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 学校教育と生涯学習と家族と ― 中曽根臨教審の呪縛(学ぶことの主体とは何か) 2011年06月28日

フィッシュキンは、「メリット」(メリトクラシーのmerit)と「生活機会の均等」と「家族の自律性」とは三つ同時には実現できないと言っている。

厳密に言うと、これらの内の二つを実現すると残りの一つは実現できない「トリレンマ」に陥る。

「実力」と言っても、最初から恵まれた立場に置かれてしまえば、その本人の「実力」とは言い難い。実力主義は、家族主義的な階級制と反するように見えるが、結果的には家族主義的,地域主義的な“格差”を温存する場合も多い。純粋な「機会均等」は、存在しない。機会を与える前に決着が付いてることの方がはるかに多いのかも知れない。

「メリット」と「生活機会の均等」とは「子供は社会の子供」という立場にほぼ立っている。後者の「家族の自律性」は子育ての権利は(社会ではなくて)親に属しているというものだ。

学歴社会における〈学校教育〉の意義は、子供を教育することを、親の影響や地域の影響、あるいは世代の影響から隔離することにある。1+1=2を教えることに、あるいは学ぶことに親も地域も世代も(場合によっては社会も)必要ないからだ。

つまり〈身分〉や〈格差〉と関係なく、1+1=2ということを教えるという場所が〈学校〉。

その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が国家的に条件付けられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員国家資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。

この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。学ぶ主体を〈生涯学習〉的な視点から認めてしまうと、結局のところ、自動詞的な〈学び〉が前面化する。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化する。

言い換えれば、何か〈を〉学ぶという対象への集中(漱石的な〈則天虚私〉)よりは、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在することになる。世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。

1980年代後半の中曽根臨教審答申以来、個性教育と生涯学習はパッケージで前面化してきた。〈個性〉ばかりではなく「関心・意欲・態度」が各科目評価に加わったのも中曽根臨教審答申を受けた92年の新学習指導要領以来のことである。

ペーパー試験で100点とっても「関心・意欲・態度」の“悪い”者は、80点扱いになる。評価全体の内、2割が「関心・意欲・態度」評価に当てられている。つまり〈知識〉や〈技術〉の累積と「関心・意欲・態度」とは別のものだという判断がこの評価には働いている。

外面的な(=外からの)注入型の教育と「関心・意欲・態度」が切り離されてしまえば、この「関心・意欲・態度」を担う主体は、学校教育以前の〈パーソナリティ〉でしかない。いわゆる〈人間論〉が前面化する。

人間はそもそもが内発的に学習する主体(=学びの主体)だという生涯学習論の思想的基盤もそこにある。教員は(上から権力的に)教える者ではなくて、サポーター役、あるいはファシリテーター役に留まる。

〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉とは、結局のところ、親や地域の(あるいは時代や社会の)影響を色濃く受けた〈主体〉に過ぎない。

〈学校教育〉に、「上から」の「権力」が存在するとすれば、この親や地域の影響という地上性を払拭する為のものであるからに違いない。

実際、池田寛(大阪大学)、苅谷剛彦(東京大学)たちが明らかにした「関西調査」では、学びの個性論教育、あるいは意欲主義教育は、むしろ、学力格差を拡大することになったことをデータから示している。

「関西調査」の結論は三つある。一つには、中曽根臨調以来の個性主義教育+意欲主義教育は学力格差をむしろ拡大するということ。二つ目には、意欲を育てるのはむしろ学力であって、学力のない者は意欲もないということ。三つ目には、「学び合い」などの児童・生徒たちの意欲的な「学び」を前提とした「新学力観」型授業は、学力格差を拡大するということ。この三つである。

このことを一言で言えば、苅谷の言う「インセンティヴディバイド」となる。

結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の名の下に、《社会》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。

現在、〈学校教育〉は、入口と出口において、その境界を無くしつつある。この事態は〈学校教育〉が〈生涯学習〉と等置された臨教審路線の反映に過ぎない。80年代と、バブル期以降、IT革命以降のグローバリゼーションによる労働市場の大変化(高卒市場の10分の一の縮小)=キャリア教育の登場とは一見、別物のように見えるが、しかし臨教審の〈学校教育〉=〈生涯学習〉論は〈キャリア教育〉に親和的である。

臨教審当時、書記係役的に関わっていた寺脇研は、新学力観型の「ゆとり教育」批判にさらされた後にも次のように振り返っていた。「『ゆとり教育』へと進む方向は、明らかに時代の要請であり流れです。そもそも、こうした流れは、一九八四年に中曽根首相の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で確立されました。いまの『錦の御旗』は臨教審なのです。そこで『生涯学習』という理念が決まりました。学校中心主義からの転換、教師による『教育』から生徒中心の『学習』への転換です。この理念の延長にいまの教育改革がある。ですから『ゆとり教育』の枝葉については否定できても、その根本理念を否定できる人はいないはずです」(2004年2月号 中央公論)

結局、「学校中心主義からの転換」としての生涯学習論は、〈学校教育〉否定論であり、〈学校教育〉以前に〈学びの主体〉を想定する家族=地域論=社会的ニーズ論(キャリア教育)なのである。

高等教育が学生顧客論(学生消費者論)に立つのは、90年代に始まる少子化現象がマーケット主義を増長させるからではない。生涯学習は元々が顧客=消費者主義。〈学ぶ〉ことは、学ぶ者の〈手段〉にすぎない。

通常、生涯学習的な講座の受講者傾向は、学ぶ目的は受講者の側にあり、カリキュラムや科目は手段に過ぎないということにある。何のために役立てるかは、受講者の受講目的次第ということになる。

生涯学習マーケットの大半を構成する社会人がいまさら何の役に立つかもわからないものを自費で受講したりはしないからだ。従って生涯学習講座評価の根拠は受講者の側にある。この種の講座評価が受講生アンケートでなされるのはその意味でのことだ。

しかし、〈学校教育〉が対象とする児童・生徒・学生は、まだ社会人のようには〈目的〉を自律的に持てない。この「持てない」というのは、何らかの限界や無能力を意味しているわけではない。
何にでもなれるし、何を目的にすることもできるということが、若者(児童・生徒・学生)の、つまり次世代を形成する人材の特質だということだ。

〈学校教育〉の対象である若者(児童・生徒・学生)は、〈学校教育〉を通じて目標を見出すのであって、そこに〈学びの主体〉は存在しない。〈学びの主体〉を形成するところが〈学校〉であって、〈学校教育〉は〈学校学習〉ではない。

この〈教育〉の「上から」目線、「権力」目線は、〈学校教育〉の対象である若者を家族・地域・社会から引きはがすためのものであって、社会的な階層流動性の原理をなしている。

一条校の〈学校〉(学校教育法の第一条「学校とは…」に分類された学校)の〈学校〉に、立派な校門と塀が存在しているのは、家族・地域・社会から〈学校〉が相対的に自立しているからである。

この自立性こそ、「ジェネラル」エデュケーションや「リベラル」アーツのパワーを形成している。

フィッシュマンの言う「家族の自律性」は子供の教育権を家族(親)が有しているというものだが、これは通常東京の名門私立学校の〈面接〉主義選抜(名門の再生産)を意味している。

この点では、「家族の自律性」は階層再生産の原理(メリトクラシー・生活機会の均等と対立する)でしかないが、一方でこの自律性は、どんなに社会から(反社会的な犯罪者として)阻害されても、「この子は私にとってはかけがえのない子供」と言える自律性でもある。

つまり「家族の自律性」の反社会性(反メリトクラシー+反機会均等主義)は、それ自体階層の流動化の原理でもある。名門であれ、「下流」であれ、家族は家族なのだ。家族は「社会の基本単位」なのではない。

家族の反社会的な閉鎖性はそれ自体、社会的な革命の原理でもある。この閉鎖性の意味が〈学校〉の校門と塀だと言ってもよい。学校の〈校門〉と〈塀〉は、したがって閉鎖的なものではない。「ジェネラル」と「リベラル」の砦なのである。

〈学校教育〉の〈教員〉とは、その意味で社会的な〈親〉である。〈親〉が子供満足のために子供を〈育てる〉のではないようにして、〈教員〉や〈学校〉にとって、子供(児童・生徒・学生)は〈顧客〉なのではない。

子供は他動詞としての学ぶことの中で、つまり〈対象〉に没入することの中で、学ぶことの目的を見出し、〈主体〉を形成していくのである。〈学ぶ主体〉の〈学び〉が先にあるのではないのだ。

「ジェネラル」エデュケーションや「リベラル」アーツにおける〈教養〉主義とは、〈学ぶ主体〉の自主性に収まりきらない或る過剰を意味している。この過剰こそが家族や学校の〈自律性〉を形成している。

〈学校教育〉は、臨教審の生涯学習論、受講者を〈学ぶ主体〉と見なす生涯学習論、つまり顧客学習論とは異質の自律的な〈教育〉を有している。

〈学校教育〉は、校門と塀によってこそ、「ジェネラル」で「リベラル」なのである。


※以上、3月に大阪梅田で開催された内田樹さん達との関西フランス語教育研究会「異文化理解と外国語教育 ― 大学における教養主義教育はどこへ行く」(http://www.rpkansai.com/rpk2011/grilles20110322.pdf)パネルディスカッションの私分事後報告レポートです。これすべてただで書かされています(笑)。出演料も交通費もただでした。おまけに懇親会の参加費も取られました。とんでもない会でした(と内田さんと言い合っていました)。→「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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