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 学歴主義と最新学習歴主義(Learnology)について(『シラバス論 』371~378頁) 2020年03月07日

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。

本間 僕は「学習学Learnology」というのを提唱していて、「最終学歴」という言葉を死語にすることが目標です。ここも、芦田先生とは違うところだと思いますけどね。「最新学習歴」が大切になってくると思う。

この大学、この学校を出たら学位が出ますというのは、現状、文科省の便宜上の形式的な取り決めに過ぎません。例えば僕らの話を聞いても、学位が出るわけじゃないですね。しかし何かそこで気づきがあり、何かそこで学びがあれば、最新学習歴を更新したことにはなっている。

やっぱり最終学歴という考え方は、教育学習のチャンスが社会的に極めて少ない資源で、かつ学校とかにフルタイムで所属しないと、なかなか知識や技能を身につけることができない社会では一定の意味があったのかもしれない。しかし今は自ら学ぼうと思えば、Google、Wikipedia、MOOC(ムーク)……様々な学習資源がそこらじゅうに存在していて、自分の学びは自分で、どのタイミングからでも学び続けることができる。

芦田先生が二〇代くらいの若い時代を大切にする、僕はそこにロマンティシズムを感じます。でも、やっぱり開花時期というのは人によって違っていて、一〇代で学びに開花する人もいれば、二〇代で、四〇代、五〇代、六〇代で、いま学びが本当に面白くなったっていう人がいてもいいと思うのですね。実際そういう人がいらっしゃると思う。今まで自分はこういう職業人生を送ってきたけれども、今本当に、このフォークナーの面白さがわかるんだ、っていう人生があっても全然いいと思うし、現実にそういう人が多いんじゃないかな。だから、あまりこの二二歳までの時を特別視しない方が、偏差値で輪切りにするような発想からもっと自由になれるんじゃないかなと思うのですね。

芦田 本間先生の「最新学習歴主義」とはいつからでも学ぶことはできる、学歴主義的な学校だけが学びの場所や学びの時間ではないという考え方ですよね。とても魅力的で素敵な言葉だと思います。でも僕は、若いときに勉強しておかないと、三〇、四〇歳からじゃだめ、手遅れだと思っています。

●交通事故ビデオと最新学習歴主義

芦田 「最新学習歴主義」の最大の問題として僕はいつも、運転免許更新の時に見せられる、あのドギツい交通事故ビデオを例に挙げます。血だらけになって、交通遺児が暗い顔して、家族中沈鬱な画面が流れるわけです。さすがに暴走族ふうの若者たちもそのビデオには見入っている。専門学校の実習授業やダメな大学のアクティブ・ラーニングみたいに。たしかに、この種の刺激は誰も寝ない。「みんな起きている」。寝ないよりは起きてる方がましでしょ、と。アクティブ・ラーニング派や『学び合い』の先生たちはいつもそういう言い方をします。最新学習歴主義もそれと同じではありませんが、やはり同じ傾向があります。たしかに暴走族ふうのお兄さんたちもしっかり見入っている。

そういう短期刺激の効果はすごくあって、ビデオを見ているときだけは、「最新学習歴」的に「もう二度とスピード違反はしないでおこう、明日からはもう絶対100キロ以上出さないぞ」って思いますけど、三日程したら忘れますよね(笑)。この先生との座談も同じですよね。われわれは今日の参加者の皆さんにとっては、交通事故ビデオみたいなものなんですよ。なんだこのおっさんたち、みたいな(笑)。

だから、学校教育と生涯学習(本間先生の言うLearnology)との違いは、長い時間をかけて教育しないと身に付かないものを身につけさせること(学校教育)とそうでないこと(生涯学習)との違いです。僕が「若いときにこそ勉強を」と言うのは、そういう経験を若い時にやれているかどうかという意味です。逆にそんな「長い」時間なんて社会人には取れない。「長い」時間の教育のチャンスは学校教育にしか存在していないわけです。社会的な流動性が高く、早い時期からSNS(短期のコミュニケーション)に馴染んでいる時代にこそ、学校教育(長い時間の教育)は必要だと思います。

いまの学校教育は偏差値の低い人たちに対して「アクティブ」な教育、つまり交通事故ビデオみたいなものでしか勉強できない教育をやっているわけですよね。インターンシップの実践性もその文脈でのことに過ぎない。たしかに刺激の強いビデオを見せると、勉強嫌いな子も寝ないで見ている。しかしその本来の実践性は身につかないわけです。「事故防止したければ事故ビデオを見せる。それが一番!」なんて言う人たちは、〈教育〉からもっとも遠い人たちなのです。

特にツイッターなんて、いつも交通事故ビデオみたいなものじゃないですか。「タイムライン」は短い時間の出来事、短い時間の刺激で、役に立ったとか、この人いいこと言っているとか、アホかとか、そういう連続でしょ。交通事故ビデオ、あるいはツイッターのタイムラインなんて、絶えず最新学習歴を更新し続けているわけです。目は覚めるが、身には付かない。アクティブ・ラーニングの「アクティブ」も同じ程度のものです(※)。
※「長い時間」の「カリキュラム」については、本書「シラバス論」註51~54、およびその本文の前後の議論を参照のこと

●「長い-時間」=「退屈」としての学校教育

芦田 学校教育はその対極で、閉じ込めて、外に出づらい雰囲気で拘束している。e-Learningは「ねむたい」と思ったら止められるから。学校では教壇がちょっと上にあって、講堂の権威があって、式典までもあるから、ちょっとした不良でも静かにしなきゃいけないと思うような仕掛けになっている(これくらいでは最近はなかなか通用しなくなってきていますが)。
「やりたいことをやっている」っていうのは、動物が腹へったら飯食うのと同じで、勉強っていうのは嫌なことを勉強するとき勉強なんですよ。どんな暴走族でも交通事故のビデオ見せられると、何分かは「やっぱ俺はもうスピード出すの止めよう」と思うんだけど、もうすぐに忘れてるから(笑)。刺激が高いほど忘れるのも早い。刺激でしか動けない動物はだから〈学習〉から遠いわけです。

だから学校教育は、そういうことを長い時間にわたって「理解しましたか、理解していないと次に行けませんよ」と、一つの体系(長い時間)の中で繰り返しらせん状にやっていきます。これは、人間にしかない「時間」です。これだけ「退屈」な「時間」をかけて、じっくり教育していって、手順を踏まないとわからないことを教え続けていって、一人の主体(人格)を形成していくわけですから。

教育基本法第一条にも「教育は、人格の完成を目指し…」と書いてある。教育が前提するのは〈人格〉そのものではなくて未完成の人格なのです。ここを通過しない人たちの人生は悲惨ですよ。人格が完成しないまま学校を通過するのですから。だから四〇歳とかで「勉強好き」な人がいるじゃないですか、会社の中で絶対嫌がられているでしょう。課長とかでも、週末に読んだ本を「お前、これはいい本だぞ、ちょっと読んでこい」とか言って、バカだよね(笑)。社員はいい迷惑。そもそも社会人の本来の〝テキスト〟は、社会や現場そのものなのだから。社会で学ぶ勉強は、書物を読むことではない。学生時代に、専門書を読む訓練をしてこなかった人ほど中途半端な読書家になって、やっていることは経験主義みたいな人はいくらでもいるわけです。〝本好き〟なんて、一番嫌われる社会人です。

【「自由な学びの主体」のウソ】

●「学びの主体」を尊重する人は、家族主義者

芦田 「最新学習歴」主義について、もう一つ言えることは、テッドネルソンが1960年前後で提唱したハイパーテキスト論です。これはあきらかに本間先生の思想に近い。要するに学校教育体系に対する否定です。学校教育体系とは、一言で言えば、初級・中級・上級主義のことです。平等に扱われるクラス授業において、行儀よく教科書や先生(指導者)に付きながら階段を一歩ずつ上っていく教育です。
でも人が100人いれば100の初級・中級・上級がある。登る山の頂上が仮に同じであるにしても、時間も含めて登り方は人数分100あるはず。それを強制して、時間割と教場と教科書に閉じ込める必要は全くない、というのがテッド・ネルソンの考え方でした。

「ハイパーテキスト」論の「ハイパー」とは「スーパー」の上を意味するのではなく ― そういう解説を加える先生がよくいますが ― 、「常軌を逸した」「病的な」という意味です。つまり学校教育体系のようにお行儀のよい順序で学ばない、ということを意味しています。一冊の本を読むときだって、お行儀よく最初から読む人なんてそんなに多くはない。いつでもどこからでも関心の赴くまま突き進んでいく、そこにできる道がひとそれぞれの学びの方法だし学びの全体だと。

これはまさに1990年代に登場するインターネット時代の(革命的なブラウザ「Mosaic」以降の)「ハイパー」リンク思想です。われわれのネットの学びはそれと意識しなくても、「いつでもどこからでも関心の赴くまま突き進んでいく、そこにできる道が人それぞれの学びの方法だし学びの全体である」という思想を体現しているわけです。

これはもっともそうな考え方に見えます。しかしこういった自由な学びは、目的動機に強い「学びの主体」を要求します。なぜか。「いつでもどこでもどこからでも」という学びは、「いつでもどこでもどこからでも」他の誘惑を招き寄せる自由だからです。教室に集団的に閉じ込められているときには、少しくらい他の誘惑があっても我慢することができますが、ハイパーリンクは自由な分、集中する力が拡散しやすい環境にあります。

だから学校教育的なボリュームを「ハイパーテキスト」論的に学べる人は、すでに〈学びの主体〉 ― 教育基本法で言うところの「人格の完成」 ― を形成し終えている人か、学ぶ目的について外面的に強く強制されている人以外には存在しないのです。学校(=学歴)不要論者のホリエモンにしても、茂木健一郎さんにしても、どちらも東大じゃないですか。そりゃ、「やる気があれば学歴なんて関係ないよ」と言うに決まっています。この人たちは、その「やる気」そのものがどこから出てくるのかに全く関心のない平和な、身勝手な人たちなのです。

その意味でネット時代の自由な学びは、ますますやる気のある人たちばかりがのさばる”格差社会”になっていきます。かれらの「学びの主体」は、大概が文化的な家族に支えられ、保護されて、学校教育以前に成立していますが、大概の家庭(特に昨今の家庭)の文化度は低いままなのですから、その文化的な担保としての学校教育の強制性はすごく大きな意味を持っているのです。だから、今の時代は、「いつでもどこでもどこからでも学べる」と宣言すればするほど、ますます、いつまで経っても、どこにいても、入門勉強さえ、やらない人が増える。その上、家庭の経済的文化的格差がそのまま教育格差に連動する度合いも高まってきているわけです。経済格差を相対的に縮小したりシャッフルしたりする社会装置の鍵を握っていたメリトクラシーが崩壊しつつあるのですから経済格差が拡大するのは当たり前です(※)。
※学校教育における「学びの主体」論については、本書「シラバス論」註28、およびその本文の前後の議論を参照のこと

●「バカな」子どもも消費される時代

芦田 こういった平和な「学びの主体」論が、強化されていくのはまさに中曽根臨教審(1980年代後半)の「学校教育は生涯学習の一部」という提案以降です。「学校教育は生涯学習の一部」となると人間は生まれて死ぬまで「学びの主体」、つまり学校教育以前の学びを認めるわけですから、当然「家庭教育の重視」と一体化します。現に「学校教育は生涯学習の一部」論とともに、中曽根臨教審は「家庭教育の重視」を持ち出してくるわけです。そんな、学びの主体を文化的に補完する家庭は、臨教審以後=90年代以降急激に解体していきます。

社会的には、子どもを消費者(大人)として扱う高度消費社会、ポケベル→携帯電話→i-modeの誕生→mixi(Facebook)→Twitter→LINEなど子どもが子どものままで社会化するネット社会の隆盛が〈家族〉をスルーすることになり、できない子どもの悲惨が見えづらくなってきています。今では「天然」を売りにするタレントまでも人気がある。この時代では「バカな」子どもも消費されるわけです。

本間先生は一方で「できない子ども」たちの教育を現実的に配慮するかに見えて、一方で「いつでもどこでもどこからでも」学べる時代になっていると言われますが、後者を謳歌できる人たちというのは、文化的、学歴的には「中の上」「上の下」以上の人たちなわけです。「生涯学習」論や「最新学習歴」主義というのは、できない子どもたちにはかえって残酷なテーゼなのです。その点でも、僕は「最新学習歴」主義に反対です。

ここは本間さんと僕の立ち位置が、はっきり分かれてくるところでしょうね。本間さんの「最新学習歴」主義Learnologyは生涯学習の立場に立っていて、僕はやっぱり学校教育の特殊性の意義をすごく高く評価していますから。若いときにしかできない勉強を若いときにきちんとさせるってことがなければ、Learnologyは上手く機能しない、というのが私の立場です。

つまり〈キャリア教育〉もそうですけど、学校教育のときからLearnologyの視点で、最新学習歴みたいな発想を持ち込んでくると、せっかく育てなきゃいけない若いときの学びの主体、主体形成がかなり阻害されていく。私はそこの弊害をすごく心配しているんです。そろそろ時間になったようです。あっ、とっくに時間を超えていました(笑)。後は参加者からの質問でお互い補いましょう(笑)。
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』371~378頁より)
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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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