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 ヘーゲルとハイデガー ― 『精神現象学』と『大論理学』、あるいは現前性とは何か(1984年) 2008年05月01日

ゴールデンウィーク中でないとUPできないような堅い記事をあげておきます。ジャックデリダが1983年初来日した後(http://www.ashida.info/blog/2004/10/post_83.html)、一気に書き上げた論文です(脱稿は1984年4月)。特にヘーゲルの『大論理学』定在論の解釈は今でも自信を持っています。

●ヘーゲルとハイデガー ― 『精神現象学』の意識の尺度論と『大論理学』定在論、そしてハイデガーの「現前性」、あるいは隠喩の生成もしくは生成の隠喩

【1】 哲学の reappropriation(再我有化)
【2】 意識の尺度としての an ihm - 『精神現象学』緒論における
【3】 an sich と an ihm - 『大論理学』定在論における
【4】 隠喩の生成、もしくは生成の隠喩

※ 『精神現象学』(ヘーゲル)は、ホフマイスター(PhB)版を、『大論理学』(ヘーゲル)は、初版は、マイナー新全集版、二版は、ラッソン(PhB)版を使用しており、頁数は、その版による。ハイデガーの『ホルツヴェーゲ』は、クロスターマン社版(第五版)を用いた。
※ 引用文中の強意(ゲシュペルトなど)は、このネット掲載上すべて省いている。
※註の表記などはこのネット掲載上変更を加えている。
※段落の処理などはこのネット掲載上変更を加えている。
※ 邦訳は、『精神現象学』は、金子武蔵氏(岩波版)、『大論理学』(初版)は、寺沢恒信氏(以文社版)、二版は、武市健人氏(岩波版)、『ホルツヴェーゲ』は、細谷貞雄氏(理想社版)のものを参照しており、ほぼそれに従っている。これらの方の訳業には全く感謝している。その他、用いた文献も若干あるが特に必要とはおもわれないので省略する。
※ドイツ語のウムラオト、フランス語のアクサンなどはそのまま抜け落ちた表記になっている(暇があれば直します)。ご寛恕いただきたい。
※タイトルは初出(=著作)では「アン・イームということについて ―隠喩の生成もしくは生成の隠喩」となっている。今回ネット掲載上タイトルを変えている。

※脱稿: 1984年4月23日(『書物の時間』1990年刊・所収』)

【1】 哲学の reappropriation

哲学とは何かという問いは、一般的なものとして問うことはできないかもしれない。それについて答えられる回答が〈哲学者〉の数だけあるだろうことだけははっきりしているからである。〈哲学〉とは〈色々な哲学〉でしかないというわけである。

むろん、たとえば、ヘーゲルのように〈哲学〉と〈色々な哲学〉との関係を〈果物〉と〈桜桃〉〈梨〉〈葡萄〉等々との関係にたとえてみることもできるかもしれない。

「たとえば、果物を欲しがる者が、それが桜桃、梨、葡萄、等々であって、果物ではないという理由で、桜桃、梨、葡萄、等々を拒んだらどうであろうか」(Enzy. §13)、それは珍奇なことだとヘーゲルは言いたいのである。

この場合には、ヘーゲルは、〈哲学〉と〈色々な哲学〉との関係を〈普遍的なもの〉と〈特殊的なもの〉との〈弁証法〉の内に見ている。もっとも、そのことによってヘーゲルは、ただ“自分の”哲学を語っているにすぎないと言おうとおもえば言えるのであって、後に、この比喩の件りは、マルクスによって批判されるところであるし、ハイデガーが、これを彼のヘーゲル論でとり上げるときにもその態度が両義的であることに変わりはない。マルクスもハイデガーも、また、そこで“自分の”哲学を語っているにしてもである。

〈哲学〉とは何かという問いについて、だから、「色々な哲学」の一つである〈ヘーゲル哲学〉をもって答えることは〈ヘーゲル哲学(研究)者〉にしか、事実上、通用しないことであって、言い方をかえれば、それは〈マルクス主義〉や〈ハイデガー哲学〉の存在を再び結果的には認めてしまうことでしかないだろう。それは哲学〈内部〉的な諸対立を再生産することでしかない。

このような反復は、しかし、不可避なことのようにもおもえる。というのも、それぞれの哲学が、自らを自己内部的なものだといういみで〈特殊的なもの〉とは決してみなしはしない ― そうみなす場合には、そのことが〈普遍的〉である場合のみのことである ― のであって、それらは、いずれも或る種の普遍的な統合化の視点 ― ロムバッハの言う〈構造〉  ―  を有しつつ〈哲学史〉と呼ばれているものの内に登場してくるからである。

それゆえ、仮に〈特殊/普遍〉という(ヘーゲルの)用語を借りるとすれば、対立は、〈特殊〉対〈普遍〉という軸で起っているというよりは、むしろ、〈特殊/普遍〉的特殊と〈特殊/普遍〉的普遍との軸でおこっている。

別の言い方をすれば、それぞれの哲学(「色々な哲学」)自身が自らの内部で〈哲学(そのもの)〉と〈色々な哲学〉とを区別し、また統合する仕方 ― それは結局のところ〈自分〉の哲学と〈他〉の哲学とを区別し統合する仕方であるわけだが ― を有しているのであって、〈特殊〉/〈普遍〉の対立(その区別性、同一性)は、それ自体、直接的に生じているものではない。

対立は、それゆえ、それ自体が「構造」(ロムバッハ)なのである。

ペレルマンは、『レトリックの帝国』(邦訳:『説得の論理学』三輪正訳・理想社)の「概念の分割」という章の中で、「たとえば」、カントの、〈現象〉/〈実在〉という対概念の軸について次のように言っている。

現象とは実在が外へ現われ出た姿以外の何ものでもないようにはじめはおもわれる。 現象とは現われた限りでの実在であり、直接的経験に出てきた実在である。しかし現象内に不両立があるとき、たとえば櫂が水中では曲がって見え、手で触れると真直ぐにおもえるとき、現象は実在そのものを表わしてはいないことになる。実在は無矛盾の原理に支配されており、同一の対象が状況が同じでありながら一つの関係Pをもつと同時にもたないということはあり得ないからである。したがって実在に対応する現象と、実在に対応しておらず単に見かけであるに過ぎない現象とを、現象の中で区別する必要が生じる。こうして現象には二重の性格があることになる。現象は一方では実在の表現であり、他方では単なる見かけであり、誤謬の源ですらある。現象が与えられたもの、直接なもの、認識の最初のものであるのに対し、実在はふつう現象を介して認識される二次的なものであるが、しかも現象について判断を下す場合の基準になるものである。この基準としての実在を第二項とし、現象を第一項とすれば、基準としての実在は現象が実在の正しい表現か、それとも単なる見かけ、誤謬かを区別するものであるから、第二項は第一項の言わば規範になっている(邦訳186頁)。

〈カント研究者〉であれば、何か文句の一つでもつけたくなるような一節であるにしても、ペレルマンの指摘で重要だとおもわれるのは、彼が、対概念の軸(区別性・同一性)を直接的なものと考えておらず、この軸を、対概念の一方の項の内部での軸として、二重化して考えていることである。

カントの場合には〈現象〉/〈実在〉の対概念が、言わば現象〈内部〉的対として機能しているということであり、〈実在〉の項は、この内部の「規範」として機能しているということである。現象論(者)は、実在論(者)と直接に対立するわけではなくて、現象論そのものの内部に、その論の端初となっている〈現象〉/〈実在〉の区別をもちこんでしまう。ペレルマンの言い方を借りれば〈現象〉/〈実在〉の区別を「現象の中で区別する必要が生じる」のである。実在論(者)の場合に事情がその逆の仕方で同じであるようにで。

ペレルマン自身は、この認識を、次のように一般化している。

現象/実在という対概念を手本として、哲学的概念を第一項/第二項の形で表わすこ とができる。第一項は現象的なもの、最初に出てくるもの、現実的なもの、直接的なもの、直接に認識されるもの、を表わす。第二項と第一項との間には区別があるが、この区別は第一項に関連づけてのみ理解される区別であって、第一項の諸様相間に現われた不両立関係を除かんがため第一項内で行われた分割の産物が第一項と第二項との区別である。第二項は第一項の諸様相内で価値あるものと無価値なものとを区別することを可能にする基準、規範を示している。第二項は単に与えられてそこにあるものでなく、第一項を分割するにあたってその諸様相間に上下関係を設定することを可能にする規則の決定のための構成物(construction)でもある。何が実在であるかを決定する第二項の規則に合致しないものが、見かけのもの、誤っているもの、悪いいみで現象的なものである。第二項は第一項に対して規範であり、同時に説明でもあるのである。第二項は、第一項分割の際にそのさまざまな様相のどれが価値あるものでどれが無価値なものかを説明するものなのである。それは、二重性格的な現象の内で、単なる現象にすぎないものと実在を表わすものとを区別することを可能にするものである(同187頁)。

ペレルマンは、この種の一般化から、現象/実在に加えて「物質界/イデア界」「手段/目的」「帰結/事実(原理)」「行為/人格」「偶然/本質」「機会/原因」「相対/絶対」「主観的/客観的」「多数/単一」「普通/規範」「個別的/普遍的」「特殊的/一般的」「理論/実践」「言語/思想」「文字/精神」……などなど「(哲学的)伝統概念」の諸々を彼の言う「概念の分割」の内に含めている。

むろん、ペレルマンは、このような対概念の軸の移動がなぜ起るのかということについては考察を更に先に進めているわけではない。というのも、ペレルマンにとって「概念の分割」という事柄は「議論法」 ― また「議論法」と等置される限りでの「レトリック」の問題にとどまるからである。

ところで、哲学とは何かという問いが、しかし「レトリック」の問題であることは明らかである。この種の問いがペレルマンの言うところの「分割」の機能の内に属していることははっきりしているからである。

この問いを仮に一般的な水準のままに取りあげるとすれば、この問いには並列的な問いの水準の諸々が対応することになる。〈文学〉とは何か、〈宗教〉とは何か、〈芸術〉とは何か、〈科学〉とは何か……というふうに。ペレルマンの言う「分割」の問題が生じるのは、この場合、これらの問いの帰属性が問題となる場合であって、次のように(ニーチェのように)問い返せば、そのことははっきりする。すなわち、それらの問いは、いったい〈誰〉の問いであるのか、と。

仮に、哲学とは何かという問いが〈哲学者〉の問いで〈ある〉場合には、この問いは明らかに「レトリカル」である。それは〈哲学〉的にしか答えられないからであって、回答は、一つのトートロジーにとどまる。にもかかわらず、一つの〈回答〉がリアルにおもわれる(場合がある)のは、哲学的で〈ある〉哲学者が自らの〈内部〉で、哲学/非哲学の「区別」(「分割」)を「レトリカル」に導入しているからである。哲学的で〈ある〉哲学者の〈哲学〉(の方)は、このレトリカルな「区別」それ自体を区別付けている「規範」であり「区別」の「説明」として残されている〈哲学〉であるわけだ。

しかし、ひとりの〈哲学者〉が、一つの“真面目(リテラル)”な問いとして、哲学とは何で〈ある〉かと問うことはあり得ないだろうか。もしくは、ひとりの〈哲学者〉が“真面目”に〈非哲学〉―〈文学〉〈宗教〉〈科学〉〈芸術〉などなど―について、それらが、何で〈ある〉かを問うことはあり得ないだろうか。

ちょうど、たとえば、〈文学者〉(非哲学者)が、哲学とは何で〈ある〉かと“真面目”に問う場合と同じように。 〈哲学者〉が非哲学としての〈文学〉について論じているときに、誰も自分の論じている〈文学〉が哲学的文学であるなどとおもいなしはしないだろう。それは、自分の言うところの〈文学〉が、哲学的な“偏見”、もしくは、哲学的な言わばフィルターによる〈文学〉だとおもいなしはしないのと同じことなのであって、というのも、この種の(哲学的な)“偏見”というものは、いつでも、哲学者で〈ある〉当人の訂正(是正)の対象であり得るからだ。

この種の訂正(是正)の結果(成果)が哲学的で〈ある〉哲学者の〈非哲学〉についてのディスクールの諸々であるはずだからである。

それゆえ、哲学とは何かという問いの帰属性(その問いは、誰の問いであるのかという―)を問うことは、それ自身、〈形式〉的な問いであることになる。つまり、哲学とは何かという問いが「レトリカル」で〈ある〉ことを指摘するディスクールは〈結果〉的にそう指摘しているだけのことなのである。

そもそも、〈誰〉が〈哲学者〉であって、〈誰〉が〈哲学者〉でない ― 〈文学者〉である ― のか、それは何によって、何の名のもとにそうで〈ある〉(もしくは、そうで〈ない〉)のか。そのことは、少しも自明な事ではない。

一人の大学教授が〈哲学〉の講座を担当しているという理由から、彼が〈哲学者〉であるとするのはなかなか勇気のいることだろうし、また、一人の若者が、或る日、芥川賞を受賞したからといって、彼が、そのときから〈文学者〉の仲間入りをしたと言うわけにもいかないだろう。そういったことは、いずれにしても、〈形式〉的なことなのである。言いかえれば、問いの帰属性というようなものは、問いが答えられることなしには、つまり、その結果においてしか、問題になり得ないはずなのである。

結局のところ、ここで問題になっているのは、再度〈哲学〉とは何かという問いそのものである。その限りでは、つまり、この問いが問いのままとどまる限りでは〈誰〉が〈哲学者〉であってもかまわないし、〈誰〉が〈文学者〉であってもかまわないわけである。 つまり、問いは〈誰〉によってであれ答えられなくてはならない。哲学とは何かという問いについて何事かを言わねばならない。そのことなしに、哲学とは何かという問いが「レトリック」であるかどうかを決める手立てはないはずなのである。

むろん哲学とは何かという問いが ― あるいは、それに答えることが、さしあたっての問題であるわけではない。というより、そんなことは、本当のところどうでもよいことである。

形式的に言えば、問題であるのは「概念の分割」という事柄そのものであって、ペレルマンの言い方を借りれば、彼の言う「規範」というものの性格の問題であり、別の言い方をすれば、彼が、たとえばカントのモデルの場合に言う、〈現象〉(「第一項」)の「二重性格」という場合の「二重」性の性格の問題なのである。

もちろん、ここでペレルマンが単にレトリックの問題として「概念の分割」に関して考えていることを具体的に言いかえて、問題の場面を別のところへ移し変えることができる。

つまり、〈哲学〉(die Philosophie)について語るということは、いつでも一つの哲学(eine Philosophie)について語るということであって、それこそが、〈哲学(そのもの)〉の―つまり、ペレルマンの言う「規範」としての哲学の―効果であることは明らかなことだということである。

“一つの哲学”といういみで、それは、〈色々な哲学〉の“一つ”である訳だが、むしろ、そのことこそが、そのような「分割」性こそが、〈哲学〉が、自己を再・我(固)有化・reappropriation (J・デリダ)する当の様式である。

それゆえ、一つの(哲学についての)ディスクールが自らを相対化する(制限画定する・delimiter )試みは、むろん、そのディスクールの内部で現われる修辞学的レトリックも含めて、それ自身が、メタファー(〈哲学〉そのものの ― )である。透かして見えてくるものは、いつでも拡大された、つまりは、制限を除去した(de-limiter)哲学それ自身なのである。

「哲学(文学、宗教、etc )にも色々あって…」などと門外漢(非哲学者、非文学者、非信仰者、etc )の問いに答えるのは、決まって哲学(研究)者と呼ばれている(あるいは、〈文学〉や〈信仰〉の“内部”に居るとされている)人達なのだから。 そして、問われるべきなのはこの種の再・我(固)有化の形式そのものなのである。


【2】 意識の尺度としての an ihm -『精神現象学』緒論における

すでにハイデガーは、ヘーゲルの言う絶対者の絶対性(Absolutheit des Absoluten )ついて、delimiter と de-limiter の二重の働きを認めていた(ハイデガー「ヘーゲルの〈経験〉概念」in『ホルツヴェーゲ』125頁参照)。

むろん、この場合、delimiter と de-limiter の二重の働きは、ヘーゲルの言うところの〈意識〉のそれである。ハイデガーは、『精神現象学』緒論(Einleitung)におけるヘーゲルの意識論を次のように解説する。

意識においては、或るものが意識からかつ意識によって区別されている。意識は意識そのものとして、自分自身によってある他者に対する一者なのである。しかしこの区別において区別されたもの(主観における主観に対しての客観)は、このように区別することによってなお区別する当のものへ関係させられている。意識は、表象的に或るものを自分から別け隔てるのであるが、しかも別け隔てられたものを自分の方へ向けて置く のである。意識は、何等区別ではない一区別である。意識は、この区別ではない区別として、その本質において両義的である。この両義的性格が、表象行為の本質なのである。そして、およそ意識があるところ必ず知と真理、「対しての存在」と「即自存在」というふたつの規定が直接に現われ、しかもこれらの規定自体がこれまた両義的であるという事態は、その両義性にもとづくのである(同上153頁)。

もちろん、ハイデガーが〈意識〉の「両義性」と言ったときには、彼はペレルマンの「分割」の機能を〈意識〉(の経験)の本質(存在)論として ― ヘーゲルがそうであるように ― とらえている。

『精神現象学』が、なぜ「意識の経験の学」であるのか、特になぜ「意識の」なのかという問いには、色々な答え方があるだろうが、それは、一つにはハイデガーが〈意識〉の「両義性」と呼ぶものが絶対者の絶対性(Absolutheit) に呼応するところから考えられるだろうし、またそのことが、絶対者のパルーシアとしての精神の現象学、特には、それが「現象」学であることのいみあいでもあるということである。

ところで、ヘーゲル自身は、「先ず」〈意識〉を、二つの「側面 (Seite)」を有するものとしてとり上げている。

一つは〈知〉の側面であり、これは、〈意識〉の「対他」的側面である。「意識は、或るものを自分から区別すると同時にこれに関係しもするが、この関係することをよく用いられる表現で、或るものが意識に対してあると言ってもよく、そうしてこの関係ないし或るものの意識に対する存在の特定の側面が知というものである」(10段)。

もう一つは、〈真理〉(「自体」としての〈真理〉)の側面であり、これは意識の対他的関係(〈知〉)の「外」にある「自体」の側面である。〈知〉の側面への言及に続けて、ヘーゲルは次のように言う。

しかしながら我々は、この対他的存在から自体存在を区別する。知に関係づけられるものは、関係づけられると同時にまた知から区別もせられて、この関係の外にもまた存在するものとして定立せられるのであるが、この自体の側面が真理と呼ばれるところのものである(同上)。

これらの箇所は「緒論」(Einleitung)の10段にあるものだが、〈知〉と〈真理〉の「規定」として『精神現象学』の読者には周知のものである。

ところで、このヘーゲルの言う〈知〉と〈真理〉について考える場合に、たとえば、〈知〉を〈意識〉の対他的側面と呼ぶことは間違いではないような気がする。しかしそれと同じようにして〈真理〉を〈意識〉の「即自」的側面というふうに言うことはできるだろうか。つまり、ヘーゲルは、10段の、この叙述で〈意識〉の対他性(〈知〉)と即自性(〈真理〉)の両「側面」について言及しているのだと。

しかし、意識の即自(性)とは何のことか。

「意識は、或るものを自分から区別すると同時にこれに関係しもする」とヘーゲルは言っていた。この場合「区別する」といういみで区別されるもの(或るもの)を「自体」(即自)と呼び、「関係」という意識にとっての対他性を〈知〉とするのは、さしあたり問題のないようにおもわれる。

エトヴァス(或るもの)が、意識「に対して」(fur) ある場合、言いかえれば、或るものが意識に「関係する」場合、このことを或るものについて「知っている」というふうに言うのはわかるし、またこの「知」を意識の「対他」性というのも奇妙なことではない。

そして、この「関係」の「外」を、つまり意識が自からと区別するところのものを或るものの即自(自体存在としての或るもの)とするのもそれでよいようにおもわれる。

しかし、10段の最初は、「知と真理との抽象的規定が意識において(an)どのように出来してくるのか」という問いを含んでいたことからして、この即自を単に或るものの即自とするのは安易なようにもおもわれる。10段の最初の問いは、真理の規定が「意識において」どのように出来してくるのかということでもあったからである。

この「おいて」ということを、そのまま(単に意識「に対して」ということではなく)理解すれば、〈真理〉は〈意識〉の“即自的側面”となりそうだが、しかし意識の即自とは何のことか。

「意識の」という場合の「の」とは何のことか。それを意識にとっての即自ととれば、それはヘーゲルの言う〈知〉のことであるにすぎない。

とすれば、意識の即自とは何のことか。意識自体とは何のことか。意識の即自を“意識自体”とまで言ってしまうのは読み手の恣意に属することかもしれない。

そもそも、ヘーゲルは「側面」というが何の「側面」であるのか明示しているわけではない。「知の側面」と言い、「自体の側面」と言うが、それらが何に属する「側面」であるのかすぐに答えるのは10段の内容からはもともと困難なことだ。

たとえば「対象」の意識への“依存”の「側面」を〈知〉と呼び、その「対象」の意識からの“自立”の「側面」を〈自体〉と呼ぶならば、なお事態は紛糾するばかりである(※)。

(※) たとえば、手短かな加藤尚武編集による『精神現象学』入門(有斐閣選書)に当該箇所を解説させればつぎのようになる。

ヘーゲルは、知と真理という二つの規定が意識においてどのように現われるかを、当時有名だったラインホルトの考え方(意識律)を援用しながら、簡潔に指摘している。本来意識との関係の外に存在するものは、真でも偽でもない。目前にある木は、私に関係なくそれ自体で存在しているが、かといってそれを「真理」だと私達は言わない。それは、「目前にある木」を、「私に関係なく、それ自体で〔即自的に、an sich 〕存在している」と見なすからである。この考え方をつきつめて行けば、ものの現われの奥に「物自体」(Ding an sich)があるというカントの見方になる。そもそも「目前にある」とはどういうことなのか。ヘーゲルがここで分析して見せているのは、あくまで「或るものが意識にとってある」という事態にすぎない。この事態にヘーゲルは区別と関係という二つの側面を指摘する。この二つの側面は「同時に」成立つ。今、区別の面から見れば、対象は意識から自立している。ここに対象の即自性が成り立つ。関係の面から見れば、対象は意識に依存している。ここに対象の対他性が成り立つ。即自性と対他性を不可分の契機と見る点が、カントとのちがいである。(33頁)

ここには無用な通俗化(単純化)が支配している。既に、加藤尚武(たち)は〈対象〉と〈意識〉との分離を所与のものとして考えている。この分離の後に「意識にとっての」〈対象〉(自体)と意識から「自立」した〈対象〉(自体)とが「同時に」考えられるべきだというのが論者の立場である。しかし、そうなると「解説」されるべきなのはその「同時に」ということであって、そこで再びヘーゲルの用語のままに「同時に」を引用してしまうのは、「解説」上の詐欺というものである。論者は、「即自性と対他性を不可分の契機と見る」というがそれはいったい何の「契機」なのか、何「において」それは不可分であるのか明らかではない。そうなるのは、論者が、〈対象〉の「即自性」=「自体」、〈対象〉の「対他性」=〈意識〉というふうに既に〈対象〉の超越性を前提にして議論を進めているからである。そこではヘーゲルが〈意識〉の本質論を展開せざるを得なかった必然性が全く顧慮されていない。いずれにしても、ヘーゲルは、加藤尚武(たち)が言うように、特に「簡潔」に議論を進めているわけではない。

ところで、ヘーゲルは、既に引用した短い文言の中でも微妙に言い回しを変えている。 最初、ヘーゲルは「意識は或るものを自分から区別する(…)」と言うが「対他存在から自体存在を区別する」と言ったときには、この区別する主体(主語)は、「我々」になっている。また、この区別は「知に関係づけられるものは関係付けられると同時にまた知から区別もせられて、この関係の外にもまた存在するものとして定立せられるのであるが、この自体という側面が真理と呼ばれるところのものである」というふうにも言われていた。この場合「知に関係付けられるもの」(das auf das Wissen Bezogene )というのはどういうことか。「知からも区別せられる」とはどういうことか。また「知に関係付けられるもの」と「知」との区別とはどういうことか。

「或るものの意識に対する存在」、そしてこの「対する」(fur) 存在の「対」ということが「関係」とも言われており、それが〈知〉と呼ばれていた訳だから、この場合、「知に関係付けられるもの」と「知」との「区別」という言い回しは、素直には受け入れ難いようにおもわれる。「知に関係付けられるもの」という場合の「知」は「意識」に取替えられるべきなのではないか。

しかし、もしそうであるとすれば、この段落の最初で言われていた、〈知〉と〈真理〉が「意識において」(意識の「中で」ではない)出来する(vorkommen )という事情が曖昧になることは明らかである。

コンテクストに沿えば、この10段は、現象学の叙述(「意識の経験の学」としての)の「実現の方法」について書かれてある9段の後に来ている。

そこで、ヘーゲルは次のように言っている。

この叙述は、学が現象知に関係することとして表象せられるし、また認識の実在性を検査し吟味することとも表象せられるが、そうした場合には、何か尺度として根底に置かれている或る前提なしには、この叙述は、行われないようにおもわれる。何故なら、吟味とはある承認せられた尺度をあてがうことであり、その結果として生じてくる吟味されるものと尺度との等あるいは不等が正しいか正しくないかの決定だからである(9段)。

むろん、この種の認定は「現象する知の叙述」の必然性の認識と重なっている。「絶対者から分離している認識と認識から分離している絶対者とに関する……表象」(4段)もなるほど、ヘーゲルの言う〈学〉が「登場するあかつきには即座に消失せるところの知の虚ろな現象をなしているにすぎぬ」としても「しかしそうは言っても登場してくるそのときには、学も、それ自身やはり一現象であり、学もまだ真実態において実現せられ展開せられた学ではないことをいみしている」(同上)。

もしそうであるならば「認識の実在性」の「検査」なり「吟味」としては ― これらのコトバは、すでにヘーゲルがイタリックにしているようにヘーゲルにとってはレトリカルないみあいしかもっていないが ― 現象学の叙述の行程ははなはだ「矛盾」に満ちたものになる。

というのも〈学〉もまたその「登場」という点で「現象」の一つであるとすれば「検査」なり「吟味」の「尺度」としての〈学〉こそが、これから、つまり、「現象」学の叙述の行程に従って「登場してくる」当のものだからである。

9段の上記の引用に続けて次のようにヘーゲルは言っている。

この際、およそ尺度というものは実在であり、自体であることを承認せられているものであり、したがって仮に学が尺度であるとすれば、学にもやはり同様の承認が与えられていることになる。しかしながら学がまだやっと初めて登場してくるここでは、学自身もその他のいかなるものも、実在であり自体であることを正当化してはいないのであるが、なにか実在とか自体とかいうものなしには、いかなる吟味も成立しえないように見えるのである(9段)。

このような「矛盾」を前にして、「真理と知との抽象的規定が意識においてどのように現われてくるかに注意を促す」こと、しかもそうすることが、この「矛盾」の「除去」を「明確化する」ことになる、と言ってヘーゲルが始めるのが10段(以降)の内容に属することだったのである。

つまり、ヘーゲルにとって「意識」が、或るものを自分から「区別する」ことと、またそれに「関係する」こととは「絶対者」の「現前性」 ― 「絶対者が即かつ対自的に我々の許に(bei) ありまたあることを意志しなければ…」(1段)とヘーゲルが言う場合の bei uns の bei の広がりにおける現前性 ― もしくは、そのパルーシアに関わる事柄であって、それは〈意識〉の経験の学としての『精神現象学』の主題そのものでもあった。

さて、ヘーゲルは、この10段以降 ― とは言っても、彼が〈知〉と〈真理〉について触れるのは10段の先の内容が初めてのものだったわけだが ― 、かの「吟味」の内容を更に具体的に展開することへ向かう。

意識の対他性としての〈知〉と、自体としての〈真理〉の問題は、最初から〈学〉、「尺度」としての〈学〉と「現象する知」の「関係」(の如何)に重ねて考えられており、10段は、確かに〈知〉と〈真理〉という意識の「抽象的」規定としては、最初のものであったが、それは緒論の、特に10段以降の議論からすればほんの導入程度の、つまり〈学〉と「現象する知」との「関係」(の如何)の問題への導入のいみしかもたされていないようにおもわれる。

それゆえ、意識の対他性(としての〈知〉)のいみは、さておいても、意識の自体が何をいみするかは、ヘーゲルの叙述に(形式的に)従ういみでは、さしあたり留保されるほかない。

「ところで ― とヘーゲルは、10段に続ける ― 我々は、知の真理を探求しているのであるが、そうであるとすると、我々は、知が自体的に何であるかを探求しているように見える」。

「知の真理(die Wahrheit des Wissens)を探求する…」というのは、〈知〉を「吟味」するということと同じことである。「吟味」ということで言えば、それは〈知〉を「尺度」としての「自体」に重ねてみるということであり、それは「知が自体的に何であるか」を探求することとやはり同じことである。

そのようにして、ヘーゲルは10段の〈知〉と〈自体〉としての〈真理〉の議論を〈現象知〉と〈学〉との「関係」 ― 現象知の叙述の主題である ― の議論に引き戻して見せる。

ところで、以前には、「尺度」としての〈自体〉は〈学〉の「登場」という点で、つまり「まだやっと初めて登場してくる」尺度としての〈学〉の「登場」という点で、自分が「実在であり、自体であることを正当化していない」(9段)ものであった。

しかし、「知の真理を探求する…」あるいは「知が自体的に何であるのかを探求する…」というふうに始まる11段では、尺度(自体)としての〈学〉の「登場」といういみでの、その〈学〉の「正当化」の有無の問題とは別の形で〈自体〉の問題が振り出されている。

しかしながらかく探求するときには、知は我々の対象であり、知は我々に対してある。そこで探求の結果としての知の自体が生ずるといっても、この自体はむしろ知の我々に対する存在であろう。我々が知の実在であると主張するものは、むしろ知の真ではなくして、それについての我々の知であるにすぎぬであろう。そこで実在または、尺度も我々の内にあるであろうから、尺度と比較せられ、またこの比較によって決定の下されるべきはずのものが必ずしもこの尺度を承認する必要はないということになるであろう(11段)。

知の真理の探求、知の吟味という場合、そこで透かされて〈知〉と「比較」の「関係」に入りこんでいる「尺度」としての〈自体〉は、それ自体「知の我々に対する存在」にすぎない。

それは「知の真理」というより「その真理の知についての我々の知」、つまりもう一つ別の知に過ぎないのである。そこで出会われているのは、もう一つの〈対他存在〉であって、〈自体〉なのではない。

実在なり尺度としての〈自体〉という真理は、そのように「我々のうちに」あることによって、この種の尺度との比較としての「吟味」(「探求」)を任意なものにとどめている。それは、言わば〈知〉を〈知〉で“洗っている”。

〈自体〉というものが「探求」なり「吟味」という形で、一旦「我々の対象」となる限り、それは相対的なものである。それは「我々」“に対して”の〈自体〉であるにすぎない。

11段の展開は、10段の「区別」と「関係」の両「側面」への振り分けが相対的なものにとどまるのではないかという疑問にさらすことにある。

むろんこの場合、直接、問題となるのは、意識が、或るものを「自分から区別する」という場合の「区別」の内容であって、むしろこの区別こそが、意識「に対して」ある当のものなのではないのか、この「区別」こそが意識の対他性(〈知〉)そのものなのではないのか、ということなのである。

このことにヘーゲルが端的に答えているかどうかは、大変な問題であるようにおもわれる。ヘーゲル自身は、意識の「本性」こそがこの問いに答えてくれるとして次のように言っている。

一つのものが、一つの他のものに対してあるのは意識の中でのことであり、言いか えれば、意識は一般に知の契機という規定を自分において有してはいるが、しかし同時に意識にとっては、この他者はただ単に意識に対してあるにとどまるのでなく、この関係の外にも言いかえると、自体的にもある、これが、すなわち、真という契機である。だから意識が、自分の内部において自体ないし真なるものであると言明するところのものにおいて、我々は意識が自分の知を測定するために自分で立てる尺度をもっていることになる(12段)。

けれども、これは単に10段の内容を繰り返したにすぎない。とはいえ、これ以上の内容をヘーゲルが緒論の全体のどこかで展開しているともおもえない。

うっかりすると見落としてしまうようなフレーズに、しかしハイデガーは注目する。それは、12段の最初のところに出てくる「意識は自分自身において自分の尺度を与える」(Das Bewusstsein gibt seinen Massstab an ihm selbst)という件りである。先の引用句は、このすぐ後に続いている。

ハイデガーは、特にこのフレーズの「自分自身において(an ihm selbst)」という語に注意する。「ヘーゲルが an sich selbst と言わずに an ihm selbst というのは何故なのか」とハイデガーは問いかける。

というのも、「この命題は、その言葉づかいによって異様な感を与える」ものだからである。むろん、アン・ズィッヒ・ゼルプストとアン・イーム・ゼルプストとの違いをドイツ語を母国語とする人々の語感として感じ取るのは、(私には)ほとんど絶望的。

しかしハイデガーは、仮にアン・イーム・ゼルプストというところをアン・ズィッヒ・ゼルプストと言ったとしたらどうなるかというふうに問題を振り出す。

「だが即自的意識とは何のことか」とハイデガーは自問する。

 つまり、意識は、「即自的に(アン・ズィッヒ・ゼルプスト)」―アン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )にではなくて―自分の尺度を与える、とした場合の意識、即自的な意識が自分の尺度を与えるとはどういうことか、とハイデガーは問う。

 「アン・ズィッヒに意識があるというのは、意識が自己の許(bei sich)にある場合のことである。そして、自己の許に意識があるのは、それがことさらに自己に対して(fur sich)あり、その形で即かつ対自的にある場合のことである」。

アン・ズィッヒ(an sich )な意識というのは、ハイデガーによれば意識のバイ・ズィッヒ・ザイン(自許存在)のことである。また「ことさらにヒューア・ズィッヒ(fur sich)にある」意識のことであり、「その形で即かつ対自的にある」意識のことである。

言ってみれば、それは意識の本来性のエレメントそのものなのである。しかしそうであれば、「現象学的懐疑の成り立つ場がなくなってしまう」(樫山欽四郎『ヘーゲル精神現象学の研究』54頁)のは明らかなことである。意識は、わざわざ吟味の尺度を与えるに及ばない。それは尺度そのものだから(そのものでしかないから)である。

 「けれども(とハイデガーは続ける)通常、意識は自分が即かつ対自的にあるものへは、かえって振りむかない」。だからこそ「自然的意識」―それもまた意識で〈ある〉ところの―は、叙述の、この道程において「自己喪失」(6段)しもするのである。

 かと言って、いわゆるハイデガーが緒論全体のヘーゲルの「第一命題」(※)とする「意識は、フューア・ズィッヒ・ゼルプスト(fur sich selbst )に自分の概念である(Das Bewusstsein ist fur sich selbst sein Begriff)」ということから言えば、「真理は、どこかよそから意識にふりかかってくるわけでもない」。

(※) ハイデガーは、緒論の内容を彼の言う「基本命題」を含めて「第三命題」にまでわけて理解している。参考までに次にそれを列挙しておく。

基本命題:「絶対者は、アン・ウント・フューア・ズィッヒに我々の許に存在し、また存在することを意志する」

第一命題:「意識は、フューア・ズィッヒ・ゼルプストに自分の概念である」

第二命題:「意識は、アン・イーム・ゼルプストに自分の尺度を与える」

第三命題:「意識は、自分自身を吟味する」

ハイデガーが、アン・ズィッヒ(an sich )な意識を意識のバイ・ズィッヒ・ザイン(自許存在)であり、それを「ことさらに(eigens)」フューア・ズィッヒ(fur sich)にある意識のことだと言うのは、彼の言う「第一命題」で使われている「フューア・ズィッヒ(fur sich)」を意識してのことである。

 つまり、アン・ズィッヒ(an sich )な意識が尺度を与えるというのは、内容的には「第一命題」を単に繰り返しただけのことであって、問題は、フューア・ズィッヒ(fur sich)に自分の概念であるところの意識が、なぜわざわざ自分を吟味する意識となるのかということであったはずなのである。

 それゆえ、「通常(gewohnlich)」「フューア・ズィッヒ(fur sich )にあり、その形で即かつ対自的にあるもの」へは、振りむかない意識が、そして、それでいてフューア・ズィッヒ(fur sich)に自分の概念であるところの意識が自らを吟味する、その尺度の与えられ方がアン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )という語にこめられていると、ハイデガーは考える。

アン・イーム・ゼルプストという言い方は二重のことをいみする。一方で、意識は自分の本質の中に尺度を具えている。他方で、しかしこのようにアン・イームに具わっていて何か他のもののところにあるのではないもの(尺度)を、意識は、そのままあけすけに自分自身に与えるのではない。意識は、尺度をアン・イーム・ゼルプストに与える。 それは与えながらしかも与えないのである(『ホルツヴェーゲ』S.156)。

 むろん、ここで「尺度」と言われているものが〈学〉のことであり、尺度としての学のことであり、「自体」としての尺度のことでもあったことからすれば、問題となっているのは、“意識の自体”の問題であり、また、その「与え」られ方の問題であるのは明らかなことである。

 つまり、意識が或るものを自分から「区別」すると同時に「関係」しもすると言われていた10段の内容の一歩突っ込んだ議論をハイデガーは、ヘーゲルのアン・イーム・ゼルプストという一語(の使われ方)に読みとろうとしている。

 ところで、仮に意識が尺度をアン・イーム・ゼルプストにではなくて、アン・ズィッヒに与えるとすれば、それは、「意識が尺度をフューア・ズィッヒ(fur sich)に自分に与える」ということになるとハイデガーは言う。この場合、「フューア・ズィッヒ(fur sich)」というのは、ハイデガーにとって、ヘーゲルの言う「即かつ対自的(an und fur sich)」ということと同じである。

 特に、この語は、ハイデガーによって「それ(意識)に対して」という語 ― ヘーゲルが、かの10段で、意識の対他性について「或るものの一意識に対する存在」と言った場合の〈fur ein Bewusstsein 〉のこと ― と対照的ないみで用いられている。次のようにハイデガーは言う。

自然的意識が、存在者を即自的に表象している限り、表象されたものは、真なるもの であり、しかも、「それに対して」、つまり、直接的に表象する意識にとって真理であ る。(…)直向的に表象しているときには、意識は表象されたものの中に雲散霧消して おり、意識は、取り立てて表象者としての自己へと帰向的に関係することはない。なる ほど意識は、自分によって表象されているものを自分の表象作用の中に有しているので あるが、しかし、意識はフューア・ズィッヒ(fur sich)にそれを有しているのでは なく、ただ単に「それに対して」有しているに過ぎない。(『ホルツヴェーゲ』S.1 56)

対象(「存在者」)の即自性が、〈知〉でもある場合に「自然的意識」の「フューア・エス(fur es)」は、それを「直接に表象する」のであり、「意識はそれによって直向的に表象されたものを真理と見なしている」。「フューア・エス(fur es)」とは、その場合、ハイデガーによって、或るものを「意識が意識に対して(fur es)表象する」-細谷貞雄は、親切にしかも適切に「それの向かいに」という注を付けている-というふうに使われている。細谷貞雄にあやかって言えば、フューア・ズィッヒ(fur sich)は、「それの向かいに」ではなくて「自分に向けて」なのである。

「フューア・ズィッヒ(fur sich)」が「バイ・ズィッヒ・ザイン」のことを指すとすれば、この対応のさせかたは理解しがたいものではない。また、「フューア・エス(fur es)」と「フューア・ズィッヒ(fur sich)」の両者を架橋するのが「アン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )」であるというふうに言えるかもしれない。

しかしヘーゲルは「フューア・エス(fur es)」とは別に「フューア・ダスゼェルベ(fur dasselbe)」という言い方を10段ですでにしていた。「或るものが同じものに対してある(Es ist Etwas fur dasselbe )」というふうに。ハイデガーは、ここで“フューア(fur) ”の使われ方に次のように言及する。

(…)対しての存在(Sein fur)としての存在においては、一方のものと他方のもの とが「同じものに対して(fur dasselbe )」存在している。とはいえ、知られたもの(das Gewusste )は、知るということにおいて、単に一般的に表象されているわけではなくて、むしろ、この表象行為は、知られたものを、自体的に、つまりは、真に在るものである一存在者としてマイネンしている。知られたものの、こういった自体存在が真理と呼ばれている。真理もまた「同じものに対して」つまり意識に対して、一方のもの(一被表象者)であり、他方のもの(一即自存在者)である。意識についての知と真理という二つの規定は、「対しての存在」と「即自存在」として互いを区別する。(『ホルツヴェーゲ』S.153)

一見すると、ハイデガーは、奇妙な“解説”を加えているようにおもえる。彼にとっては、「真理もまた」―つまり知がそうであるのと同様に―対他性と自体性をそなえていることになる。

すでにそう言うときにハイデガーは、それとなく「知られたもの」(das Gewusste)というヘーゲルが特にはそれとして使っていない言い回しをもちこんでおり、そこに、彼は、〈意識〉というドイツ語の Bewusstsein の響きをこめている。そして「知られたもの」の対他性と自体(真理)性とが問題になる場合には“意識されてあるもの”の、つまりは「意識の」両義性とハイデガーが言った場合のそれが問題になっているのと同じことが念頭におかれている。

“意識の自体”とはなにか、という問題は、「知られたもの」とハイデガーが一言で言うところのものの両義性に関わっているのである。

この読みかえは、任意なものなのではない。事実、ヘーゲルは、10段で言っていた意識の両規定を13段では「意識が一対象について知る」ということの中に「現存する」区別という形で言いかえている。

(…)意識は、一方では、対象の意識であるとともに、他方では、自分自身の意識でもある。言いかえれば、意識は、自分にとって真なるものであるものの意識であるとともにその真なるものについての自分の知の意識でもあるのである。真と知との両者が同じもの(意識)に対してあることによって、意識自身が両者の比較なのである。対象についての意識の知がその対象に呼応するかどうかは、同じものに対して生成している。
(…)一般に意識が一対象について知るという際にこそ、意識にとって或るものが即自であるということと、それとは別の契機としての知という契機、つまりは意識に対しての対象の存在の契機の区別がすでに現存しているのである。現存する、この区別にこそ吟味は基づいている。(13段)

それゆえ、〈知〉と〈真理〉とが、言いかえれば、対他存在と即自存在とが10段で(導入的に)問題になっていたように-特に加藤尚武(たち)が問題にしていたように-直接的な区別において問題になっているというより、「意識が一対象について知る」ということ、そのことにおける対他存在と即自存在との関係が問題なのである。「両契機」は、「知ることそれ自身に属している」(12段)。むろん、このことは安易な〈知〉への(即自存在の)還元へと問題を導くものではない。「知る」ことそのものが「両義的」なのだから。

注意すべきなのは、ここでヘーゲルが〈真なるもの〉についていうときに〈ihm〉という語を入れていることである。この代名詞の三格は、テクストでは「意識」を受けており、それは「意識にとって」ということであり、「意識は、自分(意識)にとって真なるものであるものの意識である」というふうに使われている。

 〈知〉は、さらにそれについての「意識の知」(の意識)である。このことは、「意識にとって(ihm)或るものが即自であるということ」と「意識に対しての対象の存在」(Sein des Gegenstandes fur das Bewusstsein ) ― 〈知〉というふうにも言われている。

 「同じものに対して」とヘーゲルが言う場合の「対して」は、〈fur 〉であるが、むろん、この場合の〈fur 〉には、代名詞三格のさしあたりの訳語としての「にとって」 ― つまり、「真なるもの」が「意識にとって(ihm)」あるという場合の ― と、〈知〉への言及の際にヘーゲルの言う(意識の)対他性(「対象の意識に対する存在」としての〈知〉)の両方が含まれていることは明らかである。

そして、ハイデガーが〈知られたもの〉という場合には、「同じものに対して」の“対性”から、それは言われているのであって、ハイデガーにとって「知られたもの」は、〈自体〉であり、また同時に〈知〉でもある。

 ヘーゲルは、この〈ihm 〉の言わば密かな前置きなしの導入から次のように議論をはこんでいる。

(…)仮にこの比較に際しての両契機(「意識にとって(ihm )或るものが即自であ るということ」と「意識に対しての対象の存在」との両契機)が呼応しないときには、意識は、自分の知を変更して、それを対象に適合せしめねばならないようにおもわれる。
とはいえ、知が変化する場合には、実際には、対象自身もまた、意識にとって(ihm )変化しているのである。というのも、現存する知は、本質的には、対象についての一知であったからである。知(の変化)とともに対象もまた別の対象となるが、それは、対象が変化する当の知に本質的に帰属していたが故のことである。
こうして、以前に意識にとって(ihm )即自であったものが今では即自ではないということ、言いかえると、その即自は、それ(意識)に対して(fur es)即自であったにすぎないということが意識にとって(dem Bewusstsein )生じている。
 それゆえ、意識が、自分の対象において(an)自分の知が対象に呼応しないことを見出すときには、対象自身もまた存続しないのである。言いかえれば、吟味の尺度は、それで計られるべきであったものが吟味に耐えないときには、自ら変化するのであり、吟味は、単に知の吟味のみならずその吟味の尺度の吟味でもあるのである(13段)。

このような結論は、〈知〉の有している対他性(「対象の意識にとっての存在」)とは別に即自の「意識にとって(ihm )」の存在という言い方を留保なしに許す限りは、明らかに必然的なことである。

「即自」が「それ(意識)に対して即自」になる。またそのことが「同じものに対して(fur dasselbe)」 ― ハイデガーは、この「同じものに対して(fur dasselbe)」を或る種のおもい入れを込めて「fur das Selbe 、すなわち、意識に対して」とも言っている(S.159) ― ある。

ヘーゲルは、これを「最初の即自」についての〈経験〉と呼んだのであり、この〈経験〉が「同じものに対して」あるといういみでは、それは、(ヘーゲルにとって)「意識の経験」であるわけだ。

そして「同じものに対して」の、この区別 - 〈即自〉と〈それに対しての即自〉 ― をハイデガーは、「区別でない区別」、「意識の両義性」と呼んだのである。

「同じものに対して」のもとに「イーム(意識にとって)」と「それに(意識)に対して」とが〈ある〉。「イーム」は、自体性=〈対象〉に、「それに対して」は、対他性=〈知〉にそれぞれ関わっている。そして、「同じものに対して」というものは、ヘーゲルが「我々に対して」というところのものであって、それは、意識の広がり(現前性)そのものを指している。意識のこの広がりが知の吟味を可能にしているものなのである(※)。

(※) 「我々に対して」 ― 「我々」をなにか人格的な、そのいみで心理的な実体であるかのようにとるのは ― たとえば、ルカーチ、コジェーヴ、イポリット、広松渉など ― それほど有益なことではない。「我々に対して」とは、(「意識にとって」の)自体性と対他性の交差するところそのもの ― つまり「知の吟味」の言わば現場の名称である。このいみで、それは「フューア・ダスゼェルベ(fur dasselbe)」と同じものなのである。その場合、〈そこ〉が「哲学者」あるいは「読者」であるかどうかは偶然的なことである。

ハイデガーは、「我々に対して」について「意識は、自分によって表象されているものを自分の表象作用の中に有しているのであるが、しかし、意識はフューア・ズィッヒ(fur sich)にそれを有しているのではなく、ただ単にフューア・エス(fur es)に有しているにすぎない」と以前に引用した章句の後に次のように続けて言及している。

「しかし、意識は、自分がフューア・エス(fur es)に表象している真なるものを与えると同時に、その真なるものの真理性に注目する“我々に対して”は、アン・イーム・ゼルプストに真なるものの真理性すなわち尺度を与えているのである」。

「アン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )」と「我々に対して」との、このコンテクストにハイデガーとともに注意しつつ、さしあたり、この議論は、この私の論考の最終章にまで先送りせざるを得ない。

 “意識の自体”が「イーム(意識にとって)」によって相対化されてはいるが、それは、一方で「フューア・エス (fur es) 」 ― 〈知〉の相対化とは別のものとして与えられている。その「イーム(意識にとって)」ということによって、両者の「フューア・ダスゼェルベ(fur dasselbe )」ということも初めて言われ得ているのであるが、なおそのことによって、「イーム(意識にとって)」と「フューア・エス (fur es) 」との区別がどのように与えられているのかヘーゲルの叙述からは明らかでないようにおもわれる(※)。

(※) 樫山欽四郎は、ハイデガーにふれつつも、即自を対自と対照させる。「結局、即自と対自という形の関係が問題の中心であることにかわりはない」(同上,P.51)というふうに。

しかし、問題であるのは、むしろ即自とフューア・エス(fur es)との、あるいは、「同じものに対して」を前にしての「イーム」と「フューア・エス(fur es)」との関係(区別)の如何である。

ハイデガーがアン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )に注目するのは、むしろ、フューア・エス(fur es)とフューア・ズィッヒ(fur sich)との関係を問う点でのことである。

 樫山が、即自と対自を「結局」「問題の中心」とするのは、そのことが、彼にとっては「存在と思惟」の問題をいみするからのことであるが、しかし、それでは事柄をカント的な地平へと矮小化することになるのは明らかなようにおもわれる。

 ヘーゲルにとって(ハイデガーにとっても)問題であるのは、現前性一般の問題であり、それゆえにこそ、ハイデガーは、一貫して「現象の現象性」ということ、現象性一般に付き添う形で彼のヘーゲル論を進めているのだから。むろん、その場合ハイデガーは、フッサールの現象学的還元(意味論的還元)を(特にその初期には)前提にしている―つまり、〈現象〉は、彼にとってポジィティヴな何かである。その点では、ヘーゲルは〈現象〉をネガティヴに考えるとしても、現象性一般(の問題)の必然性をヘーゲルが考慮せざるを得なかった点ではハイデガーの議論もまとが外れているわけではないのである。

ハイデガーは、彼がヘーゲルの「第三命題」とする「意識は、自己自身を吟味する」をこの「同一のものに対して」の〈知〉と〈対象〉との「同時」の存在から引き出してくる。しかし、この区別は、「なおやはり」彼にとっても、ヘーゲルによって「どうということもない(allgemein )区別」へと「平板化」されているように映る。

ハイデガーは、次のように言っていた。

自然的意識は、対象についての直接的な知であり、そしてこの対象を、真理とみなしている。それと同時に自然的意識は、自分が対象について知っていることについての知である、―それがその対象知へととりたてて反省しないときにも。対象についての知と知についての意識とは同一のものであり、そしてこの同一の意識に対して対象と知と がともに知られたるものなのである。対象と知とは「同一のものに対して存在する」。 ダス・ゼェルベ(das Selbe ) 、すなわち意識そのものに対して、一方と他方とが同時 に存在する。意識とは、意識にとって両者相互の区別なのである。意識は、その本性からして、一方と他方との比較である。この比較が吟味である。「意識は自己自身を吟味する」。

(…)意識の本性において知と対象が二分されており、しかも決して離れ離れになる ことができない。同様に、意識の本性において、対象と概念とが“として”(対象を対象“として”、概念を概念“として”というふうに ― 引用者注)において二分されており、しかも決して離れ離れになることができない。ヘーゲルは、これらすべてを区別しながらそれらの区別をどうということもない区別へと平板化し、そのことによってそ れらが固有の相へ現われでるのを妨げている…(S.159f.)。


【3】 an sich と an ihm -『大論理学』定在論における

ところで、ハイデガーがヘーゲルの〈自体〉-〈尺度〉論において、アン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )をアン・ズィッヒ・ゼルプスト(an sich selbst)と対照させたこと、そのようにして問題の所在を明らかにしようとしたことは、決して恣意的なことではない。

ヘーゲルは、『大論理学』初版にはない(※)次のような解説的な議論を2版には補足している。

人間の規定は、思惟する理性である。つまり、思惟一般は、人間の単純な被規定態で あるのであって、人間は、これによって動物から区別されるのである。思惟が、思惟の 対他存在、すなわち、人間が直接に他者と連関を結んでいるゆえんの人間に固有な自然 性なり感性からもまた区別されるかぎりは、人間は、思惟自体である。しかし思惟は、 アン・イーム(人間)にもまたある。人間自身は、思惟であり、人間は、思惟するもの として、そこに(そこにそう)定められて存在しており(er ist da als denkend )、 思惟は、人間のエクシステンツであり、現実性である。そしてさらに思惟が、人間の定 在の内にあり、そしてその定在が、思惟の内にあることによって思惟は、具体的なもの なのであり、内容と充実を有したものと見られることができる。思惟は、思惟する理性 であり、そのことによって思惟は、人間の規定である。しかし、この規定すらも一つの ゾレンとして単にアン・ズィッヒに在るにすぎない。言いかえると、この規定は、それ 自身としては、その規定の即自性と合体されているところの充実をもつものでありなが ら、まだ - 外的に対立する、直接的な感性と自然性としてあるような - この充実と 合体されていない定在に対立するものとしての即自性一般の形式をもっている。(『大論理学』二版、S.110f.)

(※)私が、初版と二版との異同について初めて知ったのは、寺沢恒信訳『大論理学』(以文社版)を読んだとき(1977)のことである。特に定在論の展開は、寺沢も指摘するように極めて多くの(ただならぬ)異同がある。
この私の論考にかかわる限りでの初版と二版の目次を参考までに掲げておく。

むろん、以下の異同について、今、検討するわけにはいかないが、少なくとも、ヘーゲル自身が「叙述」の展開と「事柄」の展開とを「同じもの」としている限り、この異同は「外面的」なものにとどまるわけではないようにおもえる。

さしあたり、今回の私の議論では、初版の展開を前提にする。私には、初版の方が或るいみですっきりしているようにおもわれるからである。特に〈被規定態(Bestimmtheit)〉の導入の点で、そうおもわれる。ただそうしたときに、〈質(Qualitat)〉の位置が不自然なようにもおもえる。その場合、私の現在の考えでは、〈限界〉論の位置の異同について、そして、特に〈変化〉の概念の理解にかかわる異同についての議論が、中心のテーマになるようにおもわれる。いずれにしても、これらは残念だが先送りの議論である。

【初版】
A.定在そのもの
1.定在一般   
2.実在性
a)他在
b)対他存在と即自存在
c)実在性
3.或るもの


B.被規定態
1.限界
2.被規定態
a)規定
b)性状
c)質
3.変化
a)性状の変化
b)当為と制限
c)否定

C.質的無限性
1.有限性と無限性
2.有限者と無限者との相互規定
3.無限性の自己への還帰


【二版】
A.定在そのもの
1.定在一般
2.質
3.或るもの

B.有限性
1.或るものと他のもの
2.規定・性状・限界
3.有限性
 a)有限性の直接性
 b)制限と当為
 c)有限者の無限者への移行

C.無限性
1.無限者一般
2.有限者と無限者との相互規定
3.肯定的無限性

D.移行


ヘーゲルは、ここで、アン・ズィッヒ(an sich )をアン・イーム(ihm=dem Menschen)と対照させている。この場合、ヘーゲルの例示に従えば、アン・イームは、人間のアン・ズィッヒ(an sich )としての〈思惟〉の「対他存在、すなわち、人間が直接に他者と連関を結んでいるゆえんの人間に固有な自然性や感性」を表示している。

ヘーゲルにならって言えば、アン・ズィッヒ(an sich )にあるものは、アン・イーム(an ihm)「にも」あるということになる。

このことのいみはなにか。

そもそも人間「自体」、人間「そのもの」とはどういうことか。

人間「自体」、人間「そのもの」というふうに言われる場合、人間的なもの以外のものは、一切捨象されているようにおもわれる。

〈人間〉という〈定在(Dasein)〉 ― それは、ヘーゲルにとってまた〈人間というもの〉といういみで、〈定在するもの(Daseiendes)〉としてのエトヴァスでもある ― を、一つの「幅」を有したものとして見れば、この“以外”という捨象の起こっているところは、人間の〈限界〉というふうに言える。精確に言えば人間という〈限界〉である。この限界(の〈外〉)は、人間が、それで〈ない〉ところのものである(※)。

(※) もっとも、ここで〈人間というもの〉としたときには、すでにそれは対他存在を含んでいることは明らかである。ヘーゲルは、〈定在〉から〈定在するもの〉へ「移行」する際にも周到な議論を積んでいる。

ヘーゲル的に言って、定在それ自身が、「否定」と「実在性」を含んでいる。そして、〈定在(Dasein)〉の、この両契機が「自己内」化されたものが〈或るもの〉である。そのいみで〈或るもの〉は「即自存在」と「対他存在」との統一、つまり「自己内存在」となっている。この統一性からして〈或るもの〉は、「幅」を有することとなり「囲いこまれた存在」という言い方もされることになる。「囲いこまれた存在」という点で〈定在するもの(Daseiendes)〉は、「限界をもっている」のである。

  「さしあたり」限界とは、「他者の非存在」であり、人間という或るもの(もっとも、この同格は、〈人間〉を〈或るもの〉という点で抽象したとすれば-という留保つきのものである、ヘーゲルにとって、〈人間〉が、〈或るもの〉以上のものであるのは明らかなことだ)は、「限界をもつことによって自分自身を限界づけているのではなくて、自分の他者を限界づけているのである」。

しかし、〈限界〉(「の外」)という言い方は、恣意的でもある。限界「の外」ということの“外”は、そう言えるためにいったいどれだけの必然性を有しているのだろうか。 〈或るもの〉を「他の」或るものから分かつ限界の“外”、あるいは、“内”を、その限界のどちら側の呼称とするかは、任意なものにとどまるようにおもわれる。一つの限界は、それ自身において限界の外でもあり、限界の内でもある。このことだけが必然的なことなのである。

ヘーゲルは、それゆえ、「限界は、他者の非存在であるばかりでなく、或るもの一般の非存在でもある」と言っている。

このとき、ヘーゲルは、「限界は、或るもの自身において(am Etwas selbst )ある」という言い方をしている。

(…)直接的に或るものがただ他者の非存在というかぎりで存在するとすれば、或る ものは、それ自身における(an ihm selbst )非存在である。そしてまた同様に、限界 は、或るもの自身がそれによって限界づけられているところのものでもあるのである。(同上、S.68)

〈限界〉は、非存在として「或るものの止む(Aufhoren des Etwas)」ところではあるが「しかし、限界が、本質的に他者の止むところであることによって、或るものは、同時に自分の限界によって存在する」。

このことが、非存在としての限界が「或るもの自身において(am Etwas selbst )」あることのトータルないみである。

自己内存在としての〈或るもの〉は、この〈限界〉論から始まっている。自己-内というときの「内」は、〈限界〉の有している両義性から展開されることになる(初版)のである。

人間「自体」(そのもの)というときの「自体」にかかわる〈限界〉は、すでに〈限界〉の「さしあたり」のいみ、つまり、「他者の非存在」としての〈限界〉で扱われていたものにすぎないようにおもわれるが、そのことによって、“自体”の問題が消失したわけではない。

「自己内存在」の「内」ということにおいて、即自存在と対他存在との展開される場がやっと用意されたということであり、その理由でこそ、「或るものにおいて(am Etwas)」(特に、その「アン」という語にアクセントをおいて)という言い方も、ここで使われているのである。

アン・ズィッヒ(an sich )とアン・イーム(an ihm)との関係(区別)の問題は、『大論理学』では、ここから内容的には初めて展開されることになる。

ところで、〈自己内存在〉 ― それは、ヘーゲルによれば、〈定在(Dasein)〉ではなくて、すでに〈定在するもの(Daseiendes)〉としての〈或るもの〉、つまり、他在の揚棄されたものとしての(精確に言えば、〈即自存在〉と〈対他存在〉との「外的」な関係の揚棄されたものとしての)〈或るもの〉であるわけだが ― は、「自己自身への単純な関係として」「他在」を、そしてそれとともに「限界」そのものを「自己」つまり、〈或るもの〉から「しめだす」(同上、S.69)。

というのも、「さしあたり」は、〈限界〉は、「他者の非存在」であった ― 「限界の外」というふうに ― からである。

「けれども」とヘーゲルは、続ける。「けれども、或るものの自己との相等性は、その否定的本性に基づいている。換言すれば、非存在は、ここでは、即自存在そのものである」(同上、S.69)。

つまり、ヘーゲルは「他者の非存在」とは、〈或るもの〉自身の「即自存在」のことだと言うのである。

言いかえれば、〈或るもの〉の「即自存在」は、〈或るもの〉の「他者に対する無関心性(Gleichgultigkeit)」を「形成」している。ちょうど、人間「自体」というときに、たとえば〈動物〉に、その人間の「自体」が「さしあたり」「無関心」であるように。

これは、「中間者」としての〈限界〉とヘーゲルが言うところのもの ― 「両者(或るものの定在と非定在)は、定在を互いに彼岸に、また自分たちの限界の彼岸にもっている。各々の非存在としての限界は、他者であり、従って各々は、自分の非存在の外に自分の定在をもっている」(同前、S.68) ― であって、〈線〉は「自分の限界、すなわち」〈点〉の“外”に、〈面〉は、〈線〉の“外”に、そして、同様に〈立体〉は、〈立体〉として、自分が「限界づける」〈面〉の“外”に、それぞれ自分の定在をもつというふうに、ヘーゲルは、例示している。

このかぎりでの〈限界〉は、ヘーゲルによって「概念の自己外存在」と呼ばれているものであって、この抽象性の水準は、「空間的対象」において「表象」されるものに対応している。空間上の「中間」と言われているものは、定在における即自存在の「無関心性」によるものであると、ヘーゲルは考えているわけである。

「自己への単純な関係」としての「他在」なり「限界」を自己からしめだす「自己内存在」、つまり、「他者の非存在」としての「自己内存在」=〈或るもの〉は、その(他者の)非存在が自分自身の「即自存在」であるというふうに存在している。

というのも、この「他者の非存在」は、言ってみれば「自己内存在の他者に対する無関心性」をいみしているのであって、この「無関心性」を構成するものこそ、他者に対する或るものの「即自存在そのもの」であるだろうからである。

このことのいみは、大きい。

なぜなら、「そのことによって、逆に、或るものの他在もしくは非存在が即自存在として定立されている」(S.69)からである。

そのいみで「他在」としての「限界」は、「即自存在そのもの」である。

「それゆえ」とヘーゲルは、先の例示に続ける。

それゆえ、点は、線が、ただ点で終わるだけであり、線は、点の外で定在としてあるというふうに、線の限界であるだけではない。線は、面が、単に線で終わるというふうに面の限界であるだけでなく、立体としての面もまた同様にそうではない。そうではなくて、線は、点で始まりもするのであり、点は、線の絶対的端初であって、線のエレメントをなしており、同様に、線は、面のエレメントを、面は、立体のエレメントをなしている。このように、これらの限界は、同時にそれらが限界づけているものの原理(端 初・Prinzip )でもあるのである。それは、ちょうど、1が、たとえば100番目の1として、100という数の限界であるとともに、また、100という数全体のエレメントでもあるようなものである(同上、S.69)。

「即自存在」、というより〈限界〉は或るものの非存在、「さしあたり」「限界の外」と言われたものの方までのびひろがっている。「限界は、自分が限界づけているものの原理(端初)でもある」のである。

「限界の外」という言い方で「しめだ」された〈限界〉あるいは或るものの「他在」は、だから「或るものから区別されない」。つまり、「他者の非存在」というふうに、それは、あるわけではない。「この限界という非存在は、むしろ或るものの根拠であり、或るものがそれであるところのものに或るものを仕向ける」(S.69)のである。

ヘーゲルによれば、この〈限界〉の否定性が、或るものの〈被規定態〉(Bestimmtheit)を形成する(初版)。

「或るものは、規定されている(Etwas ist bestimmt)」。

「すなわち、或るものは、自分の限界によってのみ自己の内にある。限界は、他在の否定であるが、しかし、それとともに他在は、或るものの即自存在的な、内在的な規定(die an-sich-seiende immanente Bestimmung des Etwas)そのものである」(S.73)。

〈被規定態〉は、そのいみで「限界の真理」である。

人間「自体」(「そのもの」)といういみでの〈人間〉という〈被規定態〉を、ヘーゲルは、〈規定(Bestimmung)〉と呼ぶ。

それは、ヘーゲルによって、すでに「単純な被規定態」とも言われており、ヘーゲル自身の例示(2版)によって「人間の規定は、思惟する理性である」と言われていたときの〈規定(Bestimmung)〉のことである。

そして、〈規定(Bestimmung)〉が「或るものの非存在」を形成していることからすれば、それは、〈或るもの〉の「本分(Bestimmung)」、「使命(Bestimmung)」でもある。

  「即自(自体)」とは、「本分」であり、「使命」のことなのである。それは、「本分」であるかぎり、自分の「限界の外」に「無関心」であり、この「無関心性」こそが〈動物〉と〈人間〉との「区別」を「即自」的に形成しているものなのである。

 「人間というものは、理性的である」(「人間の規定は、思惟する理性である」)というときには、この〈人間〉が〈類〉としての人間であり、「―というもの」としての人間であることは、はっきりしている。言ってみれば、この「理性的である」の〈である〉は、当為(ゾレン)としてのみそうであって、自分の隣りにいる〈ひとりの〉人間(あるいは、実際に自分)が理性的であるかどうかについては、「無関心」である。

しかし、ひとが〈動物〉と自分を「区別」する場合(たとえば、〈人間〉は「思惟する理性」であり、〈動物〉は、“非理性”だというふうに)、そこで実際、ひとは、自分を〈他の〉人間から「区別」してもいるのである。人間には、理性的人間と非理性的人間がいるというふうに。そのいみでこそ、隣りに〈ひとりの〉理性的人間がいるかどうかについて、彼は「無関心」でいられもする。つまり、事実、彼の隣りに〈一人の〉理性的人間がいるわけでは―必ずしもいるわけではないのである。

ひとが、その種の「区別」において見ているものは、「自己内存在」としての〈人間〉の「対他存在」性なのである。そうでなければ、〈動物〉の「即自」をどうやって云々することが(その「他在」で〈ある〉人間に)できるのだろうか。見てきたようなウソをつくことの可能性こそが問題なのである。

人間「そのもの」が、結局のところ、動物的であり〈うる〉わけだ。

〈動物〉の「即自」は、そのいみでは、一つの隠喩である。それは、むろん理性そのものが、〈人間〉にとって、一つの隠喩であるのと同じことである。

というのも、ひとは、動物自身に、人間的(理性的)な動物と非人間的(非理性的)な動物との「区別」をもちこんでもいるのだから。

〈人間〉と〈動物〉との「区別」(〈限界〉)こそが人間で〈ある〉もしくは〈動物〉で〈ある〉。そして、この“もしくは”こそが本当のところ隠喩なのである。

それゆえ、理性/非理性の「即自」的な区別(「無関心」な区別)は、理性そのものの-“もしくは”非理性そのものの(“内部”の)区別に「移行」している。理性的な理性と非理性的な理性との“もしくは”非理性的な非理性と理性的な非理性との区別へと、それは、「移行」する。これは、ペレルマンが「概念の分割」と呼んでいたところのものである。

〈規定(Bestimmung)〉は、〈性状(Beschaffenheit)〉へ「移行」すると、ヘーゲルは、この「分割」性をとらえる。ちょうど「他在」という非存在が、或るもの自身の「即自存在」であったように、それは「移行」する。

規定は、或るものの即自存在を形成している。けれども、被規定態は、ただ単に即自存在であるばかりでなく、限界として、対他存在でもまたある。言いかえれば、それは、他在へと移行した自己内存在(das in das Anderssein ubergegangaene Insichsein )である。被規定態は、最初は、他者に対する無関心性であり、他者は、或るものの外に落ちている。しかし、それと同時に、限界が或るもの自身に属することによって、或るものは、他在をアン・イーム・ゼルプスト(an ihm selbst )に有している。
被規定態 は、このようにして或るものの外面的定在であり、この外面的定在は、なるほど或るものの定在でありはするが、かといって或るものの即自存在に属しているものなのではない。
かくして、被規定態は、性状である。

あれこれの性状をもつとされる場合に、或るものは、自己内に存在するものとしてでなく、外的な影響なり関係の中にあるものとして概念把捉されている。この性状という被規定態は、なるほど、或るものに属してはいるが、むしろ、或るものの他在であり、 しかし、その他在が或るものにおいて(アン・イーム)あるかぎりの或るものの他在なのである。或るものが、一他者、つまり、外面的なものとして現れることからして、性状が依存している外面的な関係なり、他者によって規定されていることは、なにか偶然的なものとして現れる。しかし或るものは、この外面性の犠牲に供されること、すなわち、一性状をもつことの内に存立している(S.70f.)。


人間の「即自」として「理性」で〈ある〉ものは、「アン・イーム」にも「理性」で〈ある〉。その場合、「理性」は、〈性状〉である。ヘーゲルの〈論理学〉においては、アン・ズィッヒ(an sich )とアン・イーム(an ihm)との関係の始元的モデルは、〈規定(Bestimmung)〉と〈性状(Beschaffenheit)〉との、この関係に求められる。

「(思惟する)理性」が〈規定(Bestimmung)〉から〈性状(Beschaffenheit)〉へと「移行」することによって、隣りにいるひとりの人間は、性状としては、つまりアン・イームには、非理性でもあるのである(非理性であることができる)。

武市健人は、このアン・イーム(an ihm)を「もつ」というふうに訳している。「人間は、思惟自体である。しかし、思惟はまた人間がもつもの(an ihm)でもある」(岩波版『大論理学』140頁)というふうに。寺沢訳は、「限界が或るもの自身に属することによって、或るものは他在をそれ自身の許に(顕在的に・an ihm)もっている」(136頁)となっている(※)。

どちらの訳も苦心の末のものだろうが、しかし、アン・イーム(an ihm)という言い回しのマークするところは、「もつ」という場合には、もた〈ない〉ということが、「顕在的」という場合には、〈非〉顕在的ということが同時に含意されているということである。むろん、この両義性を訳語にのせることは、ほとんど(私には)絶望的なことである。

(※) 寺沢恒信は、アン・ズィッヒ(an sich )とアン・イーム(an ihm)とを「潜在的」-「顕在的」との類比において理解しているが、これは明らかに無用で有害な注である。私の先に引用した2版のパラグラフ(「人間の規定は、思惟する理性である……」)に寺沢は、次のように解説を付けている。

これは人間を例にとって「規定」の説明をしている叙述であるが同時に“an sich"と“an ihm" とのちがいの説明にもなっている。すなわち前半で「思考そのもの(思惟自体)」といわれているものは、人間が動物から区別されるゆえんのものであり、したがってそれは「思考能力(思惟能力)」のことだと解せられる。だが人間は、つねに思考能力をもつからといって、つねに思考能力を働かせているわけではない。その限りで「思考そのもの」は、「可能的」であり「潜在的」である。 ― 「思考はまた an ihm にもある」からあとの叙述では、「思考する人間」すなわち「思考能力を現に働かせている人間」のことがいわれている。人間が現実に思考しているばあいに、思考は、「思考一般」ではなくて、内容と充実をともなった具体的思考になるのである。このことを考えると、「思考は、an ihm にもある」とは、思考が単に可能性としての能力ではなく、人間が現実に思考することによって思考活動として顕在化していることをいうものと解せられる。(以文社版『大論理学』Ⅰ・390頁)

しかし、もしそうであれば「思考一般(思惟一般)」は、寺沢の言う、その「能力」の「潜在的」なまま-言わば、死ぬまで「潜在的」なまま-の人間「にとって」は、どのように〈ある〉のだろうか。

 仮に“非理性”な者(バカ)が「潜在的」な賢者であるとすれば、また、そのいみで寺沢が単純ないみでの二世界論をとるのでないとすれば、“非理性”な者(バカ)を「潜在的」賢者だとせざるを得ない、その「分割」性そのものになぜ彼は注意を向けないのか。

 〈規定(Bestimmung)〉から〈性状(Beschaffenheit)〉への「移行」において、つまりアン・ズィッヒ(an sich )からアン・イーム(an ihm)への移行において、ヘーゲルがマークするものは、或るものの非存在としての他在が、実は、或るもの自身の即自存在であったようにして、即自存在そのものが(即自存在と対他存在とに)「分割」される局面である。

はっきりしていることは、アン・イーム(an ihm)が、〈規定(Bestimmung)〉の即自性の中に或る種の「分割」(ペレルマン)をもちこむということ。

むろん、この問題はヘーゲルが意識しているように〈(大)論理学〉の先々の行程にまで敷衍できる。

実際、ヘーゲルは、初版の〈実在性〉の注解のところで、〈実在性〉という語が、一方で「外的定在」を、また一方で「即自存在」をいみしている―それらは、ヘーゲルにとっては、〈実在性〉の「単一ないみ」に属しているが―と指摘したうえで、「即自」という語「もまた」二重のいみをもっていると、次のように続けていた。

 即自(das An-sich )という語もまた部分的には二重の意義を有している。或るもの は、それが対他存在から出て自己へと還帰しているかぎりにおいて即自的に存在してい る。

 しかし、或るものは一規定なり状態(eine Bestimmung oder Umstand)をもアン・ズィッヒ(この場合には、アンにアクセントがある)に有しており、言いかえれば、この状態が外面的にアン・イームにあるかぎりでは、つまり、この状態が一対他存在であるかぎりは、或るものは、一規定なり状態をアン・イームに有しているのである。

これら二つのものが定在なり、実在性において合一されている。定在は、即自的にも 在るが、同様に定在は、或るものをアン・イームにも有しており、或るものは対他存在でもあるのである。とはいえ、定在が、自分が即自的にそれであるところのものをアン・イームにも有しているということ、また逆に、定在が対他存在として存在しているところのもので即自的に在りもするということ、このことは、即自存在と対他存在との同一性に特に或る内容からしてかかわっており、そして形式的には、規定が性状に移行する限りでの定在の領域の中で早くも部分的に明らかにされるが、しかし、より表明的には、本質の考察、および、内面性と外面性との相関の考察の中ではっきりするだろうし、また完全にきちんとした形をとるのは、概念と現実性との一体性である理念の考察の中でのことになるだろう(※)(S.64)。

(※) この〈実在性〉の注に関するパラグラフは、ほとんど同じ形で、二版にも登場するが、二版では、この注は「B.有限性」の「1) 或るものと他のもの」の本文に挟まれており、その地位は、言わば “昇格”している(この経緯については、ここでは省略する)。

二版では、当の〈規定(Bestimmung)〉から〈性状(Beschaffenheit)〉への「移行」に際しても、この「アン・イーム」という語の意義について比較的詳しく議論しており ― 初版では、肝腎の〈性状(Beschaffenheit)〉のパラグラフで、この語の意義についての言及がほとんどないのであるが ― 解説的な色彩が濃いにしても、ヘーゲルが、この語を初版とともに初版以上に重要なものと考えているのがわかる。

 むろん、ここで、内面性/外面性、概念/現実性へと考察をさらに先へと進めるのが本意なのではないが、ただヘーゲル自身がアン・ズィッヒ(an sich )とアン・イーム(an ihm)との関係を問う場合 ― 特には、アン・イーム(an ihm)という語のいみにかかわる場合 - 彼が定在論をこえて論理学全体の広がりを射程に入れながら議論を進めていることには注意してもよいはずである。


【4】 隠喩の生成もしくは生成の隠喩

人間(人間というもの)が、たとえばヘーゲルが例示するように「理性(思惟する理性)」的であるという場合、むろん、この「理性」という〈定在〉が ― それが〈定在〉であるゆえに ― 前提としている非理性との区別が、一方で、即自的な区別をいみするとともに、一方で、アン・イーム(an ihm)にある区別をいみしもすることは、明らかである。

人間が理性「そのもの」であるとしても、人間「にとって」(dem Menschen)は、理性的では〈ない〉人間もいることは、明らかなようにおもわれる。

たとえばそれは、この場合、非理性「そのもの」である〈動物〉「にとって」は、それが非理性で〈ない〉こともあるのと同じことである。

〈動物〉に向かって(fuer)、「お前は、非理性(馬鹿)だ」といっても、それは馬の耳に念仏である。馬(鹿)はそのことに「無関心」なのであって、この種の「無関心性」こそ、ヘーゲルが言うように、即自存在が構成している。

一方で、理性が、アン・イーム(an ihm)にも在るという場合、それは、非理性とともに在るということを含意している。

アン・イーム(an ihm)は、それゆえ、人間の〈規定(Bestimmung)〉が相対化されることの必然性を言っている。つまり、それは、必然的に、人間が非理性であることを言ってもいる。

〈規定(Bestimmung) ―〈即自(an sich )〉というものの任意性がそこで明らかになる。アン・イーム(an ihm)は、〈規定(Bestimmung)〉がその反対の規定に「無関心」(gleichgultig)であること ― 反対の規定と「等価」(gleichgultig)であること ― の反省(Reflexion )である。

人は、そこで、理性(および非理性)に、非理性/理性の区別、当初の即自的な区別を重ねる。即自的な区別こそが、アン・イーム(an ihm)に区別される。つまりすでに明らかなように、この区別は〈規定(Bestimmung)〉の区別の隠喩である。

ヘーゲルが、意識は「尺度」、つまり「自体」をアン・イーム(an ihm)に与えるというとき、彼は、「尺度」・「自体」の隠喩性について語っているのである。

しかし、それは、単に意識の隠喩なのではない。「自体」といっても、それは意識の自体にすぎないというふうに、それは意識の隠喩なのではない。それは、単にヘーゲルが、“fuer es an sich ”(「意識に対しての自体」)と言うものにすぎない。「意識にとって ( ihm ))」の「自体」というものが、さらにそれから「区別」されもしていたのだから。

ヘーゲルが、フューア・エス(意識に対して)とイーム(意識にとって)とを区別したとき、特に、フューア・ダスゼェルベ(fur dasselbe) の「フューア」をそのように二重に考えたときに、すでにアン・イーム(an ihm)というときの「自体」の隠喩性は、固有のいみを獲得していた。

ところで、ヘーゲルは、イームという仕方で与えられる「自体」を、14段では「最初の自体」と言っていたのであり、これが“fur es an sich”(「意識に対しての自体」) ― それは、「第二の対象」とも言われているが ― に「変わる」ことを〈意識の経験〉と呼んでいた。

むろん、この場合「意識の」というのは「同じものに対して(の)」ということであり、イーム(ihm )とフューア・エス(fur es)とによって「同じものである」「意識」に与えられる「対象」についての「意識の経験」を、それはいみしている。

アン・イーム(an ihm)に「自体」を与えるということは、それゆえ、イーム(ihm )とフューア・エス(fur es)との〈分割〉にかかわる、また、そのいみで「最初の自体」と「意識に対しての自体」との区別にかかわる。それは、「意識」/「対象」の「両義的」な〈分割〉にかかわっているのである。

しかし、ヘーゲルは、この〈分割〉性にかかわって、なおかつ、それが「同じものに対して」「すなわち意識に対して」と言っているわけである。この「同じもの」である「意識」自身は、決して“fur es an sich”(「意識に対しての自体」)としての〈知〉であるわけではなく、「意識にとって(ihm )」の「自体」でないにもかかわらずである。

ヘーゲルは、そこで「意識の経験」と言う場合、「経験という語のもとに、通常、理解されているものとは一致しないようにおもわれる或る契機」についてふれている。「通常、理解されているもの」とは、ヘーゲルによれば、次のことである。

(…)それに反して我々が、我々の最初の概念把握の非真理を経験するのは、我々が 偶然的で外面的にたまたま見つけるところのもう一つ別の対象において(an)のことで あり、従って、そうじて、我々に残されていることは、自立してそれだけであるものを、純粋に把捉することだけだとおもわれる(15段)。

ヘーゲルは、それゆえ、ここで「経験」は或る対象(「最初の自体」)と「もう一つ別の対象」との「偶然的で外面的」な関係において「通常、理解されている」のであって、それは、決して「同じもの」「すなわち意識の」経験とは、考えられていないのではないか、と反問しているのである。

この反問は、決定的なものである。

というのも、ヘーゲルが「真なるものの両義性」と自分自身で言ったときに、彼は、一方で、イーム(意識にとって)という仕方で与えられる真理(自体)とフューア・エス(意識に対して)という仕方で与えられる真理(自体)とを留保しつつも認めている。

しかし、仮に、この真理が「同じもの」つまり「意識」に「対して」〈ある〉のであれば、“最初から”真なるものは、フューア・ズィッヒ(fur sich)に〈ある〉のであり、ハイデガーにならって言えば「ことさらに」フューア・ズィッヒ(fur sich)にあるはず。意識がそこで「ことさらに」「同じもの」の〈経験〉を必要とすることはないわけだ。

「対象の生成」ということにかぎらず、このことは、生成一般の困難を含んでいる。

“進化”論的に、〈人間〉は〈猿〉から生成(進化)したと言う場合、〈猿〉は〈どこ〉で〈人間〉に〈なる〉のだろうか。

現存する〈猿〉がいつの日か〈人間〉になるといういみで、〈猿〉から〈人間〉が進化したとすれば、この地上から(仮に、〈人間〉が進化の目的-終末に属しているとすれば)〈人間〉“以外”のものは、いつかは消失せるにちがいない。

これは、奇妙なことだ。仮に“進化”という言葉を極力中性化して理解したとしても、それは、奇妙なことである。

そのいみでは、〈猿〉は、何千年、何万年と観察を続けても、〈猿〉でしかないだろう。むろん、何千年、何万年というのは、レトリック―野暮なレトリックである。これがレトリックでしかないのは、“進化”ということがレトリックでしかないのと同じいみでそうなのである。

というのも、〈進化〉ということの時間の現在(存)性は、〈人間〉の、アン・イームな“進化”とひとしくもあるからだ。つまり〈人間〉が動物に、仮に中性的であるにせよ、進化論的な差別 ― 断わっておくが、ここで「差別」という語にイヤミないみは全くない ― をもちこんでいるということは、アン・イームに(〈人間〉において)も、差別はあるということであって、〈人間〉は、自分自身(自分自身の現在性)を様々な差別 ― 社会的、政治的、階級的、民族的……あるいは、個人(もしくは諸個人)の“成長(身体的・思想的)”といういみでの ― の内においてもいるということである。

何千年、何万年ということが比喩であるにせよ、無(反)意味な比喩でないのは、この人間の現在(存)性(現存する差別)に基づいている。

そして、この現在(存)性が、〈人間〉より“下級”な〈猿〉や〈犬〉の現在(存)の隠喩でもあるのは、もちろんのことである。〈猿〉の研究者のディスクールは、〈猿〉のディスクールなのであって ― この比喩は〈直喩〉なのではなくて、むろん〈隠喩〉である ― 単に、顔が似ているというだけのことではない。

それゆえ、〈人間〉が、〈人間〉でしかないといういみでの即自と〈猿〉が〈猿〉でしかないといういみでの即自との〈間〉を「同じものに対して」、つまりヘーゲルのコンテクストにおいては、「対象の生成」として見なすには、なるほど「通常、理解されているもの」とは、別の〈経験〉概念が必要にもなるわけである。

ヘーゲルによれば「新しい対象」が「最初の自体」とは「別のもの」としてではなくて「生成したもの」として「現れる」のは―つまり「経験」が「同じもの」「すなわち意識の」経験として「現れる」のは「意識の転換(eine Umkehrung des Bewusstseins )」それ自身によることである。

むろん、この「転換」こそが、単なる「経験の系列」を「学的行程」にまで「高める」ことにかかわっているわけだが、しかし、この「転換」は、「我々の付加的関与(unsere Zutat)」によるものであって、「この付加的関与は、我々の考察する意識に対しては」「存在していない」。

それゆえ、「対象の生成」ということについて言えば、たとえば、〈感覚的確信〉の意識 ― 「我々の考察する意識」 ― の「生成」として、〈知覚〉の意識が存在しているわけではない。それは、「我々の考察する意識に対しては、存在していない」。

つまり〈猿〉が、化けるようにして〈人間〉になるわけではない。それは単なる〈猿〉の消失でしかないのだから。

とはいえ、ヘーゲルは「生成」にかかわる、この消失のいみをすでに緒論の7段で〈懐疑主義〉の否定性と自らとを区別した内容へと遡行しつつ、次のように言う。

 (…)一つの真実でない知において生じてくる、その時々のどんな結果も、空虚な無 へと縮減されてはならないのであって、それは、そのものの結果が、無であるところの ものの無として、必然的に把握されねばならないのである。つまり、結果は、先行する 知が、その知において(an ihm)有している真理のなにかを含んでいる結果なのである。(15段)

それゆえ、ヘーゲルにとっては「結果」としての「新しい対象」(「第二の自体」)は、「最初に対象として現れてきたもの」(「最初の自体」)とは「別のもの」としては、たしかに「無」であるが、「そのものの結果が、無であるところのものの無」としては、「新しい対象」は、「最初の自体」に対して何事かではある。

この場合、なおヘーゲルは「対象の生成」ということについて慎重なのであって、「結果」ということを言わば二重に考えている。

一方で、ヘーゲルは「新しい対象」の(を)「内容」として見れば、それが「生成」の「結果」であることは ― 仮に「意識の転換」にかかわる「我々の付加的関与」そのものは「我々の考察する意識に対しては、存在しない」としても ― 「(「我々の考察する」)意識に対しても存在する」と言っている。

ここで、「内容」というのは、たとえば〈感覚的確信〉の「真理」 ― 手短かに言えば、〈感覚的確信〉に「対して」は存在していないにもかかわらず、それを「形成」しているもの ― としての〈普遍性〉が、〈知覚〉では、それの「内容」となるというふうにである。

 つまり、充全な形でないにしても ― 〈知覚〉の段階では、この「普遍性」は、「存在」と「否定的なもの」との「直接的な一体性」としての〈性質(Eigenschaft )〉として限定されている ― 〈感覚的確信〉の「内容」(「対象」)ではなかったものが、〈性質〉として「内容」(「対象」)となるといういみでである。

 つまり〈感覚的確信〉における「我々」とは、〈知覚〉の「内容」で〈ある〉ように〈感覚的確信〉の「真理」で〈ある〉のである。そのいみで、ヘーゲルの「我々」はカントの〈超越論的統覚〉と区別されねばならないのであって、それは、その都度の意識の「内容」となって ― 言わば「時間の中に現れて」 ― 「自分自身を確信する真理」でありもするのである。

  〈感覚的確信〉の非真理としての〈非〉(の欠如性)は、そういういみでは、たしかにたとえば〈知覚〉において充足されはしているのである。そこでは「生成」ということの「内容」的な側面は充たされているようにおもわれる。

この「内容」、たとえば〈知覚〉の「内容」は、知覚自身が確信している〈感覚的確信〉の「真理」で〈ある〉。それは、〈感覚的確信〉との区別を〈知覚〉意識において(an)、つまり、アン・イームに有している。言いかえれば「対象の生成」にかかわる、この区別は「内容」として見れば、知覚の現在(存)性(のひろがり)そのものなのである。

それゆえ、この「内容」としての「生成」は〈感覚的確信〉から〈知覚〉への“移行”そのものを〈対〉象としているわけではない。むしろそうであるからこそ、〈知覚〉は、知覚“として”、〈感覚的確信〉は、感覚的確信“として”〈ある〉。

だから、ヘーゲルが先に「我々の考察する意識に対しては、存在していない」、「意識の転換」にかかわる「我々の付加的関与」と呼んだものは、「発生してくるもの」の有している「形式的なもの」について、特にそれに限定して言われている。この「形式的なもの」とは、それゆえ、「純粋な発生」とも呼ばれるのである。

次のように、ヘーゲルは言っている。

(…)我々は、我々にとって発生してくるものが有している形式的なもの(das Form elle)つまり、その純粋な発生(reines Entstehen)そのものだけを概念把握するので ある。つまり、フューア・エスには(意識に対しては)この生成は、ただ対象として存 在するにすぎないが、同時に、我々に対しては、運動および生成として、それは、存在 しているのである(15段)。

しかし「生成」のこの時間性は、いったいどのようなものなのだろうか。

それは、「我々に対して」は〈ある〉が、しかし〈ある〉のは、「運動および生成」としてであり、「発生してくるもの」の有している「形式的なもの」としてである。

つまり、それは「我々に対して」であっても ― 特にその「対して」であっても〈内容〉(対象)としてではない。

「我々の付加的関与」は、〈内容〉的な関与なのではない。それは「純粋観望する」(das reine Zusehen ) 関与なのである。

仮に〈内容〉としてそれが〈ある〉とすれば、現象学の叙述の行程の〈どこ〉かに“生成の章”とでも呼ぶべきものがあってもよいのだが、むろんそんなものはない。

ところでヘーゲルは、すでにイーム(ihm) とフューア・エス(fur es)とを区別したときに、そして〈吟味〉は「現存する」この「意識にとっての(イーム)自体」と「意識に対する(フューア・エス)自体」との区別にこそ基づくとしたときに、対象の自体と対象の知との“不一致”は、単なる「知の変更」にとどまらず、対象自身も「意識にとって、変わる」(13段)と言っていた。

 単に知の変更にとどまらず対象自身の変化といういみで、〈吟味〉は「知の吟味」にとどまらず、その吟味の「尺度の吟味」でもあったわけである。

こうして、以前に意識にとって自体であったものが今では即自ではないということ、言いかえると、その即自は、それ(意識)に対して即自であったにすぎないということが意識にとって生じている。それゆえ、意識が、自分の対象において(an)自分の知が対象に呼応しないことを見出すときには、対象自身もまた存続しないのである(13段)。

それゆえ「以前」の対象(そしてまた「以前」の知)は、〈吟味〉において消失するわけではない。ヘーゲルが、ここで言っているのは、逆の読み方をすれば、一つの対象には、一つの知が「呼応(一致)」しているということであって―たとえば、〈感覚的確信〉の意識(知)は、いつでも自分の対象と「呼応(一致)」しているということである。

そうでなければ、〈感覚的確信〉は、対象との“不一致”を「知っている」のにわざわざ間違った知を抱いていることになる。周知のように、フォイエルバッハのヘーゲル批判は、ここで(ここにとどまって)生じている。

しかし“不一致”が「意識されている」ということは、そのことがまさに「一意識に対してある」といういみで別の対象(別の知)の「生成」、「内容」的なアン・イーム(an ihm)な「生成」を言っているである。

それゆえ、〈吟味〉は〈感覚的確信〉という一意識の“内部”で起こるというよりは、それの〈真理〉で“ある”〈知覚〉の方から ― つまり〈感覚的確信〉にとっては「我々」という言わば外面的でしかないエピソードのような仕方で ― 遂行される。

「我々」の「真理」は、〈感覚的確信〉にとっては繰り延べられる何かなのである。

〈吟味〉は、そのいみで〈知覚〉(以降)の「意識の転換」、つまり〈感覚的確信〉へのその遡行(Er-innerung ・内化-想起)においてこそ〈吟味〉となる。

この「転換」が『(精神)現象学』の行程の必然的な分節化の可能性を含みうるのは、“不一致”にかかわる〈無〉が、ヘーゲルが再三指摘するように何ものかの無であること(「その結果が、無であるところのものの無」であること)、つまり〈論理学〉的に言えば〈無〉もまた〈定在〉であることにかかわっている。

それは、何ものかの無であることによって「規定(限定)されている」のである。〈無〉は、ヘーゲルにとって〈否定〉である。

だから〈感覚的確信〉が「直接性」をその「原理」としていたことの「否定」 ― つまり、「それに対して」の“不一致”(の現在性) ― は、それ自身「直接的」でしかない。

 それを一言で言えば〈知覚〉は、〈感覚的確信〉の「直接性」を〈止揚〉するということである。言いかえれば、〈知覚〉は〈性質〉(の存在)を「対象」とすることによって「直接性」を「廃棄」もするが、しかし「保存」もしているのである。〈性質〉は、「否定的なもの」との「直接的」な一体性であるというふうに。

つまり「転換」といういみで〈感覚的確信〉は、〈知覚〉 ― あるいはそれ以後の『(精神)現象学』の展開 ― の隠喩であるが、〈知覚〉は、しかし〈感覚的確信〉における「直接性」の隠喩でもある。

〈知覚〉以後の、つまりは〈絶対知〉の「真理」は、その「自己内存在」の「直接性」ということである。しかし、むろん〈絶対知〉 ― 「内容」としての〈絶対知〉にとっては、そのことは、エピソードにすぎないのであって、〈感覚的確信〉こそが〈絶対知〉に“対する”「我々」なのである。〈絶対知〉の「真理」は、〈感覚的確信〉で〈ある〉。

 〈知覚〉の「転換」は、それゆえ〈感覚的確信〉の「転換」でもある。つまり〈知覚〉意識のアン・イーム(an ihm)は、〈感覚的確信〉意識のアン・イーム(an ihm)でもあって、『(精神)現象学』における「対象の生成」は、言わば隠喩の隠喩なのである。

それは、どういうことか。

  「対象の生成」ということでの『(精神)現象学』の行程は、特にその生成の「形式」性という点で言えば、ヘーゲルも意識しているように“自然時間”をすでに逸脱している。 それは、一つの〈書物〉を“前”から読もうが、“後”から読もうが、その「内容」にかわりはないといういみで特にそうである。

たとえばフォイエルバッハがヘーゲルの叙述の〈始まり〉は「本当は」〈絶対理念〉(もしくは〈絶対知〉)に、その「本来の」所在を有しているにもかかわらず、実際は、それで〈ない〉ものから、彼は叙述を始めているとし、ヘーゲルの叙述の〈始まり〉は、「演技(Verstellung ・偽装)」にすぎないと批判するとき(「ヘーゲル哲学の批判」)、彼は、いったい、なにをしているのだろうか。

  しかしフォイエルバッハが、「本当は」といういみで指摘した叙述の〈始まり〉が、仮にヘーゲルの意にそっても“正しい”とすれば、フォイエルバッハは、やはり、“正しく”ヘーゲル(の叙述)を、理解したのである。彼は、『(大)論理学』あるいは『(精神)現象学』の叙述に少なくとも「内容」的に従ってそれを読み理解したからこそ、「本当は」という仕方で、その〈始まり〉を指摘することができもしたのだから。つまりその推論は、ヘーゲルの叙述の“正しい”展開の隠喩であるわけだ。仮にフォイエルバッハの言う〈始まり〉の指摘が“正しい”とすればである。言ってみれば、彼は、“正しい”からこそ、“間違ったこと”を仕出かしていると言える。

フォイエルバッハは、ヘーゲルの「真理」に自分の「意識の背後で」(13段)つまり、「形式」的に荷担している。

そしてフォイエルバッハの指摘が仮に“間違っている”とすれば、言いかえれば“正しい”ヘーゲル研究(主義)者が、フォイエルバッハのヘーゲル批判を“見当はずれで、批判の対象そのものを正しく理解しないで批判している”などともっともらしく言う場合には、フォイエルバッハの“言っていること(言おうとしたこと)”は、まったく“正しい”。

というのも、フォイエルバッハが“間違った”のは、ヘーゲルが自分の叙述を“正しく”展開していなかったことの、言わば〈御陰〉なのだから。

フォイエルバッハは、自分の言っていることを自分で裏切るときにこそ、“正しい”のである。

つまり、フォイエルバッハの「吟味」は「両義的」である。

なぜ、〈吟味〉は、このように両義的になるのだろうか。

叙述における「対象の生成」ということを考えるときに、言いかえれば「叙述の行程」ということを考えるときに、その一方では、叙述(全体)の〈意味〉が問題になっている。その場合、叙述になにが書いて〈ある〉かということは、「叙述の行程」の有している自然時間性とやはり背反するようにおもわれる。

フォイエルバッハが「叙述における始まりは、叙述にとってのみ最初のものであって、思惟にとってはそうではない」というとき ― この認定そのものは、通俗ヘーゲル主義だが ― 彼は、叙述の思惟、つまり叙述のいみを「叙述の行程」とは別のものとして考えている。

 というのも、「叙述の行程」の時間は、少なくとも、その自然時間性を抹消しながら進んでゆくからである。仮に〈感覚的確信〉から〈知覚〉へと“移行する”場合、この“移行”の自然時間性は、どのような場合でも、〈知覚〉の現在性において〈止揚〉されていることは明らかである。〈過去〉性としての〈感覚的確信〉は、〈知覚〉意識のアン・イーム(an ihm)な分節としてのみ存立しているのである。それは、「無時間的な過去」にすぎない。

それゆえ、〈感覚的確信〉と〈知覚〉との〈間〉は、すでに「生成」が生じた後では〈知覚〉の〈分割〉に従うのである。つまり、「生成」は〈感覚的確信〉と〈知覚〉との〈知覚〉で〈ある〉。そのいみで「生成」(の「形式」的側面)は、〈知覚〉に「対して」は「存在しない」のである。

〈知覚〉意識の「背後に」、それは取り残されてしまう。〈絶対知〉においても事情が同じであるように。

フォイエルバッハが、〈感覚的確信〉を読む。彼が、〈そこ〉で読むことを止めずに〈知覚〉に“進む”という場合、この“進む”ということの(「内容」的な)必然性は、部分的には、その〈知覚〉において(an)明らかとなるわけだが ― つまり、そういう仕方で〈感覚的確信〉(の章)が始めて理解されるというふうに、叙述は「展開」しているわけだが ― その“進む”までの〈間〉は、いったい、どんな時間が、その〈間〉をもたせているのだろうか。それは、少なくとも、〈感覚的確信〉の「内容」(アン・イームな現在性)ではない。もしそうであれば、彼は、〈感覚的確信〉で充足しているはずである。つまり、その“先”へとわざわざ歩を進めることはない。

そして、むろん〈知覚〉の「内容」でもない。〈まだ〉それは〈現在〉では〈ない〉。

しかし「対象の生成」の意識は、この〈間〉の介在なしにはあり得ない。仮に〈知覚〉意識が〈感覚的確信〉をアン・イームに分節化する必然性を有しているにしても、この〈間〉を必然的なものとして「内容」化することはできない。それは、もう一つ別の「内容」(の章)を挿入することにしかならないからである。

そのいみで、それは「意識の背後に」残るものである。ヘーゲルの言うように「純粋な観望」の“対象”であるわけだ。

しかしそうであることによって、叙述の〈始まり〉はヘーゲルとは別ないみで叙述の〈終末〉でも〈ある〉ようにおもわれる。

つまり、「生成」ということについて、なおその「同じものに対して」 ― フューア・ダスゼェルベ(fur dasselbe) といういみの意識への帰属性を言うことは、それ自身が「形式」的なことではないのかという疑問は残る。ヘーゲルは、だからこそ自分の著作の〈序文〉を再三〈本文〉にとって「余計なもの」としながらも、その当の「余計なもの」を不可避的に書き続けざるを得なかったのではないか。

アン・イームなものの開示性(ヘーゲル)は、ヘーゲル的な弁証法によって触れられつつも「平板化」され「隠蔽」(ハイデガー)されているようにおもわれる。

一人のフォイエルバッハが叙述の〈始まり〉を読む。その場合、その〈始まり〉を読むことによって、その“先”を読みたいと「意識の背後」でおもうことと“先”をわざわざ読むこともないと「意識の背後」でおもうこととは等価なのである。

それは、この〈始まり〉が叙述のアン・イームな全体の現在性であることからきている。つまり、それはハイデガー的に言えば、〈始まり〉が〈フェノメン〉しているということである。

このことが「意識の背後」性であることは、その双方がどちらにしても或る種の「予感」であるからだ。

それはハイデガーの〈フェノメン〉ということから言えば、アン・ヴェーゼンハイト(An-wesenheit)のア-ネン(ahnen )の予感(An -)である - 『思惟とは何の謂いか』(S.172f.)。

 ヘーゲルの言ういみで、それは「内容」をもたない。「形式的なもの」の形式性そのものなのである。それは〈始まり〉の隠喩なのであって、この隠喩を「説明」しようとするとフォイエルバッハがやったいみでの『ヘーゲル哲学の批判』を繰り返すことになる。すでに明らかなように、その「説明」は隠喩の隠喩なのである。

〈生成〉の時間は、事実、そのように織り込まれている。〈生成〉の時間は、織物としてのテクストの時間である。

この〈時間〉を前に、そしてだれが、自分は一人のフォイエルバッハでないと言えるだろうか。(了)

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ある方から、この記事のコメントを偶然頂きました。誰も読んではくれないだろうなぁ、という記事だったので、ありがたいと思いました。ゴールデンウィークならではのやりとりです。ミクシィ(MIXI)かた転載しておきます。


>Mさん 2008年05月02日 15:10

芦田さんの日記は、いろいろと参考になり読まさせて頂いております。

今回の哲学に関しては私にとってはかなり難解でした、
初歩的で大変申し訳ございませんが、人生哲学、野球哲学、などとよく言いますが、一言では難しいとは思いますが哲学とは何なのか、を教えて頂ければと思いご連絡させて頂きました。以上宜しくお願い致します。


>私の返答

哲学とは何か?

難しいことを答えることになりましたね。

私の個人的な動機からお話しするのが、一番いいかも知れません。

ミクシィ(MIXI)のプロフィールにも書きましたが、哲学に関心をもった理由は、哲学だけが、経験や年齢や物理的、生理的な制約を超えた自由な領域だと思えたこと。哲学という領域の純粋思考(領域を超える思考)こそが人間を自由に解放すると思えたからです。

特に高校に入学して、はじめて色々なところから色々な能力をもった人たちが集まってきたときの体験がいまでも鮮烈です。中学というのは、まだある種の同質性に満ちていましたが、高校は違う、と当時思いました。

私はその時、中学時代から熱心に取り組んでいたテニス部をやめて、新聞部(新聞局)に入りました。いい歳をして運動部でもないだろう、と思ったのです。

私の中学のテニス部は8年連続府大会(東京で言えば「都大会」)に出場するくらい強い伝統のあるクラブでした。

同志社大学の学生が、中学のクラブの先輩にいて、いつも夏休み毎日教えに来てくれていました。私の現役引退の練習最後の日になぜか私だけがコートに誘われ、30分くらい乱打をしました。お互いくたくたになるほど打ち続けた後、彼がネットによってきて「お前に教えることはもうない。高校へ行っても続けろよ」と言ってくれたのを今でもよく覚えています。

あこがれの大先輩でしたが、結局私はその教えを破ってしまいました。いまでも気にしています(苦笑)。

そんな中で、私は新聞部に大転向したわけです。そこにはたくさんの先輩がいて、大した意見ももっていないくせに偉そうにしていました。テニスなどの運動部であれば、誰がうまいか下手か、強いか弱いか、誰を目指せば自分がうまくなるのかなどすぐに決着が付くのに、この文系の部活動の停滞感は私には耐えられないものでした。

運動部に「先輩」はいても、文化部の活動には「先輩」なんていないだろう、と私は、新入生歓迎編集会議が終わった(誰も残っていない)部室の窓から顔を出して(中学とは比較にならない)大きな高校の中庭に向かいつぶやいたものです。

「真理」はすべてを平等にする、と思ったわけです。文化部に年の差による階級なんてあるのはおかしい、と思ったわけです。正しいことを言えば勝ちだろう、と思ったわけです。

それが私の“人生”における“哲学的な”出発点です。まず年齢(=経験)というものが私の敵でした。年齢を超えたいと思ったわけです。

科学(Science)はどうか。科学は実験道具が要ります。お金(パトロン、スポンサー)がないと〈真理〉が発見できない。歴史や文学(批評)は、文献がないと(文献を読まないと)〈真理〉に近づけない。文献を読むには時間がかかる。歴史文献なら、科学と同じように大金がかかる。司馬遼太郎なんて一回の小説を書くのに神田の古書店街でトラック一台分の本を買っていたそうですから。

その分、哲学は〈思考〉と〈問い〉のみが自分の“道具”。何もしないでもどこにもいかなくても純粋思考だけが自分を自由にすると私には思えたわけです。

哲学にとっては文献を読むということは、文献を読まなくてもいいようにするためであって、逆ではありません。ひたすらそういった道具を削ぎ落としていくのが哲学というものです。そういった軽快感が若い私には魅力的でした。哲学は永遠に若い領域(脱領域)なのです。その若さや軽快感が、〈世界〉を全体的に見ることを可能にするのです。

〈哲学〉はその意味では限りなく〈文学〉(小説)に近いと思います。

とりあえず、今日はここまで。何か質問はありますか。

投稿者 ashida : 2008年05月02日 18:47
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