「芦田の毎日」について twitter 私の推薦商品 今日のニュース 写真ブログ 芦田へメールする

  「学び合い」教育の諸問題(2) ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと 2011年02月18日

この記事は「『学び合い』教育の諸問題 ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと」( 2011年02月17日)http://www.ashida.info/blog/2011/02/post_403.html#more の1)~53)の続編(54)~(83)です。まだまだ続きますが、とりあえず私の整理の中間報告をします。

【「学び合い」教育の諸問題(54)】さて、できる子供は、通常の一対n個の授業のように先生に直接教わる機会を経ないでも、教室内で主には自学習を進める。その“教材”は教科書+業者の教材プリントかも知れない、教員のオリジナルプリントかも知れない。教員によってまちまちだ。

【「学び合い」教育の諸問題(55)】しかし、自学習で「問題を解く」という行為は、ある種、機能主義的で記号論的な操作に留まることが多い。解けていても、「わかっていない」場合も多々ある。

【「学び合い」教育の諸問題(56)】二桁のかけ算が「できる」という指導要領的なテーマがあって二桁のかけ算ができたとしても「かけ算とは何か」がわかったとは言えない。生徒同士が学び会えるのはその解答手法であって、かけ算の〈意味〉ではない。

【「学び合い」教育の諸問題(57)】それは鎌倉幕府の述語(たとえば1192年にそれが成立した、という一述語)をいくら集めても鎌倉幕府が「何であるか」にはたどり着きがたいというのと似ている。練習問題を〈解く〉というのは、主語である〈事柄(実体)〉の一述語にふれただけのことに過ぎない。何題解けても「わかっていない」場合もあるし、いくつかの問題を解いて「わかる」場合もある。その理解の速度(理解の質)は、子どもの「個性」や「可能性」以上に教員の適切で専門的な(事柄についての)指導に関わっている。

【「学び合い」教育の諸問題(58)】こういった「何であるか」については、先生しか教えることのできない専門性に属している。〈先生〉は生徒のように問題を「解く」人ではなくて、その意味を解釈することができる人なのである。国語も下手な先生は文法(機能)ばかりを教えるが、まともな先生であれば、文章(の意味)を味わうことを教えることができる。言い換えれば、文章に意味「がある」ことを教えることができる。これは練習問題を自学習で1000題解いても達成が難しい課題だ。

【「学び合い」教育の諸問題(59)】かけ算も割り算も、その意味とは何かなどは、練習問題をいくつ解いて「優等生」になったとしてもなかなかつかめない。その意味で生徒は「できる」生徒であっても記号論的な操作を繰り返しているに過ぎない。

【「学び合い」教育の諸問題(60)】私の経験でも(大げさに言えば)英語の不定冠詞の意味を知ったのは大学に入ってからだった。公立中学校の先生は、不定冠詞を複数のsと対立させてしか教えてくれなかった。しかしそうであっても、練習問題は「解けた」のである。

【「学び合い」教育の諸問題(61)】もちろんかけ算も割り算も積分や微分の理解が前提になっている。それを「知っている」のは先生だけだ。積み上げ型の自学習ではそこを学べない。練習問題ができて、「平均点」が上がるだけなのである。

【「学び合い」教育の諸問題(62)】小学校教員が大学教員ほどに専門的なことを理解する必要はないまでも、いま小学生にやらせている勉強が大学までの高等教育の中で、あるいはサイエンス全体の中でどんな位置付けを有しているのかを教員は理解している(ことになっている)。

【「学び合い」教育の諸問題(63)】この「上からの」理解が「上からの」教育(=学校教育)の「先生」指導の要点なのである。西川のいう「権力」とは何の関係もない。あえて左翼的に「権力」と言うのならば、“知的な”権力と言ってもよい。〈勉強〉とは記号論的な操作に習熟することではない。「問題を解ける」だけの優等生を作ってもしようがないのである。

【「学び合い」教育の諸問題(64)】「学び合い」は生徒同士の記号論的な手法(回答手法)の交流に「活発さ」を認めているが、そんなものは本来の学習ではない。

【「学び合い」教育の諸問題(65)】この問題は「できる」生徒をどう扱うべきか、の問題に収斂する。

【「学び合い」教育の諸問題(66)】質の悪い「学び合い」は別にして、高度な「学び合い」授業では「できる」生徒は自学教材(市販テキストの練習問題か教員のオリジナルテキスト+教科書)を基にどんどん先に進んでいく(まるで公文式のように)。

【「学び合い」教育の諸問題(67)】高度な「学び合い」では同じクラス内の同じ授業時間内でも進度はまちまちになる(まるで専門学校の実習授業か研修屋のワークショップ授業のようだ)。できる生徒のできない生徒への補助指導はその余暇のようなものだ。できる生徒のその“余裕”が補助指導の質を高める。そうやって、クラス全体の「平均点」は上がっていく。

【「学び合い」教育の諸問題(68)】1対n個の集団授業では、「できない」生徒に阻害されて進めない授業進行が、学び合い授業では、できる生徒であっても、できない生徒であっても個人の“理解”の度合いに応じて進行するという利点を有している。

【「学び合い」教育の諸問題(69)】この様(さま)は、公文式に似ている。公文式は教材開発が洗練されている分、「学び合い」の必要なく、「解ける」問題を解き進むだけで螺旋状に高度自学習を進めていくことができる。落ちこぼれは存在せず、進度の差だけが存在している。

【「学び合い」教育の諸問題(70)】「学び合い」授業は、非力な教材を使う分、いわば「コミュニケーション能力」育成付き公文式の様相を呈している。公文式は「人格の完成」(西川純)に向かわない分、学び合いは人間的な交流があるというもの。公文式に対して言えば、学び合い教育では、「練習問題を解くことが目的ではない、その過程の生徒同士の学び合いが重要なのだ」ということになる。ここでは操作主義的に解くことが問題視されているのではなく、〈人間〉不在が問題なのである。

【「学び合い」教育の諸問題(71)】つまり、両者(公文式と学び合い)に共通していることは、二つある。一つは、街のおばちゃんでも生徒の相手をできる程度に、教員の負担が少ない。二つ目には、操作主義的に問題を解いているだけということ。

【「学び合い」教育の諸問題(72)】こういう教員を私は教員(teacher)とは呼ばない。操作主義的な指導者は、通常、instructor、trainerと呼ぶことにしている。

【「学び合い」教育の諸問題(73)】instructor、trainerは、〈(知的な)教材開発〉ができない、〈意味〉を教えないという点で、教員(teacher)とは一線を画している。学び合い教員と同様、実習教員もその意味では teacherではない。

【「学び合い」教育の諸問題(74)】専門学校の実習授業などは、学び合い教育とほとんど同じ相貌を呈しているが、間違いが起こったのは、この実習授業担当者をこの学校群が〈教員〉と呼んだところから始まった。この教員達は、講義授業で生徒や学生を制御できない。

【「学び合い」教育の諸問題(75)】専門学校の講義授業では大半の学生が寝ている。起きているのは実習だけ。講義で寝ている学生を教える(起こす)ことができるのは〈意味〉を語れる専門性の高い教員でしかない。

【「学び合い」教育の諸問題(76)】その意味で専門学校には、実習授業しかできない、つまり〈操作〉を教えることしかできないinstructor、trainer教員しかいない。つまり専門学校の教員は教員(teacher)ではない。

【「学び合い」教育の諸問題(77)】公文式の街のおばさんほどではないが、専門学校教員も実物教材(作業)に依存している。ちょうど小学校“教員”が自学教材に依存して学び合い授業を操作主義的に進めるように。

【「学び合い」教育の諸問題(78)】専門学校の教育のもう一つの柱は、実習主義と並んで資格教育であるが、それも解法手法を教える操作主義という点で実習授業の質とまったく同じ。

【「学び合い」教育の諸問題(79)】実習教育であれ、資格教育であれ、専門学校の教育は、知的であること、問題の意味を理解することではなく、「解ける」こと、作業が「できる」ことを重点に置いた操作主義的な教育を伝統にしている。

【「学び合い」教育の諸問題(80)】その分、専門学校の教員資格には「大学卒」という条件がない。その点でteacherである必要はない。だから専門学校は、学校教育法第一条における厳密な意味における「学校」ではない(※)。そもそも理美容や調理の分野などは、卒業後の在留資格さえない(技術教育ではない)技能教育とみなされている。「技能」とは操作と習熟に終始する低級な教育ということである。それに反して、teacherが大学卒を条件とするのは、〈操作〉ではなくて、学校教育体系の最後(終わりの専門性)から教育を可能にする者でなくてはならないからである。
※「学校とは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする」(学校教育法・第一章総則・第一条)。

【「学び合い」教育の諸問題(81)】大学へ進んだ者なら、たとえ勉強しなくてもわかるのは、どんな三流大学でも、高校教員とは一線を画した専門性の高い教員が「存在している」ことである。〈仕事〉を超えて寝食を忘れて勉強が好きな人間がこの世の中にはいることくらいはバカ学生でも気付けるようになっている。

【「学び合い」教育の諸問題(82)】そういった存在(中等教育を脱した“終わり”の先生)は、簡単なかけ算や不定冠詞、そして助詞にも深い意味があることを教えてくれる。そのことの薫陶を受けた者だけが〈学校教員〉(teacher)になれる。それが「一条校」教員が大学卒でなければならない理由なのである。

【「学び合い」教育の諸問題(83)】操作と習熟を超えた教育をできる者、それを絶えず志向する指導者が〈学校教員〉(teacher)なのである。(まだまだ続く) →「にほんブログ村」

(Version 4.0)

にほんブログ村 教育ブログへ ※このブログの現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「大学」「専門学校教育」を選択していただければ現在のランキングがわかります)

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
トラックバック

この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/1266

感想欄
感想を書く




保存しますか?