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 明けましておめでとうございます ― 学歴社会、超高層建築、自由と主体性、そしてポストモダン(4000字の年賀状) 2008年01月04日

学歴社会は、人間の評価を変えた。

学歴社会とは、「国語・算数・理科・社会(+英語)」の能力で、社会の入り口(場合によっては社会の最後まで)の選別を行う社会のことを言う。

「国語・算数・理科・社会(+英語)」以外の能力とは何か。それは「体育・音楽・美術・技術家庭」の能力のことを言う。

前者と後者との違いは何か。前者はとりあえず〈努力〉で何とかなる科目。後者は〈努力〉を超えた能力が必要な科目(もちろんその区別は絶対的なものではないが)。

「100メートルを12秒以内で走れ」と言われても、〈練習〉では限界がある。音楽にしても絵にしても限界は見えている。一夜漬けの効かない科目、それが「体育・音楽・美術・技術家庭」。

結局のところ「体育・音楽・美術・技術家庭」の能力とは、天分のことだ。生まれ落ちた家庭(=親の能力)や地域の影響が大きい科目群なのである。

「国語・算数・理科・社会(+英語)」の能力を階層形成の原理にしましょうという学歴社会は、とりあえずは、反家庭主義、反地域主義の立場=空中主義の立場に立っている。

いわゆる〈身分社会〉の反対概念が〈学歴社会〉だ。私立の名門小学校が子供の能力よりも親の素性を追い求めるとき、彼らの〈名門〉とは文字通りイエの名門を本来的には判定していている。本来の「私立名門校」とは学歴社会の反対概念なのである。

学歴社会の評価判定は、○×試験を原理としている。それは今ではマークシートにまで進化した。それらは、出自(家庭)や階級を相対化することに意味がある。

一方、「名門私立」の評価判定は、記述回答、面接試験を持って原理としている。それは家庭環境・地域環境・階級をあらわにする。筆記文字、服装、しゃべり方を直接体験すれば、階級属性は比較的簡単に判断できる。

それに反してマークシート(○×試験)は人間の純粋努力だけをOUTPUTしている。その意味で、マークシート(○×試験)は近代的な人間性そのもの、近代的な自由(の成果)そのものを評価しようとしている。マークシートや○×試験が〈人間性〉を疎外している、というのは逆なのである。それを批判することが出来るのは、近代的な人間なんてどうでもいい、という立場だけなのだ。

学歴主義が評価の自由主義だとしたら、超高層建築は、建築の自由主義だ。

従来の建築は、地域と階級に縛られている建築だった。建築は〈生活〉を露呈させる。家を見れば、その家庭がどれほどの階級に属しているかはほとんどわかる。戸建て住宅で生活と階級を分離することなどほとんど不可能なのだ。

20坪の一軒家で、フェラーリを駐車場に置くことは(20坪の場合、悲しいかな駐車場は玄関よりも前方に位置してしまう)、ほとんど後ろ指を指される行為に近い。動産と不動産が不釣り合いなのである。戸建てではこういったアンバランスはよく起こる。高いブランドもので全身をまとっていても帰って行く自宅は20坪以下の家であるようにして。

こういった現象が「不釣り合い」と思われる原因は、住宅というものが「不動産である」ことによって、〈衣服〉のようには簡単に選択できない意匠になっているからだ。

近代化は、様々な仕方で様々なものを選択可能なものへと転換させてきたが、最後の砦が「不動産」=〈住宅〉だった。

〈住宅〉とはそもそもが〈生活(暮らし)〉である。一方、近代化の原理は反生活。生活感のないことが近代化。

トイレもきれいになった。洗濯物も室内で干すようにもなっている。食べ物も加工品が多くなり、ゴミまで分別するようになった。分別できないものを〈ゴミ〉と言うのだろうに。最近では犬のうんこを持ち歩いて散歩をするというわけのわからない人種が頻出するようになっている。うんこの臭いがしない食べ物も出てくるようになった。

〈生きる〉ということは、本来〈汚い〉ものなのに、それを隠すことが〈近代化〉。

住宅の発展も、〈生きる〉ことを隠すことがその原理。たとえば、洗濯物が見えない暮らしが高級住宅の証であるようにして。最近では小住宅でも室内に洗濯物を干すようになってきた。あるいは洗濯物は乾燥するまで洗濯機の中に閉じこめられるようになってきた。

しかし住宅全体の見栄(=外観)は依然として貧相か、貧相でないかの〈暮らし〉を表現している。

それを相対化しようとしたのが、60年代の団地、70年代以降のマンションだった。もし20坪の自宅であってもポルシェやフェラーリを後ろ指さされずに乗ろうとしたなら、マンション(=都市生活)を選ぶしかない。マンションは、個別の住宅=戸建て住宅よりは暮らし(=生きること)を隠しやすい。一つのマンションは一つの地域(一つの空間と時間)に相対的にではあれたくさんの階層を抱え込むことが出来るからである。

というより、近代化と高層住宅はその歴史の両輪である。高層住宅の存在が、都市集中の(近代的な都市の発生の)根拠である。都市集中は、空間的な移動の自由と階層間移動の根拠をなしていることからも、それは明らか。「東京は田舎ものの集まり」と言うが、誰も集まらない地域を田舎と言うのだから、それは東京の本質を言い当てている。田舎とは、暮らしと仕事が一体化している場所のことを言う。農業がその極点だ。その対極に東京がある。

そして田舎から若者が東京に集まったのは、かの学歴主義においてである。勉強が出来さえすれば、田畑さえも売って大学へ行かせたのが、60年代、70年代の日本だった。これが日本の高度成長を支えた。日本の産業組織は、一流企業においてさえも世界的にもまれなほどの各種階層が存在し、それが産業活動の活気と多様性を産む動力になった。

そうやって、団地が成立し、マンションブームが到来する。これは大地を離れた地方出身者の暮らし(=反暮らし)を形成した。

勉強=都市=高層化は近代化の三種の神器。これらは、時間と空間を相対化するという点で共通の根を持っている。それらは〈出生〉を相対化するわけだ。ヨーロッパに高層建築物が存在しないのは、ヨーロッパが未だに階級社会であることを意味しているにすぎない。

人間の不自由の源(みなもと)は、人間が〈親〉(=家族)を持つということ、特定の空間と時間の中に生まれ落ちること、つまり〈生活(生死〉〉を避け得ないことを意味している。その意味で、学歴と都市と高層住宅は、反家族、反時空、反生死(反精子?)だったわけである。

建築家とは、その意味で階級的な存在だ。金持ちに寄生して、高い(価格の高い)建物を建てたがる。厳密に言えば、高価格自体が目的ではない。建築家が金持ち(や官庁)に寄生するというのは質量(材料)の選択を自由化するため。すべての建築家は階級的な寄生虫だ。

ちょうど自動車評論家が階級的であるのと似ている。安い質量で組み立てられた自動車が良いクルマであるわけがない。「このクラスのクルマとしては良いクルマだ」という訳の分からない“批評”をするのが、自動車評論家。これが〈批評〉でないのは明らか。私が正直な自動車“評論家”であろうとしたなら、「若者よ、金を稼げ」としか言わないだろう。

そもそも文芸批評家は「この本は1000円台の本としてはまともな本だ」とは言わない。文学が質量から解放されている分、文芸領域では純粋批評が成り立つが、自動車ではそうはいかない。文芸批評の方が自動車批評よりもはるかに高級なのだ。建築家も自動車評論家も〈生活〉から創作や批評を切り離せないでいる。

建築家が階級的な仕事を脱するとしたら、超高層建築に携わるしかない。ここで言う「超高層」とは、農業、工業、商店、オフィス、公園、スポーツジム、医療機関、住宅などをすべて兼ね備えた建築物だ。それ自体が〈世界〉であるような建築物である。

私の言う「超高層」はライプニッツの「モナド」と(ほぼ)同じと考えていい。「モナドには窓がない」が世界全体を反映している。

したがって、それはある場所(空間と時間)を占めている建築物なのではない。場所を無化するように存在しているのが超高層だ。全体であることによって〈場所〉を占めず、全体であることによって〈外部〉を持たない。つまりそれは〈主体(Subject)〉の成立を言う。

近代的な自由を建築的に表現すれば、超高層でしかなくなる。それは〈生活〉によっては人々を差別しない唯一の空間的な表象だ。学歴社会は、超高層社会で最後の時を迎える。

さて、〈近代〉とは、たかだが〈学歴社会〉、たかだか〈超高層社会〉だ。

たとえば、イラク戦争は、物量と技術で圧倒している(=近代的な)アメリカの敗北に終わった。

なぜか? 物量で圧倒できるのは、近代の戦争を代表する空中戦でしかないからだ。それは地上を相対化しようとした近代そのものの戦いなのである。

しかし〈大地〉の地上戦は物量では勝てない。それは左翼的な〈人民〉が強いのではなく、〈大地〉の戦いは誰にも加勢しないからだ(〈人間〉や〈主体〉を超えているからだ)。もし空中戦で地上戦を含めて全面勝利しようとすると核戦争しかない。しかし核戦争は自滅の戦争でしかない。限定核戦争では地上戦を勝利できない。

さて、だとすると、〈ポストモダン〉とは何か。終わりを見せないモダンの終わりはどこにあるのか。

そんなことを考える今日この頃です。明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

※「紅白歌合戦全曲速報」(http://www.ashida.info/blog/2007/12/58nhk.html#more)で体力が消耗し、年賀状を書くのをすっかり忘れていました。今日になってやっと落ち着いたので、一気に書き上げました。今さら、賀状で出すのも気が引けます。これを持って年初の御挨拶に代えさせてください。

※今年の「紅白歌合戦全曲速報」(http://www.ashida.info/blog/2007/12/58nhk.html#more)はアクセス数が1日で1500を超えました(いつもは80から100)。また当日のサイトの訪問数も3600を超え、2000年10月にはじめた『芦田の毎日』の最高記録(いつもは300~800)。たくさんの方に支援されて喜んでいます。今年も宜しくお願いします。

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感想欄

あけましておめでとうございます。

芦田さんの今回の記事、面白いですねー。

私は「そうか、高層住宅とはそういう人間の“感じ方”が根底にあるのかもなぁ」と新年から楽しい10分間を頂きました。

連綿と続く家・家柄というものは非常に強固で、簡単に捨てることもでき、また家に戻れば簡単に再び身にまとう事ができます。

しかし、新たに作り出すことはできないですよね。
私は私自身に力がない分、薄っぺらいとはいえ出自(家庭)や階級に守られている面があることを強く感じています。(生まれ育った地域・社会で生きていますので・・・。)

また、インドやイギリスのように階級がしっかり根付いているからこそ安定した社会であることも感じます。

また記事を読んでいて、かつての私の祖父が言った
「戦争は、歩兵が歩いて旗を立てないと“勝利”とは言わない」という言葉を思い出しました。

東京という場所を意識して暮らしておられる芦田さんの記事を、これからも楽しみにしています。

投稿者 M : 2008年01月07日 13:15

寒中お見舞い申し上げます(喪中につき)。本年もよろしくお願いします。

超高層建築論,興味深く読ませていただきました。深遠なお話に考えさせられ,コメントが遅れてしまいました。にわかに全体を理解できず,コメントが難しいのですが,感じたことを書かせていただきます。

『都市集中は、空間的な移動の自由と階層間移動の根拠をなしている』という点,その通りだと思いました。

建築の歴史としては,ル・コルビュジエ(1887~1965年)が,伝統的なヨーロッパとは異なる自由な(近代的な)な住空間を構想していたと思います。コルビュジエは,「ユニテ」(住居単位)と呼ぶ高層集合住宅をいくつか建てています。

マルセイユ(フランス)のユニテには,オフィスやホテルやスポーツジムが内部に組み込まれています(現在はホテルやスポーツジムになっている部分は,元々は別の用途だったかもしれません)。今は使われていないかなと思いますが,フェルミニ(フランス)のユニテには幼稚園が組み込まれていたと思います。屋上を公園として使うというのも彼の建築の特徴です。

コルビュジエは,鉄筋コンクリートという技術を使って近代の「自由さ」を表現しようとした建築家だったと思います。ユニテでは,住戸を都市の生活単位として,車や徒歩も含め,住戸から都市の各部に自由にアクセスできる空間を目指していたと思います。造形的な側面を別にすれば,駐車場や(わずかではあっても)緑をもち,近所にはコンビニのある現在のマンションは,ユニテ的な空間ではあるように思えます。学校にしても,我が家の子供の小学校はわずか5分の距離にありますが,決められた通学路に毎朝監視員が立つ有様で,家と学校の間が外部といえるのかどうか疑わしいような気がします。

芦田さんの超高層建築論はコルビュジエの構想に似ているように感じますが,似ていないのかもしれません。コルビュジエの「ユニテ」とライプニッツの「モナド」は似ているのでしょうか? 似ていないのでしょうか?

話を振ってしまって恐縮ですが,僕は,マンションにしろ超高層建築にしろ,そこにある「単位」が何なのかということが気になっています。

フツーに考えれば,単位は家族ということになるんでしょうけど,僕には,近代の家族とは何かということが気になります。以前にも携帯電話に関する議論の中でお話させていただいたように,僕は,核家族が家族の最小単位ではない(もはや核家族は住宅の単位にならない)と考え始めているからです。

1950年を境に,社会的傾向として,大家族が核家族に移行したといえると思います。核家族を単位とした住宅の形式がいくつか提案されたと思いますが,その一つが団地だったと思います。今では核家族のための住宅が一般化したと思いますが,しかし,実は,核家族という概念はどうも怪しいと僕は感じ始めているのです。

仕事や学校などを通して外部とつながる個が核家族として同居する形式がほんとに「自由」であるかどうか疑問に感じるのです。実際,核家族は,さまざまは分裂をはらんでいるような気がします。そして,核家族を分裂させようとする作用こそが都市であるように思えます。

長くなってしまいました。

最後に,つまらないコメントになってしまいますが,「20坪の一軒家にフェラーリ」も悪くないんじゃないでしょうか? 「後ろ指」は気にしなければいいし,でも気になるのなら近所に駐車場を借りればいいし…。

一戸建ての住宅であっても,どうしようもなく外部(都市)とつながってしまうであろうという意味で,すべては芦田さんの超高層建築の中に含まれてしまうように感じました。

投稿者 AN : 2008年01月07日 13:19

>Mさん

そうですか。あなたの言われるように、私は「東京」を意識しないで仕事をしたことは一度もありません。むし>ろ「東京とは何か」は私の主題のすべてです。たぶん、〈東京〉は近代以後という主題にぴったりの都市だと思います。

それは京都の片田舎から東京へ出てきて、高田馬場の「芳林堂」書店、日本橋の「丸善」(あるいは神田の北沢書店)に立ち寄ったときに興奮して以来の私の認識です。若い私にとって、書店の冊数は世界の大きさそのものでした。当時の私にとって、田舎か都市かの差異は、大書店があるかどうかだったのです。

東京への興奮はそこから始まりました。AMAZONで何でも見つかる最近の若者には、この私の感覚は伝わらないのでしょうね。

「戦争は、歩兵が歩いて旗を立てないと“勝利”とは言わない」 。いい言葉ですね。その通りです。「歩兵」が戦争のすべてです。

また、私の都市論、戦争論をじっくりと展開したいと思います。

>ANさん

>芦田さんの超高層建築論はコルビュジエの構想に似ているように感じますが,似ていないのかもしれません。コルビュジエの「ユニテ」とライプニッツの「モナド」は似ているのでしょうか? 似ていないのでしょうか?

●コルビュジエの建築論は(いい意味も悪い意味でも)近代主義そのものだと思います。「ユニテ」も限りなく「モナド」に近い。

>1950年を境に,社会的傾向として,大家族が核家族に移行したといえると思います。核家族を単位とした住宅の形式がいくつか提案されたと思いますが,その一つが団地だったと思います。今では核家族のための住宅が一般化したと思いますが,しかし,実は,核家族という概念はどうも怪しいと僕は感じ始めているのです。

>仕事や学校などを通して外部とつながる個が核家族として同居する形式がほんとに「自由」であるかどうか疑問に感じるのです。実際,核家族は,さまざまは分裂をはらんでいるような気がします。そして,核家族を分裂させようとする作用こそが都市であるように思えます。

●「家族」が「自由」でないのは明らかです。都市の究極が家族の解体であることは確かです。核家族でさえ、その対象でしょう。「核家族を分裂させようとする作用こそが都市であるように思えます」。その通りだと思いますよ。それは私の立論そのものです。私の〈超高層〉という概念は住居の人間的な単位である(核家族〉そのものが解体していることを含んでいます。現に〈学歴社会〉は(とりあえず)は親(家族)の痕跡を消すことを意味していたわけですから。

>最後に,つまらないコメントになってしまいますが,「20坪の一軒家にフェラーリ」も悪くないんじゃないでしょうか? 「後ろ指」は気にしなければいいし,でも気になるのなら近所に駐車場を借りればいいし…。

●でも20坪の家のある〈地域〉はそれ自体が〈フェラーリ〉を拒んでいる地域です。20坪の家の〈外〉はそれ自体20坪の地域なのです。マンションの大規模開発は、たとえ、〈そこ〉が僻地であってもそれ自体が地域の意味を形成するような脱地域であるわけです。〈超高層〉ならなおさらのことです。

投稿者 ashida : 2008年01月07日 17:53

Amazonは便利です。そして多少曖昧な検索もしてくれるようになりました。

「この本を買った人はこんな本も買っています。」
という欄で、多少は本との偶然の出会いを演出する本屋らしくなったでしょうか。

しかし、大きな本屋で「分野」こどに大きく作られたエリアを彷徨し、偶然の大発見(?)をして電車賃が無くなることも忘れて本を買ってしまうワクワク感はAmazonにはありません。

閑話休題

今回の芦田さんの記事、プリントアウトして高校受験の
息子に丸写しさせるよう準備しました。単純作業ですが、なかな日本語力が伸びる方法です。

大学受験の時期になったら、その頃の楽しそうな記事を英作文の練習用テキストにする予定です。論文を書きなれた人の文書は英語化し易いので、その訓練には最適です。(笑

投稿者 M : 2008年01月07日 17:56

もう1回,ANです。

以前にも同じことを議論させていただいたかもしれませんが,超高層建築論は,映画「家族ゲーム」(森田芳光監督,1983年)の世界のように思えます。あの映画は,個人に帰する評価である成績が家族の解体の象徴として描かれていたと思います。

あの映画のラストシーンにはさまざまな解釈があり得そうなのですが,僕は,「ヘリコプターが催眠ガスをばら撒き人類は絶滅」というのが正しいような気がしています。僕にとっては,村上龍の「コインロッカーベイビーズ」のラストと重なるのです。

「終わりを見せないモダンの終わり」を人類絶滅と描ける小説や映画は自由でいいなあと僕は思います。

投稿者 AN : 2008年01月07日 20:29

>ANさん

そうですね。『家族ゲーム』は、私の学歴社会論=家族の解体と同じ主題でしたよね。『コインロッカーベイビーズ』も同じです。結局のところ、コルビュジエの「ユニテ」は家族の解体を(根源のところで)含んでいたのです(「ユニテ」はすでに「家族」や「共同体」ではなかったということ)。

「人類絶滅」は面白い主題ですが、私は人類絶滅は、人間が故意には(=〈主体的〉には)不可能な出来事だと思います。人間は、それほどに〈否定〉を完遂できるほど強くはない。

モダンを終わらせる、〈終わり〉は「人類絶滅」という形ではない。

家族の解体と人類の解体とは、ほとんど同じ出来事ですが、この差異に言及するにはまだまだ私の勉強では足りない。「『終わりを見せないモダンの終わり』を人類絶滅と描ける小説や映画は自由でいいなあと僕は思います」。 これは小説や映画の限界としてはよく分かる話です。

投稿者 ashida : 2008年01月07日 20:32

芦田さん

今一度,超高層建築論を読み返してみました。1点,質問させてください。

前段には,「個に属する評価としての成績」について書かれていると思います。個に帰する評価である成績が前近代(伝統的な家族観=家柄)を解体させたというご指摘だと思います。

中段の超高層建築のお話は,「個が集合する場としての近代都市」について書かれていると思います。脱家柄の人々にとって,近代都市ほど居心地のいいものはない。芦田さんは,近代都市そのものを『超高層建築』と呼ばれたのではないかと思います。

かつてコルビュジエは建築によって近代を表現しようとしたけれども,その先にあった近代(今日)は,インターネットや携帯電話の時代だったと思います。そのことは,芦田さんが別の記事で指摘されていると僕は理解(誤解?)しています。交通網に加えて,インターネットや携帯電話などが時間・空間を再構築してしまったという意味において,近代の主役は『超高層建築』ではなく,「非建築」ではないでしょうか?(今日の建築は「風変わりな芸術」ではあるかもしれないけど,時代の表現にはなり得ていないと思います)。

だとすると,もし芦田さんのご指摘が「個が集合する場としての近代都市」=『超高層建築』という枠組みだとすると,ちょっと違うかな(古いかな)という気がしました(この点は僕が芦田さんの文章を読めていないところかもしれません)。「超高層」であるかどうかとは関係なく,もはや都市全体が「超高層」のように作用しているのではないでしょうか? 僕は,漠然とですが,「個が集合する場としての近代都市」=「20坪に一軒家にフェラーリ」ではないかと思ったりします。

前置きが長くなりましたが,質問させていただきたいのは,『20坪の家のある〈地域〉はそれ自体が〈フェラーリ〉を拒んでいる地域』とおっしゃるほどに「地域の意味」を重要視されているのはなぜですか?ということです。

その答えは,「インターネットや携帯電話などが時間・空間を再構築してしまったという認識は誤り。今日の都市は依然として非近代。20坪の一軒家はフェラーリを拒み続けている」ということかなと想像したりはします。しかし,成績が個のプロパティでありえるとすれば,(20坪ではなく)フェラーリが家のプロパティでもありえるような気がするのです。

という質問を,調子に乗って,ここまで書いてしまったのですが,かなりの愚問かなという気がしてきました(せっかく書いたので投稿しようと思いますが…)。

芦田さんにとってのフェラーリは,学園祭や紅白歌合戦と同じように,守るべき美学なのかもしれません。芦田さんの美学を共有できないのが僕の限界なんでしょうね。

投稿者 AN : 2008年01月07日 20:37

>ANさん

いや、私が〈超高層〉に固執するのは、それが、〈今・ここ〉を相対化する建築的表現だからです。別の主題で言うなら、それは〈インターネット〉であるかもしれない。〈情報社会〉であるかもしれない。

〈都市〉はまだある一定の場所(=地域)でしかない。コルビュジエの「ユニテ」もまだ一定の場所に過ぎない。そこがライプニッツのモナドとなお違う点です。

しかし〈超高層〉は、ある空間を占める特定の場所ではもはやない。そこが〈都市〉と〈超高層〉との違いです。

〈フェラーリ〉の問題は、こう言い換えましょう。〈フェラーリ〉もまた階級的なものなのだということです。〈住宅〉に比べればはるかにエセ要素を含んでいますが。〈フェラーリ〉も一種の不動産なのですよ。両者はプロパティではあるけれども矛盾しているということ。

結局のところ、すべてを動産化することが〈超高層〉のもつ意味だと思います。あなたの言う〈個〉(私の前述の言葉で言えば〈主体〉ですが)が〈個〉である条件はただ一つ、不動産をプロパティとしないということです。

投稿者 ashida : 2008年01月07日 20:39

芦田さん

「〈超高層〉は〈インターネット〉であるかもしれない。〈情報社会〉であるかもしれない」というお話はよくわかります。しかし,やはり,「〈インターネット〉ような建築,〈情報社会〉のような建築」の概念の説明に「超高層」という言葉が合っているのかどうか,依然として疑問です。

『すべてを動産化する』とはどういうことか,もう少し考えてみようと思います。

投稿者 AN : 2008年01月07日 20:41

>ANさん

あなたの疑問は、「超高層」が比喩でしかないのではないか、という疑問だと思います。

私の答えは〈超高層〉は比喩ではないということです。

場所(今、ここ)と人間との関係は、人間のあり方を根本的に規定しているという意味において、それは比喩ではないということです。むしろ〈超高層〉の比喩が情報社会でしかない。60年代後半に〈団地〉ができたときに〈情報社会〉は“予知”できていなければならなかった。

※哲学的に言えば、ライプニッツ以後のヘーゲルの『精神現象学』は〈超高層〉の回廊だと言えます。まさにそれは〈今・ここ〉の相対化から始まります。かれもまた(偉大な)近代主義者です。

〈家族〉とは、“場所に規定された人間関係”と言い換えられるわけです。〈家族〉以外で場所と本質的に結びつく人間関係はありません。〈住宅〉とは、家族=場所の別名です。そしてその意味で〈家族〉も〈場所〉も人間の有限性の起源であるわけです(私はここで〈有限性Endlichkeit〉を単に悪い意味で言っているのではありません)。

インターネットや携帯電話は、〈住宅〉を解体しました。それは住宅内のすべての部屋から〈外部〉に“通信”できる環境を作ったからです。住宅内のすべての部屋が〈外部〉と対等の関係を持つようになった。その究極は〈母親〉が携帯電話を持つようになった時点(あるいは〈母親〉がミクシィをやるようになった時点)であって、そこで〈家族〉は本当に解体してしまったわけです。しかし、それはまだ住宅内の解体に過ぎません。個々の家族が解体しつつあるのであって、住宅の場所自体はそのことによってまだいかなる〈外部〉とも開けていない。

場所自体(=〈大地〉)は情報化できない。それが情報化できれば、イラク戦争でアメリカが負けることはなかった。

〈超高層〉は、それ自体ですべてであるようにして外部を内部化した空間です。したがって、それがどこにあるのかということに対して無関心な空間(無関心でいられる空間)です。〈超高層〉の野望は、〈大地〉の無化にあるわけです。それは空間・時間の差別が純粋機能においてしかなされていないような場所(無=場所)です。私が「動産化」と言ったのはここで言う「純粋機能」と同じものです。

投稿者 ashida : 2008年01月07日 20:42

芦田さん

本来「場所は情報化できない」けど,唯一「〈超高層〉が場所(大地?)を無化した」ということでしょうか? 「場所は情報化できない」というのはなんとも深い考察ですね。

冒頭の超高層建築論は,情報化できないはずの場所を無化する方法として,〈核戦争〉と〈超高層〉という対立事項を指摘されていたのかなと思い直しました(違っているのもしれません。〈核戦争〉と〈超高層〉は,〈核戦争〉=非現実,〈超高層〉=現実という点でも対立事項ですね)。

投稿者 AN : 2008年01月07日 21:11

>ANさん

そうです。〈超高層〉は、近代的自由の野望、あるいは幻想の極だと思います。しかし、本当に〈超高層〉は〈場所〉を無化できるのか。それが私の隠れたモチーフです。

〈核戦争〉は、(場所の)物語的な否定、〈超高層〉は、(場所の)技術的な否定なのではないでしょうか。その理解でいいと思いますよ。よくぞ私の不親切な文章を読みとってくれました。感謝します。

投稿者 ashida : 2008年01月07日 21:17

>芦田さん

以下は単なる追伸です…。

ジャイアンさんの最後のコメントを読んで,映画「バベル」(監督名忘れました。2007年?)を思い出しました。不思議としかいえない変な映画でしたが,超高層ビルのベランダでのラストシーン=菊池凛子と役所広司の変なラブシーン(?)は印象的でした。「バベル」の音楽は今でも頭に残っています。

繰り返しになりますが,本年もよろしくお願いします。

投稿者 AN : 2008年01月08日 08:04
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