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 デリダ追悼(1) ― デリダのフッサール理解について(思い出の写真付き) 2004年10月10日

デリダ(http://www.asahi.com/obituaries/update/1010/001.html)が死んだというのを(http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__yomiuri_20041009i513.htm)、私の大学時代(立正大学で教えていた頃)の教え子から早朝メール(先生、9日夜にデリダが亡くなりましたね。74歳。まだ若いです。膵臓がんだそうです。(仏語のソースを読んだだけなので、間違えていたらすみません)。〈脱構築〉の概念を最初に教わったのは、芦田先生の授業だったかと思います。デリダのテクストは難解でした… )が来て知った。

今日は朝から(来年度入学生の奨学生試験の審査で)学校へ行っていたが、お昼に帰宅してから、主だった彼の著作を古い書庫の中から取りだして、ベランダへ出て、本に付いた埃(ほこり)を払っていたら、リビングからその私の後ろ姿を見ていた家内が「お父さん、大丈夫? かわいそう … 」と言いながら急に泣き出しはじめた。別にそんな気で本の埃を払っていたわけではないのだが、そう言われてみれば、だんだん我が青春時代(修行時代)の多くを傾けてきた“先生”たちが、この世を去っていく。

デリダが好きだった永坂田津子先生しかり、デリダの本邦初訳者である高橋允昭先生しかり(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%89i%8d%e2&mode=and&v=249&e=msg&lp=249&st=0http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%89i%8d%e2&mode=and&v=255&e=res&lp=255&st=0)。そして最後にはデリダが逝った。京大の浅田彰も東大の小林康夫もつまらない追悼文(今日の朝日新聞朝刊)を書いている。

この『芦田の毎日』追悼特集(1)として、とりあえず私が1986年に渾身の力を込めて書き上げたデリダ論=『声と現象』論 ― デリダのフッサール論の原型 ― をUPしておきます。文中、フランス語・ドイツ語の原語表記は、(元の書式が違うため)アクサンテギュやウムラウトがすべて表記できていません。また括弧内の原語のカタカナ表記は元のテキストではルビ文字になっていたものです。さらに元の私の原稿では傍点が多用されていますがそれもすべて省いてあります。また改行の入った長い引用文の冒頭は私の文章との区別において紛らわしいので●を冒頭に置いています。あしからず。なお元原稿は私の『書物の時間 ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8F%91%95%A8%82%CC%8E%9E%8A%D4)の第三章「表現と意味」(デリダのフッサール理解について)に収められています。この論文はデリダからの私の離反宣言とでも言うものでしたが、未だに愛着があります。いくつか修正する箇所がありますが、たぶん『声と現象』のデリダ論としては、この右に出るものは(今でも)ないはずです。

私にとって、デリダ(とハイデガー)は、20才前後まで「マルクスボーイ」(特に疎外論や物象化論のマルクス)であった私をそこから脱却させた大師匠でした。その間の経緯は、追悼特集(2)以降で書きます。なお、デリダとの思い出の写真を添付します(デリダが1983年に初来日したとき、京都の私の母方の実家貴船の「ふじや」(http://kyoto.kibune.or.jp/fujiya/)で食事をしたときのものです。

貴船derrida02.jpg

写真右から、高橋允昭先生(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8D%82%8B%B4%88%F2%8F%BA/list.html)、浜名優美氏(http://www.asahi-net.or.jp/~qe5m-hmn/)、庄田常勝氏(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-5803020-1877907)、デリダ、29歳の私。


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デリダのフッサール理解について ― 〈表現〉の〈意味〉とは何か(1986・1・17)

●銘辞

存在の意味は、存在者と、あるいは存在者を担う「根拠」としての存在と決して対立させられることはできない。というのは「根拠」は意味(Sinn)としてのみ近付きうるものとなるのであって、たとえ根拠自身が無意味性という無根拠の深淵(Abgrund) であろうとも、そうであるからである。(ハイデガー)

●目次

1:〈意味の還元〉

2:〈指標の還元〉

3:〈独話〉

4:〈表現〉と〈表現/指標〉

5:〈意味〉と〈時間〉

6:〈意義作用の自立性〉

7:〈現前性の形而上学〉


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1.〈意味の還元〉

デリダにとって問題であるのは、「意味への還元」なのではなくて「意味の還元」である。

 「(…)近代の偉大な諸形而上学(とくにヘーゲルとフッサール)による人間学主義の批判が真理と意味の名において行なわれたことを考えるならば、また、これらの『現象学』― それらはいずれも形而上学であった ― の本質的なモチイフが意味への還元(これは文字通りフッサールの主題である)にあったことを考慮するならば、意味の還元 ― すなわち所記の還元 ― が、まず第一に、現象学の批判の形をとることをわれわれは理解することができる」(「人間の目的=終末」in『現代思想』1979/9月号,316頁)。

人間学(エンチュクロペディーにおける)の「真理」としての現象学(ヘーゲル)、そしてまた人間学「批判」としての現象学(フッサール)、(二つの)現象学は、いずれも〈人間〉の目的論的還元を目指す ― 〈真理〉〈意味〉を目指すという点で、同じ動きの中に囚われている。(二つの)現象学において〈人間〉が終わらねばならないのは、「人間」の目的としての〈真理〉〈意味〉に「人間」が帰属するかぎりでのことである。

 「人間はfinというこの語の根本的に多義的ないみにおいて、おのれのfin(=目的かつ終わり)にかかわりをもつところのものである。久しい以前から、そうした超越論的な目的は、イデア性の起源としての可死性を条件としてのみ、すなわちイデア性の起源としての〈有限性への或る関連〉を条件としてのみ、はじめて現われうるのであり、自らを展開しうるのである。形而上学においては、人間という名称はつねにそのような二つのfinのあいだに書きこまれてきた。人間という名称はひとえにこのような終末(エスカト)=目的論的(テレオロジック)情況においてのみいみをもつ」(同前305頁)。そして「今日考えるのに骨が折れるのは、(ヘーゲルの言葉でいえば−註・芦田)真理と否定性に関するなんらかの弁証法によって組織づけられていないような、人間の終わり(フ ァ ン)、第一人称複数における目的論であらぬような、人間の終わり(フ ァ ン)である」(同前304頁)。

 (二つの)現象学に反して、(二つの)現象学とは別の仕方で〈人間〉は終わらねばならない。〈自己(Selbst)〉に固有な〈近さ(プロプル)〉としての人間の〈終り〉こそが終わらねばならないのである。デリダにとって「意味の還元」(意味への還元ではなくて)が問題であるのは、「今日考えるのに骨が折れる」人間の終わり(フ ァ ン)に臨んでのことである。

むろん、「意味の還元」ということがここで現象学の「批判の形」をとるにせよ、それは「意味を抹消したり破壊したりするところにあるのでもない」。「問題は、むしろそれ自体としては意味をもたない或る『形式的』な機構(オルガニザシオン)を出発点として意味の可能性を規定することにある」のであって、「そういう機構がそれ自体としては意味をもたないといっても、その機構が、形而上学的人間主義の回りをうろつく無−意味、ないしは不安にさせる不条理であるといういみではない」(同前316頁)。

フッサールが「記述的に最後のもの」(『論理学研究』邦訳二巻201頁)と言った「意味(Bedeutung) 」をなお「還元」することが、単なる「意味」の「抹消」や「破壊」に重ならないことからも、デリダの現象学「批判」が屈折した形をとらざるを得ないことは容易に予想がつくことかもしれない。「それ自体としては意味をもたない或る『形式的』な機構(オルガニザシオン)」とデリダが言うものの積極的ないみが何であるかは、いま置くとしても、現象学的な「意味への還元」を「意味の還元」から考えるデリダの現象学「批判」は、彼自身の言う形而上学の「体系(システム)」の「囲い(クロチュ―ル)の内閉性(autisme)」に「のめり込む危険」を有してはいないだろうか。

2.〈指標の還元〉

デリダのフッサール論としては、彼自身が「いちばん愛着をもっている」(『ポジシオン』邦訳11頁)と言う『声と現象』(1967)で、「意味への還元」の問題は「指標」と「表現」との「区別」に属する問題として展開されている。

なるほど、フッサールが『論理学研究』「第一研究」を「指標(Anzeichen) 」と「表現(Ausdruck)」との区別からはじめるのは、現象学的還元、とくに「意味への還元」にとって偶然なことではない。

周知のように、フッサールが「指標」と「表現」との「区別」に関連して「表現」と「記号(ツァイヘン)」とを区別せねばならないのは、「必ずしもすべての記号が《意味(ベドイトゥング)》を、すなわちその記号によって《表現される意味(Sinn)》をもつわけではない」(二巻33頁・以後『論理学研究』邦訳からの引用は巻数表示と頁数表示の両列挙に代えることにする) からである。「指標(標識、目印など)といういみでの記号は、それが指示する機能以外に、さらに意味機能を満たすのでなければ何ものをも表現しはしない」(同前)。

フッサールにとって「表現」と「記号」が「同義語」であるわけではないのは、「有意義的な」記号である「表現」と、それだけでは「何ものをも表現しない」、つまり《表現される意味》をもたない記号である「指標」とに「記号」概念が拡大されているからである。逆に言えば《意味(ベドイトゥング)》(としての「表現される意味」)は、「表現」に本質的なものであるように制限されている。それゆえ「指標」と「表現」とに区別するモチイフは、それ自身が「意味への還元」に、とくに「指標」を「表現される意味」にとって派生的なものであるとする「意味への還元」に重なるものであり、それはフッサール現象学に固有なモチイフの一つであると言ってもよい。

J.デリダは、この「指標」と「表現」との区別に『論理学研究』の「爾後の諸分析全体を厳密に拘束している」「非常に大きなかけ金」を読みとる。仮に「『危機』とその補遺、とくに『幾何学の起源』でも、『論理学研究』の概念的諸前提が依然としてはたらいている」のであれば、デリダの『声と現象』冒頭の言葉、「『論理学研究』(1900−1901)の切り開いた道は、現象学全体がそこに嵌まりこむことになった道である」ということは、ひとえにこの区別のモチイフに属していると言っても(デリダにとっては)言いすぎではない。

デリダは、この「区別」を「指標の還元」ということから考える。それは、事実『声と現象』「第二章」の章題である。

●形而上学への従属は ― とデリダは「第二章」をはじめる ― われわれがこれから立ちもどろうとする主題、すなわち指標は、表現の外にあるとする考え方のなかに、まぎれもなく現われている。フッサールは《指標作用の本質》にわずか3節を当てているにすぎないが、表現には同じ章の11節を当てている。論理学的・認識論的な意図から、問題は、《意義作用》としての、イデア的対象としての表現の独自性に肉薄することであるから、指標作用の取扱いは簡単で、予備的で、《還元的》でなければならない。たとえ事実上は或る密接な関係によって指標作用が表現に結びついており、経験上でそれとからみあっているにしても、指標作用は、外的・経験的現象として、遠ざけられ、捨象され、《還元され》なければならない。(邦訳53頁)

「指標」の「還元」ということは、デリダにとって「指標は表現の外にある」ということであり、この「外」ということのいみは、指標(作用)は表現にとっては「遠ざけられ、捨象され」つまり「還元され」ねばならないものだということである。そして、デリダの問題は、この種の「還元」がフッサールの「意図」に反して「困難」なことを示すことにある。

●けれども、そのような還元は困難なことである。(……)指標を表現に連結させるからみあいがもしも絶対に還元不可能なものであり、原理上ときほぐすことのできないものであったならば、すなわち、もしも指標作用が程度の差こそあれ何か執拗な粘着物のように表現に付着するのではなく、表現の動きの内奥に宿っているのだとしたら、フッサールの企て全体は ― もちろん『論理学研究』以後までも含めて ― 危機に瀕することになるであろう。(同前)

『声と現象』におけるデリダ自身の主題は、ここではっきりしているのであって、「ロゴスの可能性として、意義(ベドイトゥング)の表現的・論理的純粋性をこそ把えようとする」フッサールに対して、その意義(ベドイトゥング)が「実際には常に指標的系のうちにもつれこんでおり、その中にとらわれている」ということ、つまり、表現の「純粋性」は「汚染されている」(41頁・以後デリダの『声と現象』邦訳からの引用は、頁の指示だけに代えることにする)ということを「示す」ことなのである。

実際、フッサールは「表現」と「指標」との関係を単純に「区別」しているわけではない。「論理学研究』「第一研究」冒頭の第一節から、彼は両者の或る種の「からみあい(フェアフレヒトゥング)」を口にする。

●表現について論ずる場合、不本意ながら通常そうしているように、さしあたり、生きた会話の中で機能をはたしている表現にだけ限っていえば、指標という概念は表現という概念に比べて、いっそう外延の大きい概念のようにおもわれる。しかしそれだからといって指標という概念が、内包の点で類概念だというのではけっしてない。意味作用(Bedeuten)は指示(Anzeige) のいみでの記号存在の一種ではない。意味作用の外延がいっそう狭い理由は、意味作用は ― 伝達的会話においては ― 常にあの指標存在 (Anzeichensein)という事情とからみあっているからにすぎない。しかしそれに反してこの指標存在は、そのようなからみあい(フェアフレヒトゥング)がなくとも現われうるのであるから(意味作用よりも)広い概念を基礎付けているのである。しかし表現は、それらがもはや指標としての機能をはたしていない孤独な心的生活においても、その意味機能(Bedeutungsfunktion)を発揮するのである。したがって事実上それら二つの記号概念は、決してより広い概念とより狭い概念といった関係にあるのではない。(二巻33〜34頁)

フッサールが「伝達的会話においては」あるいは「不本意ながら」「さしあたり」そうであると留保しつつ口にする「指標」と「表現」との「からみあい(フェアフレヒトゥング)」を、しかしデリダは、この「からみあい(フェアフレヒトゥング)」こそ「両者の厳密な本質的区別の可能性」に「打撃をくわえる」(42頁)はずのものだというふうに理解する。「類・種関係の破綻を証明するためには、したがって、表現がもはやそのようなもつれあいにかかわりあわないような、もはや指標にからみこまないような、そういう現象学的状況を ― もしそういうものがあるのならば ― みつけださねばならない」(44頁)とデリダは言う。それがデリダにとって(フッサールの)「指標の還元」ということが含意するいみなのである。

ところで、そもそも「指標」とは何か。フッサールは、第二節「指示の本質」で、諸々の例を示しながら、それら事例に「共通」する「指標という概念に関する本質的統一」の「本来的な意味」を次のように言っている。

●何かが思惟者にとって、実際に或る何ものかに対する指示として役立つ場合にのみ、 それは本来的ないみにおいて指標と呼びうるのである。(…)だれかがそれらの存立について顕在的な知識を有する何らかの諸対象ないし諸事態は、何らかの他の諸対象ないし諸事態の存立を(…)一方の存在の確信が他方の存在の確信ないし憶測の動機として(しかも非洞察的な動機として)彼によって体験されるといういみで(…)彼に指示するという事情が共通なものとして見出されるのである。(二巻35頁)

デリダは、しかしながら、このフッサールの言う「本質的な共通性」を「なおきわめて一般的であるため、指標作用の全分野ばかりか、まだそれ以外のものをもカヴァーしている」(56頁)と言う。フッサールは、ここで「認識されるもの(顕在的であるにせよ非顕在的であるにせよ)のカテゴリーを指し示すのに、わざと非常に一般的な諸概念(Sein・Bestand )を使っている」のであって、「これらの概念は存在(ザイン)ないし存立(ベシュタント)を、つまりイデア的諸対象の構造をも経験的諸現実存在者の構造をも、カヴァーすることができるのである」(55頁)。

フッサールは、《ヴァイル(Weil)》(「なぜなら」「ので」「であるから」)の「一般的動機づけ」が「指示(アンツァイゲ)の示唆作用(ヒンヴァイゼン)と同時に正しい推移や基礎づけの証明作用(ベヴァイゼン)をも含んでいる」と言って、デリダの言う「狭義の指標作用」の規定を「はみだす」部分について触れている。

●この二つの概念(「示唆作用(ヒンヴァイゼン)」と「証明作用(ベヴァイゼン)」)は、しかるべく区別されるべきであろう。われわれは、その相違をすでに先程、指示の非洞察性(Uneinsichtigkeit)を強調することによって暗示しておいた。実際われわれは、或る事態の存立を他の事態の存立(ベシュタント)から洞察的に(アインジヒティヒ)推理するような場合、後者を前者の指示ないし記号とは呼ばない。そして逆に、論理学の本来的ないみでの証明作用が問題になるのは、ただこうした洞察的ないし洞察的とおもわれる推論の場合だけなのである。(二巻36頁)

フッサールは、ここで「推理」の移行性格について語っているのであって、移行そのものについて語っているのではない。「指標」の「示唆作用」の「非洞察的」性格がここで問題なのであり、そしてそれと相対的に消極的な仕方でではあるが、「イデア的合法則性」の「洞察的」な「基礎づけ」こそが肝要であり、「指示」が「必然性の関連に対していかなる本質的な関係をも有していない……」(二巻37頁)ということこそが、フッサールがここで言わなければならないことである。

デリダは、移行性格としての「洞察的」−「非洞察的」(これらの語は、フッサール現象学にとって重要なタームの一つであるが)についてはとくに関心を向けはしない。それが「指標」の「示唆作用」を「洞察的」な「推理連関」である「証明作用」から分けている決定的なマークの一つであるとしても、である。事実、彼は「洞察的」ということのフッサールの分析にとってのいみについて少しも触れていない。デリダにとって問題であるのは、フッサールは、ここでもやはり、移行そのものについて何も言っていないということである。それは、ちょうどフッサールの記号の分析が指標と表現との区別を自明なように前提している ― 「指標」の「指標作用(Anzeigen)」と「表現」の「呈示作用(Hinzeigen) 」との「区別」は「指示作用(Zeigen)」一般を問うことなしに初めて成立するような区別立ての中で動いているのである ― ことから始まっているのと同じように、「示唆作用ヒンヴァイゼン」と「証明作用ベヴァイゼン」との区別も「顕示作用(Weisen)」一般についての問いかけなしに行なわれていることからも明らかなのである。

●ヒンヴァイスとベヴァイスとの、示唆作用と証明との、このような必要欠くべからざる区別は、ただにわれわれがさきに指示作用に関して提出しておいたのと類似の型の問題を立てるばかりではない。見えていないものを指でさす示唆と、証拠の明証性を見させる証明とに分かれる以前の顕示作用一般とは何か。この区別もまた、例の《からみあい》の宿す、すでに指摘した難問をさらに難しくする。(57頁)

フッサールが、第一節の冒頭で「すべての記号は何かを表わす記号である」と言うとき、彼は、「何かを表わす(fur Etwas) 記号」、つまり何かのための、何かの代わりをする、という場合の《fur 》一般を問うことなしに、かの指標と表現とを区別することに向かう。「すべての記号は何かを表わす記号である」「がしかし」 ― とフッサールは「性急に」(デリダ)続ける ― 「必ずしもすべての記号が《意味》をすなわちその記号によって《表現される意味》をもつわけではない」。そうすることによって「フッサールは独断的な性急さで、記号一般の構造に関する問題を押え付けてしまう」(46頁)のである。「彼はそもそものはじめから異質的な二つの記号 ― すなわち指標と表現 ―の根本的分離を提案する。ところが、一般に記号とは何か、と問うことはしない」(46頁)。

フッサールが「指標」の規定についてなおそこでヒンヴァイスとベヴァイスとの、示唆作用と証明作用との区別をヴァイゼン一般の形式を問うことなしにもちだすことは、ふたたび「記号一般の構造に関する問題を押さえ付けてしまう」ことになるのではないかとデリダは考える。結局のところ、彼は、指標の「統一的」ないみについてのフッサールの規定を「一般的(ジェネラル)」であるとともに「曖昧(ジェネラル)」であると考えているのであり、そのわけは、さきの指標の規定において「フッサールは、認識されるもの(顕在的にせよ、非顕在的にせよ)のカテゴリーを指し示すのに、わざと非常に一般的な諸概念(Sein ・ Bestand) を使って」おり、「これらの概念は存在(Sein)ないし存立(Bestand) を、つまりイデア的諸対象の構造をも経験的諸現実存在者の構造をも、カヴァーすることができる」(55頁)ことによっている。デリダにとって問題であるのは、この種の「曖 昧」さ(一般的曖昧さ(ジェネラル)こそ、「指標の還元」にとって最後までまとわりつく例の「からみあい」のもついみなのではないかということである。

 ところで「記号一般の構造」に関して「記号とはなにか」と問うことが、しかしフッサールに反して、デリダの問わねばならないことであるのではない。「いったい記号一般とは何か。この問いに答えようという野心を私がもっているわけではない」(47頁)。

そうであるにもかかわらず、そのデリダにとってもはっきりしていることは、《fur 》Etwas としての記号、つまり何かの代わりとしての記号の「一般性」の指摘のあとでのフッサールのかの「性急」な(「指標」と「表現」との)「分類」のためには「《の代わりである》のいみでの《etre-pour 》が何をいみするかを、われわれが暗黙裡に知っていることが、前提されていなければならない」(47頁)ということである。つまり「われわれがまずはじめに、そのような置換ないし回付の構造を親しく理解していてこそ、しかるのちにはじめてその構造の内部で、指標的回付と表現的回付の異質性が理解可能になる、それどころか証明さえされるはずである」(47頁)。

とはいえ、フッサールが「記号一般」についての「前−了解」(デリダ)を取りたてて現象学的分析の主題としないということは、フッサールの「独断論」 ― 「指標」と「表現」とを「性急」に区別する「独断論」を裏書きすることになるのだろうか。「もしわれわれが、フッサールは記号一般の〈記号―存在〉を問題にすることから着手していない、といって非難したなら、われわれは一つの語の統一性を性急に信用していることになりはしないだろうか」(49頁)とデリダはフッサールの「独断論」にふれて或る懸念を表明している。「もしかしたら、一つの記号概念と種々の型の記号が存在するのではなく、相互に解消不可能な二つの概念が存在しているのであって、それら二概念に人々が不当にも単一の語を結びつけたのかもしれないのである」(49頁)。

デリダは、「指標的回付と表現的回付の異質性」(もしくは示唆(ヒンヴァイス)と証明(ベヴァイス)との異質性)の議論に入る(フッサールとともに)以前に、フッサールはそうしてはいない「記号一般」について問うことの言わば形式主義的な危険、つまり「記号」という「一つの語の統一性を性急に信用」してしまうことの危険をここで避けようとしているといえる。そうすることによって、デリダはフッサール自身はそうしてはいないということを、単に偶然で無意識なことである以上のこととして含みをもたせ、そしてまた自分の指摘がそれ自体形式的であるとの反批判を未然に避けようとしているように見える。

 しかし、それはデリダにとって単に論述の展開にかかわる戦略性にとどまるものなのではない。一つの語の統一性の問題は、とくに記号という語の統一性についてはとりわけ固有な問題を引き起こすだろうからである。

●《記号一般とは何であるか》と問うならば、そのことによってひとは、記号の問題を或る種の存在論の目論見に服属させることになる。或る種の存在論内の基本的ないし領域的な場所を、記号作用に指定しようとすることになる。そんなふうにするということは、一種の古典的な進み方であるといえよう。(……)記号一般の真理が存在しうると言うことは、記号は真理の可能性ではなく、真理を構成せず、ただ真理を記号する(シニフィエ)ことに甘んずるだけであると、そのように想定することではないであろうか。すなわち真理を再生し、それに肉体を与え、それを二次的に記録したりそれへと回付したりすることにあまんずるだけである、と。なぜならもし仮に記号が、何らかの仕方で、真理ないし本質と呼ばれるものよりも先に存在しているとしたら、記号の真理とか本質について云々することには、どんないみもないだろうからである。たとえばもしわれわれが記号を或る志向的な動きの構造と考えるならば、記号は事象一般のカテゴリーには属さず、その存在に関して問題が立てられるような《存在者》ではないことになる ― と、そのように考えることができないであろうか。(……)記号は存在者とは異なるのではないだろうか。それは事物ではないがゆえに、《何であるか》という問いの手に落ちない唯一の《もの》であるのではないだろうか。反対に、むしろ記号の方が、その機会があると、そういう問いを生じさせるのではないだろうか。そして、そのようにして、ti esti (何であるか=本質)の領域としての《哲学》を生じさせるのではないか。(4 9〜50頁)

「おそらくフッサールはそう考えたのであろう」とデリダはこの引用文中に挿入的に言っている。「事実フッサールは『幾何学の起源』にいたるまでの道程のあいだじゅう、記号作用において、言語において、イデア的対象性を書きとめる記録において、真理ないしイデア性を登録するものよりも、むしろそれを生じさせるものの方に、ますます大きな注意を払うようになる」(51頁)からである。

しかしそれでもなお「この動きは単純なものではない」。記号という語の統一性を形式主義的な性急さに委ねないにせよ、にもかかわらず、1)フッサールが「指標の還元」というモチイフから「指標」と「表現」とを「性急に」区別するということ、とくに、2)その際、指標の規定が「曖昧ジェネラル」であること、3)この「曖昧ジェネラル」さが「狭義の」指標の規定を「はみでて」表現との区別を危ういものとすること、こういったことは、フッサールが「記号」一般についての「前―了解」を主題化しないことと ― 仮にそれが事柄からして困難なことであるにしても ― やはり無関係ではない(とデリダは考える)。

 実際、フッサールの「指標」の規定にかかわる「表現」との「区別」が「曖昧(ジェネラル)」であるかどうかは今おくとしても、このことは「ツァイゲン」一般の、あるいは「ヴァイゼン」一般の統一性をフッサールが問わないこととしての「曖昧(ジェネラル)」さに関わらざるを得ないとデリダは考える。デリダが、かの「からみあい(フェアフレヒトゥング)」が生じるところとして示しているところのものは「ツァイゲン」そのもの、あるいは「ヴァイゼン」そのものの一般性についてのことであり、「このツァイゲンこそは、指標と表現とのあらゆるもつれあいの根とその必然性とが立ちあらわれる場所である」(48頁)。

 つまりデリダにとっては、「指標の還元」というモチイフからする「表現」という「語の統一性」(「表現の汚れなき純粋性」44頁)こそがフッサールにとってなお「性急」に要求されている当のものなのであって―それがフッサールが「指標」と「表現」とを「区別」する意味である―、このことが「記号」という「語の統一性」についての「前―了解」を主題化せずにフッサールが「ごまかしている」(47頁)ことに無関係ではないことなのである。

しかしそうであれば、デリダのこの論述の展開の中で規制的に働いているものは、デリダ自身の(フッサールの言う)「指標」あるいは「表現」についての「前−了解」そのものである。記号一般を問うということが「指標」と「表現」という、記号内部的な区別を問うということと別のことではないということ、このような記号内部的な区別と記号の一般性こそがかの「からみあい」の、そして或る「回付」の動向そのものであることをこそ、デリダは言おうとしていたのだから。「ツァイゲンこそが」つまり、記号一般こそが「指標と表現とのあらゆるもつれあいの根とその必然性とが立ちあらわれる場所である」(48頁)というのはそういうことだったはずである。

3.〈独話(ひとりごと)〉

フッサールは、デリダによれば「指標にからみこまないような現象学的情況」として《孤独な心的生》を「見出さなければならない」(44頁)。フッサールが言うように「表現は、それらがもはや指標としての機能を果していない孤独な心的生においても、その意味機能を発揮するのである」(二巻34頁)。

フッサールは、「独話(einsame Rede)」について「独りで話している者は、自分自身に対して話しかけているのであり、言葉は彼にとっても記号として、すなわち自分自身の心的体験の指標として役立っていると言うべきであろうか。私はそのような見解が支持されうるとはおもわない」(2巻46頁)という。デリダは、ここでのフッサールの議論を「決定的」だといって、「指標を必要とするということは、ただたんに、記号を必要とすることをいみしている」(82頁)というふうに理解する。しかしそのことは、記号的「回付」の構造一般をさしあたり「表現」が免れているということではない。「表現」が回付するということは、フッサールによれば「指標」の「指標作用(アンツァイゲン)」と区別された「呈示作用(ヒンツァイゲン)」であったわけで、デリダはなお次のように続けている。

●ヒンツァイゲン(呈示作用)は、アンツァイゲン(指標作用)ではないのである。なぜなら、この場合のこの踏み越え、あるいはむしろこの回付は、一切の現実存在(現存在[Dasein]、現実存在[Existenz])をなしですますからである。逆に指標作用においては、現実存在する記号、経験的出来事が、その現実存在が少なくとも推定されているような内容へと回付する。それは、指標されるものの現実存在について、われわれの先取もしくは確信を動機づける。われわれは、経験的な、すなわち単に蓋然的な現実存在のカテゴリーを介入させないでは、指標を考えることができない。このことはまたフッサールにとって、エゴ・コギトの現実存在との対比における世界的現実存在の規定ともなるであろう。独話への還元は、まさしく経験的、世界的現実存在の括弧入れなのである。(83〜84頁)

独話は、そのいみで指標的回付(Anzeigen)の現実存在性(Wirklichkeit)を「中和化」する。「内面的独話においては語は単に表象されるにすぎないということになる」(85頁)と、デリダは言う。「話されたり、印刷されたりした言語記号は想像の中でわれわれの念頭に浮かびはするが、しかしそれは実在(エクシスティ―レン)していない。しかしわれわれが想像表象を、ましてやその根底にある想像内容を、想像された対象と混同することはあるまい。想像された言葉の響きや想像された活字が実在しているのではなく、それらの想像表象が実在しているのである」(二巻47頁)とフッサールが言う場合、独話の事例で際立つ「現象学的体験」とは「語の想像、想像されたもの、語の想像―存在(l'etre-imagine)、すなわち語の《心像》は、(想像された)語ではない」(85頁)ということである。もしそうでないとすれば、つまり想像された語と語の想像とが同じものだとすれば、語の非―実在性は、同時に想像表象の消失でもあらねばならない。しかし、「想像されたケンタウルス」の非―実在性が「あとで確信されるにいたった」(『イデーン』邦訳頁-(2)巻113頁)としてもそのことが同時に「ケンタウルスについての想像表象」の消失をいみしはしないのと同じように、「想像された語」と「語の想像」とは厳密に区別されねばならない。

デリダも言うようにここでは「古典的心理学」が援用されているわけではもちろんない。心理学的心像は、「心理的」=「内在的」実在性であって、それはもう一つ別の実在性にすぎないからである。フッサールは第五研究で、次のようにこのコンテクストを敷衍している。

●したがって《内在的、心的》対象は、体験の記述的(実的)成素に属しているのではない。すなわち実際にはそれは決して内在的でも心的でもない。もちろんそれは精神の外にあるのでもなく、それは全然実在していないのである。しかしこのことは、神ジュピターのあの表象作用が現実に存在し、そのような性質の体験、そのような特定の心理状態であることや、現に自分でそのような表象作用をしているものが《私は様々な伝説の主である、あの神話的な神々の王を表象している》と主張しうる権利を妨げるものではない。他方、志向された対象が実在している場合でも、現象学的観点では、上述したことに何の変更も加える必要はない。意識にとっては、表象された対象が実在していようと、もしくはそれが虚構されたものであろうと、それどころかたとえ背理であっても、その所与は(常に)本質的に同じものである。私は「ジュピター」も「ビスマルク」も「バビロンの塔」も「ケルンのドーム」も、「正千角形」も「正千面体」も、すべて同じように表象するのである。(三巻170〜171頁)

「ケンタウルス」も、そして同じように「表象」されるのである。「表象」は、そのように現実存在性(Realitaet,Existenz)を「中和化」する。「指標として役立つべきものは現存するもの(daseiend)としてわれわれによって知覚されねばならない」(二巻46頁)が、表現の回付作用(「呈示作用(ヒンツァイゲン)」)は、このような回付の「現存」性をこそ「中和化」するのである。「言葉が実在していなく(die Nicht-Existenz des Wortes) とも、われわれの妨げにはならない。それに言葉の非実在性(Nicht-Existenz)は、われわれの関心も引かない。なぜなら表現そのものの機能には、それはまったく関係がないからである」(二巻47頁)。独話は、そのいみで、「語」の「現存」、「語」の「現存」を通じての他者への「伝達」を《括弧にいれる》ことのできる事例なのである。

しかし、「語」の「現存」とは何だろうか。「語」の「表象」と区別されることのできる「語」の「現存」とは何なのだろうか。デリダは「語」の「現存」と「語」の「表象」とを区別することができるだろうか、と問う。

●独話において、われわれは自己自身に何事をも伝達せず、自己自身を、話し伝達する主観として表象する(man stellt sich vor) という。してみると、ここでフッサールは言語に、現実と表象という根本的区別を施しているわけである。実際の伝達(指標作用)と《表象された》伝達とのあいだには、一つの本質的差異、端的な外部関係がある。のみならず、純粋な表象としての内面的言語(伝達のいみでの)に接近するためには、仮構、すなわち想像的表象という独特な型の表象 ― フッサールはのちにこれを中和化的再現前と規定するであろう ― を経なければならないとされる。

われわれはこうした区別体系を言語に適用しうるであろうか。それができるためには、まず第一に、伝達、すなわち言語の《実際上の》実施において、ルプレザンタシオン(この語のあらゆるいみでの)が本質的かつ構成的であってはならず、それは、場合によっては言表の実施に付け加わるような一偶発事にすぎないのでなければならない。 (95〜96頁)

しかしむろん、言語において「語」の「現存」と「語」の「表象」とは区別できない。〈表現〉は、すでにそれ自身で(フッサールも言うように)「複合的な、しかも内的に統一された体験」であって、「語」の「現存」といういみでの「言葉自身」がその〈表現〉にとって「どうでもよい」のは、フッサールにとっても留保付きでのことである。「われわれが表現と意味の関係を反省し、そしてこの目的のために意味に充たされた表現の、複合的な、しかも内的に統一された体験を、言葉と意味という二つの要素に分解するならば、われわれには言葉自身は、それ自体としてはどうでもよいもののようにおもわれ、意味は、言葉によって《狙われ》、この記号を介して思念されているもののようにおもわれる」(二巻46頁)。

フッサールにとって「語」の「現存性」とは何か。もしそれが語の「表象」と区別されることができるとすれば、それは或る「感性的客観」(或る「語音」としての、あるいは或る書かれた文字の線形としての)としての「語」であるだろう。しかし、それがなお「語」と、つまり、語の「音」として、そして語の「線形」としての「語」と呼ばれる条件は「現存性」と言われているもののそこにはないだろう。

●(……)たとえば語音のように〈本来的ないみで記号の機能を果している、実際に対象的な意識された物理的客観〉の場合そうであるように、あたかも意識が感覚を志向し、感覚それ自身を〈知覚と、知覚によって初めて基礎付けられる解釈の対象〉とするかのように、誤解してはならない。感覚は明らかに心理学的反省の場合にのみ表象の客観となるのであって、素朴な直観的表象作用においては、たしかに表象体験の構成要素(表象体験の記述的内容の部分)ではあるが、しかし決して表象体験の対象ではない。知覚表象が成立するのは、体験された感覚複合がなんらかの作用性格、すなわちなんらかの統握や思念の作用によって生化されることによってである。つまり、感覚複合が生化されることによって、知覚された対象が現出するのであるが、感覚複合そのものは、知覚される対象を構成する作用と同様、現出しはしない。(二巻86頁)

別の箇所(第六研究)でもフッサールは「語は、直観の対象に対するその意味的(ズィンゲメ―ス)関係におうているわけであるが、この認識の作用性格は明らかに、語音に本質的に属しているものではなく、むしろそれは語それ自身の有意味的(ズィンフォル)=意味的ベドイトゥングスメ―シィッヒ)本質に基づいて語に属しているのである」(四巻45頁)と言っている。つまり、フッサールはここで「語」はいつでも或る「意味」の「語」であると言っているのである。だからこそ「無意味な」語、つまり、「意味」と切り離された「語」というものは、たとえそれが「反意味(Widersinn) 的」であってもフッサールにとってありえない。

●表現がどのようにして有意味的に、しかも顕在的直観をともなわずに機能し得るか(……)。意味の契機を直観に転嫁する人々は、純粋な記号的思考のこの事実(意味は、言葉の心像(感性)的な形の中にあるのではなく、意味付与的な作用性格の内にあるという事実―註・芦田)を前にして解きがたい謎に当面する。彼らにとっては、直観を伴わぬ発言も無意味であろう。しかし本当に無意味な発言などというようなものは、そもそも発言ではあるまい。そのようなものは機械の騒音に等しいであろう。(…)不合理と解される《無意味性(ジンロ―シッヒ) 》も、意味(ジン)の中で構成されるのであり、客観的に一致しがたいものを思念するということは、反意味(Widersinn) 的表現の意味(Sinn)に属しているのである。(二巻77〜78頁)

 ハイデガーの『存在と時間』32節(「了解と解釈」)の「意味」論 ― 「存在の意味は存在者と、あるいは存在者をになう(トラ―ゲン)『根拠』としての存在と、けっして対立させられることはできない。というのは、『根拠』は意味(Sinn)としてのみ近付きうるものになるのであって、たとえ根拠自身が無意味性(Sinnlosigkeit) という無根拠の深淵(Abgrund)であろうとも、そうであるからである」邦訳(中央公論社版)276〜277頁 ―に繋がる、このコンテクストにおいてこそ ― デリダは(故意に?)この連関をまったく無視している ― 、フッサールの言う「表現の意味」というものは或る現存性を「表現」するものなのではない。「現存性」といういみで言えば、「黄金の山」というものは存在しないものであるが、また「イデア的な」対象性といういみでは「丸い四角」というものも存在しないものであるが、しかし、それは「無意味」なのではなくて単に「無対象」な(=「現存」しない)だけのことなのである(二巻65頁)。「記号の現存ダ―ザインは意味の現存を、より正確に言えば意味の現存についてのわれわれの確信を動機づけはしない」(二巻46頁)。

言語の現存とは、言語の意味のことである。それは、意味が現存するということではなくて、言語の現存性に対する意味のア・プリオーリをいみする。フッサールの言う「語」の「現存」と対照された「語」の「表象」とは、この「語」の「意味」のアプリオリテートとしてのみ理解されるものであって、そのいみで「語」の「現存」としての「言葉自身はどうでもよい」のである。

それゆえ「言葉自身はどうでもよい」というのは、デリダ自身が用いもするシニフィアン(signifiant)―シニフィエ(signifie)の対に倣っていえば、シニフィアン(能記)なしのシニフィエ(所記)に導くコンテクストで言われているものではない。逆である。その種の分離 ― シニフィアンなしのシニフィエであれ、あるいはシニフィエなしのシニフィアンであれ、どちらにしてもこういった超越的優位性は両者の分離を前提としている― は、「意味」のアプリオリテートに遅れているということこそ、「言葉自身はどうでもよい」ということのいみなのである。滝浦静雄(「言語と意味付与」in『思想』1978/10月号)が、このコンテクストをソシュールの《恣意性》と結び付ける(129頁)のは、それゆえ「疑問の余地がない」わけではないのである。

●音素(フォネ―ム)や文字素(グラフェ―ム)は、それが(言表)作業や知覚において姿をあらわすたびに、常に不可避的に或る程度は異なっているが、それにしても、何らかの形式的同一性のおかげでそれが再版され、それと認知されうるものでなければ、それは一般に記号および言語として機能することができない。このような同一性は必然的にイデア的である。したがって、それは必然的に或るルプレザンタシオンを含んでいる。すなわち、Vorstellung(表象)、つまりイデア性一般の場としてのルプレザンタシオン、Vergegenwartigung(再現前)つまり再生的反復一般の可能性としてのルプレザンタシオン、および、Reprasentation)としてのルプレザンタシオン ― それぞれの能記的出来事が身代りである(所記の身代りであると同時に能記のイデア的形式の身代りである)かぎりで― を含んでいる。このようなルプレザンタシオン構造が記号作用そのものであるのだから、私は、或る際限のないルプレザンタシオン性に根源的にかかわりあわずには、《実際の》言表を開始することができないのである。(97〜98頁)

デリダのこの議論は、語の「現存」(「《実際の》言表」)と語の「表象」とが区別できないことに向けられている。これは、しかしフッサールに「反して」のことであろうか。デリダも反問的に言うように「フッサールが言表の伝達的かつ指標的外皮を剥落させ、言表の本質に符合するような孤独な言表というその仮設によって現れさせようとしているのは、表現性のまさにそうしたもっぱらルプレザンタシオン的な性格にほかならない」(98頁)といういみで言えば、それは「反して」のことではないのははっきりしている。

とはいえ、仮にそうであるにしても、フッサールの場合、それは「表現」性に限られた、つまり「指標」と区別されている「表現」性に限られた「記号作用一般」の内部での特権的な領域において際立つ「ルプレザンタシオン性」にすぎない。しかし「ただの《一度》しかおこなわれえないような記号は、記号ではないだろう」し、「純粋に独特な記号は、記号ではないだろう」(97頁)とデリダは言う。「指標」がたとえ「表現」の「呈示作用(ヒンツァイゲン)」と区別された形であれ、「指標作用(アンツァイゲン)」という回付の構造をもつ ― 回付の構造を有するということこそが「記号作用一般」の還元不能な特質であったのだから ― かぎりは、再現前性といういみでの「ルプレザンタシオン性」は、なお「指標」にまで及ぶものであるはずなのである。「けれどもフッサールが、Vor-stellung(表象)としてのルプレザンタシオンの範疇に属するものとして記述しようとしているのは、単に表現のみであって、記号作用一般ではない」(98頁)。ここで、デリダは、ふたたび、「第一研究」冒頭の「指標」と「表現」との区別についてルプレザンタシオンの根源性において遡及する。それはフッサールに「反して」のことなのである。

4.〈表現〉と〈表現/指標〉

デリダの言う「ルプレザンタシオン構造が記号作用そのものである」のであれば、つまり、「指標」と「表現」との「例の区別以前」の「記号作用そのものである」のであれば、そのルプレザンタシオンの問題にフッサール自身言及しつつも、なおそれを彼が「表現」にのみ固有のものとして特権的に割りふるのはなぜなのか。それは「現前を救い記号を還元もしくは導来しようという根強い願望に呼応してはいないであろうか」とデリダは反問する。

●記号一般が根源的に反復的な構造をもっているのであってみれば、《実際の》言語が想像的言語と同様に想像的であることは、充分にありうることであり、また想像的言語が実際の言語と同様に実際的であることも、充分にありうることである。表現の場合であれ、指標的伝達の場合であれ、現実とルプレザンタシオンとの、真なるものと想像的なものとの、端的な現前と反復との区別は、常にすでに抹消され始めていたのである。この区別が維持されていること ― 形而上学の歴史において、そしてフッサールにおいてなお ― は、現前を救い記号を還元もしくは導来しようという根強い願望に呼応してはいないであろうか。(99頁)

このレトリカルな問いかけに肯定的に答えることが『声と現象』の主導的なモチイフをなしている。

 ところで、ルプレザンタシオンの根源性というものを、デリダは「同じものの反復可能性」(102頁)というふうに考える。そのいみでは、「指標」も、たとえ、そのレフェランスが「現実」存在者であろうとも、それが「記号」であるかぎりは、それとは別の存在者がそこで「反復」されるような「回付」の構造を避けられはしないのであって、「指標」はそのいみで「ルプレザンタシオン」的であり、また「ルプレザンタシオン」的でないような「指標」はありえないのである。仮に、フッサールが「Aの事態」と「Bの事態」との「指標的関係」を「実在的(レア―ル)」として、つまり「今、ここ」に縛られた「必然性のない関係」として呈示しようとしていたにせよ、この種の非必然性に、デリダの言う記号の「ルプレザンタシオン」的構造は先立たねばならない。それでもなおフッサールが「表現」と「指標」とを区別せねばならないのは、「指標」の現実存在性を「表現」的回付がまぬがれているからであり、というより、その種の現実存在者的な回付から「表現」を「救う」ためのことである。と、もしそう言った場合には、それは「指標」と「表現」との区別をふたたびフッサールが言うとおりに指摘しただけのことである。デリダは、「指標を必要とすることは、ただ単に、記号を必要とすること」(82頁)だとするわけだから、彼にとっては「指標」の「現実存在者」性を免れるということは、「記号」を、つまり回付性一般を免れることなのである。だからこそフッサールにとって「記号(一般)とは何か」という「根源」的な問いは生じないのである。それゆえ、デリダにとって「指標」と区別されることに至る「記号」(としての「表現」)とは記号概念一般の抹消の操作であって、「表現の汚れなき純粋性」としての「端的な現前」に対立するものは、つねに「指標」性一般だということになる。表現/指標の対は、表象/現実(レアールなもの)、現前/反復などの対と並ぶことになるのである。

 しかしながら、表現という概念は、(イデア的な)表象という概念と同じものなのではない。デリダも認めていたように、フッサールの表現という概念は、レアールなのもの一般ときりはなされえない。独話の事例でフッサールが言わなければならないことは、「記号の現存(ダ―ザイン)」は「意味の現存(ダ―ザイン)」と必ずしも等しくないこと(のみ)であり、「記号の現存」そのものを還元することではなかったはずである。だからこそ、「表現」は「記号」論の内部で扱われているのである。その内部で「指標」が「表現」から区別されているのは「指標として役立つべきものは、現存するもの(ダ―ザイエント)としてわれわれによって知覚されねばならない」(二巻46頁)からであって、「意味」は、そのいみでは「知覚」されるものではないからである。むしろ「指標」こそが、シニフィエ(signifie)とシニフィアン(signifiant)との分離を「実在的(レア―ル)」に可能なものとする記号理解に与するものなのである。

デリダは、一方で、「指標」が何かの「指標」であるかぎり「指標」は単なる現実存在性にとどまらないのであって、それは現実存在ダ―ザインの「表象(ルプレザンタシオン)」でなければならないと言う。レアールなものと「表象(ルプレザンタシオン)」とは区別できないのである。しかし、ここでデリダは現実存在そのもの(つまり物自体)は存在しないといっているだけのことである。少なくとも、この議論の効力はそのような通俗に訴えてしまう危険性を孕んでいる。

デリダが、ルプレザンタシオンの「根源」性と言う場合、むろん、彼は、ルプレザンタシオン「自体」といういみでの、彼の言う、「ルプレザンタシオン」の「端的な現前」を考えているわけではない。むしろ「ルプレザンタシオン」の「根源」性とは、そもそもそのような「根源」性を、それとして可能にするような「反復の可能性」を名指しており、デリダも言うように「われわれは〈現在の現前〉を反復から派生させるのであって、その逆ではない」(101頁)のである。デリダは、次のように留保している。「しかし、もしこの再現前の〈再(re)―〉が或る端的な現前にあとから到来する ― 反復的あるいは反映的な ― 単なる重複(ルプレザンタシオンという語はこれまでつねにこのことを意義した)の謂でないとすれば、現前とルプレザンタシオンとの関係についてわれわれが本書で近付きつつあるもの、ないしは提起しつつあるものは、他の幾つかの名称に対して開かれねばならない。私が根源的ルプレザンタシオンとして記述しているものが、臨時的にこの名称で指示されうるのは、私が本書で踏み越えようと試みている囲いの内部においてでしかない。すなわち、私はこの囲いの内部の、相矛盾する諸命題ないし維持しえない諸命題をあばき、その権威を失墜させ、そこに確実に不安泰を生じさせることを試み、その囲いをそれの外部に向かって開き、こうしてその囲いを踏み越えようと試みているのであるが、このことは或る内部からしかなされえないことなのである」(114頁)。

フッサールの「表象」の反復性(=「ルプレザンタシオン」)は、「端的な現前」の「あとから」付け加わる「反復」性であって、それは、「現前」性そのものを構成するような「反復」性ではない。それゆえ、デリダの言う「ルプレザンタシオン」の「根源」性は、フッサールが「レアールなもの」を「独話」的な表象に「還元」したいみでの「表象」の「根源」性、そしてまたフッサールがその場合に基づいているところのレアールなもの/表象という対における「表象」の「根源」性とは、別のいみにすでに転位(デプラッセ)している。つまり、デリダは「指標」の「ルプレザンタシオン」性を言うことによって「現実存在者」そのものは存在しないというとともに、「表象」そのものの「端的な現前」もまた存在しないと言っているのである。彼は或る〈内部〉が強いる区別を模倣しているのであって、そのことによって、その区別のいみを転位(デプラッセ)させていると言うべきなのだろう。田島節夫(「差異の哲学」in『現象学研究2』せりか書房版)は、この註記(のいみ)をまったく読み落しており、その結果、彼はデリダのルプレザンタシオンを「伝統的形而上学への復帰の道を残しているかのよう」にしか理解できない。彼は「イデアの同一性」なしにはルプレザンタシオン(の事後性)を可能にするものを考えられないのである ― 「しかし、反復ということが、根本において、同一的なものの反復をいみするとすれば、差延(田島は、デリダの《差延》(la differance) を「差異と同時に反復の可能性を含むもの」と考えている)ということから、果してその基礎を明らかにすることができるだろうか。逆に、反復の可能性を保証するもの、したがって結局、差延を可能にするものこそ、イデアの同一性ではないだろうか」(前掲書7頁)。

とはいえ、デリダのこのような註記は、再度、フッサールの「表象」という概念を、そしてまた「記号」論内部での「意味」という概念を、「単純」化し、等質的なものに閉じ込めてしまうことでしかない。デリダがここで慎重である(かにみえる)のは「ルプレザンタシオン」という語にこめる自分のいみにであって、フッサールのいみにではない。

少なくともデリダは、フッサールの「表現」概念に限って(「指標」は別にしても)は、表象とレアールなものの単純な対置が可能でないこと、つまり、「ルプレザンタシオン性に根源的にかかわりあわずには、《実際の》言表を開始することができない」「表現性のまさにそうしたもっぱらルプレザンタシオン的な性格」をこそ、フッサールが「表現」から「指標的外皮を剥落させ」ることによって、明らかにしようとしたものであること(98頁)を(反問しつつ)認めていた。つまり、フッサールの「表現」概念は、それ自身としては、レアールなものの単純な対項ではありえないことを、デリダ自身が認めているのである。しかしそれにもかかわらず、フッサールが「指標」と「表現」とを区別することのいみを、そのデリダが問うときには、それは「端的な現前」を「救う」ための「形而上学」的な「根強い願望」(99頁)によるものだとされる。その場合に指標/表現は、現実的なもの(レアールなもの)/表象の対に等置され、両者は対抗的に項として分離される。このような等置の手順をデリダの註記(の慎重さ)は覆い隠している。なによりもデリダ自身のフッサール「表現」概念に対する両義的な態度を覆ってしまっている。

 この場面で、フッサールの「記号」概念がまさに「表現」においてこそ、その本質性を有しているとするか、「指標」こそ「記号」の一般性をいみしているととるかは、まったく等価であるようにおもわれる。そして、この等価性のいみこそが、かの「からみあい」のもつ含みなのであって、「指標」と「表現」との差異は、デリダも言うように「実体的差異であるというより、むしろ機能的な差異である」(40頁)。「指標と表現とは記号作用の二つの機能ないし関係であって、項ではない。同じただ一つの現象が、表現として把握されることもできるし、指標として把握されることもできる。つまり、言表的記号としても、非言表的記号としても、把握可能なのである。それは、その現象を賦活する志向的体験に依存する」(40頁)のである。だからデリダが問うべきであるのは志向的体験の統一性の方であって、「表現」と「指標」の差異にかかずらうことではない。

デリダが「指標」こそが「記号」性一般なのであるとするばあいには、彼は明らかにフッサール的な「表現」=「意味」(あるいは「表象」)に対してレアールなものを「実体的」に敵対させている。「指標の還元」=「記号の還元」なのであって(デリダの場合)、その場合、記号性とは現実存在性一般である。ここではデリダは先に示したルプレザンタシオンの「根源」性とは反対のやり方で、フッサールに「反して」おり、言わば経験論的なのである。(形而上学からの)「脱出は徹底的に経験主義的である」(『グラマトロジーについて』邦訳下巻41頁)と言われているとおりのことである。むろん、そのことはデリダの「矛盾」でもなんでもないのであって、そもそも彼は、表象/レアールなものという区別(対立)を、そのつど模倣的に構築しつつ(伝統的な挙措に従って)、対立それ自身を模倣しているのだろう。ハイデガーの言う(「存在論の歴史」の) Destruktion(破壊)が単に否定的でないようにデリダの Deconstruction (脱構築・解築)もまた「肯定的」であると言われている(「哲学の痕跡について」in『現代思想』1982/9月号,227頁)。

しかしながら、はっきりしていることは、表現/指標の区別が、表象/レアールなものといった(伝統的にして通俗的な)対立に単純に等置されることによって、それが「記号」論内部での区別であることが、やはり覆われてしまうということである。「記号」一般が強いるこのような〈内部〉こそ「指標」と「表現」との「実体的」分離を不可能にさせている当のものなのであって、それにこそデリダは慎重であったはずなのに、事情はここで逆転している。

5.〈意味〉と〈時間〉

「独話」の事例は、フッサールにとっては〈内部〉を「指標的なもの」としての〈外部〉から解き放つものであるように、デリダには映る。その場合、その〈内部〉とは「表現の純粋性」といわれているものと同じものなのである。それは「指標的なもの」との対立における〈内部〉である。デリダは「指標」=「記号」としたわけだから、この〈内部〉は、記号の(という)〈内部〉ではなくて、記号と対立する〈内部〉に狭められている。

「指標(=「記号」)の還元」によって獲得される、このように狭められた〈内部〉について、デリダは「独話」の事例を引く際にフッサールが言及する「同じ瞬間」というコトバに注目する。そもそもデリダは、「独話」における「伝達的言表」の「無目的性」をフッサールの言う「同じ瞬間」における伝達(=無伝達)というふうに理解し、表現(内面的言表)の、「〈自己への現前〉としての現前の同一性における無―他性、無―区別」をこそ問題にしていた(112頁)のではないか。フッサールこそが記号論的内部を狭隘化するのである(とデリダは考える)。フッサールは、次のように言っていた。

●独り言(monologische Rede) の場合、所詮言葉は心的作用の現存を現わす指標の機能においては役立ちえないのである。というのもこうした指示は、ここではまったく無目的なものとおもわれるからである。もっとも問題の心的作用は我々自身によって同じ瞬間に(im selben Augenblick)体験されてはいるが。(二巻47頁)

「〈自己への現前〉の現在は、一つのまばたきと同じように分割不可能なわけである」(113頁)とデリダはフッサールのこの件りにコメントしている。そして「〈自己への現前〉は、それが記号を代理として自己自身に何かを知らせるに及ばないためには、ひとつの時間的現在の不分割な統一において起こるのでなければならない」(115頁)。このような「時間的現在の不分割な統一」、つまり「《今》についての或る概念、瞬間の点性としての現在についての或る概念が、《基本的諸区別》(『論理学研究』第一研究・第一章の章題―註・芦田)の全体系を、目立たない仕方でではあるがしかし決定的に権威づけているということである」(116頁)。

●(…)もしも、瞬間の点性なるものが神話であるか、空間的もしくは機械的比喩であるか、伝来の形而上学的概念であるか、あるいは同時にそれら全部であったら、もしも〈自己への現前〉の現在が端的でなかったら、つまり、もしもそれが或る根源的かつ還元不能な総合において構成されるのであったら、その場合にはフッサールの議論全体がその原理において脅かされることになる。(116頁)

『声と現象』第五章(「記号とまばたき」)のこのコンテクストにおいて、記号作用としての「ルプレザンタシオンの根源性」のフッサール的な通俗性(とデリダが考えたもの)は、「不分割」な「瞬間の点性」としての「端的な現前」の「あとから」の「反復」としてとらえなおされている。これが、田島節夫の言う「イデアの同一性」の構成する反復(と差異)の水準である。「瞬間の点性」の「不分割」性は「ルプレザンタシオン」の「反復性」を(その「同一性」において)構成しているのであって、その逆ではなく、「あとから」ということ(の自然的、実在的時間性)を、それは自らの「外部」へとはじいている。反復的代理性としての「指標的系」(=記号)は、そのようにして「表現」の、言いかえれば「意味」の「純粋」性から切り離されているというわけである。

「あとから」ということ(の過去性)を、フッサールは「過去把持」の問題として彼の時間分析の中心的主題の一つにすえるが、しかし、それは「知覚」の〈現在〉と区別された「非知覚」の「過去」としてなのではない。フッサールにとっては〈過去〉もまたもう一つの「知覚」のありかたなのであり、「変様された現在」の一つである。「(…)一切の《根源》を内蔵し、原的に構成する作用を知覚とよぶとすれば、第一次記憶は知覚ということになる。なぜなら我々は第一次記憶の中でのみ過去のものを見るからであり、過去はその中でのみ構成されるからである、しかもそれは再現的に(reprasentativ) ではなく、現前的に(prasentativ) 構成されるのである。(……)想像された今(das phantasierte Jetzt)は、今を表象しているが、しかし今そのものを与えはせず、想像された前後はただ単に前後を表象するに過ぎない」(『内的時間意識の現象学』邦訳56頁)。デリダが言うように「フッサールが過去把持を知覚とよぶのは、過去把持と再生、知覚と想像、等々の間に根本的不連続があるのであって、知覚と過去把持との間にそれがあるのではない」からである。ルプレザンタシオンとしての再現が、言いかえれば、或るものが〈そこ〉で再現されるルプレザンテ記号的な再現の時間性(特に「指標」と区別された「表現」の時間性)が、それでもなお現前的であるのは、つまり「端的な現前」であるのは、フッサールが「過去把持」を「知覚」の「現在」との「連続的和合(kontinuierliche Vermittlung) 」(同前55・56頁)として理解することに基づいているのである。

「過去把持」とは「過去の遺産を内蔵する連続的変様である」(同前41頁)。それは〈現在〉の有する「財産」である。知覚(の現在)がそのようにして拡張される過程は、すでにヘーゲルが「直観の止揚」としての〈表象〉について、現在完了表現のhaben(《持つハ―ベン》)の有するいみに言及していたところのものに相応している。〈表象〉が「今・ここ」的な制限を止揚しうるのは、〈想起〉と区別された〈構想力〉が「心像」の(再)産出にあたって「恣意的」な、つまり「現存する直観に依存しない」能力を有していることによる。ヘーゲルの場合−ここで詳しくは触れられないにしても−、この「恣意」とは彼の言う「自由」と同義である。そのような〈構想力〉による(再)産出が「恣意」的であるのは、それが〈精神〉の現前性の内部で産出されること、つまり精神の財産それ自身の産出であるからである。

 つまり精神は自分自身を再産出することによって「恣意的」なのである ― 「表象する精神は直観をもっている。直観は表象する精神の中で止揚されているのであって、消滅してしまっているのではない。すなわち単に過ぎ去ってしまったものにすぎないのではない。それゆえにまた表象に止揚された直観が問題になる場合、言語が私はこのものを見た(habe gesehen)というのは全く正しい。このことによってはなんら単なる過去(性)が表現されているのではなくて、むしろ同時に現在性(現前性)が表現されているのである。過去はこの場合に単に相対的なものである。過去は単に直接的直観とわれわれがいま表象の中にもっているものとの比較の中で起こるにすぎない。しかし完了形の場合に用いられたhabenという言葉は本来全く現在性(現前性)のいみをもっているのである。私が見た(gesehen habe)ものは、私がただもっていたことがある(hatte) だけの或るものではなくて、なおもっている(habe)或るもの、こうして私の中に現前している或るものである。われわれはもつ(Haben)という言葉のこの用法の中に、近代的な精神の内面性に関する一つの一般的な記号を見ることができる」(『エンチュクロペディー』450節補遺・邦訳岩波文庫版「精神哲学」下巻111頁)。

(再)産出の契機の、このような「恣意」性は、フッサールによれば「表現」という媒体の「非生産性」「反映」性ということであって、それは〈意義(Bedeutung) 〉と〈意味(Sinn)〉との区別にかかわるようにみえる。

『イデーン・Ⅰ』(124節以降)で、フッサールは、デリダも言うように〈意義(Bedeutung)〉と〈意味(Sinn)〉とをフレーゲとは別のいみでふたたび区別している。〈意義〉は「ロゴス的・論理的」意義とか「表現作用的」意義に振りあてられ、〈意味〉は「あらゆる志向的体験」について「意義よりもいっそう包括的な広さ」をもたせられることになる。《このものは白い》ということについての、言わば「沈黙した知覚」(デリダ)とその言表との関係について、フッサールは「この過程は、いささかも『表現』を要求しない。つまり語として言いあらわされたものといういみでの表現をいささかも要求しないし、また語の意義作用といったようなものとしての表現をも、いささかも要求しない。この場合、後者の、語の意義作用といったものは、実際、語として言いあらわされたものとは無関係に(たとえば、語として言いあらわされたもの・言いあらわしかたが『忘却されて』しまっているときのように)、独立にも存在しうるものだからである」(邦訳Ⅰ(-2)235頁)と言っている。「したがって、陳述作用への移行は意味に何ものをも付加しない」とデリダは評釈する。「表現の層」は(〈意味〉に)「何ものをも付加しない」という点で、フッサールも言うように「非生産的」で「反映」的であるわけだ。

そうであれば、「表現」が〈意味〉の「表現」として〈そこ〉に生じるということは、一つの〈自己−触発〉であるのである。「表現の層」が非生産的な反映層であるということは、〈そこ〉が〈意味〉が自分自身を産出するところでしかないということであり、言いかえれば、それは〈意味〉が自分自身を産出するのに自分以外のどんな契機も必要としないということである。〈意味〉は「純粋」に産出される。

そのようにして「独話」において、人は《自分が話すのを―(その話すのと)「同じ瞬間において」―聞く》。

そして、話すということは時間において話すということである。まさに「時間化の運動」こそが〈自己―触発〉という概念との内面的な連携を有している。デリダは言う。

●ところで、すでに『時間講義』のなかで分析されているような、時間化の運動を考慮にいれるとなれば、どうしても純粋な自己―触発という概念をすぐさま利用しなければならない。この概念は、周知の通り、ハイデガーが『カントと形而上学の問題』においてまさに時間を主題にして用いている概念である。《源泉―点》、《根源的印象》、すなわち、時間化の運動がそこから生み出される当の出発点が、すでにして純粋な自己―触発なのである。この自己―触発は、まず第一に、純粋な産出である。時間性は決して一存在の現実的な賓概念ではないからである。時間そのものの直観は経験的ではありえない。それは何ものをも受容しないような受容である。おのおのの今の絶対的な新しさは、したがって、何ものかによって生み出されるのではない。この新しさは、自分自身を生み出す根源的印象に存する。(157頁)

「根源印象は ― と、デリダはここでフッサールのテクストから引用する ― この産出の始まり、根源的源泉であり、そこから他の一切のものが不断に産出される当の出発点である。けれども、根源的印象それ自体は産出されるのではない。それは、なんらかの産出物のように生まれ出るのではなく自然的発生(genesis spontanea) によって生じる。それは根源的発生である」(『時間講義』補遺1・邦訳132〜133頁)。

事実、このことからしてこそ「表現の層」と「前―表現的層(前―言語的層)」、つまり「表現」にとっての以前とを分けるということ、フッサールもいうように「表現作用的意義作用の層と、表現されるものの層とが、存在するということ」、「このことを承認することさえもがすでに容易ではないし、ましてや、これらの成層の本質連関を理解することに至ってはいよいよもって容易ではない」(『イデーン』前掲書238頁)のである。

 というのも「前―表現的層」における《このものは白い》という「沈黙した知覚」(言わば《意味》)は「このものは白い」という《表現》の単なる抽象化ではないだろうし、別の言い方をすれば「このものは白い」はそれ自身ですでに(《意味》の)《表現》だろうからである。フッサールも言うように「二つの区別されるべき定立」が両者の層の「合致」の内にあるのではなくて「ただ一つの定立」が一つの表現において生じている(同前)。つまり「層(成層)」(Schicht) というコトバは、それ自体「比喩」であって、それに「余りにも過大なものを不当に要求してはならない」。「比喩性」(Bildlichkeit)というものは「ひとを誤らせやすいからである」(同前)。

「表現」の時間性としての「起源」(つまり「表現」のレフェランス)を問うということは「表現」の〈内部〉で、「表現」がすでに〈そこ〉に存立しているという〈事実性〉(の内部)においてのみ可能なことである。それは「表現」の「起源」としての〈意味〉こそがそのような〈内部〉で起こる遡行を可能にしていると言っても同じことである。〈そこ〉には「ただ一つの定立」が「自然的発生」として生じているのだから。

事実、フッサールが「ただ一度限りしか」存在しない「幾何学の起源」 ― 「ピタゴラスの定理、さらには幾何学全体は、たとえそれがどれほど頻繁に言表されてきたにせよ、またたとえそれがおよそいかなる言語によって表現されようとも、ただ一度限りしか(nur einmal)存在しない。それはユークリッドの「原語」においてもあらゆる「翻訳」においてもまったく同一である」(中央公論社版邦訳390頁) ― を問うのは、〈起源〉が〈現在〉の別名だからである。フッサールにあっては「原語」であっても、その「翻訳」と同じほど遠い、あるいは「翻訳」であっても「原語」と同じほどに「イデア的なもの」に近いのである。つまり、それらは「イデア的なもの」(としての〈意味〉)と同時にこそ存在するのであって、「同じ瞬間に(im selben Augenblick)」存在するのである。『幾何学の起源』が、特にその〈起源〉がフッサールにとって問題であるのは、この種の「一度かぎり」の「連続的和合」が関心の的であるかぎりのことである。フッサールはいわゆる「歴史的なもの」を抹消するためにこそ〈起源〉を問いもとめるのである。

「幾何学」は「登場しなければならなかった」(フッサール)。それは必然ではあるにしても「一度かぎり」の必然である。つまり、自分自身の必然性において以外には歴史的事実として生じないような(歴史にとっての)一つの偶然なのである。「幾何学」の現在=起源、「自分自身を生み出す根源的印象」としての現在=起源は、そのように「自己―触発」する。〈起源〉とはそのいみでニーチェも言うように一つの隠喩である。それは、それによって生じたものの方から(=「後から」)透かされて見えている。

それゆえ「比喩性」が「ひとを誤らせやすい」のは、フッサールの(学的)配慮に反して、一つの認識能力のなんらかの過誤によるものではない。

「だが、もし層という比喩が、フッサールの記述しようとする構造に呼応しないというのであれば、どうしてこの比喩が(フッサールの分析にとって)これほどの長いあいだ役立ちえたのであろうか」(「形式と意義作用」in『現代思想』1974/8・9月号,151頁)と、デリダはフッサールの「比喩性」に対する(学的)配慮に反問する。

「こうした(時間化の)《運動》の記述のなかに或る一定の存在者をもちこむやいなや、ひとは比喩によって語る。つまり、この《運動》を、この運動が可能にするものの用語でいうわけである」(158頁)。

デリダは、それゆえ「源泉―点」としての「根源的印象」を非知覚に対立させているわけではない。たとえば、「メロディー全体の知覚」に対して、一方で、その個々の音に対して「知覚されていない音」と「知覚されている音」と言うフッサールの「矛盾」を、成田常雄が言うようにデリダはあげつらうわけではない ― 「関心が個々の音に向けられているときには、『われわれは、いま与えられている音と過ぎ去った音とを区別して、前者を“知覚されている音”、後者を知覚されていない音と呼ぶ』ことができるが、しかしその一方で、『メロディー全体が知覚されているという言い方もして』おり、この点で、『知覚されているもの』と『知覚されていないもの』との区別は流動的である。それゆえ、敢えて、この点を問題にするならば、『メロディーの知覚』という言い方は、『すでに過ぎ去って、いまは知覚されていない音』に対して、それをも『知覚』しているということになり、矛盾しているではないか、という議論も可能である……」(成田常雄:「自我と時間」in『講座現象学2』弘文堂版68頁)。あるいはまた「根源的印象」を「瞬間としての自己同一的現前」と「同定」してそれを非現前と対立させている(山形頼洋)わけでもない。成田や山形に共通するのは、デリダの言う〈現前〉(あるいは「瞬間」的ということ)を時間的なものとして扱う点である。「根源的印象の『ある』をいみする『流れの最初』の位相は、瞬間的である必要は少しもない。デリダが主張するように、瞬間的ではないがゆえに自己同一的ではない、持続するものであっても少しも構わない」(「ディフェランスもしくは死体なき殺人」in『理想』1984/8月号、231頁)と山形はいう。

 しかし問題であるのは、「根源的印象」が「根源的流れ」としての一つの持続である場合にこそ、知覚の現在とは別の或る拡張された現在をフッサールが要請せざるを得ないということであり、このような拡張された現在(非時間的現在)の〈起源〉を問う場合にこそ、フッサールは「自然的発生」と言わざるを得ないということなのである。〈自己―触発〉という概念が導入されるのは、この拡張された現在 ― もはやそれ自体時間的ではないような ― が主題とされるかぎりにおいてのことなのである。つまり、「源泉―点」とは、そこからそれが始まる〈そこ〉を分割する瞬間に押しひろげてしまうような、そのことによって〈起源〉を〈現在〉へと拡張するような自己―触発的時間・空間を名指している。

「源泉―点」としての〈今〉の発生を問うこと、また「発生」という語それ自身が、そして、デリダも言うように「《時間》という語にしても、それが形而上学の歴史においていつも解されてきたかぎりでは、一つの比喩であり、そうした自己―触発の《運動》を指示すると同時に隠蔽してもいる」(159頁)のである。

もし仮に、時間化の運動が時間の比喩として以外には可能ではないとすれば、時間とは時間それ自身に対する差異として、つまり厳密に言えばその差異の比喩として以外には存在しないようにおもわれる。つまりその差異自身は時間的には解消できないわけである。そのいみで「意味の時間化は、そもそものはじめから、《阻隔(空間)化(espacement)》である」(160頁)。

デリダは、次のように言う。

●すでに見た通り、音声的自己―触発の純粋な内面性は、《表現的》過程の純粋に時間的な本性を予想していたが、今そのことを想い起こすならば、パロールもしくは《自分が話すのを聞く》の純粋な内面性というテーマは、《時間》そのものと根本的に相容れないものであることが理解される。《世界の中への》外出もまた、時間化の運動と根源的にかかわりあっているのである。ひとは《時間》というものを、現在と現在的な存在者の〈自己への現前〉とから出発して考えることができないのだから、まさにそれゆえ《時間》は《絶対的主観性》ではありえない。(160〜161頁)。

《自己への現前》といういみでの《対自(fur sich)》の可能性 ― それをデリダは「現象学的自己能与」(168頁)と同じものとしているわけだが ― は「内面化」といういみでの時間化の運動にもまして阻隔化の動きの中に囚われている。そして「対自」といういみでの、自分《の代りに(fur Etwas) 》というルプレザンタシオン(再現的現前における代理)こそが何よりもまず阻隔化それ自身なのである。だからこそ、ルプレザンタシオン構造における「事後性」は、一つの現前に、非構成的に「付け加わる」といったものではなかったのである。フッサールが記号の回付性を、対自の内面性(《自分が話すのを聞く》)として内面化するときにこそ、内面は、時間の比喩そのものとして自ら阻隔化される。それは自分自身に遅れた「内面」なのである。「《自分が話すのを聞く》は、自己の内に閉ざされた或る内部の内面性であるのではない。それは、内部における還元(解消)不能な開けであり、パロールにおける眼と世界である」(161頁)。そして、その「眼と世界」とが「指標的系」の別名であるならば、「意味の時間化」の只中における《阻隔化》の動き ― デリダはこれを《原(archi) ―エクリチュ―ル》の《差延(la differance)》という ― は、ふたたびかの《からみあいフェアフレヒトゥング》を招くのであり、「表現」と「指標」との区別を、つまり、「表現」の「純粋」性を危ういものにするとデリダは考えるのである。

6.〈意義作用の自立性〉

「記号一般とは何であるか」を問うことが、1)記号概念の統一性を要求する問いとしては可能ではないこと、2)その場合の「何であるか」の「ある」の現在(三人称単数現在)が「意味の時間化」による「内面化」の動きに反して《阻隔化》としてのルプレザンタシオンの可能性として、つまり、デリダに倣って厳密に言えば《原―エクリチュール》の《差延(la differance) 》としてのみ「ある」のであれば、3)この問いは、この問いが強いる〈内部〉の懸隔(「指標」と「表現」との)を、フッサールが意図したのとは別のいみで、つまり「指標の還元」ということ ― それは、一方ではフッサールが記号一般について主題的な分析に進まなかったということ、言いかえれば、記号一般についての前提的(伝統的)な了解について無意識であったことと無関係ではないとデリダは考えたのであるが ― とは別のいみで再考させることになるのではないかということ、デリダはそう考える。

記号が強いるこの〈内部〉は、記号(の現在)が「それがそこに追加されると言われるその当のものを遅ればせに生じさせる」ような「補欠の奇妙な構造」(169頁)に属している。フッサールはこの事後性(Nachtraglichkeit)を〈知覚〉に還元しようとした ― それも(たとえば彼の言うメロディーの事例で言えば)「残響」という仕方ではない在り方での ― わけだが、それは、結局のところ〈知覚〉概念の非知覚的な拡大を招かざるを得なかったわけである。問題であるのは「知覚されたわけではないが、原則的に知覚可能でなければならない諸々の原プロセス」(フッサール・1917)であるにしても、R.ベルネが言うように、「フッサールが、流れの、無媒介的顕在的自己所持ないし自己意識の可能性への信仰を維持しようとしているのだとすれば、彼は、パラドキシカルな仕方で『意識されない諸表象』に訴えざるを得ないことに気付かされる」(「非現前的現在」, S.55, in Phanomenologische Forschungen 14 )。

それゆえ、記号を還元する(「指標の還元」)といういみで、記号の起源を問うということは、記号のなんらかの知覚(「直観的認識」)への還元に反して、記号が起源であることへ、厳密に言えば〈起源〉が、代理者(ルプレザンタシオン)の代理者(ルプレザンタシオン)であることへと送り返される。記号(のルプレザンタシオン)は自分自身を代理する。「言語は、言語を保持する差異を保持するのである」(28頁)と、デリダが『声と現象』の冒頭で言っていたように〈内部〉とは〈差異〉のことなのである。フッサールが意義作用の「自立」性ということで考えていた―デリダ自身は、後に『書物の外』(Hors livre,p.26,Editions du Seuil,1972)において、これを《能記的沈澱》(La precipitation signifiante)とも呼ぶことにもなる ― この〈内部〉としての〈差異〉は、それゆえ、一つの非充満(非充足)を宿している。

事実、デリダも言うように「表現の独自な構造には、思念されている対象の〈直観への十全な現前〉をなしですますことができるということが属している」(171頁)。フッサールは当該箇所で次のように言っていた。

●われわれが純粋記述の立場に立てば、意味によって生かされた表現の具体的現象は一方の、表現をその物理的側面で構成する物理的現象と、他方の、表現に意義を与え、場合によっては直観的充実を与える諸作用とに分かれるのであり、そしてこれら諸作用のなかで、表現された対象性への関係が構成されるのである。このような後者の作用によって、表現は単なる語音以上のものとなるのである。表現は何かを思念し、そしてそれを思念することによって、対象的なものに関係するのである。この対象的なものは、それに伴う直観によって顕在的現在的にか、あるいは少なくとも現前化されて(たとえば想像心像のうちに)現出しうるのである。そうなった場合に、対象性への関係が実現されるのである。あるいはそうならない場合もあるが、この場合にも表現は意味的な機能を果たしているのであり、たとえ表現に対象を与える基づける直観がかけていても、やはり表現は空虚な語音以上のものである。(二巻48頁)

「したがって《充実させる》直観は、表現に、意義作用の思念に、本質的であるわけではない」(172頁)のであって、「対象の不在が意義作用の不在であるわけではない」(174頁)とデリダは言う。この構造は「意義作用」にとっては本質的で積極的なもののようにデリダにはおもわれる。フッサールはここで「直観」と「志向」との《独自な性格をもつ内密な混和の統一体》(同上)を想定しているが、しかしそれは「言語にしか属さないあの構造、言語の志向がその直観を奪われたときにも、言語がただひとりで機能することを許すあの構造を、抹消もしくは融合させてしまうことである」(175頁)。

逆に「直観と志向との結合は決して等質的なものではなく、意義作用は直観と融合しても決して消滅しはしない」のであって、「意義作用の自立性」は「直観」による「現前的充実」に還元されえないのではないか、とデリダは反問する。

●《知覚陳述》という極端な場合を考えてみよう。その陳述はまさに知覚的直観の瞬間に生みだされたと想定しよう。私は或る人物を実際に見ている瞬間に、《私はいま窓からしかじかの人物を見ている》と言うのである。この表現の内容はイデア的であり、その統一性は今ここでの知覚が不在になっても損傷を受けることがない、ということが、私のこの作業のなかに構造的に含まれている。私の傍らで、あるいは時間的ないし空間的に無限に離れたところで、この命題を聞くものは、私が言おうとしていることを、権利上、理解するはずである。この可能性は言表の可能性であるから、知覚しながら話すもののその作用そのものを構造づけているはずである。私の非―知覚、私の非―直観、私の今―ここでの不在が、私が言うというまさにそのことによって、私が言うところのことによって、そしてまた私が言うがゆえに、言われているのである。この構造は、いつになったところで、決して直観と一種の《内密な混和の統一体》をなすことができないであろう。直観の、したがって直観の主体の、不在は、言表によってただ単に許容されるのではない。記号作用一般の構造をそれ自体において少しでも考えてみればうなずけるように、直観の不在は記号作用一般の構造によって要求されているのである。直観の不在は根本的に要求されている。いいかえれば或る言表の主体およびその対象の全面的不在 ― 作家の死、もしくは(および)彼の書きおえた諸対象の消滅 ― は、《意義作用》のテクストを妨げない。逆にむしろこの可能性が意義作用を意義作用として生じさせるのであり、意義作用を聞かせたり、読ませたりするのである。(176頁)

リクール(「言述における出来事と意味」in『解釈の革新』白水社版)は、この後半の結論から、言表作用としての意義作用を〈パロール〉と〈エクリチュール〉に分け、後者にのみ、「今、ここ」 ― リクールの言う「情況」 ― を超越した「イデア性」としての「意味」を認めるのであるが、その方向はデリダとはまったく逆である。不在であるのは、もしそういえるとすれば〈パロール〉の〈主体〉であって、それは、それだけで充分に不在なのであって、デリダがフッサールの「意義作用の自立性」を取りあげるのは〈パロール〉と〈エクリチュール〉とのそういった区別の以前のことである。そのいみで《原−エクリチュール》が問題なのだから。今更のように、知覚(可感)的直観とイデア的なものとの古典的に二元論的な対立がここで取り出されているわけではない。

デリダは、そのことを特にはっきりさせるために「今度は私という人称代名詞の例を取ってみよう」と言う。

フッサールは、〈私〉という人称代名詞を《本質的に偶因的な (okkasionell)》表現の一つとして分類している(二巻90〜97頁)。「私という語は、その時々で別の人物を指し、しかも常に新しい意味によって指し示すのである。そのつどその意味がどのようなものであるかは、ただ生きた会話と、その会話に属する直観的事情からのみ察知されるのである」(同前92頁)。〈私〉が「偶因的」であるのは、フッサールによれば、その〈私〉が含まれる言表の意義をそこなうことなしに「客観的」で「概念的」な表象にそれを置き換えることができないからである。〈私〉という語を《自分自身を表示するそのつどの話者》と「客観的」「概念的」に置き換えて(フッサールがそうするように)、「私はうれしい」というかわりに「自分自身を表示するそのつどの話者はうれしい」と言ったとしてみよう。「しかし、明らかにこのような置換はただ単に聞き慣れない表現になるばかりでなく、意味の異なる表現ともなるであろう」(同前)。「言表において主観の情況への参照をなくすことができないようなところにはどこにでも、言いかえれば、主観の情況が人称代名詞や指示代名詞、ここ、あそこ、上に、下に、いま、きのう、あす、以前、以後、等々といった型の《主観的》な副詞によって指示されるようなところにはどこにでも、このように指標作用が浸透しているのである」(178頁)とデリダはコメントする。

しかし、フッサールはかの「独話(einsame Rede)においては、《私》の意味(ベドイトゥング)は本質的に自分自身の人格の直接的表象のなかで成就される……」と先のテクストに続けていたのである。「これは確かなことであろうか」とデリダはここで反問する。

●これは確かなことであろうか。たとえそういう直接的な表象が可能であり、そして現に与えられていると仮定しても、孤独な言表のなかでの〈私という語の出現〉(しかも直接的表象が可能であるのならば、この補欠の存在理由は理解できないものである)は、すでに一つのイデア性として機能しているのではないか。したがって、私という語の出現は、一人の〈今・ここ(にいる)・私(un je-ici-maintenant)〉一般にとって同じものとしてとどまりうるものとして与えられ、私の経験的現前が消えてしまったり根本的に変様したりしても、その意味を保持するのではないだろうか。私が〈私〉と言うとき、 たとえそれが孤独な言表のうちにおいてであるにせよ、私は、いつもそうしているように、その言表の対象の、すなわちこの場合にはわたし自身の、可能な不在をそこにかかわりこませる、というふうにしないで、自分の陳述に意味を与えることができるだろうか。(179〜180頁)

「私が生きていようといまいとにかかわらず、〈私はある〉は《意義する》」(180頁)のであって、「たしかに、その Bedeutung(意義)は《私は死んだ》というBedeutung(意義)とは異なるであろうが、《私は死んだ》という事実とは必ずしも異ならないであろう。《私は生きている》という陳述は、私の〈死んだ〉を伴い、この陳述の可能性は、私が死んでしまっているという可能性を要求する」(183頁)のである。それゆえ、「〈私〉の宣言には私の死が構造的に必然的である」(182頁)。「『私は死んでいる』ということを私が言うことができるということ」、《私》という「人称代名詞」(の意義作用)に伴う死のこの可能性こそが意義作用のむしろ《偶因的》でない《本質的》な「条件」なのである(Cf.The Structuralist Corntroversy,p.156,The Johns Hopkins Univ. Press,1979 )。

したがって、フッサールに反して、「〈私〉を理解するのに、いやそればかりか〈私〉を発語するにも、誰が話しているのかを知る必要はない」と言って、デリダは次のように続ける。

●孤独な言表と伝達との、現実と言表の表象との境界がまたしても不確かにおもわれてくる。《私という語は、その時々で別の人物を指し、しかもつねに新しい Bedeutung(意義)をもってそうする》(26節)とフッサールは書いているが、そのとき彼は、Gegenstandslosigkeit(無対象性)と Bedeutungslosigkeit(無意義性)との差異に関して彼が先に明らかにしたところに、矛盾していないであろうか。言表とすべてのBedeutung (意義)のイデア的本性とは、或る Bedeutung(意義)が《つねに新しい》という事態と相容れないのではないだろうか。さらに、フッサールは《そのつどの語(すなわち私という語)の Bedeutung(意義)がどのようなものであるかは、ただひとえに、生きた言表とそれに属する直観的な諸所与から引き出されうるのみである。誰が書いたかを知らずにその語を読むとき、その語は Bedeutung(意義)に欠けているとは言えないまでも、少なくとも、その語の正常な Bedeutung(意義)からはずれている》(26節)と書いているが、このとき、フッサールは、彼が先に志向と充実化的直観との相互的独立性に関して肯定したところに矛盾していないであろうか。(181頁)

マリオン(「突破口と拡大」in PHILOSOPHIE,1984/?2,?3 )は、デリダのこのコンテクストに対して、デリダのあげるような「矛盾」はないと考えている。というのも「この表現型(「私」)は、意義作用の直観への還元によって性格づけられているのではなくて、意義作用それ自身の不在によって性格づけられている」(?3,p.73)からである。マリオンは、私という語が「充実化的直観」を要求するのは(私という)意義作用の「充実化的直観」への(フッサールの)還元というデリダのフッサール批判の主題のコンテクストにおいてではなくて、むしろ、「私」という語がデリダの言うような意義作用の本質(「意義作用の自立性」)からはずれるからこそ、そうなのであると考えている。私という語に「不在」であるのは、それがまさに「充実化的直観」を要求するがゆえに「意義作用それ自身」なのであって、それこそが「《本質的な》不在」なのであり、この語は「本質的に非―表現として理解されるべきなのである」。とくに「少なくとも『論理学研究』においては、単純な《諸体験の複合体》に還元されている〈私〉は、いかなるイデア的な意味作用(超越論的な〈私〉というような)ももっていないのだから、それだけになお、〈私〉が自体的に意義作用を意のままにすることができないということは驚くべきことではない」(同前)。

デリダは、私という語がそれもまた「意義」をもつといういみで「表現」であるにもかかわらず、その一方で、フッサールが指標的なレフェランスとしての「充実化的直観」をその語の「意味」に要求するのは、「Gegenstandslosigkeit(無対象性)と Bedeutungs-losigkeit (無意義性)との差異に関して彼が先に明らかにしたところに、矛盾していないであろうか」と考えているが、しかし、そもそも、私という語は「表現」、つまり厳密ないみでの「意義作用」では(「本質的」に)ないのだから、そこに「矛盾」はないのである。それがマリオンのここでの指摘のすべてである。「意味作用なき表現は存在しないとすれば」とデリダに譲歩しつつ、そうであれば「本質的に偶因的な表現は、本質的に非―表現的なものとして理解されるべきなのである」とマリオンは言う。

議論は微妙なところですれ違っている。マリオンは、ここでデリダに譲歩しているように見えるが、おそらくそれはデリダには迷惑な譲歩だ。デリダは「意味作用なき表現は存在しない」ということ ― そのような形式主義的予断から始めるのではない。それは(「意義作用」とか「表現」というものをどのように理解するかは置くとして)デリダの前提ではなくて、むしろ引き出すべき結論なのである。すでに明らかなように、デリダが議論しているのは、「私」という語は果してフッサール=マリオンが言うように「本質的に非―表現的なもの」なのかどうなのか、ということであって、《私という語はそれもまた一つの「表現」であるにもかかわらず…》とデリダは議論を展開しているわけではない。言い方をかえれば、私という語を、そのようにして〈指標的なもの〉へと追いやろうとする「意義作用」についてのフッサールの理解、とりわけ意義作用の「自立性」ということの理解そのものがデリダにとっての問題である。デリダがここで言いたいのはフッサールが自分自身で言う「意義作用」一般の「充実化的直観」に依存しない「自立性」は、フッサールが「偶因的」で「主観的」とする「私」という語にまで及んでいるということである。だから、議論の主題そのものが表現/非表現(指標性)という区別を批准するかどうかということから始まっているのであって、マリオンの結論は、この主題へ単に形式的に指しもどすだけのことなのである。それはデリダ(のフッサール理解)批判以前のことである。

フッサールは、私という語を「非表現」に追いやろうとする場合にこそ、その語が必ず「充実化的直観」、つまり私の事実上の存在を要求せざるを得ないことに訴える ― この展開にフッサールの「矛盾」はまったくないのである ― わけだが、しかし、デリダが示したことは「〈私〉の宣言には私の死が構造的に必然的である」ことだったのである。つまり「私」と言う(言える)ためには、私は自分の事実上の「いま・ここ」での存在(私の生存)に訴える必然性は存在しない、つまり私は可能的には死んでもいるということである。それは、指標的なレフェランスとしての私の存在に訴えることなしに「自立的」に《意義する》。そうであれば、フッサールは、自分の言う「意義作用の自立性」においてこそ、私という語を「非表現」に追いやることができないのである。それがデリダの言う(フッサールの)「矛盾」である。リクールが〈私〉を〈パロール〉における「私」と〈エクリチュール〉における「私」とにわざわざ分けるのも、フッサールのこの「矛盾」に無知なためである。同様に、そのリクールがフッサールと共に依拠するバンヴェニストも、〈私〉の意味作用の位相を「語(mot) 」や「ラング」の水準とは別にことさらに「ディスクールのアンスタンス」に求める必要はなかったのである(「代名詞の性質」in『一般言語学の諸問題』みすず書房)。

7.〈現前性の形而上学〉

〈私〉は、「心理学的主観」(=自我)と「超越論的主観」との狭間において「主観的根源のゼロ地点」(179頁)とでも言うべき位置にある。

●私の超越論的な私(Je)は、フッサールの明言によれば、私の自然的・人間的私とは根本的に異なるものである。にもかかわらず、前者は後者からいかなる点においても区別されない。つまり、区別という言葉の自然的ないみにおいて規定されうるような、いかなる点においても。(超越論的)私は何か別の私であるわけではないのである。わけても、それは経験的自我の形而上学的ないし形式的幻影であるのではない。もしそんなふうに考えれば、自己自身の心理的自我の絶対的傍観者である私というテオリア的イメージとその比喩とを告発する結果になるであろうし、また、超越論的還元を告知したり、絶対的・超越論的自我に面した心理的自我というこの一風かわった《対象》を記述したりするために時折もちいねばならないような、類似のすべての言語をも告発することになるであろう。超越論的自我は、世界化的自己統覚(verweltlichende Selbstapperzep-tion) の作用において、自己自身を反省しつつ、自己の世界的自我すなわち自己の心を構成し、そしてそれと自己とを対立させるわけであるが、実を言えば、そういう働きにつりあうような言語は一つもないのである。(24〜25頁)

「自己への現前」における「対自」としての〈私〉が、フッサールの、その語の取り扱いにおいて「矛盾」を露呈するのは(デリダにとって)偶然なことではなかったのである。「もし世界が心という補足分を必要とするならば、心もまた世界のなかにある以上、心は超越論的なものというあの補足的無を必要とするわけであり、これがなければいかなる世界も現れないであろう……」(27頁)。そして、このような補足=補足的無のルプレザンタシオン、つまりルプレザンタシオンのルプレザンタシオンをこそ、デリダが「意義作用の自立性」の「デコンストリュクシオン」において明らかにしようとしたものだったのである。

ところで、マリオンは「直観主義と意義作用の自立性」との「アポリア」 ― デリダの言う「矛盾」について次のように言っていた。「もし意義作用が直観なしに意義するとすれば、もし現前性が直観によって普遍的に与えられるとすれば、いかなる現前性の残余が、いかなる存在の様態が、つまりいかなる場所が、なお意義作用に帰属するというのだろうか」(?2 p.89)。この「アポリア」を、デリダは「避けることのできないもの」としたわけだが、しかしそれは、デリダが「現前性の概念」を直観の領域にのみ割り振る「現前性の余りにも狭い理解」、つまり「存在することは現前することに帰し、現前性は直観に帰す」という「現前性の形而上学」についてのかの理解から来ているとマリオンは考える(?2 p.90)。デリダがルプレザンタシオンの「事後性」の通俗的な理解を、フッサールに押しつける姿勢もここに由来しているわけである(本稿4節参照)。

マリオン自身は、フッサールによる直観概念の拡大(さしあたりそれは「感性的直観」からの解放をいみしたわけだが)ということをむしろ二重の意義をもつものとし、本来的なそのいみは「現われることと現れるものとの相関の原理」における「全現象性の、あしかせなしの能与」(第一に「ある(est)」の現象性を含めたいみでの)ということであり、「能与は直観と志向に先立つ」(?3 p.80)と言う。

「直観がその『拡大』へと道を開くのは、それが能与の一様態として与えられているかぎりにおいてのことである」と言って、マリオンはフッサールの第一研究・第一章・14節(「対象としての内容と、充実する意味としての内容、および端的な意味ないし意義としての内容」)のテクストを引用し、続ける。

●《つまり意味志向(Bedeutungsintention) が、それに対応する直観に基づいて充実される場合、換言すれば、表現が顕在的な命名において、与えられた対象に関係付けられている場合、対象はなんらかの作用のなかで、《与えられ》たものとして構成されるのであり、しかもその対象はその作用のなかで ― 表現が直観的に与えられたものに実際適合する限り ― 意味ベドイトゥングがその対象を思念するのと同じ仕方で、われわれに与えられているのである》(二巻61頁)。このテクストにおいて、能与は考察すべき幾つかの用語のそれぞれを定義しながら、その先行性を刻印づけている。対象はすでに意味のうちに「与えられ」ているのだが、それは、直観によって、直観と「同じ仕方で」あらためて「《与えられ》」る。括弧(ギユメ)の微妙な働きは、二つの能与の間の隔たりを刻印づけているのだが、それは、根源的な現象性の唯一無比な与格的性格がその隔たりを要請しているのと同じように目立たない仕方でなのである。「思念するのと同じ仕方で、われわれに与えられている」対象、あるいは「意味された(しかも明証的認識のなかでわれわれに「与えられた」)対象性」は、つねに充実化的直観のなかで与えられていたのである。というのも、それは、実際、すでに意味のなかで与えられていたからである。直観の「拡大」は、意義作用の自立性と矛盾するものではなく、それを含んでいるのである。どちらの場合も根源的能与が問題なのである……。(?3 p.81)

マリオンの、このモチイフは尊重されるべきだ。フッサールにとって、現象の現象性とはデリダの言うように〈意味〉のこと ― 「意味とは現象の現象性である」(『ポジシオン』邦訳45頁) ― ではなくて、その〈意味〉の「自己能与」ということである。デリダは、その「自己能与」さえも「自己への現前」の「対自」ととる(168頁)わけだから、このような自己能与性自体を対象的な代理関係としてしか理解できない(168頁)。この限界のおかげで「主観的根源のゼロ地点」(179頁)である〈私〉という語の「意味への還元」は徹底して退けられ得たのであるにしても。

〈自己への現前〉ということの与格の「唯一無比」な現象学的性格が忘れられ、「瞬間の点性」における「不分割性」として、つまり、「直観的充実」における「対象性」として、その現在が理解されるのであれば、「意義作用の自立性」の問題系は最初から宙に浮き、「アポリア」として論難されるしかなかったのである。しかし対象的なものはデリダ的ないみで「現前する(プレゼンティ―レン)」のではなくて、現象(フェノメン)する(=自己能与する)。直観が与えられると共に、意義が〈それ自身で〉意義するのは意義が「与えられている」からなのである。

 微妙であるにしても、この力点の移動は、フッサールをハイデガー ― 「有(存在)の問いを展開しうるためには、有が与えられていなければならない。この有に即して有の意味が問い求められるのである。フッサールの業績はまさにこの、有を現在化するところにあった。有は範疇に現象として現前するからである。この業績を通して、私はとうとう一つの地盤を得た……」(『四つのゼミナール』創文社版邦訳107頁) ―との連関のうちで読みとるか、それともヘーゲル(弁証法)との連関のうちに押し込むかの違いになる。デリダは、自らの現前の概念を、マリオンの言うように、〈存在(=自体)〉に、また〈直観(的充実)〉に押し狭めることによって、それをカントの《物自体》 − それも通俗的に理解された − の現前性の水準にまでおとしめているように見える。だからこそ、デリダは「現前性の形而上学の図式の内部では、ヘーゲル主義がもっとも根本的であるようにおもわれる」(193頁)と、フッサール(の「現前性」の射程)をヘーゲル以前へと引き戻すことができるのである。

フッサールにとって「根源的能与」こそが、〈内部〉としての〈差異〉を構成している。むろん、この能与の〈意味〉を問う(「外部」から)ことはできない。それは、フッサールの時間講義の言葉で言えば、「自然的発生」「根源的発生」としての〈現在〉なのである。それは「現前性」の概念を狭めるいみでそう言われているのではなく、デリダが言うように、比喩化の動き、つまり「現前性」のある種の拡張にかかわってそう名指されている。それは、ヘーゲル的な精神の再現前化の能力(マハト)としての自由とはまた別のものである。

《この一枚の紙》、と、〈そこ〉に〈ある〉とき、《それ》は、言葉(能記)としての《この一枚の紙》なのだろか、それとも物(所記)としての《この一枚の紙》なのだろうか。しかしいずれにしても、このような、言わば形式的な問いに対して、《この一枚の紙》は反復的に保持されている。つまり、《この一枚の紙》は、言葉であることと物であることの分割に先行している(アプリオリ)。フッサールは、そのような《この一枚の紙》を《この一枚の紙》の《意味(ズィン)》と呼んだのである。《意味》は「存在する(prasent ist) 」のではなくて「与えられている(Es gibt) 」。《この一枚の紙》、と、〈そこ〉に〈ある〉ものが何であるのかが前もって「了解」=「解釈」(2巻85頁)されていなければ、その「能記」と「所記」との分割は意味をなさないのである。つまり「表現が顕在的な命名において、与えられた対象に関係付けられている場合、対象はなんらかの作用のなかで、《与えられ》たものとして構成されるのであり、しかもその対象はその作用のなかで―表現が直観的に与えられたものに実際適合する限り ― 意味(ベドイトゥング)がその対象を思念するのと同じ仕方で、われわれに与えられているのである」(2巻61頁)。

 それが「同じ仕方」であるのは、《意味》が「記述的に最後のもの」(2巻201頁)である限り《この一枚の紙》が言葉であるのか、《それとも》物であるのかを分節的に裁定する猶予がないからである。つまり《この一枚の紙》がつねにすでに「意味する」のを誰も(「人間であれそれ以外のものであれ、天使であれ神々であれ」1巻138頁)とめられはしない。それは「留保」なく、もしそう言ってよければ「弁証法的媒介」の「留保」なく「与えられている」。フッサールが言うように、そのいみで《この一枚の紙》の《意味》としての《存在》(《この一枚の紙》の「何であるか」としての)は、「一つの過剰(ein Uberschuss)」(4巻155頁)なのであって、「純粋存在」といういみでの「単なる存在(nur Sein)」(ヘーゲル)としての「否定性」ではない。

「意義作用の自立性」とデリダが言う点で言えば、ヘーゲルはすでに言語の起源である言語、つまり可感的なものと言語との境界である言語の「このもの」(「今」・「ここ」)が「一般的なもの」であることを指摘している。

●その人達(「懐疑論」などの主張―註・芦田)は、私がこのことを書き、あるいはむしろ書き終わったこの一枚の紙を思いこむけれども、その思いこんでいることを、言い表わしている(sagen) のではない。自分たちの思いこんでいる一枚の紙を現に言い表わそうとしても、しかも現に言い表わそうとしたのであるが、それはできないことである。というのも、思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的なものに、帰属する言葉にとっては、到達できないものであるからである。この一枚の紙は、言い表わそう(sagen) と現に試みているうちに、腐ってしまうであろう。それを書き記そうと始める人々も、それを仕上げることができないで、他の人々に任せるよりほか仕方がなくなる。がこの人々も、そういうことは、結局は、有り(ist) もしないものについて語る(sprechen)ことになると白状するであろう。だから人々は、ここに至って前に言ったのとは、全く別の物になっているこの一枚の紙を、なるほど思いこみ(マイネン)はするだろうが、現実の物、外的または感覚的な対象、絶対に個別的なものなどを語る(sprechen) 。つまりその人々は、それらについて一般的なものを言う(sagen) だけである。 (『精神現象学』河出書房版・74〜75頁)

フッサールが「今」「ここ」あるいは「私」といった言葉を「非表現」に追いやるのに比べれば、ヘーゲルの現象学での、この周知の議論は「言う(sagen) 」ことの「一般」性(=自立性)について、より根本的であるように見える。

しかしながらこの議論を導いている、「思いこみ」と「言いあらわしていること」との差異は、「このもの…」、と、あるいは「この一枚の紙…」、と、端的に「言う」ことに属している。つまり「このもの」は、その指示対象と実在的(定在的)にずれているわけではない。「現実の物、外的または感覚的な対象、絶対に個別的なものなどを語る(sprechen)」こととは別に「一般的なものを言う」という場合の「言う(sagen) 」(「語る(sprechen)」こととは区別された)というのは「一般的なもの」を「思いこむ(meinen)」ということとはもちろん別のことだろうからである。言いかえれば「一般的なものを言う」ということはなんらかの「語る」行為(「思いこみ」)の訂正、つまり語りなおし(別の、たとえば「感覚的確信」とは別の「知覚」の言葉による)に属しているものではない。「語る」ことと「言う」こととのずれが実在的であるとすれば「このもの」、と、「語る」ひとは最初から別の言葉(別の定在)を〈それ〉に当てたマイネンだろうからである。〈それ〉が実在的なものでないということは〈それ〉と言葉との関係そのものが実在的でないということと同じことをいみしている。言葉がマイネンを「逆転」させて「一般的なもの」であることができるのは、言葉とそれが指示するものとの差異が実在しないことによっている。だからこそ、「感覚的確信」と、それとは別の定在である「知覚」との〈間〉に介在するヘーゲル的「我々」は、「純粋観望的」な(無)関与の主体にとどまるのである。つまり「我々」は、その「純粋」性という点で実在しない。

「有りもしない」ものは、それゆえむしろ、言葉とそれが指示するものとの差異なのであって ― だからこそ、この差異は在るのである ― 「この一枚の紙」なのではない。そもそも「有りもしない」と、ヘーゲルによって何気なく自明のように言われている「この一枚の紙」というものは、その場合「この一枚の紙」と言われている物(所記としての所記)なのであろうか、それとも「この一枚の紙」という言葉(能記としての能記)であるのだろうか。どちらが指示されているかを示す(=「言う」)言葉あるいは物というもの、あるいは示すための猶予というものが存在するだろうか。

「この一枚の紙」はすでにそれ自体で ― つまり弁証法的媒介の留保なしに ―自らの何であるかに向けて、一つの過剰である。フッサールが言うように「志向は予期ではない」(4巻57頁)。「この一枚の紙」は、その場合、物としての〈それ〉であってもいいし、言葉としての〈それ〉であってもいい。向かうということは「この一枚の紙」の存在が超過するということである。それが「この一枚の紙」の〈意味(志向)〉ということであるが、この〈意味〉は「有りもしない」超過としての差異をなすことによって、物と言葉との境界に一つの譲歩(mogen) 、超越論的な可能性(Moglichkeit) としてのメーゲンを与えている。「この一枚の紙」は、物としてのそれでも言葉としてのそれでもいい(mogen) のである。それは物であることも言葉であることも〈できる〉。

物と言葉とは、その場合にこそ、「この一枚の紙」の〈意味〉の二つの「類例(Bei-spiel) 」であるのではない。つまり超過の類例として物と言葉とが共通に抽象されるのではない。「この一枚の紙」が物であるのか言葉であるのかを決定するのは「この一枚の紙」の意味それ自身である。それは決定するまえに「与えられている」決定(Entscheidung)、つまり事実性(Faktizitat)としての分割(Ent-scheidung) である。

事実、知らず知らずのうちに、ヘーゲルの現象学での「この一枚の紙」の「ある」ことは、物(としての一枚の紙)や言葉(としての一枚の紙)をそのつど意味している。

だからこそ、物と言葉との分割は事実的な分割としてそのつどの可能性なのである。それは「与えられている (Es gibt)」ことによって物であることも言葉であることも〈できる〉。〈できる〉というのは、それゆえヘーゲルの言う存在の「類例」ではなくて〈意味〉の「Es gibt」としての、それが「直接的に与えられている」(2巻201頁)ことにおける事実性としての可能性(Moglichkeit) なのである。それが「直接的」であるのは意味が自己を与える(能与)こととして「与えられている」からである。意味の贈与とは過剰としての存在の能力(mogen)のことではなかっただろうか。ヘーゲルの言う存在の欠如性に反して。 かつて、デリダは言語の「インフレーション」ということを言った(『グラマトロジーについて』邦訳21頁)。言語(論)の「膨脹(=流行)」における言語の「価値下落(devaluation) 」のことである。しかし、彼は言語とはインフレーションそのものであるともつけくわえている。

言語への論及として言語の内部に向かうべく言語を、ハイデガーが『物への問い』の講義の中で「チョーク」を折ったようにして、「折ってみる」。すると内部はふたたび言語という表層であった。言語は言語論の饒舌さにおいて「膨脹」するが、言語は何であるのか、という自己了解はその膨脹のたびに隠れてしまう一方である。「言語の問題」というのは、言語(の問題)を指示すると同時に言語(の問題)から遠ざけもする。「言語の問題」、と、それを明示するのも言語だからである。つまり「問題は」、言語なのだ、と、超越論的所記からの紐帯を言語(自らが)が解こうとするとき、デリダが言うように、言語は「それ固有の有限性」へと差し返されるのである。言語は自分自身が解きさろうとする距離を測ることができない。しかしそれは、言語がセルフリファレンシャルな諸問題(の類例)の一つを引き寄せるからというよりは、フッサールが考えるように、むしろ言語とは言語の意味だからである。〈意味〉は言語において常にすでに「与えられている(Es gibt) 」。意味の「類 例バイ・シュピール」として言語は〈意味〉に従属するのではなくて−デリダがフッサールの〈意味〉概念を狭隘化したようにして従属するのではなくて、ハイデガーの言葉を借りれば、〈意味〉の「遊動的反射 (Spiel)」としてそれは自らの距離をとる(Ent-fernen)のである。言語がインフレーション「そのもの」であるのは、このような〈意味〉の「遊動的反射」にそれが属しているからなのである。あるいはそれは属していることそのものである。

「私が『テーブル』という語を用いるとき、その語は『テーブル』という所記に対応する恣意的な能記であるわけですが……」(於早稲田大学:in『理想』?618,p.174 )とデリダは(私に)言うが、それはデリダの注意深い読者によれば、「暫定的」で「解説的」な「初学者」向けのことにすぎないだろう。しかし、そのようなメタ・テクストとしての補注フォロ―を施さなくてはならないのは、「超越論的所記」の「自己への現前」こそが、そのような(能記と所記との「安易」な)区別を保証しているからではないのであって、そしてまた特にそれが「差延(differance)」とデリダによって呼ばれているものの「効果 (effet)」に属するからでもないのであって、むしろ、《この一枚の紙》という存在=意味の「能与」としての「過剰」に、その区別が遅れているからである。「暫定的」であるということは、《意味》が「与えられている」ことによって初めて保持されているような差異の内容を指している。デリダの絶妙な言い方を借りて言えば−デリダが「言語」というところを「能与」と言いかえて言えば「能与は能与を保持する差異を保持する」のである。 遠い、奇妙な迂回を経てデリダは、フッサールから出発しているのがわかる。デリダがフッサールを批判するのは、フッサールの可能性のなかでのことである。とりもなおさず、それこそが「形而上学」のテクストに「肯定的」でさえある「デコンストリュクシオン」の真髄であると、言ってもいいが、そのような評価にここでかかずらうわけにはいかない。フッサールをデリダに対して擁護することがここで目的ではないのと同じいみでである。つまり、ここでデリダがフッサールから出発しているというのは、思想史的にではなくて、一つの譲歩(mogen) としての可能性(Moglichkeit)としてなのである。

そのいみでこそ、フッサールの可能性は「意義作用の自立性」、特に「超越論的所記」というものをたえず脱構築せざるをえないような「意義作用の自立性」という意匠においてでなく、現象学的な自己能与において汲みとられるべきものだということ ― 本稿では《デリダ論》という制約からも、この言及は最小限にとどめられざるを得なかった ― である。「現前性の形而上学」が「デコンストリュクシオン」されるとすれば、その「囲いこみクロチュ―ル」は、フッサール(そしてハイデガー)とともにもう一度再考される必要がある。(了)

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