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 大学入試改革と学校教育の意味 ― ペーパーテストは民主主義の原点 2016年05月20日

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●今回の入試改革の趣旨と変遷

大学入試改革は、3年間にわたって三つの報告にまとめられて提案されています。一つは、一昨年の教育再生実行会議(安倍政権の私的諮問機関)第四次提言(二〇一三年十月三十一日) ― 以下「提言」と略す。二つ目が「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」(二〇一四年一二月二二日中央教育審議会答申) ― 以下「一体改革答申」と略す。三つ目が今年三月の高大接続システム改革会議「最終報告」(二〇一六年三月三十一日) ― 以下「最終報告」と略す。

三年前の「提言」は、マスコミによって「人物評価主義の入試方式」とまとめられましたが、今回の「一体改革答申」(二〇一四年)と「最終報告」(二〇一六年)では、「人物評価」という言葉はすっかり消えて、そのキーワードは、二〇○七年教育再生会議の「教育三法の改正」による「学力の三要素」 ― 正確に言うと「学力の3要素」を多面的・総合的に評価するものに転換する」入試改革 ― に変わっています。

人物評価入試論の不評(あるいは誤解)に配慮した文科省が、入試改革趣旨のロジックを変えたのです。こういう変更を民主的な文科省はよくやります。最近のものでは、新大学(職業専門大学という仮称で呼ばれているもの)のターゲット人材層を「中堅」人材→「中核」人材(または「ボリュームゾーン」)と言い換えるのもその実例の一つです。

もっとも、「提言」の中では、「人物評価」という言葉は一回しか出てきません。「人物評価の重視に向けた見直し」(提言八頁)が、平成十四年以降の公務員採用において「図られてきており、引き続き能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用が行われることが期待される」とあるだけです。

ここで言う「能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用」は、入試選抜に関わる文脈では、「能力・意欲・適性や活動歴を多面的・総合的に評価・判定するものに転換する」(提言七頁)という言い方になります。この両者に共通する「多面的・総合的」評価という言葉は、「知識偏重の1点刻みの選抜」評価に向けられた言葉です。

 そして、「能力・意欲・適性や活動歴を多面的・総合的に評価・判定するこれらの認識が、「知識偏重の1点刻みの選抜から脱却」(提言七頁)する課題に繋がっています。「意欲」という言葉は、九頁しかないこの提言の中に十四回も出てきますから、人物本位は、「能力・意欲・適性や活動歴」重視としての「知識偏重」に対する反対語であったわけです。

 そして「知識偏重」に対する反対語がこの提言では〈人物〉評価論であったわけですが、今回の「最終報告」ではその対照概念が「学力の三要素」になりました。

「学力の三要素」とは、①知識・技能 ②知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力 ③主体的に学習に取り組む能力 の三つになります。

二〇〇七年の教育再生会議によって「学校教育法改正」に繋がる文脈で出てきた「学力の三要素」にまで遡って、入試改革は、そもそもが学校教育法(改正学校教育法)に則って行われるものだ、ということになりました。
この三要素を考慮すれば、「知識偏重」入試とは、②(思考力、判断力、表現力)と③(主体性)とを考慮に入れない偏狭な入試制度になるわけです。「学力の三要素」をトータルに評価する、つまり「多面的・総合的」な評価にする、というのが、今回の入試改革の本旨です。

二〇一三年の「提言」では「学力の三要素」という言葉は、一切出てきません。「提言」では「学力」という言葉は、全体で15個前後出てきますが、ほとんどは①の知識・技能的な「学力」の意味で使われており、②③を含める場合には、「幅広い学力」という言い方がされています(この言い方が二回出てきます)。「提言」は、その意味では、学力主義批判としての「人物評価の重視」という観点に立っているわけです。

しかし今回の「最終報告」では ― すでに「一体改革答申」からそうだったのですが ―、錦の御旗のように改正学校教育法第三十条の2「…生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない」に定位し、知識・技能主義的な入試は、この三〇条に背くものとでも言いたげに「知識偏重の1点刻みの選抜」入試批判がなされているわけです。つまり、人物重視以前に、〈学力〉そのもの ― 「学力の三要素」全体としての ― が考慮されていない、と。「知識偏重の1点刻みの選抜」入試は学校教育法の趣旨に反する選抜なのだ、と。

●学力論と知識論と中曽根臨教審答申と

しかし、「人物重視」の立場であれ、「学力の三要素」の立場であれ、「知識」や「技能」の役割が相対的に縮小していることだけは確かです。この縮小の度合いは、「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに」(学校教育法第三〇条)の「とともに」という言葉に凝縮されています。この「とともに」は、「基礎的な知識及び技能」を有しているだけではダメであって、それらを「活用する」能力としての「思考力、判断力、表現力」などが必要とされるというもの。また「主体的」に学ぶ意欲も、「基礎的な知識及び技能」の獲得とは別のものという認識が前提になっています。

さらに、高校や大学など社会接続性(就職能力)が要求される学校における学力については三要素のみならず、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」というものも入ってきます。学力の三要素と並んで「主体性・多様性・協働性」という社会接続を意識したものも加え、「確かな学力」と呼ばれたりもしています。三要素+「主体性・多様性・協働性」を加えた「大学入試」のあり方を「最終報告」は提起しているわけです。

このような月並みな概念のオンパレードの根っこにあるものは、「知識偏重」批判にあることは明らかですが、知識獲得を「思考力、判断力、表現力」と相対的に分離し、「主体性・多様性・協働性」などが知識獲得と別の様相で出てくる思想の基盤は、やはり中曽根臨教審答申にあります。

〈知識〉と「思考力、判断力、表現力」「主体性・多様性・協働性」が相対的に分断されるのは、中曽根臨教審が学校教育を生涯学習の一部だとしたところにあります。それ以前にも、1981年の「生涯教育について」答申が生涯学習局から出ていましたが、〈学校教育施策〉に大きな影響を与えた点では、中曽根臨教審答申が決定的でした。

中曽根臨教審答申(1985~87年の1次から4次にわたる答申)は、90年代以降矢継ぎ早に繰り広げられる、大学大綱化、ゆとり教育、観点別評価などの諸施策の ― 当時の学力論は、「新学力観」と言われていましたが ― 、基盤になっていたのです。

臨教審当時、書記係役的に関わっていた寺脇研は、「新学力観」型の「ゆとり教育」批判にさらされた後にも次のように振り返っていました。「『ゆとり教育』へと進む方向は、明らかに時代の要請であり流れです。そもそも、こうした流れは、一九八四年に中曽根首相の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で確立されました。いまの『錦の御旗』は臨教審なのです。そこで『生涯学習』という理念が決まりました。学校中心主義からの転換、教師による『教育』から生徒中心の『学習』への転換です。この理念の延長にいまの教育改革がある。ですから『ゆとり教育』の枝葉については否定できても、その根本理念を否定できる人はいないはずです」(2004年2月号 中央公論)。

ここで寺脇が言う「学校中心主義からの転換、教師による『教育』から生徒中心の『学習』への転換」というのが生涯学習の理念です。もっと言えば、三公社民営化の土光臨調の流れを受けて、学校民営化までもが議論されていたのが臨教審ですが、生涯学習論もその一環です。

〈学校〉や〈教員〉の主体性(リーダーシップ)が相対化された分、〈教育〉が〈学習〉になり、「生徒中心」主義が強まったと言えます。「個性」とか「多様性」とか、個人の持つ特性に着目した用語が頻出しはじめるのも、この時期からです。観点別評価の「関心・意欲・態度」や学力の三要素の「思考力・判断力・表現力」「学ぶ意欲」などは、この「学びの主体」論が前面化する度合いに比例しています。


●学ぶ主体と生涯学習 ― 学ぶことと学びの主体との分離

臨教審は、この流れを次のように言っています。「人格の完成は、教育的努力の究極の目標」であるが「その際、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自立、自己責任などが重視されなければならない」(四次答申9頁)。「自由とは、放縦や無秩序、無責任、無規律と全く異なるものである。自由は、重い自己責任を伴うものであり、選択の自由の増大する社会に生きる人間は、自由を享受すると同時に、この自由の重み、責任の増大に耐え得る能力を身に付けていなければならない…個性重視の原則は、今次教育改革の主要な原則であり、教育の内容、方法、制度、政策など教育の全分野がこの原則に照らして、抜本的に見直されなければならない」(一次答申23頁)。

「個人の尊厳」「個性の尊重」「自由・自立」「自己責任」は、生涯に渡る〈学びの主体〉の属性なのです。この時期あたりから、〈学ぶ〉ではなくて、自動詞的な〈学び〉という言葉も登場しはじめます。知識は、もともとオブジェクティブな(対象的な、客観的な、目的語的な)ものですから、自動詞的な主体性が前面に出れば出るほど、知識要素は後退します。何を知っているかよりも、どんな人なのか、というふうに。結局、教育再生実行会議の〈人物評価〉入試論は、言葉としては「最終報告」から消えましたが、「学力の三要素」論からしても、生涯学習的な人物論=主体論に収斂するわけです。

知識を学ぶこととは相対的に分離された主体、つまり学校教育の外に、生涯にわたって学ぶ主体を想定すると、まだその主体が完成されていない子供時代に浮上するのは地域や家庭の文化的環境ということになります。

その分、臨教審も「家庭や地域社会の教育力が低下している」と指摘し、「適時・適切なしつけを行うことは家庭が果たすべき重大な責務である。この観点から、家庭を学校、地域社会と並ぶ生涯学習の場ととらえ、その教育力の回復を図る必要がある」(四次答申15頁)と言うことになります。このあたりは、土光臨調の民営化論と同じで、学校教育の使命を相対的に軽薄なものとする分、家庭や地域の教育自活論が前面化するわけです。
しかし、通常〝できない〟子供の親や保護者は、親や保護者自体が教育(しつけ)への関心が薄い場合も多く、地域的にも文化的にも不毛な地域であることもよくあるわけです。

一方、文化性が高い場合には、教員の学力や文化度よりも高い学力や文化度を有した親・保護者もたくさん存在しており、学びの主体の格差(人物論の格差)は、既に決着が付いているわけです。格差のみならず、この場合の子供達の「個性」や「多様性」は、親や地域の個性や多様性にとどまっています。まさに子供達は、生まれながらにして「個性」的で「多様」なわけです。兄弟でさえ、(放って置いても)個性的で多様なように。

〈学校〉とは、(同じ)教科書を使って、(同じ)知識を、(同じ)教員資格を有している教員によって教授する場所である、という意味は、この家庭格差や地域格差をいったんは棚に上げるという機能に関わっています。すなわち、学校の校門をくぐり、教室に入れば、皆は平等に扱われるという前提が、〈学校教育〉が存在する意味だったわけです。

この「同じ」の画一性は、中曽根臨教審答申から今日の「最終報告」まで三〇年以上にわたって批判され続ける〈知識〉主義の「画一性」とは何の関係もありません。〈家庭〉や〈地域〉は親が属するクラス(階層) ― 文化的階層、経済的階層 ― を意味しているわけですが、それを〈学校教育〉がなぞってしまっては、子供達はいつまで経っても親の階層を超えることが出来ません。まだ自立していない子供達の主体性(=臨教審の言う「個性重視の原則」)を強調すればするほど、親の階層を再生産することになります。

学校の校門と塀や教室までの大きな前庭を経た長いアプローチ、そして家族や地域を越えた大災害の避難所としての学校は、そういった親や地域の文化的階層、経済的階層の影響をいったんは棚に上げる(括弧に入れて判断を留保する)意匠なのです。

学校が講堂や式典を持ち、教室内の一段高い教壇の上に教員が立つというのも、家庭や地域の影響を超えた、子供に対するリーダーシップを学校が持つ、学校が家族や地域を越えて、もう一つ別の社会的な保護機能(社会的な親機能、社会的な第二の出産機能)を持つ仕組みなわけです― もっとも〈学校〉のこの種のリーダーシップや保護機能を、生涯学習論的、民営化論的に軽薄化した施策の原点が中曽根臨教審答申だったのですが。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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