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 「大学の多様性」と「学生の多様性」と ― 「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年) ― (『シラバス論』49~68頁) 2020年03月11日

「専門」教養とか「一般」教養、あるいは専門教育と一般教育などのありそうでなさそうな区分ももう一度考えるべき時なのかもしれない。四年間全体が教養教育だと言えば言えるし、四年間全体が柔軟な職業教育だとも言えるこの時代に、学部教育(学士課程)のカリキュラムをどう考えるのか、そこにしか〈専門〉と〈一般〉との区別を考える手がかりはない。

佐藤学によれば、大綱化までの日本の大学は、アメリカの大学の教養課程+ヨーロッパの大学の専門課程を足して二で割ったような体裁(アメリカ型四年教養教育の二年縮減型+ヨーロッパ型四年専門教育の二年縮減型)を取っていたが、設置基準の「大綱化」により、「教養教育が軒並み衰退」した。「それほど教養教育の教官が恵まれない状況に置かれてきたということです。予算といい教育の状況といいノルマといい弱い立場に置かれてきた。そのために一挙に崩れた」ということになる(「教養教育と専門家教育の接合」東京大学教養部第一回FD講演会、2004年)。

そもそも教養教育 ― エリート教育としての「リベラル・アーツ」と厳密に区別される ― は「大量殺戮の戦争」だった第一次世界大戦以降生じたものだと佐藤は指摘して次のように続ける。「その衝撃の大きさから、大学は大学教育のありかたを見直さなくてはいけなくなった。つまり大学の学問や知識は社会にとって進歩にとってどのように有用でありうるのか、そのことを教育においておこなうべきだという議論が出てきた。そこからアメリカでは1910年代から、社会的な課題にこたえる教養教育として出てきた。『リベラル・アーツ』が西洋古典を基礎とする人文教育の伝統的エリート教育であったのに対して、ここで登場した『ジェネラル・エデュケーション』としての『一般教養』は原理が違うのです。社会が提起する課題に答える教養教育、市民のための教養教育といったらいいかもしれません。民主的な市民の教育のための教養教育として『ジェネラル・エデュケーション』という概念が登場します。その当時の大学の『一般教育』に関する文章や論文などを見てみると、フリーダム、リベラル、ピース、デモクラシー、これらの言葉のオンパレードです。いかに民主主義の社会を建設するか、平和を維持する学問になるのか、大学がそこにどのように貢献していくのかということを大学が自ら使命として自覚し、それを教育の構想の中に入れていく、この『一般教育』としての教養教育を大学で最初に始めたのはデューイであり、コロンビア大学にそのコースができます。平和と民主主義のためのコースで、専門の先生方が皆でチームを組んで、今でいう総合科目を開始したわけです」(同前)。

佐藤の指摘はここでは月並みなものにとどまっているが、重要なことはそういったアメリカ型の教養教育がなぜ大綱化以降、日本ではもろくも崩れたかということだ。それは「講座制」を取っていることにあると佐藤は言う。「第二次世界大戦後、ヨーロッパ型大学のシステムである講座制の旧制大学のシステムを引き継ぎました。アメリカ型の大学の場合は、教員組織はカリキュラム組織によって組織されます。日本の教員人事の一番困難な点は、教養教育や専門家教育を考える場合、講座制をとっていることでしょう。ヨーロッパ型を取りながら違ったものに対応しようとしているのです。つまりカリキュラムに対応しようとしていますから、講座制ですと専門のディシプリンでとりますよね、だけど教育で担当するところが違うわけじゃないですか。そこにズレが生じたりするわけです。アメリカ型はこれが起こりません、講座で人を取らずカリキュラム組織で取っていきますので、カリキュラム担当者として人事が組織され予算もすべてその配分になりますので、もともと教養教育・専門家教育の接合ということが問題にならない組織になっているのです」。佐藤のレクチャーのこの指摘は、講座制はカリキュラムの反対語であるゆえんを上手く説明している(なお日本の大学制度における〈講座制〉の経緯については後に触れる)。

天野郁夫は、1946年3月に占領軍の要請でやってきたアメリカの第一次教育使節団の報告書を紹介している(天野郁夫「新制大学の教育課程編成問題」in国立教育政策研究所「プロジェクト全体研究会第二部」、2017年)。「日本の高等教育カリキュラムにおいては、大概は普通教育を施す機会が余りに少なく、その専門化が余りに早く、また余りに狭すぎ、そして職業教育的色彩が余りに強すぎるように思われる。自由な思考をなすための一層多くの背景と、職業的訓練の基づくべき一層優れた基礎とを与えるために、更に広大な人文学的態度を養成すべきである。普通教育は、学生がそれを満足な形において十分受け、それを何か特別の分離したものと考えることのないように、各学生に決められた正規のカリキュラムの中に統合されるべきであると思う」。この報告書が、日本の大学における「一般教育(general education)」導入の「原点」(天野郁夫)となる。

戦後の新制大学改革の原点はもともとは「一般教育」の導入だったわけだが、アメリカのCIE(Civil Information and Education) ― 大学基準協会はもともとはCIEの要請でできたものだが ― の再三にわたる一般教育導入についての提案趣旨を理解する日本の大学関係者はいなかったようだ。「その頃general educationという言葉だけで、どういう内容のものか知らなかった」「一般教育の理念はアメリカから来たけれど、そんなものは旧制高校でやっていたじゃないかという意見はよく聞かれた」という玉虫文一(当時の東大教養部教授)の言葉などを天野は紹介している。

結局、「一般教育課程は、一定の単位数を履修すればいいというだけで、科目間を統合する理念というものをみることができない」という課題が残っていたわけだが、この傾向は大綱化までそれほど改善されたわけではないし ― 「一般教育科目」「外国語科目」「保健体育科目」「基礎教育科目」「専門科目」の5種の科目分類に基づいた〈教養課程〉〈専門課程〉の〝体系〟があるにはあったが ―、大綱化以降は、佐藤学が指摘したようにさらに「一般教育」(的なもの)は弱体化したと言える。専門教育を「統合する理念」さえ見出せない現在、一般教養(選択科目)の「統合する理念」など存在するはずもないのだ。この経緯を踏まえれば、「専門職大学」設置などはさらに何重もの錯誤の末のできごとだと言える。

ただし、教養教育やリベラル・アーツの問題はエリート教育か市民教育かそれとも職業教育か以前のもっと根源的な視点が必要になる。かつての教養教育は、「上級学部」の職業教育(神学部、法学部、医学部)に従属する、その基礎教育としてのリベラル・アーツ(「自由七科」)だったが、カントが『諸学部の争い』(岩波版カント全集18巻、1798年) ― カントの最晩年のこの著作は、教会との関係も含めて長い間検閲にひっかかって日の目を見ることができなかった著作だが、ほぼ同時代にルソーが『エミール』(特には第四編の教会批判)を書いてスイスへの逃亡を余儀なくされたのと似ている。

坂部恵(『理性の不安』勁草書房、1976年)も指摘していたように、カントはヒュームというよりルソーにかなり影響を受けている(それも道徳論に限らず) ― において、後者の従属性を自立的なものに変えたところから、大学の「理性の自由」における「自律」という議論が始まる。カントは、神学部、法学部、医学部をそれぞれ「永遠の幸せ」を目指す神学部、「市民的な幸せ」を目指す法学部、「身体的な幸せ」を目指す医学部とし、これらは「文書」主義の学部にすぎないと断じる。そして「聖書神学者はその教説を理性からではなく聖書から、法学者はその教説を自然法からではなく国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学からではなくて医療法規から汲み取る」とする。

たとえば「聖書」は「歴史の事柄」に過ぎないため、神の存在など「証明」などできないとカントは言う。下級学部の哲学部が拠って立つ〈理性〉のみがその証明を可能にする。カントは下級学部(哲学)と上級学部(神学、法学、医学)との関係を以下のように揶揄している。「これら三学部の一つが、その教説に何かを理性から借りてきたものとして混入しようものなら、たちまちその学部は、その学部を通じて命令している政府の権威をそこない、哲学部の領分に入ることになる。こうなると哲学部は、政府から借り受けたその学部の光輝ある羽根飾りをすべて容赦なくむしり取り、平等と自由という立場でその学部を扱うことになる。 ― だから上級諸学部が最も留意しなければならないのは、下級学部との釣り合わない縁組みにかかわり合わないで、下級学部を敬遠して身のまわりに寄せ付けず、下級学部の行う自由な理性的詮索によって自分たちの規約の威信に傷がつかないようにすることである」。この時代、こういった感じで教会批判を続ければ確かに発禁処分になるだろう。

デリダは、カントの言う下級学部の〈哲学〉の「理性」 ― 「自律(Autonomie)によって判断する能力、すなわち自由に(思考(デンケン)一般の原理にしたがって)判断する能力は理性と呼ばれる」(カント前掲書) ― を、上級学部の権力を脱-限界画定(de-limiter)するものとして捉える(『条件なき大学』月曜社、2008年)。

デリダにとってはカントの上級・下級の議論はそれらの脱構築(デコンストリュクシオン)(déconstruction)のためのものに映るが、「大学の内部と外部を区別しまたその内部で上級学部と下級学部を区別するさいに直面する困難」を、シェリングの、カント大学論へのコメント「一切であるものは、まさにそれゆえに、特殊なものではあり得ない」(『学問論』岩波文庫、1957年) ― シェリングの結論は、「哲学はその個々のどれによっても総体としては客観化されない。総体としての哲学の本当の客観性は芸術のみである。それゆえ哲学の学部は決してあり得ず、ただ芸術の学部があるのみであろう 」(同前)ということだが、デリダによる、シェリングのカント批判の要点は結局「カントは哲学にあまりに少なくかつあまりに多くを与えている」(『他者の言語』法政大学出版局、1989年)ということなのである ― という「大学の場所論(トポロジー)のパラドックス」から論じ、そのパラドックスゆえにこの「闘争」は「終わりがないし、解決がない」としている(『哲学への権利(二)』みすず書房、二〇一五年)。こういったデリダの脱・限界画定(de-limiter)や脱構築(デコンストリュクシオン)(déconstruction)は、カントの〈理念〉の「統制的原理」によく馴染むが(デリダは初期の『声と現象』以来、基本的に二元論だから)、ここではその詳論はできない。

しかしいずれにしても、中世以来の大学は「教会の道具」(クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年)でしかなかったのだから、カントのこの著作の偉大さがよくわかる。教会の社会性を中心にした「上級学部」の「実務家」教育(「聖職者」「法務官」「医者」)からの自律が、カントの言う大学の「自律」の意味だった。この議論は哲学的な大学論というよりは、近代的な〈市民〉やナショナリズムの成立と国家権力(社会生活全般に及ぶ権力)と結びついた上級学部との対立が軸になっている。

カントのこの著作も、フランス革命(1789年~1799年)の「熱狂」(リオタール)と無関係ではない(ビル・レディングズ『廃墟の中の大学』法政大学出版局、2000年)。アーレント(『カント政治哲学講義録』明月堂書店、2009年)は、「驚くべきことに、カントは自分の道徳哲学がここでは役に立たないだろうということを知っていた」と言い、「道徳的な人間」でないにしても「善い国家における」「善き市民」であることが晩年のカントの関心だったと言っている。それほどにカントにとってのフランス革命の意義は大きかった。カント自身は「熱狂」とは言わず、「熱狂と紙一重の願望としての参加、つまり共感」(前掲書)と慎重だったが。カントにとってフランス革命は、「革命」そのものよりも「啓蒙の過程そのものを完成させ継続させるもの」だったとフーコーは解説している(『ミシェル・フーコー講義集成(12)』筑摩書房、2010年)。

いずれにしてもカントのその理性(の自律)論からフンボルト理念も由来し、一九世紀末から始まるハーバード大学(C.エリオットやローウェル)やシカゴ大学(ハッチンス)による教養教育への取り組みにもそれらは大きな影を落としているが(エリオットの大学改革については註19を参照すること)、今となってはその検討は「多様な学生」(文科省)の大学における教養教育の在り方から始まるに違いない。私のシラバス論もその「多様」性の議論に関わっている。

文科省が様々な答申の中で「多様な学生」の時代という場合の「多様」は「ダイバーシティ」の多様のことのようにもみえるが ― アメリカの大学の「ダイバーシティ」は留学生であれ、経済的に恵まれていない学生であれ、学力は高くて当たり前というような風潮があるが(栄陽子『ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?』ワニブックス、2014年)、日本のように受験偏差値による大学間格差が(一部の超エリート校との格差を除いて)大きくない分、一つの大学内での学生格差はむしろ大きく、リメディアル教育の必要性はアメリカの方が深刻な面もある。苅谷剛彦も言うように「アメリカでは一部の超エリート大学を別にすれば、学生の学力の分散は日本以上に大きい」(『アメリカの大学・ニッポンの大学』玉川大学出版部、1992年)。

その意味ではアメリカの大学の方がはるかに「教育」の大学である ― 「大学格差」の「多様」と「学生格差」の「多様」とは自ずから意味が違う。もしアメリカ的な大学の「ダイバーシティ」を言うのなら、日本の大学の一大学内の学生は「多様」でもなんでもない。偏差値で輪切りされる大学間格差と多様な選別(あえて言えばアメリカ的な人物評価選別)における「多様」とは、意味が違う。

R.ホーフスタッター(『アメリカの反知性主義』みすず書房、2003年)が指摘する第一次世界大戦前後から始まる「大津波のように押し寄せてきた移民の子どもたち」への取り組み ― ホーフスタッター的には、教育における反知性主義の取り組みは「職業教育」だったのだが ― などを読んでいると、日本の学生の「多様化」議論などはコップの中の嵐程度のものに見えてくる。

しかし元からアメリカは移民の国である。ギデンズは、一七世紀まで戻って、ピューリタン的な「子どもの訓育」がアメリカの学校教育の起源だとしている。元々が母国語が異なる移民の国だったアメリカの言語的・文化的な「アングロサクソン化」の移行機関が「学校教育」だった。「それに加えて」とギデンズは続ける。「それに加えて、学校は機会均等というアメリカ社会の理想を教え、移住者に新たな生活を築きはじめるよう奨励していった。誰もが平等に生まれているという観念は、他の国で同等の制度が確立されるかなり前に米国における大規模な大衆教育の発達を結果的にもたらした」(『社会学』改訂第三版、而立書房)。私はピューリタン的な「子どもの訓育」としての学校教育と反知性主義的な職業教育とは、きわめて親和性が高いと思うがこの点は別稿に譲りたい。いずいれにせよ、「多様な学生」と文科省が安易に倣うアメリカ的なダーバーシティ(多様)は、母国語が異なる移民レベルの多様性と「誰もが平等に生まれている」という「大規模な大衆教育の発達」の関係の中から生まれている。アメリカの「多様」は大学全入時代における学力の多様以前の「多様」であることははっきりしている。日本の「多様」はあくまでも今日的でかつ特殊日本的な「多様」なのである。

さて、垂見裕子は、2006年のPISA調査から、日本の高校の格差については学校内格差ではなくて学校間格差が大きいことを指摘している(「家庭背景による学力格差 ― PISA調査の分析から」日本教育社会学会大会発表要旨集録61、2009年)。「家庭の社会的地位の勾配を学校内勾配と学校間勾配に分けて分析」すると「日本の学力格差は、学校間格差が大きく(回帰係数131.95)、学校内格差が小さい(回帰係数7.12)こと」がわかる、と。PISA参加国平均で言えば、前者は59.32、後者は17.39であるから、学校間格差の大きさは日本の際立った特徴になる。

垂見は、「学校内格差が大きい教育システムでは各学校内で低学力の子供に適した教授法などの導入が考えられるが、日本のように学校間格差が大きい教育システムでは、まず低学力校を特定し、それらの学校に特別な財政・人材措置が必要である」と結論付けている。日本の大学の偏差値輪切り型の体制もこの高校段階での日本的な学校間格差(の異常な大きさ)が大きく影響している。「リメディアル教育」と一言で言っても日本とアメリカで言うそれとは全く質が異なるということだ。

文科省が「多様な学生」という言葉を使った最初の答申は、(私の知る限り)1991年の大学審答申「平成五年度以降の高等教育の計画的整備について」だったが、そこでは「高等教育の規模が拡大し、多様な学生が学ぶ状況で、学生の学習意欲の向上を図り、学習内容を着実に消化させるためには、学生の学習に配慮した教育プログラムの開発・提供に取り組むことが重要である」と指摘されており、「学生の学習意欲の向上を図り、学習内容を着実に消化させるため」の「多様な学生」という言葉の使い方になっている。アメリカ的な「ダイバーシティ」(ある種「生物多様性」論的な)とは異なる「多様な」という言葉の使い方で導入したことは明らかだ。

ドイツなどは原則入試選抜が存在していないのだから、日本のような偏差値格差による大学間格差自体が存在していない。フランスはドイツと同じように入試選抜はない。リセの卒業資格であるバカロレア資格(受験者の80%程度は合格する)は必要だが ― ドイツでは「アビトゥーア」という高校卒業資格がそれに当たる。そして入学してもイタリアのように進級・卒業認定が厳しい。同じく無試験で入学できるイタリアの大学卒業率は20%前後と低いので「多様」な学生問題は生じない。しかもフランスの場合は、IUT(Institut universitaire de technologie)やSTS(Sections de techniciens supérieurs)のように大学自体が「多様」化して「多様な」学生問題に対応しようとしている。これは日本の短期大学が1990年代後半以降こぞって四大に変貌を遂げ、専修学校も減少傾向にあるのとは対照的な動きだ ― 「短期大学は1950年当時に149あり、1996年に598とピークに達してからは減少し続けており、2016年には341となっている。専修学校は発足時893だったが、2016年には3183、ただしこちらは1999年にピーク(3565)を迎えて以降、漸減傾向にある」(中澤渉『日本の公教育』中公新書、2018年) 。日本では四年制大学一元主義が進み、専門職大学が新設されたにもかかわらずそれもまた「学術」「学芸」の大学であることに変わりがない状況だ。

ドイツの「多様」化の大きな特長は専門大学(Fachhochschule)の存在だ。高等教育全体の中で四分の一強の高校生が行く職業教育大学だが、日本の専門学校(および専門職大学)と違うところは偏差値的な「多様」の大学ではないということだ。職業大学と通常の大学の卒業者の年収差が日本ほど大きくはない ― 「総合大学卒業者の平均値が4763ユーロに対して、専門大学卒業者は4334ユーロで、ほとんど差はない(数値は2001年のデータだから少し古いが ― 引用者註)」(潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年)。おそらく一八世紀以来のドイツ職業教育の伝統 ― 貴族の権威主義的なマナー教育と堕した大学よりもはるかに質の高い教育を行っていたドイツの職業教育「アカデミー」(あるいはフランスの「コレージュ」なども含む)の伝統 ― がそうさせているのだろう(クリストフ・シャルル&ジャック・ヴェルジェ『大学の歴史』白水社を参照のこと)。このアカデミーの「『アカデミックな知』が敵対していたのは、今日の奇妙な思い込みが信じるような『ジャーナリスティックな知』ではなく、むしろ中世的な大学に端を発する『スコラ的な知』である。中世はアリストテレスを新しい知の先導者として召喚したが、17世紀までにアリストテレスは、新しい時代への欲望とは対極に位置する権威となっていた。このときむしろアリストテレスではなくプラトンが再び召喚され、そのプラトンの教育の場であったアカデミーこそ、新しい知の先導者となるべきだと人々は考えていたのである」とまで吉見俊哉は言っている(『大学とは何か』岩波新書、2011年)。

とはいえ、マーチン・トロウは、「マス」化、「ユニバーサル」化、「情報化」した今日の段階では、アメリカと異なり、ヨーロッパの大学は国家管制型である分、「社会の変化に対応して」〝多様な〟学生に対応するのが難しいと言う(『高度情報社会における大学』玉川大学出版部、2000年)。これについては、大学の在り方の違いを超えて「自主独立した様々な個人が一つの利害を共有しているという感覚を超え出る」階級的な「一般意志」のようなものがイギリスを含めた「旧大陸」には存在しているとC.テイラーは指摘している(『近代 ― 想像された社会の系譜』岩波書店、2011年)。

一方、日本の専門学校(専修学校専門課程)は議員立法(1975年)でできあがったに過ぎない。自民党早稲田文教族議員たちの議員立法「私立学校振興助成法」の付録のようなものだった。日本では、高卒・専門卒・短大卒と四大卒との間に収入格差の「学歴分断線」(吉川徹『学歴分断社会』ちくま新書、2009年)があって、前者と後者とでは生涯年収5000万円~6000万円の格差があるが(ユースフル労働統計-労働統計加工指標集-2017年)、ドイツの大学(Universität)と専門大学(Fachhochschule) ― 最近はFachhochschuleをHochschuleとも言う ― とは「二つのタイプ」の差に過ぎない(潮木守一・前掲書)。まさに「多様な」大学をなしている(ただし中等教育以下でのHauptschule、Realschule、Gymnasiun三段階の選別はあるので一概には言えないところがあるが、その点はまた別稿に譲りたい)。アカデミーなどのドイツ・フランスの職業教育の伝統に比べれば、イギリスの大学エリート主義はまた格別な「分断線」 ― 経済的な分断線よりも、潮木守一(『世界の大学危機』中公新書、2004年)の言葉で言えば「心理的」「文化的」断絶線 ― をもっており、むしろ日本的な職業教育差別に近いところがある。それは1992年の「継続教育・高等教育法」以降、職業教育機関が大学に昇格した後もなお続く「分断線」である。イギリスは未だなお「意欲格差」以前の、あるいはメリトクラシー以前の社会だとも言える。ロンドン大学などは二一世紀が明けても労働者階級出身学生が「二パーセントにしかならない」現状(潮木・同前)なのだから。まさにC.テイラー(前掲書)が言うように旧大陸型の階級「結晶化」しやすい傾向が大学(の学生の間)でも起こっているわけだ。

一方、日本のポスト中等教育の進路は、「多様」というよりは大学間偏差値格差による多様に過ぎない。あるいは高校の偏差値格差をそのまま反映した大学間格差による「多様」に過ぎない。そ+の上、四〇%近くの私立大学が選抜さえまともにできない定員割れの状況では、その「多様」も一様(大学内「一様」)でしかない。それでもなお「多様」という言葉を使うのなら、「大学は勉強するところだ」と一概には言えないという「多様」でしかない。アベノミクス以前の大学は「潜在的な失業者人口」の「プール」(児美川孝一郎『若者はなぜ「就職」できなくなったのか?』日本図書センター、2011年)とまで言われていたのだから。

特に90年代以降(つまり中曽根臨教審→大綱化以降)、「自分探しの幽霊船」(古市憲寿『希望難民ご一行様』光文社新書、2011年)に乗る若者が増え、本田由紀(『若者と仕事』東京大学出版会、2005年)の言う「ダブル・トラック」化が起こり、「学校経由の就職」が「縮小」したこと、つまり社会的な学校圧 ― 「学歴社会という認識は、『生まれ変われるものなら生まれ変わりたい』という人びとの願望を強化し、その願いを教育へ、学校へと水路づけするイデオロギーとして作用した」(『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年)と苅谷剛彦が言う意味での学校圧 ― が減少したことが日本的「多様」の本質なのだと思われる(この学校圧の弱化については註46~49、およびその本文の前後の議論を参照のこと)。いずれにしても、日本的な大学の「多様」とは、勉強が好きでも得意でもない学生が入学してくる今日の大学の実態を意味している。そんな「多様な学生」の時代における大学において、選択科目を増大させると、何が起こるのかは明白だ。すでにエリオット(ハーバード大学)の選択科目制導入による諸課題を潮木がまとめていたのと重なるところ一部あるが(本稿註19を参照のこと)。

一つに、科目が積み上がらないため深く学ぶ機会がなくなる。多様な学生が多様なまま卒業することになる(手付かずの自然みたいなもの)。高等教育である大学教育をわざわざ受ける意味がないことになる。

二つ目には、科目管理がすべて個々の教員任せになるため、四ポリシー(アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシー、アセスメント・ポリシー)の形成がますます宙に浮く。

三つ目には、授業評価が大概のところ登録学生数の多少でしか目安にならないため、知的な評価から遠ざかる。結論。選択科目の多い大学は授業改善とカリキュラム開発が全く進まない教学組織でしかないということ(これらの問題については第五章で再論する)。

なお、金子元久は、「授業のプラクティス」という言葉を使ってシラバスを説明しようとしている。それは、「もともとアメリカの公教育システムには地域的な多様性が著しく、大学入学者の学力に大きなバラツキがある」(『大学の教育力』ちくま新書、2007年)という認識から来ている。シラバスはアメリカ的な契約社会の要素と言うよりは、そのバラツキの補正を「制御」する「道具」(金子元久)でもある。

日本の学生の「基礎学力不足」を嘆く教員がいるが、アメリカでもドイツでも(進学率が急激に上がっていく「大綱化」の1991年以前から)日本の大学の学生以上に「多様な」学生に対応してきたことを忘れてはいけない。日本の大学は私学助成 ― 「私立学校振興助成法」(1975年) ― と引き換えに厳しい定員規制を受けてきて(この間の経緯は、天野郁夫「成熟するマス高等教育」in『日本の高等教育システム』東京大学出版会、金子元久「教育の政治・経済学」in天野郁夫編『教育への問い』東京大学出版会、吉見俊哉「戦後日本と大学改革」in『大学とは何か』岩波新書などを参照のこと)、1993年までは四年制大学の進学率は30%を切ってきた。なんと1971年から1993年の22年間も進学率は20%台にとどまっていたのである。

93年までの大学の平和と「大綱化」の生涯学習論とが相俟って、「多様な」学生対応に遅れ、「授業のプラクティス」課題が日本では前面化しなかったのだ。ただし1990年代半ば以降進学率が急激に上がったとは言え、(「マクロな視点から」は)「学力下位層からの進学者が際立って増加しているわけではない … 大学進学率の上昇により直ちに学生の学力水準の低下がもたらされているとは言えない」という濱中義隆の報告(『大衆化する大学』岩波書店、2013年)もある。「最近の学生は……」という「多様」性論は単なる世代論なのかもしれない。「知識人は、明治以来一貫して『学力低下』を嘆く存在なのです」とは蓮實重彦の言葉だ(『私が大学について知っている二、三の事柄』東京大学出版会、2001年)。


●「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年)

ちなみに、文科省の最新の答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(2018年11月26日)では、「多様」という言葉のオンパレードになっている。「多様な学生」「多様な教員」「多様で柔軟な教育カリキュラム」「多様性を受け止める柔軟なガバナンス等」「大学の多様な『強み』の強化」と五つの「多様」が「教育研究体制」の中で取りあげられ、なんとこの五つの多様は「多様性と柔軟性の確保」としてまとめられている。2008年の中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」では ― 後でも触れるが、私はこの答申をここ30年の中教審答申の中でもっともまともなものだと思うが ― 「多様性と標準性の調和」とあったものが、10年経ったこの最新の答申では「多様性と柔軟性の確保」となり、大学のdiscipline(2008年答申の言葉)はますます崩壊しつつある。文科省が使う「多様」という言葉の用法自体にdisciplineがないのだ。

「多様性」議論の結論としては、文科省の「多様性」概念は、個別的なもの(個人であれ、組織であれ)の多様性議論にとどまっているということだ。そういった「多様」論は、一言で言えば、〈個性〉論に過ぎない。さらに言えば、人間生まれたときから顔が違うように、みんな個性を持っているという程度の個性論にすぎない。そんなレベルの個性論だとすれば、偏差値主義的な受験勉強や〝知識〟主義の〝画一的な〟教育(あるいは学習)くらいで摩滅するような個性は本来の個性ではないと言っておけば充分だと思う。

しかし学校教育における〈多様性〉議論においては、個人的な学生たちの多様性(=個性)の問題などどうでもいいことだ。大切なことは、社会組織の中に、たとえば代表的には官僚組織や〝一流〟企業の中に様々な階層からの出身者がどう「多様」に存在しているか、出自の多様な人材をそういったところに送り込める経路として学校教育が機能しているかどうか、そのことでしかない。

つまり学校教育における「多様」とは個人の多様ではなくて出自の多様としての階層のシャッフル論に関わっている。つまり言葉の本来の意味でのメリトクラシーが機能しているかどうかに関わっている。文科省の多様性論は、知識主義は多様性(=個性)を阻害するという月並みなものでしかない ― 2005年の「我が国の高等教育の将来像」答申以来強調されてきた「知識基盤社会」という言葉も、最新の中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(2018年)では本文からすっかり消えている。2008年の「学士課程教育の構築」答申、2014年の「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」答申までは「知識基盤社会」という言葉は本文中のキーワードの一つとしてまだ残っていたのだが、最新の答申からは消えて、もはや〈知識〉という言葉は文科省にとっては「多様性」の反対語になったようだ。知識の画一主義批判。これは街の教育評論家の言葉としてはありかもしれないが、学校教育を司る役所の思想としては職務放棄でしかない。文科省が存在する意味は、このコンテキストではただ一つだ。東京大学に下位階層の学生をどう送り込めるかでしかない(比喩的に言えば、の話だが)。つまりメリトクラシー(ある意味、知識主義と訳してもよいメリトクラシー)こそ、〈多様性〉の基盤でなければならないということだ。文科省が階層論としての多様性論を放棄してどうするというのだ。コリンズが指摘していたように(『資格社会』東信堂、1984年)、「文化貨幣」としての学校教育は「定型文化」「定型的な教育」としてはじめて「多様な民族的多様性」に関係したように、「定型」のない「多様性」はカオスに過ぎない。※なお、知識=多様性論については、本稿の「資料(1) 大学入試改革と人物評価主義について」を参照していただきたい。→大学カテゴリーランキング

(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』49~68頁より)
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