専門学校」の前に(せいぜいのところ)「資格の専門学校」に過ぎなかったからである(※)。

※「資格の専門学校」でない専門学校もたくさんあるが、そんな専門学校は「資格の専門学校」以上にその教育に社会性・公共性のない学校だと言える。「資格にはこだわらない」と言う情報系の専門学校でさえ、「目指せる資格」「目指す資格」という広報が必ずついて回っている(「取れる」ではなくて「目指す」というのも寂しいが)。結局は自分たちの教育の公共性を官庁(経産省)やベンダー系のプレゼンスを通じて以外に訴求する実績とノウハウがないのである。

38) 「資格の専門学校」の教育は、「合格率」至上主義の受験勉強でしかない。大学の受験勉強が大学の求める学生像を必ずしも意味しないのと同じように、「資格」勉強は企業の〈人材〉目標にはならない。それはいわば「よくお勉強が出来ましたね」という〈努力賞〉に過ぎない。〈努力賞〉で言えば、専門学校の「資格」教育は予備校の足元にさえ及ばない。

39) 昨年東専各と一緒になって(私も加わったが)卒業生調査をしてくれた広島大学の小方直之(准教授)もまた、「資格」は「学習癖を付けた」ことの証程度のものだと言っている(「専門学校教育と卒業生のキャリアに関する調査」から見えてきた課題)。「資格」はその意味では必ずしも職業教育の証ではない。

40) 資格の抽象主義と努力主義に留まる限りは、専門学校に〈人材教育〉は存在しない、〈カリキュラム〉も存在しない。

41) 大学もまた、大学の4年間の教育の実績によって人材を輩出したというよりは、受験勉強の「努力主義的な」選抜が結果として機能してきたに過ぎない。「パーソナリティ」評価、「コミュニケーション力」評価、「人間力」、「社会力」といった人材評価が前面化するのは、(受験選抜に甘えて)すべて大学が具体的な育成人材像を提示してこなかったことの結果に過ぎない。その挙げ句の果てに〈就職センター〉が存在しているのである。

42) 大学もまた〈カリキュラム〉が作れない。なぜなら長年の講座主義(=科目単独主義)が、科目相互の横連関、縦連関(科目ヒエラルキー形成)を阻害してしまうからである。91年の大綱化以降、文部科学省自身は早くから、大学の講座主義からカリキュラム主義への転換を図ろうとしてきたが ― 「大綱化」の本質はそこにあった ― 、未だに講座主義の牙城である旧来の「演習(ゼミ)」制は廃止される気配がない。

43) 実際、「特色GP」、「現代GP」、「教育GP」の様々な試みも、講座主義を根底的に覆すような改革にはなっていない(http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_305.html)。周辺科目やかつての教養課程に属するようなオプショナルな諸科目をいじっているだけで全シラバスを書き換えるような本来の意味でのカリキュラム開発は少しも進んでいない。

44) そういった改革停滞の現状を踏まえて、文部科学省は昨年設置基準の改正を行った。私の見るところ、一番大きなポイントは以下の三点。①教育目標(=カリキュラム)の学則等による明示 ②履修判定基準の明示 ③FDの組織的な遂行などが義務付けられた。

45) 文部科学省はすでに一昨年、講座制の解体のため、「助教授」職制を廃止、「准教授」制を敷いた。この意味は、大学教員は〈講座〉(=教授)に属しているのではなくて、〈カリキュラム〉(=学部、学科の全体の教育目標)に属しているというもの。助教授の准教授転換と、昨年の設置基準の改正は一体のものと言える。

46) FDの義務化も、カリキュラムに対するFDであって、だからこそ、この取り組みは「組織的」でなければならない。そもそも元から自立的な研究者にとって「FD」の義務化は矛盾そのもの。教員中の教員である大学教員に、なぜ今さらFD(教員教育)が必要なのか、それは通常はあり得ない。ここで言うFDとは〈カリキュラム〉に対する“殉教”のための「FD」であって、大学に於けるFDとは、講座制を捨てろ、という意味である。つまり各教員が教育目標全体(=カリキュラム)を担う部品になれ、というもの。〈カリキュラム〉を前にして教授と助教授は平等であるということである。だから「助教授」は「准教授」になった。

47) つまり昨年4月の設置基準の改正の最も本質的な意味は、カリキュラム開発の法的な義務化である。


●教員組織をどう形成するのか ― 資格主義からの脱却か(専門学校)、講座主義からの脱却か(大学)(48~60)

48) 就職センターにおいて、学生の就職活動と学校の教務活動が分離するという事態は、したがって、専門学校においては資格主義が、大学においては講座主義がその元凶と言える。

49) 「高等教育」の「多様化と個性化」の闘いは、したがって、第1にカリキュラム開発の闘いであり、第2にそのために専門学校が資格主義を脱却するか、大学が講座主義を脱却するか、の闘いである。

50) カリキュラム開発に対して大学が持つ困難は、大学教員の自立性(専門性の高さ)そのものである。改革派を自認する鷲田小彌太は、「内部充実の目玉は教育カリキュラムの標準化(テーブル化)である。これまで教授がやっていた個々ばらばらのサービスの寄せ集めから、この大学が提供する知的技術的標準値を定める試みだ。遅いと言えばその通りだが、ようやく教授サイドでまとまった教育サービスの総量を提示しだしたのである」(『中央公論』2009年2月号)と言う。そして「教授の生態が一変する事態さえ生まれた」と言って彼が挙げた「三つ」の「典型例」は、1)休講がなくなった 2)学生へのセクハラがなくなった 3)教授たちの派閥抗争が減った というもの。

51) カリキュラムの必要性を正しく指摘しながら、こんな程度のことしか言えないのだから後は推して知るべしである(鷲田の若い時代のヘーゲル研究は少しはまともだったが、今やありきたりの啓蒙家になってしまった)。鷲田のダメなところははっきりしている。カリキュラム開発の問題を「教育サービスの総量」という言い方で「量」問題としてしか考えていない。つまり〈カリキュラム〉は「個々ばらばらのサービスの寄せ集め」ではないと言いながら、依然として〈カリキュラム〉は科目の累積に留まっている。だからこそカリキュラム開発とは直接何の関係もない教授たちの「変化」しか挙げることが出来ない。

52) 「大学は、学部、学科又は課程ごとに、人材の養成に関する目的その他の教育研究上の目的を学則等に定め、公表するものとすること」(第2条の2関係)と昨年の設置基準の改正にあるように、カリキュラムの教育目標とは、「人材の養成」である。教育目標は人材目標なのだから、「総量」ではなく、一つのイメージを伴った「質」的な目標である。だから科目相互の関係も有機的な結合でなければならない。それは、「休講」「セクハラ」「派閥抗争」とは何の関係もない。

53) 大学のカリキュラム開発が、「特色GP」、「現代GP」、「教育GP」の諸改革のように、カリキュラムの周辺の改革に留まる一番大きな理由は、大学には専門的な教員が「多すぎる」からである。そもそも昨年度までの「特色GP」「現代GP」の「多様化と個性化」路線が今年度の「教育GP」において「質」の向上に転換したのは、「特色GP」、「現代GP」の「多様化と個性化」がローカルなものに留まり、コアコンピタンスの「多様化と個性化」に繋がらなかったからである。その理由は孤高の専門教員が「多すぎる」ため(船頭が「多すぎる」ため)、コアコンピタンス議論が主導権争いにしかならないからだ。

54) 人材目標を有したカリキュラムを作るには、専門教員が1人いるだけでいい。後はワーキンググループ的なサブ教員(教育教員)だけで充分なのである。つまり今こそカリキュラムの科目ヒエラルキーに沿った教員の階層化が必要なときに、逆に平等主義的な「准教授」制を導入したところに、文科省大学施策の最大の矛盾がある。教授会は百花騒乱だろう。

55) 一方、専門学校は、専門教員が「少なすぎる」。キャリア中退組の実務教員をいくら集めても、カリキュラム開発は出来ない。あるいはまともな教員を採用しても週に10コマ~15コマ(1コマ=90分)の授業と担任業務を与えてしまっては、まともなキャリアパスの再現は継続しない。教員としての年季を積めば積むほど職業教育からは遠離ることになる。

56) つまり大学は教員が「多すぎる」ことによって、専門学校は教員が「少なすぎる」ことによって、カリキュラム開発が出来ない。

57) 設置基準に守られた大学教員は、しかし「減らす」ことが難しい。まともな教員を採用すればいいだけ(それも1人だけ採用すればいいだけ)の専門学校の方が、私にははるかに「カリキュラム開発」に近い組織のように思える。

58) そのためには、専門学校の教員組織はフラットに過ぎる。現状では専門学校の教員は以下の六つの層の混在組織だと言える。①カリキュラム開発が出来る教員(企業のキャリアパスの全体が描ける教員) ②教材開発が出来る教員 ③シラバスとコマシラバスが書ける教員 ④専門講義ができる教員 ⑤講義はできないが実習は出来る教員 ⑥技術実習は出来ないが技能実習程度は出来る教員 以上。

59) 問題なのは、これだけの乗り越えがたい教育上の質的な差異があるにもかかわらず、ほとんどの専門学校ではすべて「教員」と呼んで高度な科目から入門程度の科目までメリハリのない教員配置をしていること。むろん、そうなれば給料は基本的には年齢給主義になり、業績差別が全くない。財政的な優遇が(大学に比べて)全くない専門学校で、実習しかできない教員とカリキュラム開発出来る教員とが同じに扱われたら、まともな教員は一人もいなくなる。

60) 専門学校が、これほどまでに専門性の水準が異なる教員を同じ扱いにしてきたのは、資格学校であったからである。最終的にはそれほどには難しくもない官許的な資格に合格すればいいだけのことなのだから、教員階層をつけることは意味のないことだった。あるいは実習免除だけではなく、試験そのものも免除されている(場合もある)認定校制度によって内部規律を強める理由はほとんどなかったと言える。結果的には技能実習が出来る程度の教員、技能上の講義しかできない教員だけになってしまい、カリキュラム開発にはほど遠い教員組織になっていたと言える。結果的に人材教育とは無縁な教育組織になっていた。


●専門学校の進むべき道(1) ― カリキュラムのない専門学校は退場するしかない(61~77)

61) したがって、専門学校が資格主義的なマイナーな公共性を脱するには、まずはカリキュラムが開発できる教員を確保することである。カリキュラム開発=教材開発に注力して、あとの教員は「その他大勢」クラスで充分。専門学校は教育目標の割に(資格教育を行うだけにしては)教員コストがまだまだ高すぎるのである。

62) この専門学校の「唯一の」教員がやるべきことは、企業のキャリアパスの全体を描くことと、それを学校教育の中(=カリキュラムの中)でどう再現するかである。

63) この作業には二つのことが前提されていなければならない。一つには具体的な企業評価(どんな企業に就職させることが、このカリキュラムの成功を意味するのか、あるいは逆に目指すべき具体的な企業に就職させるにはそのカリキュラムはどうなければならないのか)が存在していること。もう一つは、カリキュラムの入り口の学生評価(いわゆる「基礎学力」の水準)の存在である。学生を選べなくなっている今日の募集において、偏差値40前後の学生を前提にして、カリキュラムを通過して、最終的には60以上の偏差値?を有した企業群に(少なくとも)学生の半数以上を就職させるカリキュラムが、人材教育のカリキュラムでなくてはならない。

64) 〈カリキュラム〉というのは、その意味で教育目標と教育課程(教育方法)との融合体である。それを見れば、どの程度の学生を受容し、その学生がどの程度まで伸びるのかが全てわかる、学校のノウハウとレベルがすべて込められているもの、それが〈カリキュラム〉である。

65) 専門学校に進学を決める高校生たちは、若い年代で、まだまだ情報量の少ない状態で職業選択を強いられている。高度な消費資本主義国(家系と職業選択が分離している日本)ほど職業選択は高年齢化するのが一般的であるにもかかわらず、そうである。

66) 大学進学の浮力が高校生に働くのは、職業選択についてより広い選択肢を確保するための本能的な傾向であるに違いない。専門学校の使命はミスマッチ率の高い危険な選択の中でどれほどにその選ばれた職業が魅力的で一生を賭けるに充分な深みのある世界であるのかを若い世代に伝えることにある。逆に若い世代であるからこそそのことは可能であるとも言える。

67) 〈カリキュラム〉はその意味でこそ職業人生全体の縮図でなければならない。現状の専門学校カリキュラムは資格主義的な「あれもこれも」型の受験勉強になっており、かえって大学型の教育に近いものになっている。これが、学内中退率や就職後の中退率の高い最大の原因である。職業教育を標榜しながら、派遣会社程度の就職斡旋しかできていない。

68) 学んだことと就職後の仕事がすでに食い違っている。それでは大学生と変わらない。その挙げ句の果ての〈就職センター〉なのである。ミスマッチの危険をも顧みず専門学校を「選んだ」学生に対する教育とはとても思えない教育が行われている。それならば少なくとも受験勉強はした大学生の方がまだマシというのが世間の評価だ。もちろん受験勉強さえしていない大学生が増えているのは確かなことだが、同じ〈出来ない学生〉のままなら、〈大学教授〉と〈キャンパス〉環境を高校生が選ぶのは、まともな判断だと言わざるをえない。

69) 専門学校の社会的な責務は、本来、キャリア人生全体を学校内で体験させることでなければならない。職業教育の本質は、キャリアの高み(深さ)を若い時代にどれくらいに積み上げることが出来るかである。日本でのほとんどのキャリア開発は〈経験〉に頼ったものだが、その分、学校教育(職業教育)の地位は下がり、OJTばかりの間に合わせ教育になっている。入学したときからの学生のキャリア学習プロセスを念入りに見守りながら、教育指導と就職指導が一体で進むのが専門学校の職業教育であり、就職指導でなければならない。教務主導でこそ専門学校の就職指導の本領が発揮できる。

70) たとえば、情報系のプログラマー教育の現状で言えば、プログラマーのキャリアパスの全体(※)は、大まかに言って①実装プログラミング(その1)― 文法に従った機能の実装 ②実装プログラミング(その2)― 実装の理合に基づく実装(単に機能上の目的を果たすプログラムではなく、修正や変更が容易で、プログラミングという作業自体の効率を向上させるようなプログラミング技術)→ ③設計→ ④分析の四段階である。大概の専門学校は①止まり(実装パターン勉強不在のままの)。逆言えば、大学(偏差値60以上の大学)では①は全くやらず、④の「分析」中心の授業をやっている。大学の言い分では、①は「学生達が自分で勉強するもの」ということになる。大学では「学生達が自分で勉強するもの」をわざわざ学校でやっているのだから、専門学校の情報系教育が陳腐化するのは目に見えている。①はほとんどの場合OJT(か市販の教科書自習)で済むものに過ぎない。

※ここで言う「キャリアパスの全体」とは、狭い意味で使っている。「事業マネージャー(プロデュ-サー」のようなところまで言ってしまえば、「社長業」とは、と言っているのとほとんど同じになり、技術的な根拠がほとんどないものになる。ITSSの上級行程の内容はほとんど根拠のないものだ。狭い意味のプログラミング「技術」の体系と考えて欲しい。

71) 専門学校の情報系の就職企業が「受託」系に集中するのは、したがって①止まりの教育しかできていないからである。「開発」系企業は③④レベルの教育が出来ていないと就職できない。専門学校の〈就職センター〉にある情報系企業データは「受託」系企業ばかりである。「受託」系企業は人材を「マンパワー」(場合によっては「外国人」でもいい)としか考えていない。人材は「インテリジェンス」になっていない。これが「情報化時代」「インターネット時代」と騒がれながらも専門学校情報系に学生が集まらない最大の原因である。

72) 先に挙げた広島大学の小方直幸は、専門学校人材についてよく言われる「即戦力」という言葉を取り上げ、「20歳~22歳あたりで即戦力だなんてあり得ないだろうと感じています」と言っている。「悪く言えば(と小方は続ける)、すぐ使えるけれども、それは業務が高度化していないのでその程度の力でも対応できてしまうといった意味で『即戦力』という言葉が使われている場合も多い」。「即戦力」は、専門学校の教育の実力ではなくて、実力の無さを表現している。そんなことを大学の先生にも指摘され始めているということである。

73) そのうえ、たとえば情報系の専門学校は「基本情報」病にかかっている。現在では大学生の文系人材を確保するための「基本情報」資格に専門学校情報系が侵され続けている。全国の専門学校の情報系カリキュラムのそれぞれの学科の科目構成の70%はすべて「基本情報」カリキュラムである。認定校でも資格学校でもない情報系専門学校でさえ、「基本情報」資格に浸食されている。

74) 「基本情報」がなぜ「病」なのかと言えば、肝心のプログラミングレベルは①段階のままにして、経営系の科目群が3割、4割と入り込んでいることである。最近ではますます情報系の内容は減りつつある。それが「基本」の意味、と言われれば元も子もないが、結局のところ、プログラミングの「高度」教育を阻んでいるのが「基本情報」カリキュラムである。

75) 「プロジェクトマネジメント」なんて言葉が付いた科目を入れれば「高度教育」をやっているつもりになっているのが、現在の専門学校の情報系カリキュラムの実態である。4年制になればその傾向はもっと強くなる。2年間積み上げても「高度」教育が出来ていない。やみくもに横に膨張しているだけで積み上がっていない(高度化していない)。プログラミングさえまともに出来ない専門学校生に「プロジェクトマネジメント」を教えて、授業がどう成り立つというのか。

76) 結局、①実装プログラミング(その1)― 文法に従った機能の実装 ②実装プログラミング(その2)― 実装の理合に基づく実装→ ③設計→ ④分析の四段階をトータルに(適切な時間数を確保しながら)描いたカリキュラムは、大学にも専門学校にも存在していない。これを描かないとプログラマー人材のキャリアパスの全体は描いたことにならない。プログラマー職業教育とは言えない。

77) 大学進学者は職業選択を回避して大学に進学するのだろうが(言わば〈横の広さ〉を選択している)、職業選択した専門学校生には、〈縦の広さ〉=〈キャリアパスの全体〉を体験させねばならない。そのことこそが専門学校生を〈自由〉にするのである。多科体制と選択科目の多さを自慢する専門学校にろくな学校はない。在学中か、就職後のリタイヤ率が高いのはそういった学校の〈横〉膨張が一番の原因なのである。


●専門学校の進むべき道(2) ― 履修判定の杜撰な学校にはカリキュラムは存在しえない(78~89)

78) カリキュラムが積み上がる(横に広がらずに)ためには、科目単位の仕上がり評価が正確に出来る必要がある。

79) 専門学校カリキュラムが縦に積み上がらずに、横にばかり膨張していたのは(「あれもこれも」カリキュラムになっていたのは)、合格する前行われる「追再試」主義が一番の原因。

80) これは、専門学校の場合ほとんどの授業が必修授業のために、不合格者を出せないという理由が大きい。

81) しかしそういった学生サービスのつもりが、いつの間にか教員サービスに変質してきた。不合格者のいない追再試は追再試を繰り返せば繰り返すほどレベルは落ちていく。教員は不合格者の存在を教育力改善の契機とは考えずに、試験自体の難易度を下げて対応する。不合格者が何人出ても合格・不合格の裁量は担当教員自体に任されているため、裁量は心理主義裁量にしかならない。

82) 裁量が心理主義になるため、点数が悪くても良くても就職と必ずしも繋がらない。かえって新宿の電気店でアルバイトしているくらいの学生の方が「接客コミュニケーション能力が高い」と評価されて、学校成績の良い学生よりも良い企業に就職する場合がある。積み上げ教育にならないため、学校教育の実体に、学生のパーソナリティ(家族生活と社会経験の積み上げ)の実体の方が勝っているのである。これでは学校に来る意味がないし、試験を受ける意味もない。試験の点数が〈人材〉度に繋がっていない。

83) もともと学校の学内〈試験〉には二つの意味がある。一つは学生評価(学生の能力と努力を評価するためのもの)。もう一つは教員評価(教員の教育力の評価)。落伍者の存在は、学生の問題であると共に、教員の教育力の問題でもある。

84) しかし後者(教員評価)は、それを強調すればするほど複雑化する。「落伍者の責任者は教員」とすると教員は、教育力を上げるよりは先に試験自体の難易度を下げる。先の鷲田小彌太もカリキュラムも重要性を説きながら、「成績評価は、ぐーんと易しくしなければならなくなった(…)。この事情は、私の経験則からいうと、いまも昔も変わらない」とバカな事を言いつづけている。

85) なぜそうなるのか。教育目標(カリキュラム)に関心が無いのである。自分の科目で失敗すると、他の科目に迷惑がかかるというカリキュラム主義の立場に立てない。その理由は、履修判定が担当教員の裁量に任されているからだ。履修判定が個人化=心理主義化しているため、全ての科目の仕上がりがどんどん計画レベルから後退し続けるのである。そうなると、立派なカリキュラムを計画上作っても「計画(目標)に過ぎない」ということになる。履修判定が杜撰な分、どこにどんな問題を抱えているのかが全く見えない学校運営になる。

86) 学生のレベルが下がればそのまま仕上がりレベルも下がる(鷲田のように)、学生のレベルが上がっても、どこまで上がるかわからない。これがまともな履修判定の存在しない教育と学校の問題である。上がっても下がってもそこに〈教育〉が存在していない。すべては学生次第という考えが根深くある。しかし学校のすべては、〈カリキュラム〉と〈教員〉次第だ。

87) 教員は、自らの履修判定を曖昧にすることによって、自分の業績評価自体を曖昧にしてしまっている。専門学校のカリキュラムのように実習が多い(評価が難しい)科目構成の場合、履修判定はますます曖昧なものになり、科目評価は棚上げされ、教員評価も教育力評価も棚上げ。これでは科目連携(=カリキュラム)は出来ない。

88) 〈カリキュラム〉に従って〈人材〉を育成するということは、一つ一つの科目の前後の評価を厳密に積み上げていくということである。履修判定の仕組みを根本的に変えなければならない。極端に言えば、期末の履修判定はシラバスとコマシラバスに基づいて「第3者」が行うくらいの覚悟がないと〈人材〉は育成できない。科目の積み上げに耐える履修判定と教員が必要になる。試験の点数が〈人材〉度(=カリキュラムの体現度)を表す体制を作る必要がある。

89) 一度、専門学校の教務責任者は1年生の学年末にキャリア実力試験(1年間の総科目のシラバス内容を総合的に問う試験)をやってみればいい。いかに学生の能力が積み上がっていないかがわかるはずだ。とても2年生にあがれる状態ではないのがわかるはず。わかるだけでも大きな進歩だ。専門学校の「校長」を含めた「部長」職以上の上級管理職(もちろん理事長も)はここが全くわかっていない。彼らは入学者については「退学者」と「就職率」にしか関心が無い。


●専門学校の進むべき道(3) ― カリキュラム教育の最終着地は就職成果。就職変化のない「教育改革」はあり得ない(90~100)

90) 従来の専門学校の就職指導は、「就職率」重視。したがって、成績優良学生の就職指導は棚上げされて、成績不良学生ばかりが「就職指導」の対象になっていた。そんな学生でも受け入れてくれる企業が専門学校の「お客様」企業になっていた。その窓口が学校内の〈就職センター〉だったのである。

91) だから専門学校の〈就職センター〉には、本来の優良企業群が集まっていない。

92) なぜ、「優良学生」が放置されるのか。それはカリキュラム目標が企業の具体的な活動をイメージして作られていないからだ。「優良学生」は学校が作ったのではなく、元から優良であったに過ぎない。つまり、学校がカリキュラムにそって、そして厳密な履修判定に即して手塩に掛けて作った人材商品(あえてこの言葉を使うとすれば)であるという意識が欠けているのである。最後の試験が就職先という意識に薄い。だからこそ、優良学生は「就職率」主義に隠れてしまい放置されてしまう。

93) 〈教育〉も〈カリキュラム〉もそれ自体は、手段にすぎない。教育改革が改革主義になってしまうのは、改革の最初から、何が変わったらこの改革が成功したと言えるのかをはっきりさせておかないからだ。評価の方法が提示されない改革はありえない。〈教育〉や〈カリキュラム〉改革の成果は職業教育を標榜する限りは、就職先企業の変化である。就職先企業がかつての企業群とは全く別のものになっていかない限り、専門学校の教育改革はどんなことをやっても意味がない。カリキュラムを作った教務リーダーが就職先開拓に奔走する光景が見えてくれば半分は改革が成功しているのである。

94) 〈就職センター〉が〈教務部〉に内属するのが専門学校の就職組織である。大学がカリキュラムに基づいて就職指導をやり始めるにはあと20年はかかる。

95) そのためにやることは、二つある。一つは、カリキュラム開発と並行して目指すべき就職企業を具体的に段階化して評価付けしておくことである。カリキュラムの改善課題と並行して年次計画を立て、どのランクの企業に年次的にどう拡大して送り込んでいくのか、この目標をはっきりさせることだ。そのためにはカリキュラムや教育をどう変えていくのかが「教育改革」でなくてはならない。

96) もう一つには、企業評価と共に、学生評価を厳密化し、成績上位者が先に上位化した就職先ランクと整合を取れるような関係になっているかに注意することである。成績上位(学内評価)=就職上位(外部評価)という関係が出来たときにこそ、カリキュラム性能+教育評価性能(=教育力)が実証されたことになる。

97) 最後の試験合格が、学内試験ではなく、就職内定を勝ち取るというところまで引っ張らないと専門学校の教育評価は定まらないだろう。それは就職率の問題ではない。

98) 最大の問題は、就職活動時期の問題。ほとんどの専門学校は就職活動が、(2年制の場合)年明け1年生の2月3月くらいから始まる。これでは遅い。この時期からだと大学の有力企業の総合職採用内定(内々定)はほとんど決まっている。そもそも大学生の就職活動は3年生の夏休み明けからだから、それに合わせるとすれば、専門学校は1年生の秋から動き始めないと、大学生に対抗できる優良企業への就職は出来ない。現在の専門学校の〈就職センター〉は早くても年明け後からしか動いていない。だからダメなのである。

99) 早くから動くためには、最初の6ヶ月で〈人材〉の基礎が出来上がるくらいにカリキュラムの密度を上げなくてはならない。大学3年生の〈パーソナリティ〉に対抗できるくらいにテクニカルタームを駆使できる〈専門性〉を身に付けさせる必要がある。学生自身に自分は〈人材〉だと自覚できるところまでまずは6ヶ月で仕上げなくてはならない。キャリアパスカリキュラムが存在しているとすれば、その就職目標は2年制の場合、2年生4月末~5月末100%でなければならない。現に私のいた学校ではそういった実績を作ってきた(http://www.ashida.info/blog/2007/11/post_227.html)。2年生の夏以降の就職は専門学校の場合、ほとんど意味のない就職に過ぎない。

100) すでに指摘したように、大学も〈人材〉目標だと言うようになってきた。「講座」でも「教授」でもなく〈カリキュラム〉だと言うようになってきた。そして〈カリキュラム〉だからこそ「履修判定基準」を明確にしろと言い、そのためにはFD(教員教育)が必要だと言い始めた。そして吉本圭一(九州大学)や小方直幸(広島大学)といった大学の先生たちは、ちょっとした「調査」で、専門学校の職業教育は怪しいと(正しく)指摘し始めている。これを専門学校はどう受け止めるのか、どう跳ね返していくのか、いくつかの処方箋は描いたつもりである。来週の第三回の研修会(http://www.invite.gr.jp/news/2008/20081006mr_ashida03.html)に期待していただきたい。さらに具体的な処方箋を描いてみたい。


※このまとめの元になっている私のレポートは以下の通り。

●資格主義については→http://www.ashida.info/blog/2008/10/1.html
●実習主義については→http://www.ashida.info/blog/2008/10/2_1.html
●大学の教育改革について→http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_305.html
●マナー教育については→http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_307.html
●教員組織論については→http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_308.html
●大学全入時代と専門学校のマーケットについては→http://www.ashida.info/blog/2008/12/post_309.html
●吉本レポートについては→http://www.ashida.info/blog/2008/12/post_310.html
●就職指導の実際については→http://www.ashida.info/blog/2007/11/post_227.html
●カリキュラム開発については→http://www.ashida.info/blog/2008/12/post_311.html

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感想欄

はじめまして。芦田様。

初めて書かせていただきます。たいしたことはかけませんが。

私は三流大学を卒業したのですが、やはり「教授」が多すぎて、教えるというようなところでの実践的な「准教授(当時は助教授と呼ばれていました。)」が少なくて、教える側の組織(教授会)といったものが機能していないようでした。

ただ、私の大学では、当時、学年担当という制度があって、その学部・その学年ごとに学生の窓口になってくれる先生(私のときの担当は教授の方でした。)がいました。

ほかの大学にはそのような制度はあったのでしょうか。

あとは、当たり前ですが私の大学でも「基礎教養」の学科があったのですが、私の感想としても、「専門学科」よりも「基礎教養」のほうが重要な感じがしました。

社会人になったあとでも、「基礎教養」のなかで習ったことのほうが、役に立っていると感じています。

すいません、仕事に行かなくてはいけないもので今日はこれくらいにさせてください。

投稿者 MIRACLE : 2009年01月15日 08:14

キャリアパスとは何か、それはどの分野でも(比較的)シンプルに記述可能なものなのか、キャリアパスそのものの変容に学校はどう対処(準備)するのか、お聞きしたいです。

投稿者 大田 : 2009年01月15日 12:29

ご返事、遅くなってスミマセン。

>MIRACLEさん

「基礎教養」、つまり1年や2年のカリキュラム(科目編成)はいくら保守的な大学でも毎年改善傾向が見られます。

しかし、それは(私に言わせれば)逆に肝心の3年、4年のカリキュラム(科目編成)を変えないための処置です。「変えない」と言うよりは、「手を付けられない」のです。

3、4年生の担当教授たちは、講座主義の牙城のような「ゼミ」を隠れ蓑にして、何一つ改革しようとはしていません。学生を引き回しているだけです。

たとえば、大学の「教育改革」と言えば、必ず触れられる金沢工業大学さえ、3年、4年のカリキュラムは何も変わっていません。1、2年生と高学年課程との間には溝があり、カリキュラム全体の改革にはなっていません。「特色GP」の常連のこの大学でもそうです。

1、2年生の「基礎」課程の改革が成功するかどうかは、高学年の教育目標が「高度化」するかどうかにかかわっていますが、そんな報告を金沢工大から聞いたことは一度もありません。「技術者であるまえに人間教育だ」なんてわけのわからないことを言いつづけています。大学の3年、4年は教授たちの伏魔殿(=パラダイス)なのです。

だから、あなたのような感慨(「専門学科」よりも「基礎教養」のほうが重要な感じがしました)を持つ学生がいても不思議でも何でもない。

「学年担当」という制度に関しては、最近の大学では「学年担当」どころか「担任制」を強化する傾向があります。これもしかし、「カリキュラム」の不全を補うための隠れもののようなものです。そもそもカリキュラムと履修判定がしっかりしていないのに、「学年」という概念が成り立つのか、という問題があり、「担任制」に関して言えば、カリキュラムの不備、教育の不満を人間的、心理主義的に解消しようとする大学や専門学校は、どんどん担任制を強化しようとしています。要するに「学年担当」も「担任制」も言わば「苦情処理係」のようなもの。教務上のラインでもないでもない。「苦情処理係」の本質的な仕事は、「苦情」を門前で処理することです。


>大田さんへ

「シンプル」になるかどうかは、その教員(私の以前の学校では「カリキュラムリーダー」という職制を置いていました)の「専門性」次第ではないでしょうか。ただし、どの分野も「キャリアパス」は存在すると思います。存在しないとすれば、その分野は「高度教育」の必要ではない分野に過ぎない。専門学校の資格主義業界には、明確に「キャリアパス」を描けない分野もあるかもしれません。それは、要するに「経験」で何とかなる、という世界です。「技能」主義の世界です。この世界は逆に「変化」も少ない。

専門学校が「技能」主義教育から「技術」教育に進んで、〈変化〉に対応しようとすれば、まともな「教務担当」(カリキュラム開発と履修管理の業務)を置いて、その職制を授業担当や担任業務から解放する必要があります。そのためには、今の専門学校の教員組織をもっともっと階層化する必要があります。今の専門学校の実習授業教員(実は技能実習しかできない教員)にはお金をかけすぎていて、肝心の「教務担当」が貧弱すぎるのです。現状では「教務担当」は(カリキュラムではなく)「時間割」(と教場配置表)を作っているだけです。

投稿者 ashida : 2009年01月15日 23:51

芦田さんの専門学校教育論、大学教育論を読んでいると、燃えてきます。

芦田さんの吉本論( http://www.ashida.info/blog/2009/01/nhketv.html#more )を読んでいると、ちょっと勝てない気がしてへこみます。

投稿者 ある専門学校教員より : 2009年01月17日 23:05

芦田先生

寒中お見舞い申し上げます。本年もよろしくお願いします。

今回のご報告,大変な力作ですね。それぞれに輝く100の項目が見事に連鎖する形式は,ベンヤミンの「パサージュ論」のようだと感じました(僕が「パサージュ論」を多少でも理解できているかどうかは怪しいのですが,「パサージュ論」のところどころの輝きはとても印象的です)。

カリキュラムを通して教育と就職が結びつけなければいけないというご指摘(をされていると思うのですが)は,とても重要だと思いました。容易なことではないと思いますが,企業の姿勢をも揺るがすような教育改革が実現するといいですね(と思いました)。

投稿者 大学教員 : 2009年01月17日 23:08

芦田先生、お久しぶりです。

じっくり読ませて頂きました。すごい力作ですね。

特に1~12、48~60、61~77は、お見事です。

しかし、現時点での専門学校のトップ、もしくは経営に携わっている人間にこれを読んでもらっても理解できない人たちが多いでしょうね。

そのような学校は確実に廃墟への道を進んでいます。

どのような分野でも言えることですが、実質が伴っているものだけが生き残っていける世の中になっていますね。

人間も、企業も、学校も。

学校は、教員組織の資質がすべてだと言えます。

教員の意識の向上がなければ、良い学生は育ちません。

投稿者 masa : 2009年01月20日 21:27
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