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 2006年度入学式式辞 ― 自立してはいけない(写真付き) 2006年04月12日

みなさん、入学おめでとうございます。

昨年の見学会以来長くつきあってくれた入学生もここにはたくさん列席していると思いますが、よくぞわが学園を選んでくれたと思っています。この入学式でやっとお互いに出発点に立てたかと思うと私自身が胸がいっぱいです。

また保護者の皆様方,お子様のご入学を心よりお喜び申し上げます。私も同世代の子供を持つ親の1人として、やっと独り立ちしようとする子供の姿を間近に見られての感慨、察するに余りあります。

ご来賓の皆様には、年度当初お忙しい中ご臨席を賜り誠にありがとうございます。心からお礼を申し上げます。

今日の入学式は私どもの学園にとっても記念すべきことがあります。

昨年、文科省は4年制を卒業した専門学校生の大学院入学を認めました。これは実質上、大学と同等の評価を専門学校にも与えたということであります。

そして今年の入学式はわが学園始まって以来の4年制の1級自動車整備学科の入学生を迎えております。

これは何も4年制の評価だけではなく、専門学校の長年の職業教育の実績が認められつつあるということを意味しています。

本来の職業教育元年が今年のこの入学式とともに始まりつつあるということです。私どももこの新しい事態に心してかかろうと意気込んでおります。

さて今日のこの式辞は私どもがみなさん入学生に対して行う一番最初の授業に当たるものです。少し私のお話を聞いてください。

2006年度入学式(2006/4/11).JPG


アドルフポルトマンという動物学者がいます。

彼は、人間はもともとから早産で生まれてきたという説を立てました(『人間はどこまで動物か』岩波新書http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004161215/qid=1144761098/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl14/250-9729091-1146637 )。半世紀以上前のことです。

普通胎児がこの世に生まれてくるのはお母さんのおなかに宿って10ヶ月と10日(とつきとうか)かかると言われていますが、それだけお母さんのお腹にいても、それでも人間は1年以上早産なのだとポルトマンは言いました。

人間は脳だけが過剰に大きくなったため、骨盤がその大きさに耐えられない(通過できない)。だから、脳が小さい内に、1年くらい早産で生まれてくるというものです。つまり人間はみんな未熟児で生まれてくるわけです。

これをポルトマンは、悲観的に考えません。

1年分は、母胎の中で生理的に育つのではなくて、外界に飛び出て、社会的な過程の中で育つとポルトマンは考えました。早産した分、その中で人間の子供は、さまざまなことを生理的に学ぶのではなくて社会的に学ぶ。

そこにこそポルトマンは人間社会が自然的環境を超えて、文明を持ったり、文化を有したりする根源を見たのです。

たとえば、馬や牛の子供は、母胎から生まれ出て、すぐに自力で立とうとする。数時間も経たないうちに、馬や牛の子供は“自立”する。つまり馬や牛の出産は早産ではない。生まれて直後に自立的に(自分で)動ける。

このことが意味することは、馬や牛の子供たちは、生まれてくる以前に自分が何であるかについてすでに生理的に決定されているということです。これは動物が“下等”になればなるほどそうです

メダカの学校は誰が生徒か先生かわからない、と言いますが、メダカの親も子供も数日経てば区別が付かなくなります。

“文明化”していない動物ほど、親と子供の区別が付かない。子供の自立が早い時期に生じてしまうということです。一気に大人になってしまう。

ところが人間は放っておけばすぐに死んでしまうほどに自立出来ない。お父さんやお母さんだけではなく、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚の人々、保育園の先生、近所の人々、買い物先の店員、その他その他たくさんの人々に世話になってやっと歩き始めます。つまり、直接の父や母ではない、家族ではない人たちの世話にもなりながら育ちます。

そういった人たちは、学校で充分学び、社会人になり、仕事をし、時には世界を飛び回っている多くの経験を持つ人たちであります。その人たちに囲まれながら、人間の子供は育つ。

動物は文字通り親が育てますが、人間は社会が育てるのです(そうポルトマンは考えました)。社会的な伝承は、母親のお腹のなかで生理的にではなくて、そういった社会的な環境それ自体のなかで行われる。

そうやって人間の胎児=乳幼児は、生理的な伝承よりも、はるかに多様な、文化的、文明的な要素を受け入れることができたわけです。

生理的な自立は、したがって非文明的な自立でしかありません。つまり文明化度というのは人間の乳幼児の段階では、人間の非自立度=社会依存度と等しいと言えます。

独り立ちが早いメダカや牛や馬は、生理的な反応としてしか“社会”を生きる術(すべ)をもたないために社会的な〈能力〉も低いわけです。“出産後”の自立度が高い動物ほど“人の言うことを聞かない”。その分、〈能力〉の発達も自分のDNAの中にあるものだけに直接的に支配されているために制約されているわけです。

したがって、動物の社会は親の社会を反復的に模倣しているだけです。動物の場合は親を見れば子供が解る。子供を見れば親が解る。しかし、人間の親子は動物の親子のようには単純な関係にはありません(たまには動物のように類推出来る親子もいますが)。

この親と子の間に生理的な関係以上の要素が入ることの根拠が「早産」ということなのです。未熟児で生まれるからこそ、必ずしも親子の関係が直接的にはならない。逆にその関係が直接的な動物には、人間のように社会に変化がない。歴史がない。発展がない。

さて、みなさんは、もはや高校を卒業して大人になろうとする寸前の状態にあります。少なくとも身体は立派に大人になっている。まさに自立しようとする寸前の状態にあります。

親の世話になりたくないと思い始めるのも、この季節です。あるいはうるさい親だな、もう自分でアルバイトでも何でもして家を出たいと考えはじめるのもこの季節です。

しかしよくよく考えてみて下さい。アルバイトをしたり、家を出たくなるというのは、言ってみればメダカ状態に自らを追い込むことであります。

独り立ちするということは、一般的には良いことのように思われていますが、私はそうは思いません。

たとえば、ごく少数の特別な企業を除いて多くの企業は銀行からお金を借りて経営しています。あるいは最近は株主から直接資本を調達する仕方で経営する会社も増えてきました。

こういったことは、全部、ポルトマン的に言えば「早産」状態だと言うことです。

かつてポルトマンの早産説を「モラトリアム」と言い換えた日本の心理学者もいました。これは学生時代の学生の心理状況を言い当てた言葉でしたが、もともとの「モラトリアム」の意味は、「返済猶予」ということです。

学生をモラトリアムというのなら、全ての企業は「モラトリアム」なわけです。企業はそのことによってまさに人の力をも借りてこそ大きな力を発揮するわけです。自分だけの力で生きている人というのは、別の言葉で言い換えれば、誰の言うことも聞かない唯我独尊状態だということです。

一見パワーがあるように見えますが、実際は1人の力でしか生きていない。自分しか自分の支持者でない状態だということです。

これは美徳ではなくて悲劇です。

銀行にお金を借りれば、銀行の言うことにも耳を傾けねばならない。同じように株主の言うことも聞かなければならない。親に生活させてもらっていればたまには親のお小言につきあわねばならない。それは友達にお金を借りても言えること。

こういったことは一見不自由なことのように見えますがそうではない。そういった“交流”が物事を考えたり、考え直したり、そして深く考えたりするチャンスを生んでいるのです。

お金を借りるには、借してくれる人を説得しなければならない。説得する過程で一生懸命自分のプランを練らねばならない。そうやって自分のプラン自体がより精度の高い、成功する確率の高いプランに成長していくわけです。

そうやって人間は他人の経験をも自分の経験に織り込んでどんどん大きくなっていく。銀行も親も友達も、ポルトマンの言う〈早産〉を保護する仕組みなのです。

それを経済的には〈投資〉といいます。投資の根本は〈信用〉です。自立を急ぐ人は、投資も信用もされない人のことであります。

みなさんの今の状態で言えば、学生時代はそれ自体借金状態だと言うことです。それは親の、みなさんへの投資であり、親がみなさんを信用してお金を出しているのです。親が子供に学費を出すのは当たり前だというのは、その意味で全くの間違いです。

当たり前ではないけれど、だからと言ってあなた方の親孝行は「親に少しでも迷惑をかけたくない」と言ってアルバイトに精を出すことではありません。アルバイトに精を出し小銭をためても、それでもって(深夜まで遅く働いたがために)学校の授業中勉強もしないで寝ていたら意味がありません。あなた方は、勉強すべく親に依存しているのであって、親もまた勉強させるべく投資しているのですから、親にお金(小銭)を返すことの意味などないのです。まして授業中寝ているなんてことは、親にとっては問題外のことです。

大切なことは、そういった投資や信用に報いることであって、それを跳ね返すことではありません。

小銭にうつつをぬかすと一生小銭しか動かせなくなります。親に温泉旅行のプレゼントも出来なくなる。逆に一生親に小銭をせがみ続けることになることの方が多い。そんなことにならないように、学費を気にかけるよりは気にかけた分勉強すればいいのです。返済とはみなさんの場合、学業成績を良くすることでしかありません。そうすれば、親の投資よりも何倍ものお返しができるようになるのです。

人間はうるさく言ってくれるものがいるからこそ、成長します。銀行も株主もそして親もうるさい人たちの代名詞のようなものです。

他人の言うことを聞くということは何かの制約のように思うかもしれませんが、それは他人の経験分が自分の生き様に付加されることなのですから、自分がさらに大きくなることだと思えばいいわけです。自分の考えと違う人間がうるさく言うときにほど大きくなれると思えばいい。それを〈成長〉と言います。

アルバイトをして小銭をかせいでいるくらいの仕事ではそんなにうるさく言う人はいません。ましてや親元を離れて、その小銭で自活したときにはそれなりの“自由”を得たと勘違いすることも多いかと思います。昨今のフリータ問題(あるいはニート問題)は大概がそういった自活志向の顕在化なわけです。

今日のインターネット社会や情報化社会は私が学生時代の時よりもはるかに膨大な情報を若者に与え続けています。若者であっても自由に社会参加出来るような誘惑があちこちに働いています。かつての自立した大人や組織が何年何十年かけても手に入らない知識や情報が簡単に個人のレベルで(しかも無料で)手に入る。何もしないでも“自立”したような気になる。

しかし誰からも「投資」もされていないし、誰からも「信用」もされていない(親のみならず、会社からも正規採用社員として投資も信用もされていない)、それがフリータ、ニートです。まるでメダカやアメーバーのように自立しているだけなのです。フリータやニート現象はリストラの結果ではなくて、自立志向現象なのです。

たとえば、カードローンで引き落としの期日にお金が無くて落ちない。最初の内は20日くらい経って、「お客様何かご事情がおありでしたでしょうか」なんてやさしくお姉様から電話がかかってくる。2回目からはそれが10日くらい。3回目からは5日も経たずに怖いお兄さんが電話をかけてくる。これはだんだん「返済猶予」(モラトリアム)の時間が短くなってきているわけです。本人の「信用」が摩滅しはじめている。最後にはカード破産(自己破産)。

まさに借りた本人は、あらゆる依存から脱却して(取り立てのヤクザとさえ“関係”を切って)「自立」し、“自由”を得ましたが、こんな自立や自由は、「信用」が摩滅した破産の結果なのです。それはもっともパワーが小さい状態だと考えるべきです。動物のように一気に立ち上がってしまっているのです。

そして人間が〈学校〉というものをもつということ。それは安易な自立の道を選ばずにまず勉強しなさい、自分が未熟であることを自覚しなさいということを意味します。われわれ学校関係者はあなたがたがまだ社会的な幼児にしか見えない。

「勉強しなさい」というのはまだ勝手に自分で考えてはいけませんということを意味しています。20歳前後のあなた達に一番うるさいのは銀行でも親でもなくまさに〈学校〉であるべきなのです。

〈勉強〉が存在する、〈学校〉が存在するというのは人間が早産である証です。メダカは誰が生徒か先生かわからないのですから、メダカの学校というのは本来、存在しない。

逆に学校の勉強が長く続く社会はそれ自体が高度な社会であることの証です。

最近は「生涯学習時代」と言います。もはや人間は死ぬまで早産状態であるほどに、文明を高度化してきているとも言えます。真の自立は死ぬまで延期されているように高度化していると言うことです。

子供が親や家族や近所の人、つまり血縁、地縁を超えて〈先生〉や〈学校〉に学びながら成長すること。これこそが高度な文明や社会そしてまた高度な人材を築く基礎であります。

教科書や教材、そしてカリキュラムは、まだまだ社会に出るにはたくさんの勉強があるということ、あなたがたがどこまでも早産の未熟児であることを告げる役目を果たしています。

というよりは〈学校〉というところは、未熟児のまま生まれた人間の社会的な母胎なのです。この場合“母胎”というのは比喩でもなんでもなく、まさに母胎なのです。

若いときは生意気になって、ついつい自立したがる、何かを知ったような気になる、親なしでも生きていけるような気がするものですが、私ども学園の全カリキュラムや全教員はそういったみなさんの生意気な自立志向を粉々にくじくためにこそ存在しています。高等教育機関(社会へ出るための最後の学校)の使命は、まだまだ学ぶべきことがたくさんあるよ、と言い続けることだと思っております。

私は、だからあなたたちにこう言いたい。「自立するな」「自分で考えるな」と。

「自立」や「自分で考える」なんて言い出したら、メダカにさえ勝てない。アメーバーなんて生まれたときから自立している。自分で考えている。その順位で言えば、人間は絶対最下位。間違いない。

私のみなさんへのお願いは、そんなことがあるのか、こんなことってあるんだ、というように驚きと自分の無知を恥じることの連続であるような“謙虚な”学生生活を送ってもらいたいということ。

そういった学生時代を過ごせるように、私は校長として日夜努力しておりますし、カリキュラムも教職員も最高度にブラッシュアップした状態でみなさんを待ちかまえています。ぜひしっかりと勉強をして頂きたいと思います。

入学おめでとうございます。これをもって入学の式辞に代えたいと思います。

(Version 3.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

芦田様のスピーチは、毎回愛にあふれていますね。
しかもVersion 1.0で。生徒さんがうらやましいです。

投稿者 A : 2006年04月12日 01:14

「その他その他たくさんの人々に世話になってやっと歩き始めます。つまり、直接の父や母ではない、家族ではない人たちの世話にもなりながら育ちます。」

人の親になっても上記の通りですね・・・。

何故あんなことを・・・というような
日々後悔、日々反省。

何歳になったら“悟り”(他人と自分に対して恥ずかしさが微塵も無い状態として)にたどり着けるのでしょうか?

やはり「真の自立は死ぬまで延期されているように」死の間際でしょうか?

投稿者 ドクターペッパー : 2006年04月12日 22:59

昨日のスピーチは、フレーズがとてもステキでした。

特に、下の3パラグラフは言葉が詩的な感じがしました。

メモにとったのですが、こんなに早くupしてもらえるなんて!

校長先生の式辞シリーズは本として一冊にまとめられたらいかがでしょうか?

★お金を借りるには、借してくれる人を説得しなければならない。

★根本は〈信用〉です。自立を急ぐ人は、投資も信用もされない人のことでありま
す。

★銀行も株主もそして親もうるさい人たちの代名詞のようなものです。

投稿者 匿名 : 2006年04月13日 00:13

先ほど三回目を読んだらバージョン2になっていて驚いてしまいました。

「返済猶予」。私の今までの人生にいくつかあったと背筋を伸ばしながら息を吸ったあとに大きな溜め息がでました。

そんな私が子供に何が言えるでしょうか、とどこかで思っていたことも情けなくなったのです。

でももう躊躇するわけにいきませんね。これ以上私の「返済猶予」を重ねるわけにはいきません。そう思いました。

初めて体中で受け止めた講義でした。

投稿者 Y : 2006年04月13日 11:56

朝から不謹慎な名前で失礼します。

自宅が事務所の仕事を経営しておりますので、所員が来る前、我が子が通う学校の校長先生のブログをのぞくのが日課となっております。

「子供が成長して自立する、大人になるということの最大のポイントは、自分の自由やポジティビティを阻害するものを、イノセントな仕方で排除せずに、きちんと担えるようになるということです。」

これは校長先生の卒業式のお話しの中の一部です。

我が子に慕われ、ときにあこがれたりもされた時期もとうの昔。

手塩にかけてと言うほどではないにしても自分の趣味もけずり子供部屋をあてがい、喜べばどこへでも連れて行ったこ子供の頃。

この年齢(二十歳前)になるとけむたがられることもしばしば。

親を頼りなんでも相談することなんてあり得ない、むしろ親の意見はいちばん聞きたくない、そういう態度にがっくりきたりすることもありました。

しかし、自立していないのは私かもしれません。

我が子のそういう姿を見守りながら日々自分がしっかり生きていくことをみせているしかないこと。

入学式のお話しを読みながら卒業式の言葉を思い出した次第です。

投稿者 のんべえ : 2006年04月17日 07:38

FMC(フレッシュマンキャンプ)お疲れ様でした。

私は今年入学の生徒の一人です。

BLOG、チラッと見に来ました。

何やら奥様のお体の調子がお悪いようで、そんな中、我々学生の事をいつも考えて頂けるとは、有り難い限りです。

校長先生のお話の中で、挨拶をしてくれる学生は落第させない(笑い)とおっしゃっていましたので、すれ違う事がありましたら、さりげなく挨拶しようと思っていますので、
よろしくお願いします。

投稿者 のらねこKUROくん : 2006年04月18日 21:50
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