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 WEB2.0、RSS、SNS ― テッドネルソンのハイパーテキストはもう古い 2007年12月04日

インターネットサイト利用は、もはや「お気に入り」をクリックする時代ではない、と私は書いた(http://www.ashida.info/blog/2007/11/googlerss.html#more)。

GOOGLEリーダーは、そんなインターネット利用を加速させる。このリーダーを1週間使って私が思うことは、時間意識のない〈情報〉は有意味性が希薄、ということだ。これはインターネット利用に於けるカント主義と言える。

RSS(http://ja.wikipedia.org/wiki/RSS)は、文書の更新情報を記録している。ブログがホームページ利用を大衆化したが、その理由は、ブログによってはじめて更新のないホームページは意味がない、ということをみんなが理解しはじめたからだ。

それまでのホームページは、ほとんどの場合、印刷図書の電子版のようなものでしかなかった。印刷図書のように一度作ったら何も変わらない(更新されない)。更新しようと思ったら、膨大な費用がかかる。誤字脱字を直すのさえ、いちいち業者に連絡しないと直らない。面倒くさい。これでは愛着はわかない。

日記という書式の本質は、書かれたもの、という以上に更新性という性格に意味があった。図書は更新できないからこそ図書だが、日記はその意味では反図書的な図書だった。

更新性という意味ではワープロは、充分に更新メディアだったが、しかし日記の記録性(記録的な安定性)という点では軽すぎるメディアだった。ワープロで日記を書く気は起こらなかったのである。

ホームページの公共性(誰でも見られる公共性)が古典的な図書に代わる記録的な安定性を補完し、日記の更新性がホームページ本来の更新性に結びついたとき、〈ブログ〉が誕生した。

そして、ブログの更新性がRSSと結びついたとき、ホームページのあらゆる情報が時間を刻むようになっていったということだ。

たとえば、今、私は「おまかせ表示リスト - 暇つぶしWikipedia」(http://mobile.seisyun.net/wikipedia/randomlist.html)というRSSサイトをGOOGLEリーダーで登録し、毎回5個から10個の記事を取り出しているが、これが面白い。これまでは、主体的(=意識的)にしか向かわなかったWikipediaが日常化する。

「おまかせ表示リスト - 暇つぶしWikipedia」のRSS化は、空間としての言葉の海であるWikipediaを時間化する。

たとえば、この一週間で、「おまかせ表示リスト - 暇つぶしWikipedia」のRSS機能が私にもたらした“知識”は、以下の通り。

モンゴル国、文相、科学史、日産・スカイラインGT-R、イエズス会、古典ギリシャ語、卵ご飯、アメリカ同時多発テロ、シティグループ、イエール大学、慢性疲労症候群、放送大学学園、オウム真理教、マイクロプロセッサ、笑う犬の太陽、ホンダ・NSX、ナインティナインのオールナイトニッポン、1月革命、カナダ、文科III類、病死、灘高校、ホット・コーヒー、通信社の歴史日本の人口統計など(http://www.google.com/reader/shared/07345837526963288969)。

これらの語は、更にこれ以上のざっと200語以上の言葉の中から(RSSが私に送りつけてきた言葉の中から)、私が読んでみようかな、と思って(再度)選んだ語だ。

通常の主体的な利用としては、決してまともに検索しようとはしない語ばかりだ。

これらの語をこんなふうに(空間的に)並べるとほとんど意味がないが、毎日毎日任意に言葉が“向こうからやってくる”とちょっと読んでみようかなと思ってしまう。

ちょうど、ミクシィ(MIXI)の日記のように、どう考えてもくだらないと思える内容に、再びくだらないコメントが書き込まれる事態とそれは並行した事態だ。

ミクシィのSNS(http://e-words.jp/w/SNS.html)におけるSOCIALとは、RSSのことを意味している(もっともミクシィ自体はRSSという技術を使ってはいないようだが)。ブログでは、世界大の情報に孤独な主体が対峙する必要がある。ひたすら空間的に発信する主体が、孤立していた。この孤立に耐えうる主体のみがブログを書き続けることが出来たのである。

SNSでは、主体がRSSによって相対化し、こちらから発信しなくても向こうからネタがやってくる。書けない私でも何か書けそうな気がしてくる。

ブログは日記好きの文学少女か文学青年が書いていたが、ミクシィ(MIXI)では、もともと書けない人(=文学とはほど遠い者)が日記を書いている。向こうからネタをくれるRSSのおかげだ。ミクシィ(MIXI)はあらゆる人を文学少女にした(出来の悪い文学少女だが)。

“向こうからやってくる”というのは、大切なことなのだ。人々が“学ぶ”というのは、いつでも主体的な行為だとは言えない。テッドネルソン(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3)が、ハイパーテキストを構想したとき(http://www.ashida.info/blog/2002/08/hamaenco_1_22.html)に決定的に欠落していたのは、この向こうからやってくる知識の受容の仕方だ。

人間は主体的でもあるが、受動的でもある。そして受動性が知識の生産性の契機になることもある。それがテッドネルソンにはわからない。ハイパーリンクを辿るのは確かに楽しいことだが、しかし勉強嫌いの人には依然としてそれは苦行でしかない。

ハイパーリンクからRSSリンクへ。さらば、テッドネルソン。人間はテッドネルソンが考えていたほどに主体的であるわけではない。

WEB2.0における新しい知識の受容は、〈検索)ではなくて、RSSなのだ。

(まだまだ続くが、今日はここまで)

(Version 3.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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